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初代編集長 平野克巳の「猫の耳に大仏」湘南鎌倉便り


モデルカーズの生みの親、平野克巳氏による目からウロコの模型小噺。さぁどんな話が飛び出しますか。乞うご期待。

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2005年09月

2005年09月29日

人間万事塞翁が猫

 ♪らっせ~ら~らっせ~ら~、ニャーッッ! と枕を振ったところで (うるさいよっ! ) …以前、私はトミカはやらない、と書いた。だが実は密かに隠しているトミカがある。それはキャラクタートミカシリーズ「ゴジラ」(ノスタルジックヒーローズ)である。別にトミカが欲しかった訳ではなく、映画ゴジラシリーズのポスターをフューチャーしたパッケージが欲しかったのだ。何故なれば私は少年時代よりゴジラファンなのである。第1作「ゴジラ」が公開されたのは1954年/昭和29年であるから、私のほうが1歳年上である。兄貴である。偉いのである。むほっ。第1作「ゴジラ」と第2作「ゴジラの逆襲」は、年末年越しロードショーとか新春お年玉ロードショーとか副題のつけられた昔のテレビの深夜放送で観たのだが、第3作「キングコング対ゴジラ」からはリアルタイムに劇場で観ている。有楽町日劇(現有楽町マリオン)の復活ロードショーにも行ったし、初期の海洋堂のレジンキットもしこたま買って集めた。つまりゴジラものには目のないワタシな訳で、このトミカシリーズも当然のことながら狂喜乱舞して買い集めたのである。しかし、このシリーズ、当時はかなりの人気だったとみえて、発売日当日にはたちまち店頭から姿を消すという熱狂振りであった。私は主に東京恵比寿の某大型模型玩具雑貨店で購入していたのだが、熾烈な争奪戦に見事に敗れ、未入手のうちに品切れ続出となってしまい、蒐集は非常に困難を極めた。全15種が発売になったのだが、結局12種しか入手出来ず、そのまま涙を飲んでお蔵入りと相成った。そして年月は流れ、納戸の整理と共にこつ然と姿を現わしたのであるが、時の流れとは非情なもので「もはや興味も愛情も色褪せて」しまっていた。何よりもフルコンプしていないのが、愛情が失せてしまった最大の要因であった。「今さら持っててもなあ。どうせ3個足りないし…」と見つめること暫し…「いいや、もう手放しちゃえ」…かくして、あれほどにまでに必死になって掻き集めた我がキャラクタートミカ「ゴジラ」シリーズ全12個は、ネットオークション上で新天地を求めてさすらうこととなったのだった。だが、しかーしっ! 売れない。誰も買ってくれない…オークション上での状況はどうなのだろうかと、リサーチのつもりで「キャラクタートミカ ゴジラ」を検索して探してみた。するど、どーだい!(何がどーだいだか…) 何と私が買いもらした3種が売りに出ているではないか。しかも同一の出品者から。この時ほど私の決断が早かったことも珍しい。変わり身の鋭さ(苦笑)とでもいうのか、発想の転換とでもいうのか、無くならないなら集めちゃえば良い…そう閃いていた。まさに天の啓示であった(嘘である) かくして3個とも入札、そしてめでたく落札。こうして永年の懸案であった(実際のところはただの思い付きに過ぎないのだが)フルコンプが実現したのであった。めでたし、めでたし…♪縦社会~縦社会~ニャーッ! しつこいから、しつこいから。もうわかったから…。
 こう言っては落札された方に申し訳ないが、「ゴジラ」トミカとは反対につい売ってしまったものもある。サニーのデフォルメ“ビンビンシリーズ”カリフォルニアステップサイド(ダットサントラック720型)がそれである。何時からあるのか既に記憶もないが、恐らくは当時リアルタイムに買ったものだろう。箱を開けたところタイヤとホイールだけが組立着色済みであった。GOOD YEARのホワイトレターも気合いを入れて描き込んであった。いずれ車体のほうも仕上げるつもりだったらしく、その仕上がり済みタイヤは丁寧にティッシュで包んでさえあった。箱を開けた刹那「作ろうか」と頭をよぎったものの、ただでさえ仕事のキット製作まで停滞しているところに、こんなモノを今さら作る訳もないなと割り切った。昔の私たちの感覚からいけば、この時点でこのキットは即ゴミ箱行きの運命をたどった筈である。だがしかし、最近はジャンクと称して完成済みプラモデル(しかもきれいに仕上げたものではなく)、パーツの紛失した完成モデル、はたまたパーツの足らないキットなどが、ネットオークションの世界では堂々と商品として通用している。まあ、旧いものだけに流通するタマが絶対的に無いのと、高いプレミアがついてしまったので、コンディション良好で真っ当なキットなどは入手困難であるが故の珍現象である訳だ。中には何万円もの落札価格のつくジャンク完成モデルもあって、プラモデルは作ったらあとは捨てるだけと考えられていたその昔から較べると、まるで別世界の出来事のようである。そんな状況を鑑みて「こんなんでも誰が欲しいと思ってくれる向きはあるのだろうか?」と出品してみた。別に稀少キットである訳でもなく、要するに他人のお手付きの仕掛け品、中古品である。「むしろ手間が省けて良いと考えていただける方」などと勝手な注釈も付けてみた。そんな都合よかねーよなー世の中は、売れねーだろーなー、と思っていたのだが、これが何と買い手があった。しかも複数入札いただき、結果的にはなんと810円で落札された。粋狂な、などとはとても言えない。ありがたいことである。まあ恐らくはタイヤ、ホイールの塗装を改めてやり直すのであろう。むしろ、その手間が余分にかかっても、このキットを入手して作りたかったのだろうか。なにしろ半端に作ってしまってあるものでは、プラモデルのキットとしては二足三文の価値しかない筈である。このまま取って置くことはありえまい。そう考えると、恐らく私の所から輿入れとなったダットラは、きっと完成させて貰えるのに違いない。これは嬉しい。かなり嬉しい。押し入れで眠ってしまったり転売されてしまったりするより、どれだけ良いだろう。あ~ウチで朽ち果てさせずに良かったあ! 絶滅危惧種イリオモテヤマネコを救ったにも等しい愉快、爽快、やったかい、の後味である。河童がシリコダマを抜き、生き馬は目を抜かれる金銭と物欲にまみれたオークションにあっても、時には損得勘定だけでは推量し得ない思いつき、気紛れ、あるいは気の迷い(?)などあって楽しいことである。全く顔の見えないネットオークションの世界ではあるが、垣間見える人間臭さが妙に仄々させることである。

