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2005年07月28日
プラモデルが食玩に取って替わる時
もう蝉が鳴き始めている。この辺りは例年ヒグラシが多い。私が「そのひぐらし」だからか…と愚にもつかぬおやぢギャグをぶちかましたところで…この山里の夏は降るような蝉時雨を除けば至って静かな季節である。時に沢ガニが庭を闊歩していたりして驚きもするが、動くものとてない静寂の夏である。こんな夏の午後には全ての手を休め風鈴のちりりと鳴るを待つ。猫も日がなのたりのたりかな、である。部屋の奥深く白く西日が射す頃になれば、行く日を惜しむかのようなヒグラシの寂し気な声がさらに勢いを増す。カナカナカナカナ…それを合図とリューターやコンプレッサーの電源を入れる。模型作りには密閉された完全空調環境は相応しくない。窓を開け放ち大気の中で行なうものだ。煤塵や有機成分を避けられぬ作業であるからそれが必然と私は考えている。趣味で健康を害するほど馬鹿馬鹿しい事はない。とはいえ真夏にゴム製の防毒マスクは辛い。B-17のクルーのように辛い。追々意気込みは萎み気力も失われていく。また明日だ…。作業終了の後片付けだけはちゃっちゃと進む。寄る年波、無理は禁物。やる気の無い時には何をしたって上手くはいかない。そう自分に言い聞かせて、というか自分を偽って無理矢理納得する。
プラモデルが作りたくて作りたくて仕方のなかった頃。あの時分なら汗だくになろうともプラモデルをいじる手が休むなんて事はなかった。夏休みはいつもたった独りでプラモデルを作る季節だった。友達の家が大抵は行楽や帰省で居なくなってしまうからだ。私の家は一家揃って旅行するなどという事もなく、帰省する田舎もなかった。さらに悪いことに私には兄弟が居なかった。子供たちが減って静まり返った町内は、淀んだ熱気が纏わりついて空気がじっとりと重かった。白茶けた街路樹が、脳裏に描く海や山の輝きをより一層美しいものに替え、自分だけが街に取り残されたようで寂しさが募った。そんな時はプラモデル。何もかもを忘れさせてくれる魔法の小箱だった。時は折りしも東京オリンピック開幕直前の1964年夏、我が家でもカラーTVを買ってくれないものかと内心期待などしつつ、私の最大の関心事は相も変わらずプラモデルにしかなかった。嫌が上にもオリンピックへの期待をいや増す、東京プラモのオリンピック記念メダル入りキット。これこそ私の中での最大のメガヒットであった。そのミリオン双発機シリーズの中でもハンプデンでもデファイアントでも99双軽でもなく(50円キットなのになんてカルトなんだ…)、少年であった私のハートを見事に射抜いたのはデハビランド・モスキートであった。1/150スケール程度のマークIV爆撃型で、小さいながらもかなりそれっぽく出来ていた。確か同年、映画633爆撃隊がロードショー公開されたはずで、劇場でそれを観たのを切っ掛けとして私は現在に至るまでモスキート・フリークである。
ともかく自分だけが夏休みとは無縁ないつもの日常を過ごしていたので、学校が無い分だけ、友達とも遊べない分だけ、何とも時間を持て余す日々であった訳である。部屋の窓から夏の高い空を見上げながら、額に汗して小さなモスキートを作った。冷房などない時代であるので午後の室内は蒸すように暑く、それに加えてチューブの接着剤の強い刺激臭が充満した。それでも我を忘れて作った。マジックインキの青と緑で迷彩も施して…。今にして振り返れば孤独な夏であった。取り残された気分の哀しい季節であった。それを癒してくれたのが小さな小さなモスキートであった。やがて一日が終わろうとする頃、完成した小さなモスキートは机の上で西日を浴びて静かに佇み、その脇では汗みどろとなった少年の日の私が微睡みの夢の中で大空を飛んでいた。40年以上も昔の想い出である。
今でも私にはモスキートに特別の思いがある。かつてレベルの1/32キットに精魂を傾け'70年代における私の最高傑作(?)を仕上げた想い出もある。とにかくモスキートにぞっこんであった。だが惜しむらくはモスキートには1/144スケールのモデルが無かった。1/32、1/48、1/72では各社から傑出したキットが幾つも輩出されたが、古くは三和の1/90、そして東京プラモの1/150以降、1/100以下の小スケールモデルは登場しなかった。短期間に少量しか生産されなかった英エアロクラブ1/144もあったには聞くが、私は見た事がないので勘定には入れられない。ともかく大きいか小さいかの両極端を好み、程々を嫌う私の嗜好(性癖と呼ぶべきか…)からすると、1/144のモスキートは永年に亘り私の憧憬であり願望であった。しかし望むキットに恵まれぬまま40年の歳月が流れ、私の中では相変わらず東京プラモの1/150モデルが威光を放ち続けて来た。そして2005年、私の積年の思いが遂に聞き届けられる時が来た。1/144スケールの素晴らしいモスキートが誕生したのである。それはエフトイズの1/144双発機コレクション! そう、察しの良い方は既にお分かりであろう。プラモデルではなくいわゆる食玩である。しかし近年、プラモデルと食玩の垣根は急速に取り払われつつあって、今やタミヤ、ハセガワ、童友社、ミツワ、ヨーデルなどのプラモデル系メーカーと、バンダイ、タカラ、トミー、コナミなどのトイ系メーカーが入り交じって熾烈なシェア争いが展開されている。かつての50~100円のプラモデル(最近はそれ以上も含まれるが)は今や食玩の守備範囲となっていて、プラキット張りのクオリティでしかも完成塗装済みが実現されている。もはや食玩が低年齢層向け商品であった時代は終わってしまっているのだ。そしてその大人向け、マニア向けの食玩の一画であるエフトイズの双発機コレクション中に、素晴らしい1/144モスキートがリリースされたのである。しかもヴァリエーションはa. B.MkIV 第627スコードロン/b. FB.Mk.VI 第82スコードロン/SP. B.MkIV 第109スコードロンの3種。うーん、インベンジョンストライプスだ、パスファインダーだ、ナイトファイターだ! 私のボルテージは瞬時に上がり、塗装替えで633爆撃隊もモスキート爆撃隊も作れるやん、しかも編隊で! などと、40年の空白を一気に埋めようかという勢いである。勿論モデルの仕上がりも抜群だ。コクピットには無線器など機内装備のパーツの他、パイロットのフィギュアまで再現されている。これを凄いと言わずして何と言おう。あの日のような夏の静かな午後、同じモスキートなれど、あの頃のように接着剤や塗料(マジックインキ!)にまみれる事も汗にまみれる事もなく、それでいて遥かに立派なモスキートを手にする事の出来る喜び。40年の時空を超えて今も変わらぬモスキートへの想いを、全く異なる次元で我がものにしてしまう不思議。うーん、時代は変わったものだ、などと結論を結んでしまえば余りに安易に過ぎるのだが、プラモデル世代としては喜んで良いものやら憂うべきものなのやら…なにやら微妙ではある。
投稿者 平野克巳 : 2005年07月28日 21:22 | トラックバック
2005年07月26日
夏の人生の小道
麗らかな陽射しに誘われたデイパッカースタイルの元気な熟年であふれかえった春も終わり、鎌倉はまた静かな季節を迎える。真夏の鎌倉は街中から人もクルマも消え失せて、うっそりとした暑さの中にただじっと佇んでいる。照り付ける陽光に白く染まった街並みは埃っぽさを増して、じりじりとした乾きに喘いでいるようだ。誰もが午睡で暑さを避けているのだろうか。午後のいっとき、街から人影が消える。何もかもがけだるくゆっくりとしか動かない。まるでスローモーションのようだ。行楽の舞台を海岸に譲り観光地がただの地方都市へと姿を変える、私はそんな鎌倉の夏が好きだ。僅か数百メートル先の由比が浜では半裸の娘たちの嬌声や大音量のレゲエサウンドが渦巻いているが、鎌倉市街は別世界のように静まりかえっている。私とてその昔はバイクやクルマを飛ばし、浜辺でラジカセやビキニの女と戯れ、波打ち際で妻や子供たちとはしゃいだ。しかし今では夏の海が私の居場所ではないと思うようになった。江ノ島の上に沸き立つ入道雲も乱雑に並ぶ海の家の看板も、遠い夏の日の郷愁でしかなくなった。夏の海は若い人たちのものだ。
