『ガレージ・ライフ』1号から38号まで、全ての号に携わった皆勤賞の男が一人いる。たった一人だけ。
それは、編集者でも、ライターでも、カメラマンでもなく、アートディレクター、添田正典さんだ。添田さんは、1997年の『ガレージ・ライフ』1号から、38号まで全ての号で、アートディレクターとして雑誌全体のデザインを手掛けてくれた。
しかし、残念ながら、それが先に発売になった39号で途切れてしまった。39号は添田さんが手掛けなかった、初の『ガレージ・ライフ』となってしまったのだ。
思えば、僕がネコに入社した時、すでに添田さんがいた。社内のデザイン部のチーフとして、まだ若造だらけのデザイン部、カー・マガジン編集部などのアニキ分的、ウラボス的存在だった。笹本社長にも物怖じせず言いたいことを言えたのは、あのフロアでは添田さんくらいのものだったように思う。それが約14年前、まだ桜新町の時代だ。
僕が『カー・マガジン』の進行役だった時は、デザイン面での進行管理がなってないとどなられたこともあった。僕が密かにネコ的、カーマガ的デザインといっている『カー・マガジン』のデザイン、つまりいい写真をドンと見開きで見せる手法(無論それだけではないのだが)は、実は添田的手法でもあったのだ。
それは『ガレージ・ライフ』でも発揮され、現在に至るも引き継がれている。
1997年に『ガレージ・ライフ』の1号が出来た時、僕は四輪パートの取りまとめ役をやり、添田さんはまだ社内にいた。今回、記憶を新たにしようとバックナンバーを開いてみると、2号ではすでに添田さんの名の後に“ビーチ”と書かれていた。つまり、この時にはすでに独立してデザイン事務所“ビーチ”を立ち上げていたのだろう。以来、『ガレージ・ライフ』のデザイン・クレジットは、すべて“ビーチ”となっている。
僕に関して振り返ると、『カー・マガジン』、『スクーデリア』、『オート・メンテナンス』、『ガレージ・ライフ』と多くの雑誌で添田さんにお世話になっていたことに気付かされた。『ガレージ・ライフ』に限っても、約7年のお付き合いだ。
しかし、『ガレージ・ライフ』は3ヵ月に1回の雑誌であり、さらに昨今はネット経由で写真や原稿のやりとりができるため、顔を会わす機会は3ヵ月に1~2回程度というものになっていた。
昔は、デザインが上がれば席に持ってきてくれたり、印刷の色のチェックのために、印刷所の輪転機が回っている現場にまる1日つめたことも毎月あった。それを思えば、最近は本当に疎遠になっていたものだ。そんなことを考えたら、思わず涙がこみ上げてきた。
いやしかし、ご親族はもちろんだが、一番つらいのは、365日、24時間というと大げさだが、ほぼ年中顔つきあわせ、わいわいと仕事をしてきたビーチの2人のスタッフだと思う。それを思うと言葉もない。
虎は死して皮を残す――というが、幸いなるかな、僕らの仕事は、その軌跡が雑誌として形に残るものだ。20年後、あるいは50年後、古本屋の片隅に、ホコリをかぶって『ガレージ・ライフ』がおいてあるかもしれない。あるエンスージァストのジイさんの遺品を整理していたら、『ガレージ・ライフ』が出てきて、なにコレ? とそのひ孫が手にとってくれるかもしれない。
51歳という早すぎる逝去ではあるが、雑誌造りに携わるものとして、添田さんの名前も雑誌とともに残るのだと思う。もちろん、“ビーチ”の名前は、『ガレージ・ライフ』の他、『Jウイング』などの様々な雑誌で、これからも掲載され続ける。それでいいでしょ。人生って切ないけど、僕らは恵まれている方ですよ。

