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2005年11月29日
60年目の亡霊
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背後の土手上に移されたチハ車の遺骸全貌。2005年11月24日撮影
幾つもの激しい台風が吹き荒れたあとの昨年11月24日、神奈川県三浦市のとある海岸に忽然と姿を現わした旧帝国陸軍戦車の残骸の現地調査を行なった。それはまさに波打ち際の砂丘から出土したもので、恐らくは永年の海風と波の侵蝕、そして立て続けに襲った台風の猛威により土砂が崩れ、地中より現れたものと思われた。もはや往時の威容をとどめぬ赤錆た鉄の塊に過ぎなかったが、それでも虚ろに空を睨む砲口が、かつて国を守らんとした武士の気概を伝えていた。恐らくは終戦直後の武装解除により廃棄処分されたものなのだろう。車体は裏返っており、前部が露出し後半部は埋もれたままであった。しかし操縦席直前部分で溶断されており、戦車の全景は留めておらぬ様子であった。だがそのおかげで錆と土塊で化石のようになったトランスミッションと折れた操縦レバーなどがつぶさに見てとれる。土中からは短砲身の57mm主砲が突き出しており、ターレットの一部も露出していた。もしや土中には完全な形で砲塔が残っているやもしれぬ、と期待はいや増す。キャタピラ(これは特定メーカーの商標なので、履帯もしくは無限軌道と呼ぶべきか)は当時、貴重な鉄材資源として取り外されたので当然のことながら残っていない。転輪と補助転輪の幾つかが姿を現わしていたが、驚くべきことは転輪のゴム部分がさしたる劣化の様子もなくほぼ完全な状態で残っていたことだ。土中に埋まっていたことが幸いし、経年劣化を最低限に留めたせいなのだろう。ヒビや崩れも比較的少なく、生ゴムの黒々とした質感が残り、表面に刻まれた明治ゴム製造所、明治タイヤー、TRADE MARK、菱形内にMのロゴ、200×85(補助転輪)の刻印も明瞭に読み取ることが出来た。この露出している部分以外、土中には何が隠されているのだろうか。掘り返して見てみたい誘惑には大いにかられたが、軽率な興味本意でそんなことはすべきではないだろうと現状保存に努めた。
さて、旧帝国陸軍戦車であることは一目瞭然であるのだが、この車輌は何であるのか。先ずはその疑問が頭をよぎる。転輪や見える範囲での車体の形状からして97式中戦車/チハ車と見るのが妥当と思われた。だが、チハにしては車体が小さいような気がしないでもない。靖國神社の遊就館に展示されているチハと比較すると、心なしかやはり小さく思えてならないのだ。これは他の軽戦車かもしれんね、などと話し合ってはみたものの、現状からは明確な答えは出なかった。
それからちょうど1年後の今年の11月24日、再度現場を訪れた。と云うのもその1週間ほど前の11月18日、某戦争博物館が神奈川県の認可を取り付け、引き取りの為に掘り出したと聞いたからである。現場は正直なところ悲惨な結果となっていた。2.5tのパワーショベルで強引に掘り出したらしく、車体は更に新たに溶断されて、裏手の土手の上に積み上げられて放置されていた。ブルーシートくらいはかかっているかと思ったが、全くの野ざらしのままで、簡単な囲いと「立入禁止 土地所有者」と書かれた立て札が立てられているのみである。やはり想像どおり砲塔は完全な姿で残っており、主砲の薬室部分も原型は留めていた。車長ハッチは開放されたまま固着している。操縦席のハッチが開いていたり、恐らく前照灯の配線であろう緑青に覆われた被覆線も残っている。車体後半の完全な姿を期待していたのだが、やはりそれは杞憂であった。どうやら廃棄する際に車体前後を溶断して3分割にしてしまったらしい。当然エンジンらしきものも残されてはいない。ただドライブシャフトに残されていたユニバーサルジョイントが今も作動機能していたことには驚かされた。
さて、掘り出された結果、完全に鉄屑と化してしまったこの戦車であるが、そのおかげで多少の計測をすることが出来た。車体の全幅はどちら側も完全な姿で残されていた起動輪(形状は97式/チハのものであることが出土の結果確認出来た)で計るしか術はないが、およそ2,250mmであった。公式データ上ではより大きい数値になるであろうから、89式や98式、95式などとは明らかに異なる。車体装甲版の厚みも側面が25mm程度、車体上面が12mm程度、底板が8.5mm程度なので、やはりチハ車の数値に近い。ちなみに主砲は短砲身で口径57mmのようだ。やはり97式中戦車/チハ車と推定するのが最も正しいように思われた。しかし、このスクラップを引き取った(…)某戦争博物館によれば現在鋭意精査中とのことだったが、89式中戦車ではないかと仮定しているそうである。しかし、やはりチハ車と見るのが正しいようである。
戦争の遺物であるので靖國神社もサーチはしたらしいが、状態が余りに酷く、また英霊の住処でもないので具体的なアクションは起こさなかったようだ。地元の伝聞ではこの付近は旧軍の武器弾薬を海中投機、焼却廃棄などにより多数廃棄処分した場所らしく、現在でも不発弾に注意の立て看板が掲げられている。