投稿者 平野克巳 : 2005年09月29日 17:31 | トラックバック

2005年09月27日

良い日お日和湘南ドライヴ編 其之弐


戦艦三笠に張り付き富嶽改激写するの図


 鮪を直前にしてガス欠、バッテリーあがりに陥った前回の続きである。などと書こうとしていたら、縁は異なもの鯵なもの(鯵でなくて鮪だろう…あ、もっとそーゆー問題ではないですか…)、はたまた人生不思議発見!金のヒトシ君人形没シュート! 九州は熊本、肥後もっこり…いや、そーでなくて(あたしゃボビー・オロゴンか)…肥後もっこすの我が友人、富嶽ちゃんが、自慢の中島ハ-54空冷4列星型36気筒5000馬力発動機6基を全開にして勇躍湘南へと飛来した。聞けば三浦半島某所(現場保護の為、具体的な場所は伏せさせていただく)に今も打ち捨てられているチハ車の残骸を見たくてやって来たとのこと。そこで地元守備隊たる私が同行することとなり、期せずして三浦半島良い日お日和湘南ドライヴ編と相成った。まさしくこれから書こうとしていたルートをそのまま辿る旅となる訳で、奇遇というか出来過ぎというか…。ともかく超重戦略爆撃機富嶽改並びに長距離支援戦闘機寝魂汰52型は勇躍海軍猫田基地を飛び立ち出撃したのであった。という訳で前回からの続きである。下って来た134号線を城ケ島入り口交差点から三崎漁港方面へと下る。暫く鄙びた旧い商店街が続き、やがて三崎漁港へと突き当たる。漁港を正面にしてT字路となっており、前方にはクレーンで束ねた冷凍鮪が漁船から引き揚げられているのが臨める。このT字路右側、コンビニampmの隣にあるのが庄和丸(TEL:046-880-1231) 地元庄司水産鮪問屋直営の地元漁師さんお薦めの店だ。ここでは何といっても鮪丸庄丼/2,625円(税込) ちょっと丼物にしては高くねえ? と注文を躊躇するかもしれないが、食べてみれば120%納得の超美味である。新鮮大振り肉厚な特上刺身の中トロが敷き詰められた上に、更に大トロがトッピングされた超てんこ盛り状態。下敷きのご飯は「どこ~っ」と探さねばならぬほどの迫力である。これを喰わずしてマグロを語ってはならない大満足の逸品だ。続いてT字路を左折して湾の反対側に向かえば、ちりとてちん(TEL:046-882-6959)がある。ここのちりとてちん丼/1,890円(税込)はあづま丼、照焼き丼、ネギトロ丼の3種の小丼がセットになったもので、色々食べたい欲張りグルメにはお薦めだ。さて新鮮鮪で腹を一杯に充たしたところで旅へと戻ろう。雨は降る降る城ケ島の磯に~の北原白秋の名曲で有名な城ケ島へと渡る城ケ島大橋直前を左折し…(城ケ島へも行ってみたい向きは直進して寄っていって下さい)…宮川湾に添って畑の中を行く。首都圏に近いところとは思えない見渡す限り畑ばかりの風景が続くが、突然白い大きなプロペラが林立している光景に出くわし一寸ばかり驚かされる。これは宮川公園内に建てられた風力発電の風車で、真下に立つとブゥーン、ビィーンとブレードの風を切る音がしてちょっと恐い。更に進むと毘沙門湾、江奈湾へと通じる。この辺りの湾は入江になっていて、鄙びた地方漁港の味わいが何とも言えず郷愁を誘う。江奈湾の風景など1954年「大アマゾンの半魚人」の舞台であるブラック・ラグーンを彷佛としてしまう(のは私だけか…) 行き交うクルマとて無い地方道だが、道路の出来映えはえらく立派である。これでは猪瀬さんならずとも道路行政への怒りが沸き上がってしまいそうだが、ドライヴする側としては快適で大変結構なことである。間もなく剣崎が近くなるが、こちらへは行かずに(行きたい向きは行って下さい。大変風光明美です)、金田湾、つまり大平洋側へと出る。海の際をずんずんと走ると、やがて夏は海水浴客で賑わう三浦海岸である。民宿、海鮮レストランなどが立ち並ぶが、昨今はどこにでも在るフランチャイズのファーストフードやコンビニが目立つようになってしまい、都心から離れた地方海水浴場の風情は失われてしまった。それでも海水浴のシーズンが終われば海岸線は静かなものである。今は浮き輪を抱えた水着姿や子供たちの嬌声は消え、替わりにローダウンしたミニバンに乗ってやって来た、ボードを抱えたオットセイたちが我が物顔に振る舞っている。天気が良ければ対岸遥か房総半島が見渡せ、やがて九里浜の東京電力横須賀火力発電所の煙突が見えるようになると、そろそろ海ともお別れである。まあ、九里浜港へ行きたい向きは行っていただいて構わない。なんなら、そのまま東京湾フェリーで房総金谷へと足を延ばすのも宜しかろう。東京湾観音下の売店にある枇杷ソフトも旨い。さて134号線は暫くの間、京浜急行九里浜線と併走するようにして内陸部を走る。今も昔の景観を残す住友重工浦賀造船所を過ぎると、京急浦賀駅だ。ここからは京浜急行本線となる。やがて134号線は16号線へと合流し横須賀市街へ。横須賀と言えば海軍の街、そして米軍の街。しかし戦後接収されてダンスホールになっていたビルなど、異国情緒を醸し出していた建造物は近年ことごとく姿を消し、高層マンションや巨大ショッピングモールなどに変貌して、横須賀の街並も大きく様変わりしてしまった。心なしか横須賀米海軍ベース正面ゲートも、昔の厳めしさが失われてしまったような気がする。今でも市街にはさすがにYナンバーが闊歩しているが、どれも地味なカローラやシビックばかりで、昔のようにコルベットだのポルシェだのは見られない。米軍人さんたちも不況なのだ。ここではハセガワ1/350の素晴らしいキットも発売されていることだし、是非とも記念艦の戦艦三笠(財団法人三笠保存会TEL:046-822-5408/5225/http://www.kinenkan-mikasa.or.jp/)は見学したい。現物を目の当たりにすると「これが日本海軍の旗艦なのか?」と拍子抜けするほど小さな艦だが、空を睨む30センチ主砲はやはり厳めしい。昔は売店でにしきやや相沢模型の三笠のプラモデル売ってたんだろうなあ。もう無いのかなあ…無いっ! 無いに決まっておろーがっ! あとは停泊している自衛艦や潜水艦、フリゲート艦などを眺めつつ、さあてお次はどぶ板通りにでも行って本場のハンバーガー喰って、お土産のスカジャンと海軍さんのレトルトカレーでも買って帰るとするか。これにて三浦半島を巡る良い日お日和湘南ドライヴ編も一件落着。チハ車と三笠を初めて訊ねた富嶽ちゃんも、離陸用の脚を新たに装着し直し、燃料と爆弾を再び満載して、九州知覧への…違う違う。自宅の熊本へと帰還して行った。どーすか。たまにはこんな小ドライヴも…。

投稿者 平野克巳 : 2005年09月27日 18:46 | トラックバック

2005年09月23日

良い日お日和湘南ドライヴ編 其之壱


【模型友達のにゃんこつながり 不定期連載 其の弐】
阿鼻る叫喚さんちのアタリ・マーク2(前田の、は付かないらしい…)

