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初代編集長 平野克巳の「猫の耳に大仏」湘南鎌倉便り


モデルカーズの生みの親、平野克巳氏による目からウロコの模型小噺。さぁどんな話が飛び出しますか。乞うご期待。

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2005年12月

2005年12月30日

昭和は遠くなりにけり


写真左:モデルカーズ5 MC's CLUB 読者投稿のヤマダのライトニング(上)/モデルカーズ5 1988年1月号より抜粋
写真右:モデルカーズ4 「マルサンの残像」記事中の在りし日の五島 彪氏/モデルカーズ4 1987年8月号より抜粋



 モデルカーズ創刊以来の古い読者の方ならあるいはご記憶かもしれぬが、モデルカーズ5(1988年1月号/通巻105号)の読者投稿ページ“MC's CLUB”でご紹介した山田模型のライトニングと云うモーターサイクルモデルをご存知だろうか。これは当時も今も非常に珍しいキットであり、私も未だに完全なキットフォームを見た事のない幻のキットのひとつである。当時、日本模型1/15ホンダ・スーパーカブを記事に採り上げた事を切っ掛けに、関東在住のN氏が編集部宛に投稿して下さったもので、立川の模型店店頭に飾られていた完成品をN氏が譲り受けたものだった。キットの素性が分からぬがこれは何でしょう、と写真をお送り戴いたのだが、当時、これを見た私は“学会に発表されていない全く新種の恐竜の化石を見た思い”で倒れんばかりに驚いた事を記憶している。前述のとおり、山田模型のライトニングは初期のカタログに掲載されていたのみで、その実態はまるで不明なキットであったからである。ただ資料によれば「マブチ15モーター内蔵で、グリップを回すとエンジン音が出、後輪が回転する(走らない)」と云う中々にユニークなギミックを持ったキットである。この時はこれで話が終わってしまったのだが、あれから20年近くも経った今年、そのライトニングの完成品を私の近しい友人が入手する事に成功した。しかも放出されたのは何とあの時のN氏ご自身であった。あれからずっとN氏の元にあった事だけでも感動ものだが、たまたま知人が譲り受けたと云うのも、奇妙な運命の巡り合わせを感じざるをえなかった。知人は既にインストラクションを入手していたので(残念ながらパッケージは未だ入手出来ずにいる)早速検証してみると、設計製図 H・KAMBAYASIとクレジットが記載されていた。初期の山田模型にはユニークなギミックのキットが多く、例えば自動潜水浮上装置付の伊号400やUボート、衝突するとバラバラになるビックリ分解自動車、カムで数種の走行パターンが選べるトヨタ・ランドクルーザーなどがあり、このライトニングも伝説のプラモ設計者の手になるものに違いあるまいとピンときた。