また地元の方に伺うと戦後に戦車や高射砲が複数、土中に埋められて廃棄されたと云う話が伝わっていて、この近辺を掘ると他にも戦車が出土するのではないかと噂されているようだ。敗戦から既に60年もの歳月が流れた今、突如亡霊のように出現した戦争の遺物は、平和惚けした現在の我々に何を語りかけようとしたのだろうか。
半世紀の眠りから覚醒したる鉄牛
されど往時の威容既に失せし
ただ鉄隗と化した姿を晒すのみ
無惨なるかな時の移ろい
哀れなるかな愛国の憂い
ただ黙して合掌
註:現状保存の為、これまでも正確な場所の記述は自粛してきましたが、現在では所有者が居り、併せて未だ現地からの引き上げがなされていない為、今回も現地を特定する記述は避けました。
投稿者 平野克巳 : 2005年11月29日 23:33 | トラックバック
2005年11月25日
模型放談異聞
11月20日、日曜日、晴れ。今日は友だちのながうお君と静岡のツインメッセ静岡と云う都会に行きました。タミヤフェア2005と云うとても楽しい催し物があったからです。そして一段高い大舞台の上では松井さんと云う有名なテレビ局のアナウンサーのひとと、田宮模型と云う世界で一番のプラモデルメーカーの社長さんの田宮俊作さんと云う偉いひとがお話をするのだそうです。ボクは同級生の友だちの金子たっちゃんと、そのお話会が始まるまで一番前の席でお話をしていました。するとタミヤのYさんに「出演者がそんなとこに居ないで下さいよっ」と怒られてしまい、首根っこを掴まれて舞台裏の楽屋に監禁されてしまいました。いや、別にYさんが恐いひとなのではありません。とても仕事熱心なひとなだけです。
ボクは松井さんと社長さんのお話をとても真剣に熱心に聞きました。「…ですよね、平野さん?」「はい…」「…なんですか、平野さん?」「はい…」「…では無いんですか、平野さん?」「はい…」 ボクも真面目に参加しようと思い精一杯「はい」でお話をしました。松井さんの作った昭和36年製パンサータンクが「まずるぶれーき」をチカチカと赤く点滅させながら、きゃらきゃらと走ると、会場も社長さんもとても嬉しそうでした。松井さんもとても鼻高々で楽しそうでした。なんて素晴らしい戦車の宴なのだろうとボクもつくづく感心していました。あ、そうそう、このお話会は「モデルカーズ・プレゼンツ」なのだそうです。あとで裏でながうお君が泣いていたけど、ボクには何故ながうお君が悲しそうなのか分かりませんでした…「いーかげんにしやがれーっっ! どげげげげーんっっ!!!!」(はた君とばばさんとふなばし君の怒声ととび蹴りの音です) 以上、年長さん、梅組、平野ねこんた。
というようなお話はさて置いて(何でもさて置くなあ、おめーはよっ…とながうお君が睨んでいます。あは、あは、あははは)、田宮俊作社長とお話させていただくのは久し振りであった。失礼ながら御歳70を迎える方とはとても思えない若さで、増々血気盛ん(そりゃ逆に失礼な物言いやろ~チッチキチーやでえ)、元気一杯のご様子である。私としては何を血迷ったか1/12ビッグスケールシリーズにプラモデルキットの新作を希望し、またタミヤとしてのプラモデルの今後の展望を伺ってみた。1/12ビッグスケールシリーズは思えば我々プラモファンにとって永遠の金字塔であり、失ってはならない梁山泊でもある。その基本コンセプトは既に1967年発売の第1作ホンダF-1/RA273によって提言されているが、1976年に発売されたポルシェRSR934で完成域に達し、更に1977年発売のポルシェ935ではより完全なものとなった。その後、プラモデル自体の低迷などの緒事情もあって、同社の1/12モデルはダイキャスト完成品のホンダF-1/RA272、複合素材により実車感覚をより楽しめるケータハム7、大型モデルのらくちん化を模索したローバーミニなど、様々なアプローチがなされて来た。そして最新作のポルシェカレラGTに至って超豪華化粧箱入りの半完成ダイキャストモデルへと進化している。かつてコンティやウイングローブらスペシャリストによってのみ可能と思われたハイクオリティモデルの供給が、低価格帯で実現されるに至ったのである。モデルカーファンにとってはまさに嬉しい限りである。しかし、プラモデルにこだわり続けたい私としては、やはりタミヤのプラモデルキットのこれからが気にかかる。スケールモデルのタミヤであるのは言うに及ばないが、プラモデルのタミヤでもあり続けて欲しいのだ。社長、どうかプラモデルを見捨てないで下さい。そして、またぞろ1/12ビッグスケールシリーズにプラキットの新作を登場させて下さい。こんなプラモ馬鹿な私の直訴に対して、たとえリップサービスであったとしても優しく「何が良いですかね?」と対応して下さった社長の眼差しには、やはり「模型を愛して止まず」の光りが充ちていて安堵した。「クルマらしい時代」そして「'60年代」…このキーワードが期せずして社長の口からも飛び出し、私たちファンと同じ目線、同じ指向であることも確信した。私は是非にも「ポルシェ906」を提案させていただきたい。内容的にはかつてのポルシェ910と同程度のキットであって構わない。純プラスティック構成で、パーツも必要最小限なレベルに抑えてだ。むしろ、そのくらいの方が現実味が高まるというものかもしれないし。そして、プラモ馬鹿たる私の妄想はフォードGT、コブラ427/289FIA、デイトナクーペ、ポルシェ917、フェラーリ330P4 …と再現なく先走って行くのであった。嗚呼、こんな日が本当に来たら、そう想像するだけでもはや夢心地である。こうなりゃモデラーに署名を募って嘆願書でも出すか!…余りの数の少なさに却下されたりして。とほほほほ。