 陽射しが随分とやわらかくなった。そして蝉時雨が止んで、風の音、鳥のさえずりが耳に届くようにもなった。庭の花に群がっていた蜂たちも、我が物顔で乱舞していたトンボや蝶などの虫たちもたちまち姿を消して、いっとき穏やかで静かな季節を迎えたようである。秋の到来である。その昔なら海や空の青さ、水平線に沸き立つ入道雲、海の家や水着の人影などが消えることで、夏が去り秋が来たことを実感したものであるが、山里に暮らす今は花や虫などが季節の変化を教えてくれる。久方ぶりに海岸に出るともはや最後に残った海の家も骨組みばかりとなって撤収作業は最終段階を迎えていた。水着の人並みが消えた砂浜では散歩の犬が波と戯れている。大音量の音楽が消え、若い嬌声も去り、海はまた本来の静かな風景を取り戻していた。この時期こそ湘南海岸をドライヴするには最適な季節である。クルマはオープントップの、それもスポーツマインドの余り高くはない、おおらかな旧いアメ車が良い。マスタング・コンバチ(ポニーカー)なんか良いかもしれない。ボディは白、内装が真っ赤なんて良いね。くらくらの大径ステアリングを右手で支え、左手は三角窓のステーを掴む。あくまでもポジションはリラックススタイルで。これで派手派手のアロハなんか着てしまうと「ちゃんちきおけさ」になってしまうので、ジーンズにTシャツ程度にファッションは抑えておく。ただ地味なのとボロいのとは別なので、20年前のTシャツなどは着ないほうが無難だ(うるさいよっ!)
 鎌倉を基点に134号線を三浦半島方面へと下ってみよう。まず由比が浜から逗子方向へ。右手が海岸線となるので左ハンドル車の場合はこの方向に走るのがベスト。助手席の彼女なり奥方なりにパノラマのような海の光景と潮騒を堪能して貰える。材木座海岸は鄙びた風情が残されていて、懐かしい海水浴場や漁師の浜のイメージが今も感じられる。この浜を一望に見渡せる絶好のロケーションに建つのはホテル&レストラン“サラ”(TEL:0467-24-6560) 全10室のプチホテルだが、華美な嫌らしさもなく落ち着いたリゾート気分を満喫させてくれる。1階が駐車場、2階がレストラン、3階が客室となっていて、客室からもレストランからも180度オーシャンビューの素晴らしい展望だ。レストランはリーズナブルだが本格的なフレンチ。二人で海の落日を眺めながら静かなムードを…まあ勝手にやって下さい。更に海岸線を下って逗子海水浴場へ。
 ここ逗子湾はいつもとても静かで砂浜をぶらりと歩くには申し分のないロケーション。水平線に沈む夕日がとても綺麗に見えるスポットでもある。運が良ければ赤い夕日を浴びてシルエットで佇む江ノ島や富士山も望める。かつてこの入江には文学作品にも登場した逗子“渚ホテル”が在ったのだが残念ながら今はない。ヨットやボートが沢山舫っている田越川を渡ると直ぐに渚橋。ここから暫し134号と別れて海岸線へと右折し、葉山漁港へと向かう。すると漁港入り口左手に見えるのが地元セレブ御用達のパティスリー ラ・マーレ・ド・チャヤ葉山本店(TEL:046-875-5346/http://www.chaya.co.jp/) 湘南のドライブには欠かせない老舗のティールームだ。是非ここで浜風に吹かれた心地よい疲れを癒していただきたい。私的には昔から愛されている自慢のケーキ、カテリーヌとアールグレイをお薦めしておく。このはす向かいには葉山日陰茶屋本店があるが、一寸ばかり敷き居が高いので…また反対側の海際に建つのはレストラン ラ・マーレ・ド・茶屋(TEL:046-875-6683) 落ち着いた雰囲気で葉山の海を眺めつつ、本格フレンチのランチ、ディナーを堪能できる。1階はバー&カフェ、2階がダイニング・レストランだ。
 葉山マリーナから先は鄙びた風景が続く。昔の風情そのままの漁港、旧い木造家屋が立ち並ぶ懐かしい風景の商店街、子供の頃の夏休みを彷佛とさせる郷愁の街並だ。店の軒先きにぶらぶらと下げられた浮き輪、ズラリと並んだビーチサンダル。リゾートなんて小洒落たものとは違った、庶民的な海水浴場の風情が残されているのだ。更に下って葉山警察署の前からは再び134号線へと合流する。右手の長く続く強固な塀と鬱蒼と濃い緑に覆われているのは皇室葉山御用邸。良くテレビで見る天皇陛下と皇后陛下が散策される海岸はこの中である。少し下ると長者ケ崎へと到る。その名のとおり海へ長く突き出た小さな半島みたいなものだ。全周をグルリと岩場を歩いても30分とはかからないし、突先きからは相模湾が広く一望出来る。駐車場にクルマを置いて、一寸寄り道してみたい場所のひとつだ。そしてここからはいよいよオーシャンビュー・ドライヴが楽しめる。海、海、海である。おっと、その前に葉山ホテル音羽ノ森(TEL:046-857-0108/http://www.hotel-otowanomori.co.jp/hayama/)で、南仏コートダジュールの雰囲気に包まれて、テラスでオーシャンビューを楽しみながらのティータイムはいかがなりか。もちろん食事も出来る。お望みならば宿泊も出来るし結婚式も出来る…。秋谷海岸には南葉山マーロウ本店(TEL:046-857-4780/http://www.marlowe.co.jp/)がある。ここもまた地元セレブ奥様方御用達で、マーロウはもちろんかのフィリップ・マーロウから命名されたもの。駐車場に集まるクルマもBMW、ボルボ、サーブなど、いかにも中流階級以上の奥様方を思わせる。イタリアンの食事も中々にゴージャスなのだが、ここは何と言ってもマーロウオリジナルの手作り焼きプリンが超有名である。このプリンを食べずしてマーロウは語れない。ちなみにホームページからの宅配注文も可能だ。
 暫く海にお別れして内陸部をひた走る。佐島マリーナを過ぎ、小田和湾付近まで来ると、ときに自衛隊色の73式大型トラックやら73式小型トラックやら高起動車が路上を走っているのが物珍しい。ここには陸上自衛隊武山駐屯地がある。広大な駐屯地をあとにして、京急三崎口駅を通り越せばもうここから先は電車は通っていない。そして関東の住人なら誰でも一度は行ったことがあるだろう油壺マリンパークを過ぎれば、辺りの風景は見渡す限りの畑へと変貌する。一寸前まではそこいら中にスイカがごろごろと転がっていたものである。さあ、いよいよ三崎港である。全国有数のマグロ水揚げ港である。旨い新鮮なマグロが食べられる!…あ、もう誌面が尽きた! ここからが本題で面白いのにい(苦笑) そんな訳で、続きはこの次のココロだあ~っ!(小沢昭一の物真似で…誰も知らねーか…)