クルマの波も人通りも絶えた街角は別世界のようで気持ちが良い。普段ではこうはいかない。歩道からあふれたカップルが渋滞のクルマの列にまで雪崩れ込み、まるで休日の竹下通りのごとき喧噪である。しかし今はそれもない。街の住人が小さくならずに悠々と歩き、路地の縁台では猫までもが安心してうたた寝をする。その昔、鎌倉が高級避暑地であった時分にはこんな光景が広がっていたのだろう。苦し気なモーターの唸りを立てて、疎らな客を乗せた江ノ電が道路を横切って行く。線路の中の犬を連れた人の後ろ姿が陽炎で揺らめく。どこか危うく儚い白昼夢のような頼りなさ。そんな風景の中に夏を実感する。
静まりかえった街並に誘われて少し足を伸ばしてみた。するとそこには見知らぬ裏路地が在った。黒く塗られた板塀の続く細く長い路地であった。板塀の向こうからは手入れの行き届いた松の枝が伸び、下生えの夏草に混じって真っ赤なカンナが咲いていた。見知らぬ路地を抜けるとこれまた見知らぬ通りへ出た。古ぼけたクリーニング屋から立ち昇る白い湯気。埃にまみれたガラス戸のしもた屋。そして暗い土間が口を開けた駄菓子屋があった。つい誘われて土間へと踏み込む。花火と浮き輪、駄玩の指輪に水鉄砲、それに時代遅れなキャラクタープラモが少々。いや、それだけではなかった。壁際の棚に目を移した私は暫し自身の目を疑った。三和、三共、ZA、ASK、YMC、にしき屋、童友社、マルフジ、尾高、東京シャープ…往年の駄玩プラモデルたちが打ち捨てられたように乱雑に折り重なっているのだ。色褪せ埃灼けして中には潰れかかった箱もあったが、何れも綺羅星のごとき憧憬のキットばかりである。我を忘れて思わず伸ばした手が掴んだものはZA研究会のセスナ195であった。その唐突な挙動に不振を感じたか、店番のように奥座敷へと続く三和土で香箱を作っていた丸々と太った茶虎猫が胡乱な眼差しを私に向けた。さも胡散臭そうに私を見つめると、たちまち興味が失せたのか大欠伸をひとつして目を閉じてしまう。しかし私はというと既に興奮も頂点に達していた。この際だ。キットの吟味などせず、ありっとこ全て買ってしまおう。さて財布の手持ちは幾らくらいだったろう。ちょっとやそっとのプレミアを吹っかけられたって、ここはひとつ素直に応じるのが得策だ。もし手持ちで足りなければ、頼んで取り置きして貰えばいい。逸る気持ちが抑え切れない。ろくに品定めもせず棚からひったくるようにして小さなキットを次々と降ろしては並べ始めた。嗚呼、そうとも。パーツの不足どころか中身の入っていない空き箱だったとしても構わない。どれもこれも全てが欲しい。全く今日という日は何と驚きに充ちた日なのか。今もこんなキットの残っている店があったなんて。しかもそこに私が行き会う事が出来たなんて。嬉々として小箱の移動に夢中になっている私の脇から声が聞こえた。「それは売り物じゃないんだ」ざらついた老人の声音だった。驚いて振り返った私の視線の先にはこちらをじっと見据えている茶虎猫の瞳があった。茶虎猫の口元が緩んだかと思った刹那、その口がにっと笑った。そこで夢から醒めた。
そんな夢を見た事はないだろうか。私はある。定期的に何度でも見る。しかも同じ店を再び訪ねる事さえある。潜在下の願望がそんな夢を見せるのだろう。
覚醒した瞬間の失望感たるや天国から地獄の気分である。いきなり奈落の底へと落ち込んだような絶望感に捕われ、元々得ていた訳でもないものへの喪失感で一杯になる。そして思う。なんと浅ましい夢を見たのか、この物欲の権化めがと。そうして自らを恥じてはみるものの、そんな朝の目覚めは悪い。実にいやーな気分である。それに思えばいつも買えないのだ。発見して驚愕し興奮して手に取るまでは良いのだが、いつもそこで目が覚める。まるで一種の法則であるかのように、いつもそうなのだ。所詮は夢であるから絵空事なのは先刻承知ではあるのだが、せめて「やったーっ。遂に買ったぞーっ!」というところまで夢見させては貰えぬものか…。夢の神様(そんなものが居ればの話ではあるが…)、せめて夢の中だけでも楽しい思いをさせてやって下さい。ふと気付けば足元で我が家の猫がヨーダのごとき顔をして「フォースの暗黒面に捕われてはならないぞ。そんな物欲など捨てることじゃ」と語りかけていた。
海の家が所狭しと林立し大音量の音楽が交錯する海岸線には生のエネルギーが充満している。こんなおっさんになっても若い娘たちのはちきれんばかりな肢体を眺めるのも楽しい(あは、あはは…) しかし夏の間はそのエリアは別世界のようにも思われる。秋が来て人が去り、海の家が撤去されると海岸は本来の姿を取り戻す。それまでは鎌倉市街が本来の鎌倉であり続ける。アブラゼミの声をBGMとして真夏の狭い裏路地を歩く。散策はそれ自体が人生哲学のようなものだ。ただ無心に無欲に今を歩く。一歩一歩しっかりと前へ向かって。現実には絶版キットが埋もれている駄菓子屋などありはしないのだ。欲しがりません勝つまでは…ではなく…遥か昔は想いを馳せるだけのもの。懐かしさに振り返るだけのもの。過去を見据える余りに昔の呪縛に捕われて無い物ねだりをしてはならない。即物的なだけでは生きてはいけない。
投稿者 平野克巳 : 2005年07月26日 15:36 | トラックバック
2005年07月22日
闇を照らす白熱球の柔らかな灯り
また暑い夏が巡って来る。ここのところの天変地異にも関わらず、それでも季節は律儀に夏を運んで来る。夏といえば海水浴や花火、虫採り、メダカすくい、祭りの縁日に怪談話、冷えたスイカやかき氷を想い出すが、四季の風流と縁遠くなってしまった現代では、それら納涼風物詩も死滅しつつあるようだ。何とも寂しいことである。私は夏というと何故か盆提灯を連想する。思えば小さな頃からあの紫色や薄青色にゆらゆら揺れる怪しげで幽美な燈に魅了されていたような気がする。買い物に出掛けても盆提灯が並ぶ季節になると、売り場で「盆提灯はいいやね…」などと毎年呟いてしまう。父が逝き、今では我が家にもその盆提灯がある。それを仏具屋で吟味した際、漫画のような猫を描いた盆提灯があった。年端も行かぬ子供の為のものなのか、それともペットの為のものなのか、その用向きは分からぬが、あのこの為に欲しいと思った。だが余りに高価で断念した。
盆は死者の季節であるが、昨今は怪談も夏の定番ではなくなった。元来、幽霊、妖怪、魑魅魍魎の類いは人が闇を恐れた事で生まれた。煌々と灯りの灯るコンビニなど24時間不夜城のごとき今日の日常には恐れるべき闇がない。それでは幽霊とて商売上がったりである。私が小さい頃には闇が其所此所に在った。遠くに遊びに出掛け一寸遅くなってしまった帰り道、鬱蒼とした雑木林や鎮守様の石灯籠、見知らぬ家屋敷の玄関口など、至る所に物の怪が潜んでいそうな暗闇が在った。緊張して一息に駆け抜ける、そんな怖い思いを昔の子供なら随分としたものだ。大人になってからもそうした暗闇は在った。終電近く北鎌倉駅を降り山に向かって歩くのだが、駅周辺の路地裏は鼻をつままれても分からぬような漆黒の闇であった。これは慣れても怖かった。尤も子供時分のようにお化けが怖いというよりは、むしろ生身の人間のほうが恐ろしかった。現在、私の住まう辺鄙な場所も夜ともなれば闇が包むが、それでも山のあちこちに民家の灯りが点在し人の営みは感じられる。だから幽霊だの妖怪だのの気配はさらさら無い。以前住んでいた幽霊の出る家とは大違いである。深夜にぽつねんと起きていても卓上ライトとパソコンの光量のなんと明るいことか。窓の外に映る娘の部屋から洩れる灯りも闇の暗さを薄めてしまう。家中の廊下の隅に溜まる闇が怖くなくなった今、むしろ真っ暗闇の中で安眠したいと願っている。
あんなに闇が怖かった少年時代、唯一暗闇でないと遊べない事があった。それはプラモデルの自動車のヘッドランプを灯す事である。よくよく考えてみれば大した事ではないのに、なんであんなにも点灯するヘッドランプの灯りが嬉しかったのか。最も鮮明に記憶しているのは小暮模型1/22ホンダS500のヘッドランプである。モーターさえ買えなかった当時の事とて、走らせるのは諦めても、どうしてもヘッドランプを照らしてみたかったのだろう。ムギ球をどのように工面したかは記憶していないのだが、懐中電灯から抜いた単3電池を入れて初めて点灯した時の興奮は、今もその光景と共にはっきりと覚えている。当時の事とて裏側を黒く塗るとかアルミフォイルを貼るなどの遮光処理もしていないので、ボディ先端部が提灯のようにぼんやりと明るかった。それでもレンズを通してまたたく乳白色の光は、実車のS500のオーナーとなった大人の自分を空想させるに充分だった。更に光りを効果的に楽しもうと部屋の雨戸さえ閉じ、少しでも濃い闇を作り出そうと腐心した。あれから40年余り、沢山の自転車や自動車やモーターサイクルのヘッドランプを灯して来たが、あの時のような感動と興奮は一度として味わった事がない。闇が怖かったからこそ燈が嬉しかったのか。それとも単に自動車を操る大人気分が楽しかっただけなのか。その名残りなのであろうか。今でもプラモデルの自動車のヘッドランプやテールランプが灯ると何とはなしに嬉しい。