投稿者 平野克巳 : 2005年11月25日 20:20 | トラックバック
2005年11月22日
子猫な日々
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【模型友達のにゃんこつながり 不定期連載 其の五】
しこー君ちのキジーさん
先月から新たに我が家に加わった「海」(かい)と「風」(ふう)は元気一杯、日々成長を続けている。もはやすっかりいっぱしの猫らしくなり、あのひ弱な赤ん坊猫の姿は微塵も残っていない。今や運動能力も筋肉番付出場選手並みで、部屋の中を黒と三毛の猫が縦横無尽に飛びかっている。そこいらじゅうをドタドタドタドタと駆けずり回り、やたらあちこちから「ど」だの「ご」だの「ごん」だのの音が響いて来る。勢い余って椅子の足やら家具の角などに頭蓋骨から激突している音である。視界の中では常に空中殺法猫が乱舞し、垂直に飛び上がって空中で取っ組み合うなどの、まるでドラゴンボールのような決闘も珍しくない。彼奴ら行くところ、家のあちこちから「あっ、いてててて。いってーっ。よせー。やめろーっ!」などの悲痛な叫びがあがり、傷だらけの人生に傷だらけの手足の上塗りをしている。私の両足は既に太股から甲に至るまで、猫爪特有の赤いブツブツの傷で覆い尽されて、まるで全身を悪い南方風土病にでも冒されたような塩梅である。
朝の目覚め一番、パジャマの背中に飛びかかられれば、如何なる目覚まし時計にも優って効果絶大、実に効果的で心地よい目覚めが可能である。パソコンデスク、模型作業台に向かえば、じっと瞳を凝らした「貞子」のような猫が臑を木登りの要領でよじ登って来る。仕事中、どんなに睡魔におそわれていようと、この貞子猫で眠気一掃である。夜は夜とて無駄に元気である。先住猫たちは完全に家人の生活サイクルと一緒の生活なので、夜具を出し電灯を消せばもはやおやすみモードとなるのであるが、彼奴らは家人の顔だろうと何だろうと構わず踏みつぶして激走5000キロを繰り広げる。先住猫がフーフーカーカー咆哮しようと我関せず、知ったこっちゃない。ようやく静かになったらなったで、これまた私の寝床は猫のハーレム状態となり、寝苦しいやらせま苦しいやら。両足の上には先住班シャムおばさんがどっかと居座り、左脇腹にはこれまた先住班サバおばさんがぴったと寄り添いアンモナイトの形状を形作る。さすがに寝場所に関しては先住班に優先権があるらしく譲らない。しばし心地良い寝場所を求めてうろうろしたチビ猫どもは、やがて空室となっている私の右脇腹目指して掛け布団へと潜り込んで来る。こうなると私は磔になったガリバーみたいなもので身動きひとつ出来ない。それでも寝静まってしまうのは永年猫と暮らして来た慣れであろうか。だが夜半にチビどもが布団を出たり入ったりを繰り返し、時には首の上を横切り、またある時には顔の上に覆い被さって眠るなどの狼藉三昧を働くにつけ、一晩に何度睡眠を妨げられることか…結果、慢性的に睡眠不足に陥る訳だが、これは子猫の居る家庭ではごくありふれたことなので別に驚きも呆れもしない。多分、そんな猫好きを一般の方々がむしろ驚き呆れるのである。
とまあ、そんなこんなで、さっぱり模型の製作がはかどらない。現状ではベトナムの最前線で模型を作るようなものだ。とてもでないが繊細さを要求される細かい工作や塗装なぞ出来よう筈もない。ガシガシガシ(いたたたた…)とよじ登って来る貞子猫や、サマワ自衛隊宿営地に着弾するようなロケット弾猫を振り払って作れるようなプラキットもそうそうはない。どうするのオレ!
ところで、はや暦の上では冬である。実際、かなり肌寒くなったが、私は必要以上に厚着をしている。寒いからというよりは猫爪対策の為で、厚手のスウェット、裏生地のあるジャケットなどは、今のところ私にとってはライフジャケットとなっている。それで気付いたのだが、夏前に生まれた子猫と暮らすのはなるたけ避けたほうがよい。夏に向かって薄着をせざるを得ないので、猫爪に対して無防備状態で日々を過ごさねばならない。嗚呼、ウチのチビどもは秋生まれで助かった。そうでなくては身体がもたない…。
資料を調べていると痛みが走る。パソコンに向かっていても痛みが走る。疲れて炬燵でうたた寝をしても痛みが走る。何をしていても痛みは走る。要するに子猫は痛い。痛いけれども可愛い。子猫は悪魔のような天使なのだ。なんだか自虐的な猫ライフであるが、別に痛いのが好きな訳ではない。花と蛇ではない。じょーだんぢゃない。痛みを超えて耐えられるほどに子猫との暮らしは楽しいものなのである。だが、しかーし! 模型を作らぬ日々を安穏と過ごす訳にはいかない。改めて、どうするのオレ!