投稿者 平野克巳 : 2005年09月23日 23:48 | トラックバック

2005年09月19日

家に棲む猫の話

【不定期連載 ネコまんが】

 猫好きの私は“NEKO”にも寄稿している。連載記事も担当しているのだが、以前に「路地裏の猫たち」と題した写真エッセーが鎌倉編、江ノ島編の二回にわたり掲載された。ここに登場した猫たちは何れも自由猫ばかりで、私が実際に散策の途中などで行き会った猫たちである。そうした猫たちの中には様々な想い出も残されている。とある集合住宅の敷地の隅にひっそりと二匹の自由猫が暮らしていた。ちょっとスリムで小顔なマーブル柄と、たぷんと肥えた大柄の灰色縞であった。どちらも人なつこい性格で、呼べば寄って来て頭を擦り付けて甘えるような猫たちだった。私が抱き上げても嫌がって暴れることもない。多分、その昔は人に飼われていたのに違いない。綺麗な猫だけに哀れを誘った。しかし、その二匹はちゃんと持ち家(!)で暮らしているという贅沢な一面も持っていた。梱包材か何かの発泡スチロールの廃材を上手に組み合わせて、雨風が凌げるよう工夫された密閉箱型猫ハウスは、ちゃんと内部にはボロ布の敷物まで設えられていた。しかも一匹に一棟の二棟立てであった。人間の集合住宅の脇で猫も集合住宅に住まわっている様は、なにやら現代の住宅事情を象徴するようで思わず笑みがこぼれた。出入口のそばには餌箱と水碗も置かれている。どうやら誰かが熱心に世話しているらしいことが伺われた。よく巷に出没する「猫おばさん」ではあるまい。あの人たちでは家まで作ってやったりはしない筈だ。きっとこの集合住宅に住む猫好きな一家が、家族ぐるみでこの猫たちの面倒をみているのに違いない。本当は一緒に暮らしたいのかもしれないが、集合住宅ではそれもかなわず、こうして家猫未満、外猫以上の手厚い世話を重ねているのだろう。そんな一家の姿を想像すると知らず知らずのうちに口元がほころんでいた。その後もその裏道をたまに通ることがあって、その都度、二匹が元気で居るか立ち止まっては声をかけた。いつも二匹は毛艶も良く身綺麗だった。栄養状態、衛生状態の良い証拠だ。そしてそれは愛情をもって世話して貰っている証拠でもあった。私はそれを確認し安堵しては二匹と別れた。  
 その集合住宅の周辺一帯はおしなべて同様な高層住宅が肩を並べていた。高層住宅と言っても旧い建物なので何れも4〜5階建てである。その多くが県営住宅や市営住宅、そして私企業の社員寮であった。公営住宅はそろそろ建て替え時期が来ていた。そしてバブル崩壊が原因となって企業は福利厚生施設の縮小に着手し始めた。この一帯の激変が始まった。高層マンション建設予定地の看板が次々と貼り出され、住民は次々と転居して行った。そして遂には辺り一帯がゴーストタウンと化し、それぞれの敷地にはバラ線が張られ、各階段入り口はベニヤ板で覆われた。気付いた時には既に猫ハウスは無くなっていた。そして猫ハウスの土台にされていた小さな簀の子がそのまま残されていて、そこには枯れかかった花束が置かれてあった。死んだのだ…だが、最後までちゃんと面倒をみて貰えたのが嬉しかった。果たしてどちらが死んだのだろう。マーブルだろうか、それとも灰色縞だろうか。自由猫は年齢の特定が難しい。可愛らしく綺麗だったので分からなかったが、もしやどちらもとても高齢だったのかもしれない。隣の敷地に新たに出来た高齢者保護施設の職員なら知っているかもしれない。若い職員に猫の顛末を訪ねてみたが、何も知ってはいなかった。こうして二匹はその末路も分からぬままに行方を絶った。
 数カ月が過ぎた。その一帯は未だ新たな工事も始まらず、朽ち果て打ち捨てられたままの無人の街だった。そのクルマの居なくなった駐車場に猫が寝そべっているのが見えた。あの灰色縞だった。嬉しさの余りに駆け寄って声をかけた。駐車場入り口はバリケードで封鎖されているので金網越しにしか接することが出来ない。灰色縞は私を覚えていた。いや、元飼い猫だったので、単に人恋しかっただけかもしれないが…。金網に全身を擦り付けて甘える仕種をするのが愛おしかった。金網から指を差し入れて撫でてやる。毛並みはすっかりごわごわになっていた。片耳が爛れて血も出ている。あんなに可愛く美しい猫だったのに…。恐らく二度までも置いてきぼりにされて、それでもこの地を離れなかったのだろうか。一体何を食べて生き延びて来たのか。その後、何度も付近を捜し回ってみたのだが、再び灰色縞に会うことはなかった。もうこの住宅跡地には居ないのだろう。あの日はたまたま、やって来ていたに過ぎないのだ。そうして諦めかけたある日、未だ数世帯が残っている一棟のゴミ捨て場に段ボール箱が置かれているのを見かけた。箱には貼り紙があって「ネコ死骸」という文字が大きく書き殴られてあった。直感であの灰色縞ではないかと思った。しかし確かめるのはやめた。もし本当にそうだったら哀し過ぎる気がしたのだ。こうして二匹の家付き外猫物語は終わった。
 自然界の生き物は原則として野垂れ死にである。昨今の犬や猫ではその状況も随分と変わったが、自由猫の最後はやはり人知れず死んでいく。本来であればその遺骸を虫や小動物が喰らい、やがて朽ちて地に還り虫や植物の栄養分となっていく。しかし人間社会で共存する以上、そうした命のサイクルを維持することは不可能だ。人間社会の取り決めにより、厚生省衛生局か最寄りの都道府県庁並びに市町村役場(動物の死骸はその場所を管轄する道路整備担当部署が取り扱うのが原則となっている)によって始末される。要するにゴミ扱いなのである。人の気紛れ、地域の住環境に否応無しに左右されねばならない自由猫の日々の暮らしは儚いものかもしれないが、その最後もまた儚く哀れなことである。

投稿者 平野克巳 : 2005年09月19日 21:24 | トラックバック

2005年09月16日

カツオ節だよ人生は


【模型友達のにゃんこつながり 不定期連載 其の壱】
にゃんごろ木下さんちの「ネコ」さん(ネコという名前…)

 模型は世に連れ、世は模型に連れ。我が国にプラモデルがPXという名の黒船に乗ってやって来たのが1950年代、そして国産プラモデルという曙を迎えたのは1960年代のことであった。アクリル樹脂と共に戦争によって実用普及されたスチロール樹脂は、戦後、プラスチックの総称によって平和利用に率先して活用され、木や紙、金属に替わる新素材として注目されるようになった。そして玩具の世界においてプラスチックは、それまでの紙玩具、木製玩具、アンチモニー玩具、セルロイド玩具、ブリキ玩具などを駆逐して玩具の主要素材となった。中でも組み立て玩具として誕生したプラモデルは、それまでの職人技、名人技を必要とした組み立て模型を、あたかもパズルか積み木のように簡便な内容へと激変させ、玩具の革命的先進技術としてたちまち時代の寵児となった。時はあたかも月刊誌から週刊誌へ、新聞からテレビへ、時間的スピードを速めようとする時代であり、それに対応するように即席ラーメンに象徴されるインスタント文化が隆盛しようとする時代であった。そうした時代背景にあってプラモデルはまさに時代感覚の最先端であり、新時代を象徴する世俗風俗の筆頭であった。プラモデルは爆発的なブームを呼び起こし、一躍玩具の王道へと駆け昇っていった。時は高度成長期真只中、大量消費を美徳とする1960年代、我が国の文化様式が西欧スタイルへと変貌しつつあった時代である。
 あれから40年余りもの月日が流れ、象徴的な時代であった昭和が去り新たな21世紀も迎えたが、時代の閉塞感はいや増すばかりである。そうした時代の推移の中で栄華を極めたプラモデルも斜陽の影を色濃くはしたが、それでも模型文化の一翼を担う存在であることには変わりない。確かに子供たちがプラモデルに目を輝かせることは少なくなったが、その分(?)少年の心を失っていない昔少年たちのプラモデルへの思いはより一層深く強くなったようにも思える。単にノスタルジーと言うのは容易いが、プラモデルを熱く語る昔少年たちは、既にゼロ戦も大和も実際には知らない世代である。プラモデルが実物の縮尺模型である限り、先ず実物ありきが宿命であるのだが、プラモデルそれ自体の魅力は既に実物とは乖離したところにある。現実の大和自体に惹かれる要素は否定出来ないけれど、日模1/750大和が戦艦大和の原風景として忘れられない、とか一光の怪し気な大和こそ自分の中では大和そのものである、などの心象風景は誰しもが持っている。そこには「どこそこのプラモデルの大和だから」の特別なこだわりの感情が流れていて、それは実物とは関わりのないプラモデルそのものへの愛情で充たされているのだ。プラモデルとはそれ自体が愛すべき存在であり、プラモデルなればこそ永遠の憧れであるものも多い。あの時代、プラモデルに魅了された少年たちの記憶は、今も色褪せることもなく鮮明なままである。それほどにまで当時のプラモデルにはインパクトがあった。もちろんそこには時代が貧しかったことも起因してはいるが。
 色んな意味で様変わりして来たプラモデルであるが、私たち自身も気付かぬうちに随分と変わって来たのだろう。今回はプラモデルと接する際の環境を少しばかり振り返ってみようと思う。但し、下記に列記した内容はあくまでも象徴としてのごく一部に過ぎないので、その旨ご了承いただきたい。