仕事をするにしても何にしてもメリハリがはっきりした蛍光管の灯りが便宜上一番優れている。しかし白熱球の優しくほわほわとした灯りが私は好きだ。隅々まで隠さず白日の元に晒してしまうような蛍光灯には有無を言わせぬ傲慢さを感じてしまう。やはり光りには影が伴わなくてはいけない。黄色い世界に同居する闇の怪しさには物の哀れが潜んでいる。そこが私は好きだ。盆提灯が写し出す蒼さの明には、その数倍に及ぶ闇の暗が取り巻いている。その闇には自らを省み、諌め、真っ当に生きようと改めさせる畏怖の力が潜んでいる。人は闇がなくては生きていけない。
投稿者 平野克巳 : 2005年07月22日 21:44 | トラックバック
2005年07月19日
人生色々、プラモも色々
雨が降る降る雨が降る。遊びに行きたし傘は無し…朝より降り続く雨模様にそんな古い唱歌を思い出している。
今どき傘を持たぬ子など居ない。それより遊びに行く暇のある子供が居ない。
しかしおやぢには暇がある。いや、厳密に言えばやらねばならぬ事はあっても、しなくとも誰にも文句は言われない、と云うだけの事である。
しなければその分だけ自分の実入りが悪い。ただそれだけの事である。
それだけの事とは申せ懐具合の悪いのは困る。困るので仕事はしたいのだが、やはり雨模様では塗装が出来ぬ。
雨降りで湿度が高いとやはり塗装には向かないからである。
完全空調でなおかつ焼き着け塗装ばりの設備を持つ御仁なら問題なかろう。
しかしこちとらあくまで生活空間の中で全て済ませている。
エアブラシの吹き付け塗装は山に面した庭側、2階の窓からバンバン吹いてしまう。網戸を開けて外気の中で行なう訳だ。
当然、横殴りの雨なら濡れそぼってしまうし、濡れないまでも湿気を塗面に呼び込んでしまう。
開け放って吹いている間にヤモリだの虫だのも入ってしまう。
うちの猫たちはそういった動きモノがからきし苦手なので(とほほほ…)、乱入者退治の役にはまるで立たない。
そんな日には原稿仕事でもあれば良いが、あったとしてもどんよりと垂れ込めた鉛色の空を眺めているうち、私の頭まで鉛色に染まってぼんやりしてしまう。
しょうがない、雨の日はしょうがない…の歌もあったが、まさにそんな気分に段々落ち込んでいく。
しかし天気の悪いのを口実にだらだらしてしまうのもなあ…生真面目ゆえか(って自分で言うか普通)何も手につかなければつかないだけ、なおさら気ばかりが焦る。
ふと足元を見ると猫が丸くなって安穏と熟睡している。
こんな空模様の日は寝るに限るて…とでも言っているように(まあ晴れた日も同じなんですけどね…) そーだよなー。
バイオリズム悪い時に、テンション低い時に、何やったって上手くいく訳ないんだよなー、などと自分に言い訳しつつ、DVDライブラリーの棚の物色なぞ始めてしまう。
633爆撃隊、ん~これを切っ掛けにモスキート・フリークになったんだよなあ。
クリフ・ロバートソンの硬派な男っぷりは惚れ惚れするねえ。
そのリメイクのモスキート爆撃隊のデビッド・マッカラムはやっぱりイリア・クリアキンなんだよなあ…ああ、そう云えばVHSだのDVDだの無かった時代には、クルマや飛行機の細部を見たくて繰り返し映画館へ通ったものである。
コクピット内部を確認したくてモスキート爆撃隊など3度劇場へと足を運んだ。
グランプリに至ってはテアトル東京から横浜の二流館まで多分10数回は観に行った筈である。
そんな時代からすれば随分と楽にもなったし恵まれたご時世になったものだ。
その昔、航空ファンを初めて読み出した頃だ。
ザラ紙ページにP-51Dマスタングのモノクロ側面図が描かれてあり、文字で“オリーブドラブ”と色解説されていた。
そのオリーブドラブがどんな色なのか皆目見当がつかず両親にきいてみた。
「オリーブってんだから油みたいな色なんじゃないの」…当時の日常生活の中から連想出来るのはオリーブオイルくらいしか無かったのである。
サラダ油を思い描いた小学生の私は、色鉛筆の橙色でその部分を塗った。
機首がオレンジ色のP-51、うーむ、胴体の赤いP-51くらいカッコイイではないか。
ちなみに機首をオレンジ色に塗った図面が掲載された航空ファンは、今ではハセガワの資料室に眠っている事と思う。
英国空軍のスカイにしてもたかだか30年ほど前には判然としない色調で、何かと物議を醸し出したものだ。
国電の車内に塗られている黄色系がスカイに、薄緑系がダックエッググリーンに似てる、などの珍考証を本気で議論した事も懐かしい。
BRG/ブリティッシュ・レーシング・グリーンは若草色系なのかカーキ色系なのか。
フォードGTのアンチグレア塗装はブルーなのかブラックなのか。
コブラのガーズマン・ブルーは青なのか紺なのか。
マッハIIIのサイドタンクが黒からタンクと共色になったのはいつからなのか。
ブルドーザの黄色はいつから橙色に取って変わられたのか。
第二次大戦の米歩兵は全身カーキグリーンなのか。
シャム猫の身体は白いのかベージュなのか。
赤猫とは茶色なのか黄色なのか。うるさいよっ!…色は世につれ、世は色につれ、なのである(本当か?)。
まあ何十年もプラモで色について喧々諤々やって来た身からすれば色調はあくまでも私感で宜しい。
頓珍漢なほどに実物のイメージからかけ離れてしまえばそれはそれで問題だが、余り厳密に実物を追求したとて詮無い事である。
大きさが違えば明度も異なって見えるのだから、実物の塗料をそのまま塗った!と誇るのだけはやめるが宜しかろう。
それと時代に則した色調を知る事だ。時代時代で塗料の性質、成分が異なるのもその原因のひとつである事を知っておきたい。
初代カローラの時代の赤は元々深みが感じられないが、更に退色して浅い色調になってしまう。
深みを出そうとすると海老茶色のような赤になる。最近のような深紅であるよりはスカーレットに近いかもしれない。
黒にしても最近は漆黒が可能になったが、その昔は暗い灰色により近い。
ラッカーかエナメルかエポキシかでも異なるだろう。だからそのものズバリの色など追い求めぬ事だ。
自分が気持ち良ければそれで良しとしておくべきだ。
何でもかんでも事実を追い求めていると終いには嫌気がさしてしまい、精神的に疲弊するばかりか考証と云う名の迷宮に迷い込んでしまう。
それではプラモデルを気分良く作れない。気分が良くないからプラモデルから遠退く。
大和民族は生真面目に過ぎる。第一健康に悪い。
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私の中では今もB-17のオリーブドラブと云えばコレである。誰が何と言おうとコレなのである。
少年時代に出逢った強烈な印象がそのまま擦り込まれて今日にまで至っている。
投稿者 平野克巳 : 2005年07月19日 13:38 | トラックバック
2005年07月15日
冴え冴えとした夜更け
私は元来寝付きの良いほうではない。
「おやすみ」と言って布団に入り、5分もしないうちにすうすうと寝息を立てて寝入ってしまう人が不思議でならないほどだ。
だから就寝までは、と言うよりは疲れて眠くなるように、布団に入ったら必ず毎晩本を読む。雑誌は読まない。
元々週刊誌を読むと云う習慣そのものがない。単行本も出来るだけ避けている。
分厚く重い二二六事件の本ばかりに夢中になって、首や肩の筋をおかしくしてからは余計にそうだ。だから文庫本ばかりを専門に好んで選ぶ。
ジャンルは問わないが、おいおい好みの傾向は出るものだ。
眠る為に読むのであるから、神経の冴えてしまうもの、難しく考えさせられてしまうものは読まない。
政治経済時事放談や色恋沙汰、古典文学も読む事がない。
余りのつまらなさに辟易してしまうのも困りものだが、面白すぎて先へ先へと読み進んでしまうのも困る。
睡眠導入剤であった筈の読書で夜明かししてしまっては本末転倒である。
理想は面白く読み進むが30分から1時間もすると適度な疲労感を覚えて眠くなる程度であり、そしてまた毎晩床に入って読む事が楽しみとなるような内容がありがたい。
勝手な事を言うものである。当然、そんなうまい本とはそうは行き当たらない。
スティーヴン・キングやディーン.R.クーンツ、マイケル・クライトンなどはその点、私の要求に合致するので良く読んでいる。
近代日本犯罪史の謎解きなどのノンフィクションも好きだ。
三億円事件なぞ一時入れ込んでしまい、府中の現場跡を巡ってしまったりもした。
そんなエンターテイメント嗜好な私がうっかり内田百聞の「ノラや」を読んでしまった。