投稿者 平野克巳 : 2005年11月22日 19:37 | トラックバック
2005年11月18日
ミッドランド回想
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ずっとシャパラル信奉者だった。シャパラルと云う名のレーシングカーの存在を初めて知ったのは1965年のスロットカー・ブームの時だ。エイのような三角のノーズがちょっと奇怪な印象を与える2Aと2Cを写真で見たのが最初で、純白に塗られた(モノクロ写真しか見たことがなかったが…)斬新なスタイルがひどくカッコ良く思えたものだ。当時は“チャパラル”と呼ばれていたが、この“チャ”の音質は、日本語においては可愛かったり可笑しかったりのイメージがあり、余りこのマシーンにはそぐわないように思う小学生の私ではあった。僅かなモノクロ写真でしか見ることの叶わなかったシャパラルは、ノーズにヒレ(シャパラルではエアロフォイルと呼ぶ)を持ち、ドライバー後部のエア・トランペットが異様に高く林立した、とても物珍しい格好をしていたのも印象的だった。その後、カーマガジン(ベースボールマガジン社の)、オートスポーツの愛読者となり、2D/2E/2F/2G/2H/2Jの一連の2シリーズが登場するたびに狂喜乱舞した。当時、シャパラルはオートマティック・ギアボックス、可変ウイング(シャパラルではフリッパーと呼ぶ)の斬新なメカを売り物としていたが、他にもFRPフルモノコックのシャシーやレキサン樹脂など、他に先駆けたマテリアルや手法を率先して取り入れる極めて実験的要素の強いマシーン設計で名を馳せた。しかし、ドライバーを含め風圧を発生させるあらゆる突起物を廃して徹底的な整流効果を狙った2Hや、2ストロークの小型エンジンでファンを回し、バキューム効果を生み出すことで車体に負圧を発生させ、ダウンフォースを得るなどと云った2Jなどに至って、シャパラルは邪道、際物と云った見方をされるようになる。だが、その後の歴史が物語っているようにシャパラルが手掛けた多くの実験的手法は、エアロダイナミクスを追求したレーシングカー・テクノロジーの先駆であり続けた。やがてシャパラルが表舞台から去って、随分と永い時が過ぎた。
私がテキサス州ミッドランドに降り立ったのはもう何年も前のことだ。360度見渡す限りに地平線と云う風景を生まれて初めて見たのもここだ。吹き抜ける風にカラカラと回転草が転がって行く。まさにその昔、テレビで見た西部劇の風情そのままである。目指すはシャパラル・カーズ。とてもアバウトな道案内に不安を覚えたが、実際に行ってみれば杞憂であることが直ぐに理解出来た。何しろどこまでも続く直線の道以外何も無いのだ。青い建物だ、ってそれだけじゃ分かんねーぢゃん、と思ったが…分かった。だってぽつねんと建っている青い建物はひとつしかない。当日はこいち時間ほどジム・ホール氏にインタビューをさせていただき、その後はファクトリーから現存する2シリーズを引っぱり出して撮影した。目の前のジム・ホール(呼び捨てかよっ! …サマーズ三村の口真似で)は、昔、モータースポーツ誌の写真で見たダンディーでハンサムな姿そのままだった。ロングトールテキサンと呼ばれた細みの長身、そして'68年の大事故の後遺症で少しばかり引き摺るような特徴的な長いX脚、何もかもが少年の日に憧れたあの姿であった。これまでにも誌面に書いたが、私はインタビューの仕事を通じて、感動と興奮で全身が打ち震えたのは3人きりしか居ない。元F-1ワールドチャンピオンのジョン・サーティースと少年文化を代表する挿し絵画家の小松崎 茂、そしてジム・ホールである。シルバーのベル・ジェットヘルを被り、ファイアストーンのロゴの入ったレーシングスーツを着た「あの」ジム・ホールが私を見つめて笑っている。まさに人生の至福の時であった。
シャパラル・カーズのオフィス全景、ラトルスネーク・レースウェイへの入り口の門扉、何もかもがここでは時が止まっていた。かつてカーグラフィックの写真で見たあの風景がそのまま私の眼前に在った。カメラを手にしたまま、私は暫し、呆然とその光景を見つめて立ち尽くしていた。遂にここまで来た…それは色々な意味を含んでいたが、感慨をもって心の中でそう呟いていた。
'65年当時、コックスのキットは天上の存在でとても手が出なかった。そこでアオシマのモーターライズキットを買った。このキットはフォードGT、フェラーリ250GTO/64と共にスロットキットとして開発されたらしいが、ブームが瞬時にして去った為、断念してモーターライズのみで発売したらしい。国産キットとしてはプロポーションが良いと思ったら、どうやらコックスのコピーであるらしかった。それはそれで嬉しかった。早速、手持ちのシャシーを取り付けてスロットモデルに手直しした。それが私のシャパラル第1号であった。ただサーキットは続々と閉鎖されてしまったので、実際に走らせた記憶はない。後年になって街の玩具店で売れ残っていたのを見つけ購入した。郷愁を誘う梶田達二のボックスアートでは、明らかにジム・ホールと思しきドライバーが乗っている。多分、実際のレース写真を参考にして描かれたのだろう。ボディ下半分が茶色いのは当時のFRP地肌の色のままだからだ。進歩的で革命的だったシャパラルも、今となってみると何やら古めかしい。時は確実に流れている。
投稿者 平野克巳 : 2005年11月18日 17:35 | トラックバック
2005年11月16日
いよいよモペットコレクション
開発熟成に意外なほどに手間取り、当初の予定からは大きく発売が遅れているエフトイズの1/24モペットコレクション第1弾ではあるが、ようやく近々発売の目処がたった。「遅れてるなんて責められたくねーよ。おめえがあーだのこーだのケチばっかつけるから進まねーんぢゃん!」とエフトイズ担当者の心の叫びが聞こえそうだが、それはともかくとして置いといて…「置いとくなよーっっ!!」…まっ、聞かなかったことにして…「聞けよーっっ!!!!」…あ、話が進まないですね。しつこいですか。すんません。