多分、神林さんと云う方なのであろう。この方はご存命であろうか。もしお元気であるならば是非、お目にかかってこれらユニークな設計の数々について伺ってみたい。早速、古くからの業界の方々にコンタクトを取り、神林さんの行方を追った。元日東科学のS氏、元マルサンのI氏、S氏、童友社のU氏など、思い付くまま片っ端から伺ってみた。すると残念な事にちょうど一年ほど前にご逝去されていた事が分かった。既に山田模型の社長も鬼籍に入られており、これでライトニングについての検証への望みは全て水泡に帰してしまった。そして、神林さんの所在を調べる過程で分かった事だが、元マルサンの重鎮、五島 彪氏もお身体を悪くされ入院中である事が知れた。ならば一度お見舞いにと思っていた矢先の10月31日、急逝されたとの知らせが届き、私も余りのショックに暫し虚脱感に襲われてしまった。思えばモデルカーズ4(1987年8月号/通巻98号)で私が全精力を上げて取り組んだ特集“マルサンの残像”で知り合ってから、五島氏には有形無形、実に様々に良くして戴いた。人嫌いの気難し屋の噂もあったが、私には何かにつけて優しく接して下さった。いつも船橋のご自宅へ気持ち良く迎えて下さって、何時間でも飽きる事なくマルサン時代の想い出を語って下さった。戦前の商船員時代のお話がお好きで、実に楽しそうにお話になる姿が忘れられない。古い1/12カウンタックLP400のトイラジを下さったが、送信機が見つからない事をいつまでも気にかけて下さっていた。マルサン1/50F-4B/Cファントムのキットを残しておけば平野さんにあげられたのになあ、と何度も残念そうに言って下さったのも忘れられない。パソコンがお好きで私が持っていないと言うと、直ぐにソフトをコピーして送っても下さった。船橋の五島氏のところへは一体何度通った事だろう。またひとつ伺う事の楽しみな場所が減ってしまった。近所で一緒に軽い食事をし、私のクルマでご自宅までと申し出ると「歩いて帰れるから送ってくれなくても良いよ」と、夕暮れの歩道で見送って下さった。あれが五島氏のお姿を見た最期となってしまった。寂しい限りである。今では戦えるフィールドを持たず、また現在の出版不況の中で、ただいたずらに無作為に時間の経過ばかりを眺めているだけの腑甲斐ない私にとって、時の流れほど残酷なものはない。あの時代を戦い抜いた武士たちが、櫛の歯が欠けるようにして一人、また一人と居なくなってしまう。貧しかったが輝かしかった昭和の、そしてプラモデルの時代が、確実に歴史の中に埋没していこうとする現状で、ただ手を拱いて見ているだけの私自身が情けない。このままでは国産プラモデルの歴史の全てが霧散して消えてしまいそうだ。少しでも何かを後世に伝えなければ…そうした使命感に胸は焦がれている。