勿論、読み返しではあるのだが、初読が何年前だったかさえ覚えていないくらいだから内容は初見のようなものだ。
家を出たきり帰らぬ愛猫を待って泣き暮らす日々の描写は、感情移入も甚だしくとても他人事ではない。
更に読み進むうちクルが死んでしまうから、これはもうたまらない。
いくら何でも毎日号泣して過ごすなどあり得まい、などと冷淡を装ってはみるものの、我が身、我が心に重ね合わせて胸を切なくしてしまう。
普段は「ええい、邪魔臭い」などと邪険に思う、すぐ脇で丸まっている猫の頭を何度も何度も撫でてしまう。
すると寝込みを邪魔された抗弁なのか「くう…」などと鳴くからより一層いけない。
胸に納めきれない哀しく切ない想いを抱いて、冴え冴えとまんじりともせず、只々時計が時を刻む音を聞いて朝を待った。
その時になって「しまった」と思う。松村友視のアブサン物語で懲りた筈ではなかったのか。
もう愛猫を惜しむ話を就寝前に読む事は二度としまいとあの時思ったのだ。
私は編集の現場を離れた時から「夜は寝る」と固く心に決めている。
そうでなくとも40を超えた辺りからは身体に無理がきかなくなった。徹夜などしてしまうと数日も後までひびく。
MC誌の最前線に居た30代は昼夜問わず机の前で過ごした。
深夜3時以前に寝た事など殆どなかった。そして8時前には必ず机に戻っていたものである。
書いても書いても終わらなかったし、どれだけ書いても疲れず楽しかった。
消耗しきって床に就いても頭の中で文章が湯水のように沸き出した。
言葉が文章が煩くて眠れない事さえあった。
だが今はもうそんな事はない。捻り出さなくては文章は生まれない。疲れる。とても疲れる。
だから6時間の睡眠は死守せよと自らに言い聞かせている。
10代の頃は眠るのが惜しかった。無限とも思えた深夜の時間を覚醒したまま味わっていたかった。
ラジオの深夜放送の黄金時代でもあったから独りきりも寂しいとは感じなかった。
それが今、夜中にひとり起きているとする事もない。
独りきりの寝室も書斎もある訳ではないので一層困る。
家族で暮らしている手前、そして勿論近所への遠慮もあって、大きな光源や音量は控えなければならない。
残されるのはひっそりと本を読む事か原稿を書く事くらいだ。
どちらも深夜の作業としては集中出来るので捗るには違いない。
しかし夜中の独りきりに不馴れとなってしまった最近では、ことに世界が死に絶えたような静寂に包まれるこの山中では、ふと孤独に捕われる。無性に寂しくなる。
そんな時、足元で昏々と眠っている猫に助けられる思いがするのである。
嗚呼、お前たちが傍に居てくれるのだね。そう心で語りかけて安堵する。
だからお前たちが居なくなっては困るのだよ。ずっといつまでもそうして傍に居ておくれよ。
しかし限りある命である事は、 ノラもクルもアブサンもうちの猫たちも変わらない。
またぞろ空しさに切なさに居たたまれなくなる。
そんな先の事など拭って忘れてしまえと言い包めても、心の奥に泡立つさざ波は消えてはくれない。
そんな堂々回りの繰り返し。生を受けるとは死への旅立ち。
それが生き物の定めと分かってはいながら、小さな生の終焉への哀れを振り払えない。
意気地のない事だ…と諌めてみても、熱くなる瞼の裏をどうにも出来ない。
やはり夜は寝なくてはいけない。
註:「猫の耳に大仏」湘南鎌倉便りを書くに当たって、皆さんに親しみをもって読んでいただけるようにと「ですます調」で書く事を思い立ちましたが、やはり慣れない事はやるべきではないと痛感致しましたので、本来の文体に今回より変更させていただきました。
投稿者 平野克巳 : 2005年07月15日 21:22 | トラックバック
2005年07月13日
街の小さな哲学堂
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昔の子供には子供なりのしきたりがあったのですが、今の子供を見ているとそう云うものが感じられません。
大人と子供の世界の垣根が曖昧になったと云うのか、言葉遣いからして大人びていて可愛げと云うものがないですね。
それだけ昔の子供は無邪気だったのかもしれませんが、まあ子供が余り早熟に育ってしまうと云うのもちょっと寂しい気もします。
あの頃、子供同志の会話には特有の使い回しがあって、友達を遊びに誘う時は「○○ちゃーん、あーそーぼ」と家の中に顔を半分突っ込んで声をかけたものです。
まあ現在ではどこの家も玄関には鍵がかかっていて、チャイムやインターホンで応対しなければなりませんから、そんな下町風なやり方はしたくとも出来ないかもしれません。
それはともかく、そうして友達が来たら、遊べる時は「すーぐーに」と応えながら支度をし、駄目な時には「またあーとーで」と叫び返します。
何れもお決まりの音階とリズムのある一種のオペラ的台詞回しで、これは関東近県では共通だったように思います。
駄菓子屋などでは挨拶がわりに「ちょーだいなー」と言いながら店鋪内に踏み込むのが礼儀で、それがごく一般的な光景でありましたね。ちょっと良い家の子は「くださいなー」などと言ってましたけどね…。
そうした子供言葉が消えて久しいように思います。大体、今の子供たちは学校が終わり家に帰って来てからは近所の子らと遊んだりしないですね。
下手すると学校から帰って来ない…そのまま習い事や塾に直行していたりして。
ご近所どうしの付き合いも稀薄だから近所の子供となんか遊ばない。
第一学年が1年違えば別の惑星の生き物みたいに思っているふしさえあるようで…。
私らの頃にはクラスの友達よりご近所の友達のほうに仲良しが居たりして、色んな年端の子供たちが群れなして走り廻っていたものです。
関東のとある地方都市 (浦和の事で…もう聞いたって! うるさいから、しつこいから) に暮らしていた頃は、二軒隣のシゲちゃんと仲良しでした。
シゲちゃんは私より確か2学年ほど下でしたが、何かにつけてツルんでは泥だらけになって走り廻ったものです。
今も実はシゲちゃんと仲良くして貰ってますが、このシゲちゃんは子供時分のシゲちゃんとは別人です。
私が以前住んでいた所のお向かいの息子さんで、今では自動車とモーターサイクルの整備、製作、公認申請などの業務を生業としたT&Sガレージを主宰する立派な企業家となっています。2児の父親ですから立派なおやぢでもあります。
そのシゲちゃんは自動車とモーターサイクルのプラモデル・コレクターでもあり、とりわけレベル1/8モーターサイクルには格別の思いがあるようです。
そして、世間に知られる事なく密かにこのシリーズの本国版、グンゼ版の全てを制圧しているらしいのですが、誰もその全貌に踏み入った事がないので、新鎌倉奇談「本当にあった怖い話」のひとつとして地域限定で怖れられています。
そのシゲちゃんがプラモデルの原風景として常々物語るのに前回ここでご紹介した「みのる」があります。
その回想語録によれば私と倅の知るみのるとは大違いで、その昔はプラモデルを結構手広く商っていたらしい事が想像されます。
日東、東京シャープ、有井、尾高などなど…問屋ルートの関係で模型専門店よりは玩具店などで良く見られた○級メーカーのキットたちが多々棲息していたらしく、変なモン好きかどうかは兎も角としても変なモンにも異常に詳しいシゲちゃんではあります。
やはり彼の場合も少年時代の原体験がその後の人間形成に深く影響したと見えて、プラモデルの世界では異端あるいは悪徳 (阿漕…?) な掟破りコレクター道へと向かわせてしまったらしいのです。
まあ本人は強く否定していますが…暗黒面のフォースに導かれたシゲちゃんは無敵です…。
かつて駄菓子屋や文房具屋、はたまたプラモデル屋と云うのは子供たちにとって「娯楽の殿堂、若人の社交場」でありました。また社会のルールを教わる実践教育の場としても極めて大切な場所でありました。
物を買う際の会話のし方、お金の計算方法に始まって、子供ばかりでない大人との正しい接し方もそこで覚えていきました。
そして終いには嬉しかった事や悲しかった事を聞いて貰ったり悩みの相談にのって貰ったりなど、まさに子供たちの人生相談の場ともなっていったのです。
自転車が店先に溢れたプラモデル店の中は、悲喜こもごもの小さな人生がたむろする人生劇場でありました。
ですからプラモデル店のおやぢ (が圧倒的に多かったですねえ…) たる者、親代わりの人格者であらねばなりませんでした。
そうしたおやぢの居る店には子供たちの姿が絶える事がなく、そうでない店は閑古鳥が鳴く、それがグーフィーの法則 (マ、だろうと突っ込まないで下さい。
思い付きで言ってみただけですから…)と申すプラモデル屋のいにしえよりの掟でございます。