パッケージも出来上がり、こうなると発売がとても現実味を帯びてくる…「初めから現実に発売する予定なんだってばよー」…これやってると、いつまで経っても進みません。もうやめます…1/24スケールで、分解、切削、塗装も出来るとなると、なにやらプラモデルに近いマニアックなアイテムのように思われるかもしれないが、本来のコンセプトはメカ版“ぷちサンプルシリーズ”(それは言い過ぎやろう!)と云うか、若い年齢層や女性層にも受け入れられるような、比較的近年のミニバイク、ソフトバイクのシリーズとして立案されたものである。ロードパルがモデル化されているのもその為で、当初は初期のスクーターなども候補として上げられていた。しかし売れ筋だったタクトとか最速のジェンマ(なぜにジョグやリードがいの一番に上がらんのや、とお叱りを受けそうだ…)を血道を上げて集めて下さるようなマニア(そんなヤツはおらんやろー。ちっちきちーやでえ)ってどうなの、と軌道修正し、現在のラインナップに落ち着いた訳だ。スーパーカブも1958年型C100が王道ではあるのだが、ここは意識的に少しハズして最初のOHCエンジンモデルを選択した。コレクションホールや博物館であるよりは、このシリーズでは誰もが想い出にある何気ない日常の光景を切り取りたかったからだ。この年式、タイプのカブなら、若い層であってもボロボロにくたびれていながら元気に街を走っていた光景を、ひとつくらいは思い出してくれる筈である。どこにでも居たカブだからこそ、親しみと懐かしさが沸くのだと私は考えている。
ラビットのスクーターは当初「ひとつくらいは古~いモデルがあってもいいよね」とシークレットアイテムのつもりで私が提案したものである。楽屋裏を暴露してしまえば、悪乗りした私はラビット・マイナーを候補として提案した。そして、鳥打ち帽に覆面、マフラー姿の青年ライダーとシェパードのフィギュアをセットにする。決して少年ジ○○トとは謳わない。そう云えばココのところのデザインが違うよねえ…みたいな感じでもって…。その昔、いしいひさいちの漫画で、ヤクザが堂々と「大麻製造工場」の看板を挙げているところへ警官がやって来て「コレは何だ」と怒る。すると「すっとぼけ顔」のヤクザが「おおあさ、おおあさ」と開き直る、そんな1話があり、私はそのセンスが大好きであった。ま、勿論、そんなほいちょいな感覚が実際のビジネスで通用する筈もなく、エフトイズの担当者からは苦り切った顔で却下を告げられたのは言うまでもない。武勇伝、武勇伝、でんでんででんでん。そんなこんなでラビットはラビットでも王道たるスーパーフローS601Cとなった。これも労働車としては随分と活躍したので、郵政ラビットや配達ラビット(牛のマークの大きな箱を括り付けた姿などは懐かしかろう)などに仕立てるのも楽しいかもしれない。ともかくこのシリーズは集めるだけでなく、色々と工夫を凝らして遊んでいただきたい。モデルはその為の入り口でしかなく、その扉の向こうを演出するのは貴方たちに委ねられた大いなる楽しみなのだから。なお価格は1個350円である。
投稿者 平野克巳 : 2005年11月16日 20:05 | トラックバック
2005年11月11日
赤カブ哀歌
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モデルカーズにおける新規連載企画「鉄の馬歴史館」第1回ホンダ スーパーカブをご覧いただいた読者諸兄の中には、「なんでえ。バンダイの赤カブは採り上げてねーのかよ」とお思いになった向きも少なからず居たことだろう。知らぬ世代の為に念の為付け加えておくが、「赤カブ」といっても「赤蕪」つまり野菜の赤いカブラではない。ましてや赤株でもなく赤下部でもありえない…いーから、いーから、しつこいから…'82年に登場して「ちょっとだけ」注目された、ボディが赤く塗られたスポーティ風味のスーパーカブである。まあ、車体が赤ければ「スポーツ仕様」という感覚も思いっ切りベタでカビ臭いが、ともかく地味な勤労バイクのイメージ一新をはかって登場したモデルであったやに思う。ちょうどその頃、バンダイはモーターサイクルのキットを精力的に開発していた時期で、1/12スケールの名作を幾つも世に送り出している。パッケージのボックスアートにはかの人気イラストレーター“BOW”をフューチャーするなど、まさに本気モードの一球入魂的作品が目白押しであった時期である。そして、通称「赤カブ」はそのシリーズのひとつとして世に出た。もっとも見慣れたブルーとアイボリーのツートーンの標準型スタンダードカブとさして違いはなかったので、キットが赤カブを自称し、パーツのモールド色が赤いだけで、格別に「スペシャルなモデル」である謂われも必然性もなく、ありがた味は余り感じられなかった。大体からしてプラモデルは塗装して仕上げることが必須である大和民族系モデラーにとっては、キットが赤カブである必要はなにも感じなかった。それに加えて、モデラーという人種はへそ曲がりが多いので、赤カブより標準仕様のカブを作った向きが多かったかもしれない。事実、私も当時の某専門誌でブルーとアイボリーの標準カブを作例として作っている。
標準カブはスーパーデラックス仕様を作る限り、大袈裟な改造や修正は必要なく、ストレスなく楽しく「ちゃっちゃ」と作れた。エンジンのクランクケースカバー形状は大きく異なったが、当時は1/12オートバイプラモ花盛りの時代だったので、他のキットからのパーツ転用で容易く解決した。取り分けこのホンダの前傾単気筒50cc、SOHCエンジンは、各メーカーから多数競合して発売されていたモンキーやゴリラと共通だったので、取りポン、付けポンで簡単に解決した。今ではそれらのキットもオークションでそれなりの価格になってしまったので、さほど簡単な処理方法ではなくなってしまったが。それ以外では黒色塗装されている部分を通常のクローム仕上げ(最近のようにMr.カラー スーパーメタリック メッキシルバーなんて優れ素材はなかったので、ごく普通のシルバー塗装仕上げだったが…)にして、荷台の形状に手を加えた程度だったが、それで立派に「普通のカブ」になったのだった。