●キット
1960年代 当初30~50円、のちに100円の小キット 可動全盛
1970年代 オイルショックで矢継ぎ早に高騰 1,000円がスタンダード
1980年代 バブリーな傾向に 2,000~3,000円が普通に
1990年代 復刻版増える 事実上100円キット姿を消す
2000年代 子供のアイテムとは言えない価格体系 より先鋭化した内容

●メーカー
1960年代 マルサン/三和/三共/小暮
1970年代 田宮/長谷川/今井/日模/バンダイ
1980年代 フジミ/ユニオン/トミー/LS
1990年代 ドラゴン
2000年代 トランペッター

●アイテム
1960年代 レシプロ航空機
1970年代 戦車/自動車/ジェット航空機
1980年代 モーターサイクル
1990年代 レーシングカー
2000年代 全般

●塗装
1960年代 なし/マジックインキ/手押しポンプスプレー
1970年代 ピースコン/プロスプレー
1980年代 水性/アクリル
1990年代 模型専用エアブラシ、コンプレッサー
2000年代 塗料の多様化

●ツール
1960年代 肥後の守/ボンナイフ/チューブ入セメダイン
1970年代 ピンバイス/デザインナイフ/瓶入接着剤
1980年代 瞬間接着剤/電動ツール(リューター/ボール盤/旋盤)
1990年代 PCプリンターデカール
2000年代 眼鏡/拡大ルーペ…

「タミヤ1/24モーガン4/4が再販になったんで、初めて作ってみましたあ♪」とホクホクの長うおと、「え? モーガンて絶版になってたの? だって最近発売になったばっかぢゃん」のワタシ…。当該ブログに対してのご不満やご要望は多々ございましょうが、かようなワタシのキャラクターゆえに「猫の耳に大仏」と諦めて下さい…。

投稿者 平野克巳 : 2005年09月16日 18:50 | トラックバック

2005年09月14日

パソコンのおかげで…した!

 巷では台風だ選挙だと心休まらぬ騒々しさの極みである。被害に遭われた方々には本当にお気の毒なことであるが、私の所も大雨ともなると裏山の崖崩れを危惧して戦々兢々となる。実際、隣家の敷地は一度、山の崩落で埋まりかけたので、我が家もてんで他人事ではないのだ。山肌の斜面には巨木が何本も林立しており、それが倒れるだけでも多分我が家の破壊は免れまい。前回の崖崩れでは「人的被害は出なかったものの実際に家が埋もれかかった」(!)ので、直ぐに崩落痕の補強工事がなされた。しかし、以前住んでいた「源 頼朝の首塚」の崖下にあった家ではそうはいかなかった。
 日頃からからからと小石の崩落する中々にスリリングな住環境だったのだが、ある雨の晩、仕事先から帰宅するとウチの庭で赤色灯が四つも回転していた。鎌倉消防署からレスキューが来ており、なーんと玄関口ぎりぎりまで崩落した土砂が迫り、切り立った崖の上から落ちた巨木も横たわっていた。家内は子供を抱えて青ざめているわ、消防署員からは避難勧告を出されるわで、深夜に当て所なく彷徨う「漂流家族」になった。この時も以前から市には陳情していたのだが、地域住民50人の署名を集めてから出直して来いと言われたものである。ちなみにその一体は10数世帯しか住んでいない町内だったのだが…。そして市役所が行なったことといえば「この先崖崩れ危険」の立て看板を備えていっただけであった。そんなこんなであるので鎌倉に住まわっていると崖崩れと幽霊には無頓着になってしまう…いかんなあ…。それよりその地では昆虫の足がことごとく5本であったのが無気味な思い出だ。当時「これはきっと頼朝の首塚の祟り」であると真剣に信じたものであった。
 さて、我が家の近辺でも少しばかり蝉時雨が遠くなり始めている。道のあちこちに蝉の骸が転がっているのも哀れである。そして、それらには黒山のように蟻がたかっており、自然界の命の摂理を今さらながら教えてくれる。残念ながら現代人は死してそのまま地へは還らぬので、命を繋ぐ自然界には余り貢献しているとはいえぬかもしれない。私の骸から昆虫が育ち草花が咲くのなら、それはそれで命の輪廻を実感しむしろ喜ばしいことのようにも思えるのだが。
 ではプラモデルは死してどこへ行くのか。燃えるゴミと化しても黒煙をまき散らした挙げ句、黒く醜い塊となってその残滓を残し、燃やさねばいつまでも土に還ることはない。その昔、マルサン倒産時の取材において、茨城県小貝川の工場敷地内で大量の在庫品を燃やし埋めた噂話を聞いた。へえ~、今でも掘り起こすとBRM F-1やトヨペット・クラウンのボディが発掘されたりしてなあ…などと妄想を逞しくしたものだ。プラスチックは紙や木と違って、いつかは土に還っていって大地に溶け込むという訳にはいかない。自然界の摂理に逆らって私たち人間が造り出したものだからだ。それでも経年劣化はするので、永遠にそのままではないが。まあ、そのお陰で私たちは30年も40年も昔のプラモデルを今でも手にすることが可能な訳で楽しませても貰える訳だ。デカールは用を成さなくなり箱は朽ちても、中身本体は往時の姿をそのまま現在に伝えてくれる。そうした性格のものであるので場合によってはジャンクと称されるような組み立て済みのモデルであっても、本体さえ残っていれば立派に甦らせてやることも出来る訳である。まあ、ワタクシ的にはパッケージの印刷が色褪せていようと一部欠損していようと、パソコンのお陰で往年の状態に修復可能となったので、以前に較べれば仕事上では大変に楽になった。完成品を作るに際しても、どんな状態だろうがオリジナルのデカールさえあれば、新たにデカールを複製出来るのもありがたい限りである。初期のモデルカーズ編集業務で多大な労力と困難を求められた作業が、今ではいとも容易く行えてしまうのであるから、技術の進歩には目を見張るばかりである。いや、パソコンの存在は本業が物書きである私にとっては、実はもっととてつもない貢献をしてくれている。原稿入稿のオンライン化だ。その昔、モデルカーズの原稿は専用原稿用紙を用いた手書きであった。書いては消し、消しては書き直し、気にいらなければ丸めて捨てて新たに書き直す、そうした作業の繰り返しであった。それがワープロ、そしてパソコンへと電脳化することで、実にやり易い環境となった。だから現在では「文章は書く」のではなく、物理的な正確さを期せば「文章を打ち込む」もしくは「文章を叩く」訳である。そして「最後の2ページの原稿が出来たっ!」となれば、たとえ夜更けであろうがすかさずジープに飛び乗って第3京浜をひた走った。まさに24時間コンビニエンスな稼業であった。その後、ファックスが実用化し、原稿は最寄りの郵便局まで行けば事足りるようになった。未だファックス器が高価だったので、郵便局から有料で発信したのである。その後、家庭用ファックスが普及し、自宅に居ながらにして原稿が送れるようになり、更にはパソコンの導入によって原稿用紙も鉛筆もペンも消しゴムも必要なくなり、電話回線からファイルなりコピペで原稿がビビビッと(ワシャ松田聖子か…)瞬時に送れるようになった。こう書くと何ともジュラシックパークなお話のようだが、つい20年前にはそんなものだったのである。ところで私には無縁な話だが、そんな訳だから現代の文豪には直筆原稿の遺作というものが遺らないのではないだろうか…。なにかに資料館、どーたら文学保存館などの展示物がMOだったりCDロムだったりするのか。そして直筆原稿は端末ディスプレイで開いて見るとか…んな訳ぁないな…。とにもかくにも現代人にとっては、そしてなーんとアナクロニズムの権化のような(?)模型人にとっても、今やパソコン無しには真っ当には生きて行けないご時世なのである。喜ぶべきなのか憂うべきなのか…。