ただ「だらだらと時を過ごす」事を許された店内で、学校や家庭での出来事を、やがて恋の悩みや将来の展望を、そしていつしか会社や女房の愚痴を、いつだって終いまで根気よく聞いてくれ、時には絶妙な忠告さえ与えてくれたプラモデル屋のおやぢたち。
いつしか巨大量販店におされて消えていったそんな小さな街のプラモデル屋の終焉と共に、落語で云うところのご隠居さんのごときプラモデル屋のおやぢたちも絶滅していったのでした。
だから今の子供たちには「街の学校」が無くなってしまったのではないでしょうか。
私たちは両親や学校の先生からは教えて貰えないような事々を、そんな街の学校から沢山教わったように思います。
思わず妙ちきりんなキットを選んでしまい、それでも嬉々として店を飛び出して行こうとする園児のシゲちゃんの背に向かい、みのるのおやぢは「危ないから道横切る時、右左良く見て渡んだよ!」ときっと声をかけたに違いない、勝手にそんな想像をしています。ウチの倅にもそうしてくれたように。
投稿者 平野克巳 : 2005年07月13日 13:51 | トラックバック
2005年07月08日
遠い日の原風景
私がよく自身の少年時代を回想する際“小学生時分にプラモデルと初めて出逢った関東のとある地方都市”と書くのは、埼玉県浦和市 (現さいたま市緑区) の事です。
ここで私は幼稚園から小学校4年生までを過ごしました。
当時、家の前はどぶ川の流れる桜並木で、そこからほど近い商店街の一画に天野屋と云う駄菓子屋がありました。
10円玉を握り締めては1回5円のくじを引きに行くのを日課としていた私が、天野屋の暗い土間でプラモデルと初めて出逢ったのは小学校2年生の頃だったでしょうか。
最初に出逢ったキットは私の記憶が確かなら、三共1/150ピーナツシリーズのF-51Dムスタング (PではなくFなのが、今となってはむしろ時代を感じさせます) だった筈です。
その時の衝撃は既に色々なところで書きましたのでここでは重複を避けますが、とにかくその後の私と云えば明けても暮れてもプラモデル一筋に熱中する“熱血プラモデル小僧”となったのでした。
そんな訳で私のプラモデル人生の原点は桜並木通りの天野屋にある訳で、ここで三共のピーナツシリーズもマルサンのマッチ箱シリーズも、三和のMタンクシリーズも、ASK/渥美産業の1/1000連合艦隊シリーズも、そしてマルサンの1/100シリーズも全て出逢ったのでした。
その後、私は千葉、神奈川、東京、再び神奈川と何度も転居を繰り返しましたが、やはりプラモデルの想い出と云うとここを置いて他にありません。娘が赤ん坊の時ですから20年程も前でしょうか。
郷愁にかられる余り、結婚して初めてのマイカー、ホンダ・ライフ360DX( ^_^;)に乗って、想い出の地、浦和の桜並木を訪ねた事がありました。
20年以上の歳月が経っているにも関わらず、かつて私が住んだ家は当時のままの姿で建っており、隣の乾物を商うよろずやさんも元気に営業を続けておりました。
見事な古木へと育った桜並木もそのままでしたが、どぶ川は暗渠となり砂利道は舗装路へと姿を変えて、やはり多くの時が過ぎたのだと感じずにはいられませんでした。
それでも驚くほどに変わらぬ周囲の景観にたちまち少年時代へとタイムスリップした私は、あの頃と同じように桜並木の下を天野屋へと走りました。
本当のところは駄菓子屋など残っている筈もないとは思いましたが、もしかしたら…そんな僅かな期待が無かったと言えば嘘になります。
そして私の目に飛び込んで来たものは白いブリキ看板に天野屋の黒い文字…ありました。
あの懐かしい天野屋が。しかもガラス戸のはまった間口は広くなって、昔に較べると立派な店構えとなっていました。
中を覗けばサンダルなどの突っかけが並んでいました。天野屋は履き物屋へと商売替えをしていたのでした。
天野屋のおばさんも変わらずに元気で、首にネッカチーフを巻いた割烹着姿も当時のままでした。
しかし「菓子屋の福屋の倅」(私の事です)の事は何も覚えていてはくれませんでした。
「あの頃は沢山の子が毎日来てたからねえ」と屈託なく笑うおばさんの声を遠く聞きながら、想い出が僅かにセピア色になってしまったようで心のどこかが少しだけ痛みました。
ところで蛇足ではありますが、おばさんに駄菓子屋を廃業したのちプラモデルの処分はどうしたか。
そして今も何か残ってはいないか (お定まりの質問ですねえ) 聞いてみました。
「どーこ行っちゃったんだろーかねー。なーにも残ってないしねー」…ま、想像どおりの答えではありましたけどね。
貴方はどこでプラモデルと最初に出逢いましたか? そしてそれは何のキットでしたか?
出逢った場所は駄菓子屋だったり文房具屋だったり、あるいは本屋や雑貨屋、玩具屋、プラモデル屋など様々である事でしょう。
それによって世代の違いも見えてきたりします。キットの違いはもっと明解に年齢の違いを浮き彫りにしてくれたりもします。
私たちのような年齢では「ちょっと前まで売ってたじゃん」なんて思うキットなのに、「生まれる前なので見た事ないです」などと言われてしまうと、自分の中の時間と実際の時の推移とのギャップの大きさに期せずしてギョッとしてしまったりもします。
知らず知らずのうちに時間は流れ、時代は移り変わっているのですね。それでも国産メーカーのハの字シャコタン、'80年代乗用車キットなどがネット・オークションで高値になっていたりすると、つい訝しく思ってしまう私ではあります。
先日も「レベル1/8のホンダCB72って本物見た事ないんで、作る時に感覚がつかめるか不安だなあ」などと言われ、暫し唖然となってしまいました。
私にとってもCB72は既に古い年式には含まれましたが、当時、金の無い友人は安い360°クランクのモデルに乗っていました。
中古車では現役バリバリだった時代です。まあ私にしたって最近のモデルに関しては浦島太郎ですから、どっこいどっこいではありますね。
最近のモデラーの多くはタミヤ世代だったりするので、ハセガワの戦車なんて存在さえ知らなかったりもします。
三共のキットは何ひとつ見た事がないと言うので「'70年代も尾高で作ってたから見た事くらいはあるでしょう」などと笑うと「それって30年も昔の話ですよね。
ボクまだ園児ですよ」なんて…ああ、やだやだ。気付かぬうちにじじいになってる私。三共や三和のキットを懐かしがってばかりいると、ますます年寄り扱いされてしまいそうです。
それでもオークションを眺めていると旧ロゴマークばかりについ目が行ってしまう習性は治りそうになく、とりわけ今井科学の水車小屋初版、山田模型の大阪城天守閣初版、同じく山田模型のプロペラボート・フェザー初版なんて妙ちきりんなキットが懐かしく思える私です。
それもこれも少年の日に作って遊んだ郷愁あったればこそで、単に昔のプラモデルとしての客観的評価だけなら「ちゃんちきおけさ」なキットとランクするしかないような代物ですがね。
そういえば私がプラモデルと最初に出逢ったのは駄菓子屋の薄暗い土間だった事は既に記しましたが、ウチの一番末の倅もちょっと似たところがありました。
今ではエレキギターを背負って歩き、彼女なんかも居て、口を開けばくっそ生意気な口ばかりきくような今時の若造になってしまいましたが、彼が小さかった頃は近所の文房具屋に良く出入りしていました。
「みのる行ってくる」などと言っては、しょっちゅう玄関を飛び出して行ったものでした。
正確にはみのる文具と言って画材や文具を商う店でしたが、昔の名残りで駄玩やファンシー文具、プラモデルなども多少は扱っていたのです。
当然品揃えも大した事はなく、プラモデルなどはガンダムや亜流モビルスーツ系などがお座なりな程度にあるだけでした。それでも当時の彼の行動範囲内では最もエキサイティングな場所だったのだろうと思われます。
プラモデルが高騰しもはや100円玉一枚などでは何も買えなくなっていた時代でしたし、ご近所の模型屋さんなどが急速に消滅しつつあった頃でした。
つまり彼にはそれだけ選択肢が無くなっていた訳で、みのるが好きだと云うのではなく生活圏の中にはそこしかなかったのでした。
好むと好まざるとに関わらず彼の少年時代の記憶はみのると共に残されていくのだな…と考えると、我が子がちょっぴり不憫に思えたりもしたものです。
最もあれほど好きだったプラモデルも高校生になってぱったりとよしてしまいましたから、私が思うほどには彼の中では気にも留めていないのかもしれません。
そして恐らく最初に出逢ったプラモデルの記憶など彼のメモリーバンクからはとうに削除されてしまった事でしょう。