そんなこんなもあり、しかしそれ以上に当時の感覚では所詮「カブはカブ」でしかなかった為、この赤カブはかなりの不人気となってしまった。未だスーパーバイク全盛の御代で、労働するバイクのイメージが払拭できないカブにはモデラーの触手が動かなかったのである。更に加えて、一部には熱烈なカブマニア、マイナー車種ファンも居たには居たのだが、折り悪く'80年代デザインの近代化に伴い、カブ本来の個性というか持ち味であった華奢で丸い雰囲気から大きく逸脱した「かっくんかっくんに四角い」ボディデザインに変貌してしまったことも不評を買った原因であった。要するに何だか全てにおいてカブの設計思想、存在理念としては中途半端なモデルのように思えたのだ。
それから暫くしてバンダイはガンダムの爆発的ブームの対応に忙殺されるようになり、結果スケールモデル部門からは実質的に撤退してしまう。余談ではあるがバンダイがプラモデル部門へ進出するにあたり、引き取って来たコグレやイマイの金型が大幅に整理されたのもこの時期であったと言われる。コグレの傑作、ロータスエリートやエラン、ホンダS600(初期のS500は既にスロットボディのS600に姿を替えていた筈だ)などは、マニアたちに惜しまれつつも溶鉱炉の藻屑と化してこの世から消えたのであった。その後、バンダイのモーターサイクルキットが店頭で投げ売りされている光景を、随分あちこちで見たものだった。とりわけ赤カブはいけなかった。私も神奈川県の三浦漁港近くの模型店で、店先に大量に積まれて1個150円の値札が付けられていた光景を良く覚えている。そして私自身「150円なら…」と、その店で2個買ったのであった。150円なら買うが定価では別に欲しくない…バンダイには失礼ではあるが、当時のモデラーの心象としてはそんなものであった。あれから多くの年月が過ぎ、バンダイ1/12赤カブ/HONDA Super CUB50は一派ひと絡げにプレミアキットの仲間入りをしてしまった感もあるが、やはり当時を知る者にとっては「赤カブはねえ…」とついボルテージが下がってしまうものなのである…。嗚呼、哀しきなるかな、赤カブ…。
投稿者 平野克巳 : 2005年11月11日 15:37 | トラックバック
2005年11月08日
初恋幻想
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私が初恋をしたのは小学校二年生のときである。同じクラスの孝子ちゃんといった。ちょっと肌は浅黒かったが、都会的な顔だちとウェーブのかかった長い髪が印象的だった。何より小二の男ごころを誘ったのはお尻にぴったりとフィットした、眩しいほどに白い清潔そうなパンツであった。エロティックな意味合いは余りない。もちろん子供なりのセクシャルな感覚は在ったとは思うが。短いグリーンのタータンチェックのスカートから覗く白いお尻は、例えようもなく魅力的だったのだ。なにしろ、その頃の子供ときたら、女の子であっても酷く野暮ったく田舎臭いのが普通であった。髪はおかっぱで後頭部を刈り上げたのが標準的なヘアスタイル。そして膝の抜けたコール天のズボンやら「ずろー」と長い襞スカートばかり。そしてスカートから垣間見えるのは、お尻に土がこびり着いて薄汚れた「ちょうちんブルマー」のようなパンツばかりであったのだ。しかも洗いたおしてずるずるになり全体に黄ばんだパンツである。孝子ちゃんはまさしく「掃きだめに鶴」だった。
孝子ちゃんは住宅街の豪邸に住んでいた。鉄扉の門から庭木を通して望む西洋館は、車回しこそなかったが瀟洒な佇まいで、商店街の菓子屋の倅からは別世界のように思えたものだ。とある土曜日、孝子ちゃんからお誕生会に誘われた。有頂天で訊ねたものの、鉄の門扉でビビってしまった。しかも門にはインターフォンが付いていた。門扉、それどころか玄関などといった小洒落たものさえ無縁な暮らしで育った身には、敷地に入ることさえ拒絶されているような厳めしさを感じ、既にその時点で半泣きになりそうだった。それでも意を決してインターフォンを鳴らしたが、見知らぬ声の応対で完全に私の勇気も砕け散った。虚勢を張るのもそこまでだった。逃げるようにその場を去った私は、屈辱感にも似た情けなさを抱いて、とぼとぼと畑のあぜ道を家路へと向かったのだった。
今でも孝子ちゃんの白いパンツを思い出す。可愛いというよりは大人びた綺麗で素敵な女の子だった。だが、それはもしかして必要以上に美化した記憶なのかもしれない。少年時代の初恋なんて所詮はそんなものなのだろう。そう思うのはプラモデルの初恋も似たようなものだったからだ。そのプラモデルの初恋は孝子ちゃんと出逢うより少し前だったように記憶している。その頃、私たちの最大の娯楽は少年雑誌であった。未だ月刊誌の時代である。少年、少年画報、少年ブック、冒険王、日の丸、ぼくらなど百花繚乱であった。厚手の本誌の間には第1付録のペーパークラフト、そして帯封のされた数冊の別冊が挟まれ、紐で十文字に縛られて売られていた。当時の売価は170円前後だったと記憶する。それぞれ好みに応じて何派というように分かれていて、私は少年ブック、少年画報派であったが、毎月のペーパークラフトによって選ぶようなところもあった。当然1冊買うのがやっとであったから、他の派の友達どおし毎月、交換し合って読んだものである。その友人が毎号買う本(何であったかは残念ながら思い出せない)の誌面に、毎月プラモデルのカラー広告が掲載されていた。それは三和模型の広告であった。そしていち押しのようにしていつも中心に据えられていたのが“モーターで走る”スポーツカーのMGとジャガーであった。