投稿者 平野克巳 : 2005年09月14日 01:44 | トラックバック

2005年09月09日

時代の推移で失うものと得るもの

 当該ブログはパソコン上で見ていただいている。つまり自家用コンピューター(笑)が無くては見られない訳だ。当たり前である。たかだか10数年ほど前、パソコンが普及し始めた頃には、プラモデルを好む大人たちはアナクロな人種が多いはずなので、プラモデルやミニカーなどホビーの世界では、パソコンの普及にはかなり時間がかかるだろうと予測されていた。しかし、その予測は見事に外れ、今や模型人口におけるパソコン普及率はかなり高いようである。技術の進化速度は加速度的に速くなっているようで、新たにCD/コンパクトディスクが実用化された時、いずれは取って替わられる時代が来るにしても、未だ当分はレコードは無くならないよ、などと多くの音楽ファンは思ったものだった。しかしCDの普及はあっと言う間であった。今や“レコード屋”など死語となってしまっている。ビデオテープからDVDへの切り替えも短期間で進んでいる。VHSだベータだと論争したのも今は昔、現在のブルーレイかHD・DVDかの覇権争いも直ぐに決着を見るのだろう。しかしVHS空テープも当初は5,6千円だかして、とても使い捨てられるようなものではなかった。デッキにしても初期は25万円ほどもした記憶がある。我が家で最初に買ったVHSはたしかゴジラとイージーライダーだったが、どちらも1万2千円ほどもしたはずだ。全く世の中の技術変革の流れは信じられぬほどに速い。
 そういえば自動車も随分と進化した。多くの部分で機械式から電子制御へと変化したのも大きな変化であるが、なによりもオートマチック・トランスミッションが当たり前になってしまった。ほんの30年ほど昔、自動車は乗り手がマニュアルで変速機を操作するのが当たり前で、そうでなくては効率的に走らなかったし、そうすることで楽しむものであった。当時、自動変速の普及はほんの僅かに過ぎず、それを選ぶのは運転技量に自信が無いドライバーか運転を楽しむという感覚そのものに頓着しないドライバーと思われていた。運転操作を楽しみたくて仕方のなかった若者たちは4速よりは5速を求めたし、わざわざ面倒な1速ノンシンクロのドグミッションにグッときてしまうのだった。しかし自動車はいつしかファン&ステータスな嗜好品から、テレビや冷蔵庫と同じ日用家電品のごとき存在となり、クラッチなんて煩わしいものはご免被る時代へと変貌してしまった。レーシーでスパルタンなハイパフォーマンス・スポーツカーに到ってはアナクロニズムの象徴のような存在へと追いやられ、クーラー(時にはヒーターさえも)が備わっていないのがカッコイイなんて感覚も絶滅してしまった。私が免許を取得した頃でさえ、クーラー(エアコンではない)はダッシュボード下に吊り下げる、後付けオプション設定の贅沢品であった。なにしろクルマ本体を手に入れるだけで「いっぱいいっぱい」な時代であった。オーバードライブ付5速ミッション仕様が欲しくても4速ミッションで我慢したし、GTに憧れつつもGLを買ったような時代だった。まだ土埃が舞い立つ砂利敷き未舗装だった頃の真夏の伊豆山岳路で、2+2ボディにムサい男たちばかりが4人も5人も乗って、クーラー装備車を気取って窓を締め切り疾走する。車内は汗だく、汁だく、男臭さの嵐である。そして我慢の限界を超えると、一斉に窓を全開にする。その時の涼風吹き込む開放感たるや言語には尽くせぬ快感であった。こんな遊びが楽しかった。なによりドライブそれ自体が楽しかった。
 そんな時代だったから大衆車の代表格であったカローラやサニーでさえ、現実には高嶺の花であった。にも関わらず免許取り立て、ヤル気満々の私たち、若き貧乏青年たちは、身のほども弁えずスポーティモデル、ホットモデルを渇望していた。そうした需要に応えて一時代を築いたのが、大衆車をベースとしたスポーティバージョンであった。その代表格となったのがトヨタ・カローラで、当初はカローラ・スプリンターがその役目を担った。そしてスプリンターがミニのモーリスとオースティンのような関係となって独立分離したのちは、一連のSL/SR/レビンが登場して若者を狂喜させることとなる。しかしその実態は「父と共用の1200DXで我慢する」くらいが関の山で、自分専用のクルマを持つなどということは夢のまた夢であった。だからこそプラモデルやミニカーには大いなる魅力が存在したのだ。本物に対する代償行為、言ってみれば疑似体験みたいなものである。'60年代末から'70年代にかけて、そうした国産車ブームに呼応するようにして自動車プラモデルが台頭し、1/20スケール、モーターライズ走行、オール開閉可動のキットたちが全盛期を迎えたのだった。その先頭を走ったのがバンダイであった。バンダイの1/20シリーズはエンジン、車室内など実車を精密に再現し、また実車顔負けの開閉可動アクションで高い人気を誇ったが、中でも初期作品のひとつであるカローラは記憶に残る。バンダイのカローラは当初2代目クーペ1200SL/1970年が登場したのだが、直ぐに実車のバリエーション追加に合わせてクーペ1400SR/1971年へとキットが改修された。それほど最上級スポーティモデルへの人気と憧れは強かったのだ。スポーツカーが衰退しミニバン全盛の昨今では、自動車に対する格別な憧れは失せてしまった。プラズマか液晶かなどの選定基準はあるだろうが、今日、テレビを選択するのに東芝か松下かシャープかソニーかサムソンかなどと真剣に悩むことは余りないだろう。クルマもそうした時代となっている。家電化してしまってステータスの消失した自動車には、もはや憧れをプラモデルで味わう、という要素は霧散してしまった。まあ確かにエアウェイブでもオデッセイでもどうでも良いような気はするが、その分、旧いクルマはますます現実には手の届き難い存在となりつつある。自動車も歴史が永くなればなっただけ、実際には目にすることの出来ぬモデルが増える。そういうクルマにこそプラモデルやミニカーが無くてはならないのだろう。