投稿者 平野克巳 : 2005年12月30日 16:48 | トラックバック

2005年12月27日

年末歳時記遠く




 クリスマスが終われば街はたちまち年越し準備へと取り掛かる。今や国営TV放送「行く年来る年」の除夜の鐘中継を楽しみにする者とてなく、晴れ着を着込んで一家でお屠蘇でお祝する家庭など滅多にない。年末は一杯一杯まで仕事が立て込み、暦上の松が明ける前から平常業務が始まっていたりする。餅とおせちでゆったりと家に立て籠る暇さえない。第一、スーパーやコンビニは新年二日には既に通常の営業を開始していて、年末年始は「日本中が休み」であった時代など遥か昔の話となってしまった。その昔は年末になればどこの家庭でも大掃除をするのが慣わしであった。障子を破いて水拭きし張り替える。畳みを表に出して埃を叩いて払う。家中のガラス戸、窓を全て水拭きする。そこいら中で三角巾と割烹着姿の奥さんたちや子供たちが忙しく立ち働いていた。そして商店街におせちの材料を買いに出掛け、一年の垢を落としてすっかりきれいになった台所から煮物の良い匂いが立ち始める頃、台所口には酒屋の集金がやって来た。門松や注連縄の売り声が最期の追い込みを見せ、商店街からは「来年もご贔屓に」などの挨拶が乱れ飛ぶ。大晦日になれば年越し蕎麦を運ぶ蕎麦屋の出前の自転車が忙しく走り回り、街は新たな年を迎えるべく襟を正して静まりかえるのだ。年末年始のテレビも年々楽しみではなくなってしまった。今では「TVガイド」などのTV番組雑誌「お正月特大号」も買わない。ビデオやDVDの普及で、年忘れロードショーだの新春特別映画劇場などと銘打った深夜枠の古い映画なども今では放映されることもない。ゴジラやラドン、トコリの橋やキングコングなどは、こうした深夜番組で初めて観たことを懐かしく思い出す。親戚の家でラットパトロールを初めてカラーテレビで観た日の感動などはまるで昨日のことのようだ。今年の大晦日はどうして過ごしているだろう。私の家では裏手に源氏山が聳えている為、鎌倉古山古寺の除夜の鐘が聞こえない。以前の家では恒例であった鶴が岡八幡宮境内から流れて来る「はい、ロープがあがります。ゆっくり走らずに進んで下さい。八幡宮は逃げません」の鎌倉警察署の拡声器の声も聞こえない。ただしんと静まり返った年越しである。私は今でも銀座和光の時計台で「螢の光」を唱うダークダックスを観ないと、年越しをする気分になれない。クリームシチューやアンタッチャブルと共に新年を迎える気分にはどうしてもなれないのだ。山里に住まわっていてもテレビと云う文明の呪縛から逃れられない哀しさ、口惜しさ…そして、日本古来の伝統を尊ぶ歳時記からは縁遠くなってしまった現代の生活のつまらなさ。派手やかではあるが薄っぺらくなってしまった日本の四季折々が無惨に思える今日この頃ではある。
 ところで話題はガラッと変わるが、先日、近隣のスーパーの玩具売場でひとつ目をひいた玩具があった。完成品のラジコン、いわゆるトイラジなのだが、メルセデスベンツSLRマクラーレンなのである。そしてスケールが1/12と大型なのが何よりも私の琴線に触れた。以前のトイラジはボディは良くともタイヤ、ホイールに著しくバランスを欠いているものが多かった。しかしこれは悪くない。今さらラジコンで遊ぶ気はないが、スケールモデルとしてイケルのではないか…そう思った。他にBMW Z4ロードスターとランボルギーニ・ムルシエラゴもある。ランボルはともかくZ4も雰囲気があって、一寸欲しいモデルであった。メーカーはトイコー、メーカー希望価格は7,980円だが店頭売価は6,380円であった。しかしオープン価格が当たり前となったご時世であるから、これで安いとは到底思えない。第一、玩具にそんな金額を投資する余裕などまるでない。このテの高額商品はクリスマスを当て込んだ商品なので、最終的には叩き売りをするのではないか…24日夜に再度行ってみた。ビンゴ! 表示価格より半額となっていた。3,190円! ふむ、これなら想定内だ。懐具合からも何とかなる。ぐふ、ぐふふ。私の目論見は見事当たって、こうして私はリーズナブルにメルセデスのスーパーマシーンのオーナーとなったのだった。いそいそと自宅に持ち帰り、新しもの好きな猫どものアタックを防御しつつ改めて説明など眺めてみると、ヘッドランプが点灯しクラクションが鳴ったりするらしいのだが、そんなことは私にとってみれば「猫に小判ザメの着きようもない」である。それよりも一寸上げ底ではあるが、ちゃんとコクピットも再現されているのがヨイよなあ~などと一人ごちている。プラモデルがすっかり衰退してしまってアテにならなくなってしまった昨今、トイの世界は侮れない。感覚的に云うと「熱海秘宝館」くらいの期待度でしかないのだが、それでも時には驚かされるモノが混ざっていたりもするものである。そう云えば買いそびれてしまったスズキ・ラパンは惜しかったよなあ…などと悔やんだりはするのだが、プレミア価格でまで欲しくはない。やはり安かったから、これが大原則のようではある。クリスマスにはプレゼントを…そんな年末歳時記における別の側面のひとつと言えようか。自分自身へのプレゼント、なのは何だかうら悲しくはあるけれども…。