毎月、友人の家でこの広告を見る度に、MGの広告イラストにうっとりした。かっこ良いとかかっこ悪いとかの識別も未だ出来はしなかったが、ともかく外国の凄いスポーツカーなのだと信じた。そして行き着けの駄菓子屋では見ることの出来ないこの三和のMGにずっと憧れ続けたのだった。毎月毎月、擦り込まれるようにして見せられた広告の赤いスポーツカーに、いつしか私は恋にも似た羨望の眼差しを向けるようになっていた。欲しかった。その広告を見る度に、欲しい気持ちが募った。せめてどこぞの店頭ででも実物を見る機会さえあったら、多少はその乾きも癒えたのかもしれない。しかし私の生活圏ではついぞ見ることの叶わなかったキットであった。いかにも高速で走っているらしく流れて描かれた道路面の上を、俯瞰から見た赤いMGが疾駆する光景のイラスト、それは紛れもなく三和のMGのボックスアートであった。それから随分と後年になって、私はこの三和のMGを手に入れた。極初期のプラモデルなのだからとの好意的な見方を差し引いても、お世辞にも良いキットとはいえない内容だった。一応はMG-TDの姿はしているものの、その本質は殆どトイの範疇を出てはいない。TKK.No.02モーターで後タイヤ外周を直接回す原始的なモーターライズ機構で、当時の定価はモーター、電池(単3電池1本)別で100円。国産プラモデル草創期としては「それなりの内容」であったかもしれぬが、とうてい永年「恋焦がれる」ような代物ではない。得てして初恋の美しい想い出などというものの実態は、そんな程度のものなのかもしれない。今の私にとっては孝子ちゃんも三和のMGも、ただ胸がきゅんとする郷愁に過ぎないようだ。
投稿者 平野克巳 : 2005年11月08日 18:38 | トラックバック
2005年11月04日
1/24モペット コレクション始動
既に各種イベントなどで試作品が展示されたり、幾つかの媒体で紹介されたりしているので、ご存知の方もおいでかもしれないが、食玩系メーカーのエフトイズからミニバイクをモデル化したシリーズが来年年明け早々にリリースされる。シリーズの名称は“モペットコレクション”MOPET COLLECTION、1/24スケールで往年の名車たちを再現したミニモデルである。モデルとなっているのは1966年/昭和41年のホンダ スーパーカブC50(初のOHCカブ)、1976年/昭和51年のホンダ ロードパルNC50、1964年/昭和39年のラビット スーパーフローS601Cの3機種、全6タイプが第1弾として発売予定だ。僭越ながらこのシリーズは企画段階から私が監修をさせていただいた。シリーズコンセプトからモデル選定まで全てに関わらせていただき、これまでの食玩とは一線を画する「新たなコンセプト」の食玩と自負している。先ず昭和の時代背景の中からそれぞれの時代に則したモデルを抜粋し、日本のミニバイクの歴史を大まかに現せるように心掛けた。続いてそれらのモデル個々に時代背景のみならず、とあるひとりの人物像を設定し物語を構築した。人物設定については名前は勿論のこと、現在の職業や生活状況、身長、体重に至るまで細かに設定している。そして、その上で、バイクとフィギュアで再現されたモデルの状況設定をストーリーとして創作した。捨て猫に向かう源さんと、それを涙で見送る少年の日の僕…個々のモデルにはそうしたそれぞれの物語が添えられている。その物語は付属のリーフレットに記されているので、是非それを読んでその時代の空気感、時代感を楽しんでいただきたい。中には実在のものも密かにちりばめられていたりもする…「しげるーっ。元気にしてるかーっっ」…あ、いやいや、公共の場所にわたくしごとを持ち込んではいけません。だうも、すんません。また、その状況設定をイラストにしたものも添えられていて、よりビジュアル的な拡がりも楽しんでいただける。イラストを担当したのは、かつてモデルカーズのMC's illustratedで素晴らしい航空絵画を描き、現在ではハセガワ、タカラなどのプラモデル・ボックスアートで活躍中の和田隆良である。ちなみにバイク本体の原型製作は市原俊成、フィギュアの原型製作は寒河江 弘と、各界の第一人者が当たっている。
ホンダのスーパーカブとロードパルはツインリンクもてぎのHONDAコレクションホールにて実車取材を敢行し、数百枚にも及ぶ細部写真が撮影されてモデル化の参考資料として使用されている。またラビットに関しては某オーナーズクラブの協力を得てやはり実車取材を行なった。自動車ファンにも有効に活用していただけ、またコレクションとしても楽しんでいただけるよう、当初よりスケールは1/24と決定していたが、それだからこそ食玩の限界に挑戦すべく実車取材など実物に徹底的にこだわった。これくらいでいいでしょう、は禁句としたかったのである。当然、それは技術レベルにも求められ、このスケールとしては限界とも思われるスポークの細さなどを実現している。トイではなく、スケールモデルを追求したかったので、プラモデルのファンにも受け入れてもらえるだけの水準を目指した。当然、商品の体裁は塗装済み完成品であるのだが、ユーザーの好みによってバラして、削って、塗り替えることも可能な樹脂を使用しているのも特徴のひとつだ。だから、単に買って開けて楽しむだけでなく、自由に自分の世界を演出して遊んでいただきたい。ディテールアップしたり改造したり、またはディオラマ仕立てにしたり、その世界はアイディアの分だけ無限に拡がるのではないかと期待している。他に私個人の提案として改造用エッチング製スポークホイール・キットの別売りなども検討中だが、これについては検討の域を出ていない。
食玩のお約束、シークレットも無論ある。厳密に云えば別モデルなどではないので、メーカーではスペシャルと呼称するようだ。これも小道具としてはモデルを引き立てる非常に重要なアイテムで、実物のメーカーへ取材を行なった労作である。商品形態がブラインドボックスなので恐縮ではあるが、是非このスペシャルをゲットしていただきたい。そして三丁目の夕日ではないが、良き時代、昭和のなにげない日常を懐かしく思い出していただければ幸いである。