私たちの世代は男の子なら誰でも一度はプラモデルの洗礼を受けて育ちました。玩具が子供の必須アイテムであるならばプラモデルは玩具の王様でした。
しかし、それも今は昔 それどころか必ずしも子供イコール玩具ではないようにも思われます。
プラモデルが人生の黄昏れを迎えたおぢさんたちの、甘く切ない少年の日の追憶でしかなくなってしまったとしたら…そんなの考えるだけでも嫌じゃないですか。
投稿者 平野克巳 : 2005年07月08日 21:56 | トラックバック
2005年07月05日
プラモおやぢのネコ日記 最終回「あのこの巻」
我が家にはかつて「あのこ」と云う名の猫がおりました。根っからの自由猫でしたが、生まれは鎌倉旧市街の由緒正しい猫屋敷とあとになって知りました。
私が現在住んでいるのは銭洗弁天裏手の梶原と云う地ですが、ここに移り住む前は鶴が岡八幡宮横手の雪ノ下と云う所で暮らしていました。
そこは築数十年を数えるであろう純日本家屋の借家でしたが、そこに越して来たその日の夕方、あのこは玄関に訪ねて来たのでした。
それから毎夕6時半になるとあのこは決まってやって来ました。
妻が「また、あのこ来てるわよ」と言ったところから、あのこと云う名がつきました。
ほたほたと太った小柄な茶のキジネコで、私が本気で猫と向き合うようになる切っ掛けを作った猫でした。
しかし、ジェムをウチに迎えて暫くした頃、家の中から聞こえるジェムの鳴き声に気付くと、私に「ネコ居るでしょ?」と言っているかのような寂し気な視線を投げかけ、振り返り振り返りしつつ狭い路地裏を去って行きました。
以来、暫く行方知れずとなったのでした。私は1年余りもあのこを探し続け、ようやく見つけた住処へは今度は私がネコ缶を持って通いました。呼べば必ずどこからか飛んで来る猫でした。
ある晩、「一緒に帰ろう」と一所懸命説得し、共に家路を辿ったのですが、とある路地の角に座るとそこからは一歩も動こうとはせず、哀し気に鳴くばかりでした。
この頃、私は余りの切なさに「路地裏のあのちゃん」と題した短編を書いたのですが、これはFM鎌倉で朗読ドラマ化されて放送されました。
路地裏のあのこは我が家の転居を切っ掛けに、様々な紆余曲折ののち我が家を安住の地としたのでした。
明治から続いた老舗酒屋が廃業転居し誰も居なくなった夕暮れ、蔵の屋根でいつも丸まっていたあのこ。
その孤独な姿が余りに不憫に思われ、あのこの面倒を生涯見てやろうと心に決めたあの日。
ほぼレストアが終わりあとは組み上げるだけとなったタミヤ1/35M-48A2パットンを蹴散らされてしまい、理不尽にも激昂してしまい怒鳴り付けてしまったあの日。
振り返れば猫と云う小さな生と本気で向き合うようになったのも、全てはあのこと出逢ったからでした。
あのこを語るには1冊の本が必要かもしれませんのでこれ以上は触れない事としますが、数年前にあのこが逝った直後、書きとめた未発表の小文がありますので、皆さんに読んで戴こうと思います。
空の上からあのこが見てくれているのを期待して。
「猫と生きる」あのこの死
朝からずっと雨の降り続く冷たい十月の晩、あのこは死んだ。それは冬の穏やかな海で、波が音もなく引いて行くような、静かな死であった。昼頃に倒れて以降、タオルとあんかに包まれたその痩せ細った小さな身体は、呼吸するたびに規則的に隆起していたが、それも次第次第に小さなものとなった。そして時間をおうごとに浅い僅かな呼吸となって、やがてスローモーションのようにその動きを止めた。蝋燭の火が消えるように…正にそんな比喩がぴったりな命の終焉だった。ふと時計を見上げると深夜11時を回っていた。あのこが倒れて既に半日が過ぎていた。
その瞬間を家族全員が息を詰めるようにして見守っていた。あのこが晩年を暮らした長女の四畳半の部屋には、家族5人が肩を寄せるようにして車座に座っていた。その中心に小さな命が、今は骸となって横たわっている。
命がただの物体となった刹那、いつしか降り止んで静かになっていた夜の闇に、突然激しい閃光が光り雷鳴が轟き渡った。単なる自然現象であり偶然ではあったろうけれども、ひとつの命が消えた瞬間に天が蒼白く明滅し、地を割くような轟音が響き渡る。窓に映るその光景を見ながら、あれは命の消滅、終焉を怒っているのではないだろうか、そんな事を漠然と考えていた。
あのことは我が家に3匹居たうちの一匹で、小柄な雌のキジトラであった。元を正せば自由猫、いわゆる野良猫であったのだが、縁あって我が家の家猫となった。その辺りの経緯については一冊の本が書けてしまうほどにドラマに充ちているのだが、それはまたの機会があったらお話したいと思う。あのこは私にとっては不憫に思えて仕方のない猫であった。それゆえ一念発起して何ヶ月も探し歩き、遂に我が家に連れ帰ったのであったが、今にして思うと果たしてそれが本当に幸せであったのかどうか私には自信がない。猫には猫の事情があり考えもあるだろう。所詮、私の思いなどは人間の勝手な思いつきであり自己満足に過ぎないのではないか、かねがねそんなわだかまりが心の奥底で燻っていた。だから死の瞬間に臨んで、激しく轟いたあの雷鳴はあのこの感情表現だったのではないのか、とつい考えてしまう。言葉の通じる人間同士でさえも心まで通わせるのは難しい。ましてや言葉の通じない人と猫とは、どこまで感情を共有できるのだろう。信頼と愛は確かに在った。しかしそれ以上の心の交流は、果たしてどれだけできたのだろう。死なれた瞬間に、そんな心許なさが胸にさざ波のように沸き立ち、もう取り返しのつかない過ぎ去った時間に、後悔の念ばかりが募った。
永年、長女の部屋で孤独に暮らしたあのこの異変は、直ぐには発見できなかった。娘が昼前に出かけたあと、ベッドの下に倒れているあのこを発見したのは、ほんの偶然に過ぎなかった。既に瞳孔が拡散し、意識はないように思われた。時たまぴくりぴくりと前足を動かして、差し出した私の指先に触れようとするのも、単なる生活反応でしかなかったのかもしれない。その時点で私は獣医へ連れて行くことを断念した。恐らくはもはや手遅れと言われるに違いない。安楽死を奨められるだろう。ならば住み慣れたこの部屋で逝かせてやりたいと思った。苦しんでいるならともかく、意識がないならそのほうが多少なりとも幸せなのではないか、そう思った。それでも何度かはメール友達の獣医師に症状や経過を伝え、専門家の判断を仰いだ。それでも心が決まらず、行き着けの地元の獣医師に電話をいれた。医師は電話口で「もう医者にしてやれることはない。暖かくして優しく最後を看取ってやりなさい」と諭すように言った。それで心が決まった。生まれた時は知らないけれど、せめてその最後は見届けてあげようと。
その日、自宅には私と妻、そして残る2匹の猫しか居なかった。私は娘の携帯にメールをうった。「死にそう。もうお別れ。早く帰れ!」そんな文面だったと記憶している。あのこは娘のルームメイトであり、お気に入りの猫であった。だから娘にはその最後を見守らせてやりたかったのだ。娘は出先から直ぐに電話して来た。急いで帰ると言う。その日はずっと楽しみにしていた友達とのカラオケ・パーティーだったが、それを放り出して、慌ててバスに乗ったらしかった。
ならば家族全員に一応知らせておくべきか、そう思い立った。長男はJRでふた駅のところで働いている。仕事先にメールした。末の息子は未だ中学生なので、学校へ行っていて直接連絡は取れない。下校して来るのを待つよりなかった。直ぐに長男から電話がかかって来た。仕事先の同僚たちが「ここは良いから、一寸抜けて様子を見て来い」と言ってくれたという。事は家族の誰かの話ではない。猫なのだ。それでも誰もが人間と変らぬ思いで、その生死に心を砕いていた。日頃、家庭の中で「猫を溺愛している」と笑われる立場の私としては、息子や娘のこの時の言動は少なからず驚きであった。私が家族というこの共同体を構成して以来、家族の中から出る初めての死。そして今、家族中がそれを真剣に見つめている。生活環境や医療技術が格段に向上した現代、子供たちにとって死は身近なものではなく、その持つべき意味も理解できぬまま成長してしまうという。そこに命の尊厳や大切さをかえりみない社会が生まれてしまう。猫を飼って良かった、心からそう思った。コンピューター・ゲームでもぬいぐるみでもない、待った無しの生、儚く消えてしまう生。猫という共同生活者を通じて、彼らはいつの間にかそれを学んでいたのだ。
次第に細くなる息遣いに、私はその命の終焉が近いことを感じていた。
「あのちゃん、本当に死んじゃうのか。だったらもう良いよ。早く楽になりな。これまで居てくれてありがとう」