投稿者 平野克巳 : 2005年09月09日 16:26 | トラックバック

2005年09月06日

夏の終わりに


 以前、小学生時分の夏休みを回想した。母の田舎で寂しく山田模型のフェザーで遊んだという想い出である。先日、その母の田舎を暫く振りに訪ねた。ちょっと遅くなってしまった彼岸の墓参を兼ねたものだが、母方の祖父母はとうに亡く、今は叔父に当たる母の弟夫妻が位牌を守っている。私には沢山の想い出が残されている祖父母の家も老朽化が進んで、今春に解体撤去されたと聞いていたのでその跡地も見てみたかった。空き地となった祖父母の家跡には夏草が茂り、今はトンボやバッタが跡地の新たな住人となっていた。その余りの狭さに「こんな猫の額ほどの地面の上で祖父や祖母は人生を過ごしたのか」と少しばかりの寂しさがこみ上げた。郷愁を求めて最寄りの私鉄駅までの道を辿った。駅は昔のままの景観でそこにあった。券売機と改札、そして両側が上下線となる一本きりのプラットフォームきりない、駅舎さえない小さな駅だ。駅前ロータリーなどというものもない。改札際の古びた木造車庫で客を待つ、2台きりの駅前タクシーがその昔を彷佛とさせた。駅からの道すがらはすっかり変貌してしまっていた。かつてはトラクタと共に牛や馬の居た農家は駐車場と安アパートに姿を変えてしまい、鬱蒼と樹木の茂った神社は住宅地の中にぽつねんと取り残されていた。藁葺きの家から自衛隊のM-24チャフィーが砂塵を巻き上げて走るのを眺めた砂利敷きの成田街道も、今では終日渋滞に悩まされる主要幹線道路となってしまった。その街道筋の団子屋も自転車屋も、冒険王やぼくらを買った本屋も、イッコーのプラモデルを買った雑貨屋も、その殆どがしもた屋となって寂寞とした風景を形作っていた。
 ちょうど夏の終わりであった。フェザーの想い出に誘われるように、あの小学校にも足を運んでみた。小学校は驚くほどに当時と変わらぬ佇まいを見せていた。校舎も校庭もあの頃のままだった。しかしフェザーを走らせて遊んだ防火用貯水池は小さな田んぼとなっていた。○○年度卒業記念の木札が立てられた僅かな面積の田んぼには緑の稲穂がたわわに育ち、微風に音もなく静かに穂先きが揺れていた。動くものの何ひとつない静寂に包まれた校庭では錆び付いた遊具が西日に輝いて寂寥感をいや増し、少年時代のあの寂しかった夏休みの終わりを思い起こさせた。胸にこみ上げる酸味の伴う苦味を飲み下し校庭を立ち去ろうとしたその時、校庭の向こうの端にひとりの少年が立ちすくんでいるのに気付いた。サッカーボールなのかバスケットボールなのか、ボールを小脇に抱えてただぽつねんと立っていた。目的もなくすることもなく友達も居らず、ただ所在なさげに校庭の乾いた土を爪先で蹴ってはまた立ちすくむ。まるで何かが起こるのを待っているかのように、誰がが来てくれるのを待っているかのように…。「兎はね寂しいと死んでしまうんだよ」いつか誰かに聞いたそんな言葉が心の中で木霊した。あの少年は僕だ。あの頃の僕だ…傾き始めた夕日の白さにあがらうように、私は校庭に背を向けると薄い陽射しに向かってずんずんと歩き始めた。行ってしまう夏に訣別するように…。
 田舎とか故郷とかは現代にあっては失われてしまった。いや、物理的には存在するが、生まれ育った自然や鄙びた風景などはもうない。物流や情報が全国一律リアルタイムで行き届くようになって地域格差というものがなくなった分だけ、日本中が同じ人たち、似た風景になったような気がする。私の田舎も道行く人にかすりのモンペ姿など見られないし、バアちゃんたちが乳房丸出しの上半身裸で涼む光景など皆無となった。田舎の風情は失われて画一化された地方小都市の様相さえ呈し始めている。そのようにして変わっていくものは沢山ある。祖父母の家のあった場所からほど近い下市場から千葉方面に向かう国道16号線はかつて未舗装の荒れた砂利道であった。民家など殆ど見られない松林ばかりが続く寂しい道で、夜になるとタヌキや物の怪が出没しても不思議ではないような光景が続いていた。そんな人里離れた場所であったから、いつからかラブホテルのネオンが目立つようになった。若い男女がクルマで行き来するようになると、次には中古自動車販売店が軒を並べるようになり、一時は有数の中古車通りとなって栄華を極めた。かつて東京の環8もそうであったように、繁華街からちょっと外れた幹線道路なら全国で良く見られた中古車通りである。かつては巨大な中古車センターが延々と続き、眩いばかりの照明のせいで光の洪水であった夜の16号だが久し振りに走ってみると何とも暗い。それもそのはず。中古車販売店の数が激減していた。跡地が再利用されぬまま廃墟と化しているものも多い。今では中古車業者もコンピューターの時代である。全国オンラインで売買するシステムを取るので、個々のショップが在庫車を抱えるような商法は既に過去のものなのである。かつてあれほど在ったメルセデスとBMWの専門店、マーク2とクラウンの専門店、そして四駆の専門店も、今ではすっかり影を潜めてしまい往時の面影さえない。時代は変わり時は移ろってゆく。
 かく言う私もその昔はこの16号を叔父のマツダR360クーペやクラウンで走り、やがてヤマハXS650Eで走った。その後もホンダZ、トヨペット・コロナ、カローラ・リフトバック、フロンテ・クーペ、三菱ランサー、三菱ジープ、VWゴルフ、三菱ギャランetc、そして現在のメルセデス190Eへと、16号を走るクルマを次々と様変わりさせてきた。そして、その分だけ私の生活も環境も色々に変わってきたのだろう。変わってゆくことを嘆いていては生きていかれないが、それでも変わらないで欲しいモノやコトはある。時の流れの中で「このまま時が止まっていてくれたら」と切に願うものが、人にはひとつやふたつはあるものだ。