ちなみに第2弾も既に進行中である。車種はホンダ、ヤマハ、ホンダの3機種(それ以上は内緒っ!) モペットがあったらビッグバイクなんかも欲しいよねー、ってな声も大なり小なりあるだろう。当然である。私だって欲しい。そうしたファンの要望の声には極力応えたいと思っている。そしてエフトイズは今、本気モードで全力疾走中だ。エフトイズの今後からは目が離せない。
投稿者 平野克巳 : 2005年11月04日 22:12 | トラックバック
2005年11月01日
プラモ人生の片隅にあるRC
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先日のニュース報道でラジコンヘリの事故を知った。祖父の操縦するRCヘリが孫娘を直撃し死亡させたと云う事故だ。何ともいたましいことである。その昔は河原や野原、うっかりすると学校の校庭などで無線操縦(ラジコンは某特定メーカーの商標登録らしく厳密には使ってはならないらしいのだが、ここでは便宜上ラジコンと書かせていただく)の飛行機を長閑に飛ばす風景が良く見られたものであるが、現在とは人口密度も生活環境も全く異なっていたから大して問題にもされなかった。また携帯も含めたら現在は膨大な量の電波が飛び交っているが、あの頃は電波と云えばアマチュア無線(いわゆるハム無線)か公共電波(テレビ、ラジオ、航空、警察、消防など)くらいのもので、一般庶民が発するようなことはあり得なかった時代である。だからラジコンに対して社会もずっと寛容であった。
ラジコン飛行機はやはり当時もかなり高価な遊びであったから、そこかしこで見られるというようなものでもなかったが、何れにしても大人の遊びであることには違いなかった。だから大概の模型小僧たちはリモコンで溜飲を下げていた。それとて高価であるには違いなく、リモコンを切望しつつもシングルで我慢し、そのシングルのモーターさえも買えないと組み立てるだけで満足せざるを得ないという充たされない日々を過ごした。リモコンというのは自在に操れる高揚感はあったが、やはり線で繋がれている侘びしさがあった。戦車や自動車に引き摺られるようにしてどこまでも自分自身が伴走せねばならなかった。その姿は傍目で見ればとても間抜けな光景にも思われ、堂々と立ちすくんだまま自在に戦車や自動車を操れたらどんなに素敵だろうと夢想したものである。取り分け自動車はいけなかった。玩具の世界ではワイヤ操作の作用で小さなハンドルにより左右のステアリングの可能なものも存在したが、プラモデルではそこまでのものは中々なかった。ただ単にジャーッ! と前後に行ったり来たりするだけで、しかも路面の凹凸に影響されて次第次第にあらぬ方向へと向かってしまうのだった。その点、リモコン戦車は遠隔操縦の醍醐味を大いに堪能させてくれた。雑誌や座布団で作った掩蔽壕の障壁を乗り越えて進むさまは実に豪快であったし、左右のキャタピラ(これもメーカーの登録商標なのだが、昔から鉄やゴムの無限起動帯を慣習としてそう呼んでいる)の回転を制御しての独特な動きには誰もが魅了されたものである。そして戦車模型の大きなものでは「ラジオコントロール装置搭載可能」と謳われていて、いかにも誇らし気であった。それは憧れであったが叶わぬ夢でもあった。高価極まりないラジコン装置なぞ、例え誕生日だろうがクリスマスだろうが無理な相談というものであったのだ。だから私も少年時代にラジコン模型を買ったことはひとつもない。
しかし、たったひとつだけラジコンの自動車モデルを持っている。それはKB(オーロラの別ブランド名で有名なあのK&Bとは別で、丸正通信精器KK/木村物産KK製である)の日産シルビアで、スケールは1/12の大型モデルである。当然、買ったのではない。賞品で貰ったのである。小学校高学年か中学生になった頃かと記憶しているが、某国鉄駅ビルで開催されたプラモデルコンテストの一等賞品としていただいた。出品したのはマルサンのバラゴンと緑商会のM-4シャーマンなどを組み合わせたディオラマで、手元スイッチでバラゴンの口や破壊された戦車などが赤く発光するギミックを盛り込んであった。いわば作品の出来映えよりはアイディアが評価されたに過ぎないのだが、とにもかくにも一等賞なので立派な賞品をいただいた訳だ。まさに当時の私にとっては天にも昇る心持ちであった。買えば5,500円の高額商品である。一等になったという事実よりも、初めてのラジコン、初めての高価な玩具に心うち震えた。生まれてこのかた、こんなに大切にした玩具もあるまい。しかし当時のラジコンのこととて、送信機はシングルボタンスイッチであった。もう忘れてしまったが、トンツーで左折、トントンツーで右折、みたいな操作方法だったと思う。しかも数メートルも離れると、もう電波が届かず勝手に暴走してしまい、しょっちゅう慌てて追いかけたものだった。それでもこのシルビアをどこに行くにも持って行った。家族旅行で伊豆の国民宿舎に泊まるような時にも、このシルビアを風呂敷に包んで抱えて行ったものだった。子供の身にしてみれば結構かさばる大きな包みなのだが気にはならなかった。そして随分と永い期間、このシルビアでは遊んだ。KBマイコン1/12日産シルビアは私の人生において、最初にして唯一の本格的ラジオコントロール自動車玩具であった。今はもう動かない(と思う)けれど、少年の日に最も大切にした想い出と共に健在である。あの自在に動かせた日の感動と興奮は、本物のクルマに乗るようになって色褪せてはしまったが、それでもラジコンの楽しさ、凄さに単純に高揚した日のことは忘れることなく懐かしさと共に思い出される。ウチの子供に随分と作ってやったタミヤのRCカーを、自分自身でももっと楽しんでおけば良かったかな、などと今さらながらにちょっと残念にも思う今日この頃である。
投稿者 平野克巳 : 2005年11月01日 23:11 | トラックバック
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