と声に出して語りかけた。それは私自身のあのこへの惜別と感謝の気持ちだったが、また同時に子供たちに「命への接し方」はどうあるべきかを伝えておきたい、という思いから出た言葉でもあった。誰もが直面する死から目を逸らすことなく、息を詰めて見つめていた。なんと猫という生き物は、私たち人間に、無言のうちに沢山のことを教えてくれるのだろう。その命の終りにまで、自らの命と引き換えにするように、何かを心に植え付けていってくれるのだ。そして遂に終りの時が来た。ゆっくりと最後の呼吸が止まり、その瞬間口元から「く…」と小さな声が漏れた。息を引き取ると同時に、その顔にはたちまち精気が失われていった。誰もが無言だった。それは厳かな通夜の始まりでもあった。イモリの干からびた死体でさえ飛び上がって気持ちわるがり、幽霊や化け物を大の苦手とする娘が、このまま一晩添い寝をすると言う。この時、高校生となったばかりの娘は、生き物の生と死を確かな事実として受け入れたのだろう。生き物の宿命である死、それは悲しいものではあっても恐れるものではない、とどこかで感じ取ったのではなかったろうか。
あのこの亡き骸は既に用意してあったダンボール箱に納めた。なるたけ綺麗でサイズのぴったりした箱と思い、昼間のうちに探しておいたものだ。それが死者に対してのせめてもの敬いの心だと思ったからだ。バスタオルを折り畳み、下に敷いてやった。そして亡き骸にはお気に入りだったファーストフード店のミニ・タオルケットを掛けた。その姿は寝ているように安らかだが、余りに薄く小さかった。ころころと太った愛らしい猫だったのだ。それがいつしか痩せて、小猫のように小さくなってしまった。そして今、息を引き取った姿は、惨めなほどに薄っぺらになってしまっていた。
いつしかそぼ降る雨も止んで、窓の外には澱んだ静寂が訪れていた。死というものと対峙した時、人は緊張感からか哀しみや畏れを現実感を伴って受け入れることができない。ぼんやりと麻痺した思考の中で「あのこが死んだ」という言葉が文字になってただ駆け巡るばかりだ。一気に虚脱感が全身を包み込む。その時だ。にわかに激しい雷鳴が夜のしじまを割くように轟いたのは。人は恐らく、こういう時に神秘や怪異に誘われるのだろう。私も確かにそんな想いに捕らわれていたのだから。
突然の雷鳴で我にかえった私は、すかさずペット専門の葬儀社に電話した。この日の為に全ては決めていた。昔から猫が死ぬと庭に埋めるのが、日本のしきたりのようなものだったが、昨今は住環境も変って余り庭に埋めるようなことはしなくなった。洒落ではないが「猫の額のような地所」では愛猫を埋める気にもならないだろう。それも埋められる庭があれば、の話である。幸い私は庭付きの家に住んでは居たが、代々受け継がれて住んでいくといった定住感覚が稀薄になってしまった時代であるから、ここにも何時まで住んでいるものやら判らない。万が一、見知らぬ人の家となってしまった時には、残されたあのこも寂しかろう。だから庭には埋めないと決めていたのだ。しかし最近のペット・ブームを繁栄しての過度な弔い方にも抵抗があった。まるで人間と同じように仏壇を作り菩提寺に埋葬する。それも確かに愛情表現のひとつではあろうと思うけれども、私には何か違和感が感じられた。実際、いくつかのペット墓苑やペットも扱う寺社の見学にも行った。だが華美であればあるほど、人の虚栄心や自己満足のようなものばかりがハナについた。共に暮らし、多くを与えてくれた愛猫の弔い方には何が相応しいのだろうか。そうして折りあるごとに思い悩んだ末の私の結論は、骨にして骨壷を何時までも身近に置いてやろうということだった。それなら互いに寂しくないし、何時までも思い出すことができよう。そう決断すると、前もって地元のペット葬儀社を訪ね歩いて選び、ここと決めた業者のフリーダイアル連絡先を書き記しておいたのだ。
明けて翌朝は打って変わった晴天だった。雲のない抜けるような青空は、逝ってしまった命との惜別をいやが上にも思わせて、つい嗚咽がこみあげてくる。朝一番に葬儀社が引き取りに来ることになっているので、24時間スーパーへ弔い花を買いに走った。お棺と言うには余りに寂しい、スーパーから貰って来たダンボール箱の中でその終焉を迎えるのだ。せめて花で飾ってやるくらいのことはしてやりたかった。家族全員で菊の花を並べ、惜しむように皆が顔や頭を撫でた。冷たくなったその身体は既に死後硬直が始まり、表情や毛艶に生きていた頃の面影はもはやない。
葬儀社は軽トラックの保冷車でやって来た。玄関に立ったのは初老の営業マンで、その立ち振る舞いは正に葬儀屋さんのそれであった。マニュアルどおりの紋切り型であるとは判っていても、その独特の言動は悲しみにくれる遺族にとっては癒されるものだ。お気に入りだったタオルケットを一緒に焼いてあげて下さい、とお願いするつもりが、込み上げる嗚咽で言葉に詰まる。我ながら情けないと思いつつも、自分ではどうにもならないのだ。それでも職業柄、葬儀社の方は、真摯な姿勢を崩すことなく、淡々とした対応のままなのが有り難かった。
去って行くボックス型バンを見送った。霊柩車がそうするように、小さく別れのホーンが鳴らされた。その時になって初めて「もうあの姿では帰って来ないのだ」と悲しみが一気に込み上げた。泣くまいと見上げれば、綺麗に晴れ渡った空が涙に霞んで見えた。間も無くあのこはあの空に煙となって還って行くのだ…これまで幾度となく見てきた焼き場の煙突から立ち昇る煙を思い、私は今日という日が空が蒼く広いことに感謝していた。
なぜこれほど泣けるのだろう。繰り返し繰り返し嗚咽が咽喉をせり上がってくる。世の中では「たかが猫一匹」と言うのだろう。しかし人生のある時期を共に生きた確かな記憶は、何物にも替えがたい心の財産のように思えた。沢山の思い出が断片となって、走馬灯のように巡り続けていた。猫という小さな生が私に残していったものは、それほどまでに大きかった。
「あのちゃんの最初で最後の遠出だね」
妻がそう呟く。あのこは鎌倉市内の小さな路地裏エリアを転々とした猫だった。それが今日は焼き場のある平塚まで誰に付き添われることもなく、独りで向かうのだ。さぞ心細いことだろう。だがもう私たちには何もしてやることもできない。死出の旅とは孤独なものだ。それは私たち人間にとっても同じものなのかもしれない。「生」とはどこからやって来て、どこへと還って行くのだろう。それは永遠のテーマであり、また未来永劫誰にも判らないものなのかもしれない。ただ確かなことは最後は強力なバーナーの炎で焼かれ、煙となって天に昇って行くということだけだ。
家の中でじっとしていることがいたたまれなかった。妻と娘を伴って地元では猫寺として有名な材木座の光明寺へと出向く。ここには立派なペット慰霊碑が建立されており、その周辺には日がな自由猫たちが気ままな時間を過ごしている。ここにはこれまでも撮影の為に幾度となく訪れていた。馴染みの猫たちが擦り寄って来る。その感触と体温が多少なりとも、挫けそうな、砕けそうな思いに、元気を吹き込んでくれるような気がした。晴れ渡った天を仰ぎ見る。今、ちょうどこの時に、あのこは煙となって、この空に向かって昇って行っているのに違いない。胸にまたもや切ない哀しみが忍び寄る。努めて明るく振る舞おうと、アニメのようなキジトラ猫が背中に生えた白い羽を羽ばたかせて、天に向かって昇っていく光景を想像した。しかし、それもまた哀しみの涙を誘うだけのものでしかなかった。
その日の夕方、あのこは骸となって小さな骨壷に納められて帰って来た。葬儀社の方が言うには、病気持ちだと骨が赤く、衰弱していると骨が青いのだそうだ。しかしあのこの骨は真っ白であったと言う。足の骨もとてもしっかりしていたそうだ。それは健康であった証しであり、恐らく天寿を全うしたに違いなく、しかもかなりの長寿猫だったらしい。それは哀しみにくれる私たちにとって、僅かながらも慰めになる言葉であった。実際、あのこの年齢は定かではない。出逢った時は既に大人の猫であったが、私と知り合ってからは7年が経っていた。きっと17歳くらいだったに違いないよ、などと自らの慰めの為に勝手な憶測を口にしてみたりした。