投稿者 平野克巳 : 2005年09月06日 18:30 | トラックバック

2005年09月02日

オークションの功罪

 私は常々ヤフー・オークションに参加している。出品、落札どちらにも参加しているが、割り合いはほぼ半々ほどであろうか。扱うものはほどんどがプラモデルかその関連だが、時には書籍やカタログなどの資料の場合もある。ネット・オークションはヤフー以外にも幾つもあるのだが、たまたま最初にヤフーに登録したため慣習的にヤフーにのみ参加している。まあ、その実はイーベーやビッタースなど他のフィールドにまで手を拡げてしまうと、主に財政的見地から収拾がつかなくなってしまうのではないかと怖れ、自主規制しているというのが実情である。パソコンの普及によって全国の個人個人がオンラインで直結出来るようになった功罪は様々だが、まさにオークションというのはその縮図のようなものである。私もそうなのであるが基本的に日本人は性善説に基づいて物事を判断し言動を行なう。つまり世の中に元から悪い人は居ないと信じ込んでいる。しかし、それは幻想である。オークションに関われば関わるほど、如何にそれが幻想であるかを痛感し幻滅させられる。もちろん、逆にとても素敵な触れ合いも多い。心優しくなる出会いや心暖まる言葉とも多々出会う。顔も声も知らぬ遠い地の見知らぬ人でも大好きになってしまう人とて居る。その意味ではオークションは人生劇場の縮図でもある。人生勉強には悪くない学校なのかもしれない。しかし、実害を被るようではそれも一寸困りものだ。
 これを読まれる方々がネット・オークションのシステムについてご存知であろうことを前提に書くが、私は1,500件ほどを扱い、現在は非常に良い・良いの評価を1,000以上いただき、非常に悪い・悪いは0でいただいていない。ちなみに扱い点数と評価が一致しないのは、複数落札ではひとつしか評価が付かないからだ。自分で申すのも口幅ったいが一応「優良参加者」であろうと自負している。だが先日、私の評価にこんな書き込みがされた。「あんた、大騒ぎしすぎ。こんな金額の商品が届かなくても、どうってことないでしょ(極端に言えば)。逆に言えば、こんな金額で詐欺られんよ。堂々としてなさいよ、じたばたせず。評価も1,000超えてんジャン」(原文ママ)  突然のことで唖然としてしまい、暫し開いた口が塞がらなかった。説明しよう。私は8月11日22時47分終了の戦車プラモ4点セットを落札した。内容は有井製作所製ノンスケール、コメット/スターリン/ロンメル/パットン/シャーマンの各50円キットで、元イッコー製のものである。落札価格は1,700円。リーズナブルで良い買い物をしたと喜んだ。当然直ぐにオークション・マスターから落札通知メールが届く。時にこのメールに出品者のコメントが記されていることがあるが、この出品者の場合もそうだった。落札者から24時間以内にメール送信のこと、さもなくば落札は取り消す旨が記載されていた。嫌な感じであった。しかし、それはそれで構わない。私は常に即日対応の主義だし、買い手、売り手のどちらがどうこうなどにもこだわらない。要は真っ当に取り引きが出来ればそれで良いのだ。また記載には振込先まで明記されていたので、翌日午前中には振り込んだ。振り込んだ旨のメールも送った。しかし先方からの返事は未だ一度もない。時には他人からすれば身勝手だが、単にのんびりしただけという人も居るので暫く待った。1週間が過ぎメールを送ってみたが、やはり返事はない。9日目の夜となり流石に不安になった。先方がメールに、時には取り引き自体に気付いていないこともないではない。連絡掲示板に「11日終了の有井製作所 50円箱 フレクション動力戦車セット(k00000000)落札者の○○○○平野です。何度かメールを差し上げております。今だ品物が届きませんが、お送り下さいましたでしょうか? 代金\1,700は12日に○○○銀行から○○○銀行へ振込済みです」(0と○部分以外、原文ママ)と書き込んだ。見て居ない場合も考えられるので、一応、現在出品中のQ&Aにも同文を書き込んだ。すると22日にモノが着払いで届いた。相変わらず先方からは何の音沙汰もない。これまでの経験でこれは触らぬ神に祟りなしと直感し、すぐさま先方の評価欄に非常に良いの評価と共に「本日、届きました。ありがとうございました」(原文ママ)の書き込みをした。通常であれば必ず先方に直接「無事届いた旨とお礼」のメールをするのだが、このときばかりは余計なことはすまいと考えた。そしてその晩、先記のような評価欄への書き込みがされたのである。晴天の霹靂であった。だが、それだけではない。こんな金額の商品が届かなくてもどうってことない、の文面には我が目を疑った。ことは金額の問題ではあるまい。それがレトリックであることくらいは百も承知だが、人には言ってはならぬことがある。ましてやこのような状況の中では互いに道義的責任が負わされているのだ。義務と責任を果たさぬばかりか、それ自体を持ち合わせていないのではないかと人間性を疑わざるを得なかった。そうした人間に限って自分勝手な主義主張だけは振りかざす。過去にこれほどにまで信じられぬケースに直面したことがなかったので、改めて先方の評価欄を見てみた。評価は200台前半なのだが、何と非常に悪い・悪いの評価が43もあった。私の知る限りでは群を抜いてひどい。余りの凄さに逐一調べてみると、この男、何と出品、落札共に出鱈目なことを多々やっていた。圧倒的に多いのは例の24時間以内に返事がなければ即取り消しのケースである。この独善的な押し付けルールをヤフーの取り決めだと称して憚らず、しかも出品物の書き込みにはその旨を一切明記していない。自己紹介欄にのみ書き、それを見なかった方に落ち度があると批難していた。連絡メールがないのは日常的なことらしく、落札者になった場合も同様なトラブルを起こしていた。中には振り込んだが何の連絡もないという出品者の悲痛な訴えも混ざっていた。まあ、これは後に解決したのか否か、評価欄だけでは判断出来ないので、あえて一方的な批判は控えておく。中にはプラモデル界では著名な方もこの男の被害に逢っていた。「交通事故にあった気分」と記されていたが、まさしくそのとおりだと思った。ともかく連絡通知メールには疎いにも関わらず、評価欄への書き込みには異常な執念を燃やしているらしく、ただ一方的に相手を批難する言葉が連なる。しかも非常識極まりない誹謗中傷の類いも多いようだ。幼児の「やーい、うんこたれー」みたいなレベルなのである。
 これでは、いかにオークションが自己責任だと言われても、交渉も話し合いもあったものではない。参加者に許されているのは評価を入れるだけのことで、しかもこのような理不尽な相手と相対すれば、単に「悪評価」の中傷合戦に終始しなければならない。どう客観的に見ても片方に非があるにも関わらず、その報復に悪評価を受けてしまうのでは、まさに踏んだり蹴ったりではないのか。単に運が悪かったでは済まされまい。私は常々、まるで警察の民事不介入のごとく、当事者同志のトラブルには一切関知しないというヤフーの姿勢にも疑問を抱いている。参加料や手数料を徴集する限り、我々は皆さんに場を提供しているに過ぎません、という論理は理不尽だと思う。逃げ口上だと思う。逐一起こる個々のトラブルを仲介せよとは言っていない。せめて問題の多い参加者には評価などという抽象的なものだけでなく、一定期間の参加取り消しもしくは参加資格剥脱など何らかの具体的な罰則を科すべきではないだろうか。理不尽な悪意が蔓延れば、オークションは楽しいものから恐ろしいものへと変貌してしまうだろう。オークションの今後の発展のためにも何らかの解決を望んでやまない。是非、皆でオークションを楽しいものにしたい。

投稿者 平野克巳 : 2005年09月02日 15:24 | トラックバック

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