リビングの一画にあのこの仏壇がしつらえられた。小さな額縁には、かつて私が撮った写真のプリントアウトを遺影として入れ、ウイスキーのワンショット・グラスに水が充たされて置かれた。小さな香壺を線香立てとして流用し、灰は仏具屋に初めて出向いて購入した。この細やかな仏壇には何時も線香の煙がたなびいている。家族の誰かしらが線香を立てては手を合わせているらしい。今更ながら野良猫あがりの「あのこ」は、これほどまでに我が家族の一員として認められていたらしい。それは私にとっては嬉しい誤算であった。そんなにも愛されていたのか、そう思うと、心の襞の奥底の辺りで暖かな何かが染み出すような気分であった。それでも私が精神的ダメージを克服して立ち直るまでには、今しばらく時間が必要だった。よく言われるペットロス症候群のようなものでもあったろうか。胸にぽっかりと開いた空虚さといたたまれない哀しさは、何時どこでても頭をもたげた。何をしていても突然涙が込み上げ、嗚咽となって漏れてしまうのだった。あのちゃん、その呼び名を何度、胸の中で繰り返し呼んだことだろう。愛する者の死がこれほどまでに辛いものだということを、私は初めて実感として知ったような気がした。猫のあのこ、それは確実に私の人生の一部であったのだ。
別に夏目漱石を気取るつもりはなかったが、あのこ逝去を友人、知人にメールで知らせた。知らせることに何の意味があるのかも判らぬまま、私は哀しみに任せてキーボードを打ったのではなかったか。さすがに葉書や封書では出さなかった。それほど大仰なことではないぐらいは、いくら冷静さを欠いていたとしても判った。恐らく電子メールの気安さがそうさせたのかもしれなかった。決して何かを期待してメールを出した訳ではなかったのだが、期せずして沢山の人からお悔やみの返信をいただいた。それだけでなく本当に我が事のように気に掛けてくれた友人も多かった。遠い地に住んでいるにも関わらず、今から直ぐにでもそっちに行こうか、と心底心配してくれた幼なじみさえ居た。人の優しさが心に染みた。心底嬉しかった。誰もが「何だよ、たかが猫じゃないか」とは言わなかった。そんな友人たちに囲まれていることの幸せを、改めて痛感していた。そんな訳で私は多くの人々に慰められ、勇気づけられることで、立ち直ることができたのだ。猫のあのこがもたらしてくれた「縁」であった。
猫という小さな生と暮らす。それはペットでもなくアクセサリーでもない。ただ可愛いだけでもなく、楽しいだけのものでもない。日頃、ともすれば私たちが忘れてしまいがちな「待ったなしの生」である。我々人間を含めて生物は生まれた瞬間から、死ぬことを避けられない定めとして運命づけられている。それでも死は哀しく辛いものだ。そして生きるとは何と儚いものだろう。それでも私たちは生と死を受け入れて、
与えられた生を生きなくてはならない。物質文明という社会の中で日々過ごしていると、忘れてしまいがちな「生の儚さ」を、猫という小さな生は身を以て私たちに教えてくれる。だから小さな命が限りなく尊く愛おしいのだろう。私は今、あのこという猫と巡り合えたことに、共に人生を過ごせたことに、心からのありがとうを言いたい。
投稿者 平野克巳 : 2005年07月05日 16:41 | トラックバック
2005年07月01日
プラモおやぢのネコ日記 其之弐「キャルの巻」
キャルが我が家にやって来たのはネコ暮らしも1年余りが過ぎた頃でした。
貧困と多忙を抱えたその頃の平野家は行楽などとは無縁でありましたから、
せめて幼い子供たちを日曜朝の不二家モーニングサービスに連れて行く事を習わしとしておりました。
ある日、その不二家のレジに里親募集の貼り紙があり、そこには仔猫の写真が添えられてありました。
それはそれは可愛い仔猫でした。ひと目で夢中になり盛り上がってしまった平野一族郎党は、
辛抱たまらずその場から一目散にその仔猫を貰い受けに行ったのでした。
生後ひと月ほどの2匹の仔猫はピンクのリボンでおめかししていました。
そこの奥さんが言うにはチンチラとペルシャの合いの子なのだそうで、
確かにほやほやと毛足が長く、何よりも大きな瞳と耳がチャーミングでした。
そしてピンと伸びた太い尻尾が決め手となって、そのうちの1匹を連れ帰ったのです。
私としてはジェムが寂しくないよう友達を作ったつもりでした。
しかし、その思惑は見事なまでにはずれ、ジェムは決してキャルを受け入れませんでした。
いじめ殺されてしまうのではないかと心配し、一時は家を空けられなかったほどです。
未だにわか猫好きでしかなかった私にはシャム猫の気性の激しさと云うものが分かりませんでした。
それでもキャルは逞しく無事に育ちました。そして育ってみれば立派なサバトラでした…。
その上愛らしかった白い鼻にも柄が出て、何やら三波伸介を彷佛とさせる風貌に…。
まあ、何であれ、愛猫は盲目的に可愛いものです。いずこの猫好きもそれは同じ事。
アライグマのようなぶっと太い尻尾を立てて、小股のフォクストロットでちょっちょこ走る姿は、
毎日見ていても口角がゆるゆるになってしまいます。そうです、私は完璧「猫馬鹿」なのです!
キャルは人の身体の上に座るのが大好きで、うかうかしていると頭の上で寝さえします。
深夜、悪夢にうなされ目を醒ますと、胸の上に載ったキャルがじっと見つめていたり…。
ジェムは自分を人間だと思っているふしがありますが、キャルはごく平凡な猫らしい猫です。
私が帰宅するとおやつの時間なのですが、ジェムがくれくれと大騒ぎするのとは対照的に、
キャルのほうはおやつが出て来る扉の前で佇まいを正しじっと座って待ち続けます。
ジェムは触られるのが大嫌いですが、キャルはいくらいじりたおしても怒りません。
ジェムは極度の人見知りですが、キャルは社交的で好奇心旺盛です。
ジェムは肉好きでウェットフードしか食べませんが、キャルは魚好きでカリカリが大好きです。
かくも対照的な2匹ですが、日々反目し合いつつも元気に平和な時を過ごしています。
突然、作業台に飛び乗って、そこいら中をインディブルーの洪水にしてしまったり、
パソコンのモニターに吐き気がするほど「ぬ」の文字の羅列を打ち込んだりと、
ほいちょいな事を時にはしでかしますが、大概においては模範的な正しい猫(?)です。
私は自宅で仕事をしているので昼間は殆どひとりで居る事が多い毎日です。
自宅はパソコンに向かっていると眼前の山と谷が望める静かな場所にあり、
動くものと云えば鳶が空に輪を描く姿、聞こえるものと云えば山鳴りと鳥の声くらいなものです。
これから夏になれば耳を聾するばかりの蝉の合唱に包まれますが、今は風の音きり聞こえません。
そんな都会の喧噪とは無縁の生活をしていると、ふと寂しさに捕われる時もあります。
自動車のクラクションや人の笑い声など、街の生活音が無性に恋しくなる時もあるのです。
でもそんな時、いつも気がつけば直ぐ傍に猫が居ます。
ただ眠っている時もあれば、あくびや伸びをしながら知らんぷりの時もあります。
何の会話がある訳でもなく、何の共同作業が出来る訳でもありません。
ただ同じ空気を共有している安堵感、今共に居られる安心感、そんな優しさに包まれます。
黙って寄り添っているだけで猫はその場の空気を癒してくれるようです。
また猫との生活は四季折々を愛しく過ごす事の大切さも気付かせてくれました。
春夏秋冬、様々な花が咲き幾色もの風が匂い、そして音もなく休む事なく時は過ぎて行く。
そうした平凡な日々の大切さ。悔やんだり哀しんだり怒ったり焦ったりせず、
過度な期待をしたりもせず、ただ淡々と今を、このひとときをそのまま受け入れて生きる。
今が駄目でもまたチャンスはきっと来る。だからその時をじっと静かに待って生きる。
猫との暮らしは私に肩の力を抜いて生きる事を教えてくれました。
人生哲学を猫から学ぶ。そんな無気力でどうする。人生はもっとアグレッシヴなもの。
そう反論する向きも多いかと思います。でも疲れてへとへとになってしまいませんか?
私はやっぱり猫のように軽やかにのんびりと生きていたい、そう思うのです。
無理をせず等身大の自分で生きていたいのです。
生きているだけで丸儲け、そう思えば何を恐れ哀しむ事がありましょう。
そうした中から自然と力が涌いて、自分でなければ成し得ない何かも達成出来る、
だから私は焦らずクサらず諦めもせず、これからの日々へと向かって行けます。
猫にゃん棒をぴんと伸ばしてグルーミングしているその姿を、
梅の花のようなピンク色の肉球を微笑ましく眺めながら、
今日も私は焦らずじっくり無欲の態で、皆さんに喜んで戴けるキット作りに勤しみます。
あっ、もうここ接着剤ががっしり付いてて剥がれねーし! どうにかなんねーのかよーっ!
これサンディングしたらモールド消えちゃうし…なんだよーっ、歪んでて左右合ってねーし!
あ、もう肝心のパーツがねーぢゃねーかよ、ちっくしょー! ふざけんぢゃねーぞーっ!
万事塞翁が猫…取り合えず表面的には心穏やかな日々の暮らしです…って、あーた…。
投稿者 平野克巳 : 2005年07月01日 15:22 | トラックバック
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