投稿者 平野克巳 : 2005年12月27日 22:41 | トラックバック

2005年12月23日

聖夜に天使が降臨す




 メリー・クリスマス! などと永年の慣習でつい口走ってしまうものの、別に我々はキリシタン(踏み絵は踏んだかあーっっ)である訳でもなく、日本のクリスマスはと言えば元々逞しき商魂をその起源としている。戦後日本経済が立ち直り始めた頃、年末のボーナスを狙って夜のおねーさん達が、懐のふくらんだサラリーマンのおとーさん達に仕掛けた売上推進強化キャンペーンこそクリスマスの発祥である。浮かれたおとーさん達は三角帽子に鼻メガネでどんちゃん騒ぎをし、遊んでしまった罪滅ぼしに家族にケーキをお土産に買って帰る、と云う図式がその原形で、やがて子供達にプレゼントをすると云う尾ひれはひれが付くようになって風俗として定着した。大体がクリスチャンでもない我々がキリストの生誕を祝う訳もなく、にも関わらず都合良くサンタにプレゼントだけは所望すると云う図々しさは如何ばかりかとは思うのだが、それでも子供にとってはこの上もなく楽しい年中行事のひとつには違いない。元々昭和30年代は未だ社会全体が貧乏で、子供は滅多に欲しいものなど買っては貰えない日常が厳然として存在していた。その為、クリスマスと誕生日には特別に何かを買って貰えると云う習慣が出来上がった。「誕生日になったら買ってあげる」とか「クリスマスまで待ちなさい」と子供を言い包め説得する為の材料としてあったのだ。そして当時の子供達は大人のそうした策略にまんまと乗せられては「あと何ヵ月と何日…」などと指折り数えては物欲を封印し耐えたのであった。かく言う私もそうした時代に少年時代を過ごしたひとりである。流石にサンタクロースの存在など信じてはいなかったが、枕元に靴下を置く(ベッドではないので吊るす事は出来なかった…)形式的な儀式は大切にした。私の誕生日は7月1日であるので、ほぼ半年単位で欲しいものを我慢しては待ち続けるローテーションであった訳だ。誕生日に友人を招いて誕生会をやるのが当時は流行っていて、それだけに誕生日には友人からのプレゼントが大いに期待されたが、クリスマスとなると家族単位のイベントなので、両親も他力本願に頼る訳にはいかなかった。そこで半年間「欲しい」と切々と訴え続けたモノを買ってくれた。私の場合、当然の事ながらその殆どがプラモデルであった。1日10円の小遣いでは例え逆立ちしても買える事のなかったマルサンのHOスロット・ホームサーキットセットや日本ホビー1/20M-41ウォーカーブルドック戦車などの大物は、全てクリスマスプレゼントとして両親にねだって買って貰ったものだ。もはや両親からのクリスマスプレゼントはいつが最期だったかも既に忘れてしまったが、その後は彼女からとなり、やがて妻からへと替わり、いつの間にやら貰う立場から贈る立場へと替わってしまっていた。それでも子供が幼い時は玩具を買ってやる事はそれなりに楽しかったが、すっかり大人となってしまい玩具など欲しがらなくなってしまうと、クリスマスプレゼントそれ自体に何やら夢のない即物的側面を感じるようになってしまった。まあ、自分がガキの時分だって物欲にまみれていたのだから、それを云々する資格は私にはない。ちなみに数年前までは子供達もクリスマスの夜には家に居たから、習慣としてクリスマスケーキは毎年、晩餐の席にあがった。その晩だけは我が家の猫達もケーキのご相伴に預かる(ウチの猫はクリームやあんこの好きな変な猫どもである)。 しかしそうした家族の団らんも子供の成長と共になくなり、今では猫と共に静かな聖夜を過ごすのみである…などと言っていたら、今年の初頭に我が家に新たな子供達がやって来て、にわかに賑やかに…と云うか、にわかに大混乱をもたらしている。新たな子供達と云っても別に孫が出来たとか、ましてや妻が更に赤ん坊を生んだとかである筈もない。子猫が2匹やって来て、我が家の新たな家族に加わったのだ。これについては少しばかりこのブログで過去に触れたので、ご記憶の方もおいでかもしれない。三式戦「風」と夜間戦闘機「海」と云う。三式戦とは三色の三毛猫だからで、夜間戦闘機は見てのとおりである。こやつらが巻き起こす混乱は「宇宙戦争」以上の戦慄である。眠っている人の頸動脈を思い切り踏んづけてジャンプはするは走り回るは、もしも猫好きでなかったら半狂乱になってしまうであろう狼藉振りである。天使のような悪魔なのか悪魔のような天使なのか、とにかく可愛いが大変な奴らなのである。そしてこやつらにとっては生まれて始めての聖夜が来る。もはやケーキは望めぬかもしれぬが…って、猫にそんなモン喰わせちゃいかんて…せめて猫用ではなく人間用の高級食材「塩分無添加・煮干し」をたらふく喰わせてやろうと思っている。その事による見返りは猫には期待しないが、居てくれるだけで幸せを運んで来てくれるのだ。起きている時は「暴れはっちゃく」だが、寝ている時の寝顔はまるで獣のようだ…当たり前だ。獣である…そうでなくて、その寝顔はまさに天使である。聖夜に2匹の天使が舞い降りる。これはこれで人生にとって素敵なプレゼントであることよ。メリークリスマス。貴方にも素敵な聖夜でありますように。

投稿者 平野克巳 : 2005年12月23日 19:55 | トラックバック

2005年12月20日

シランプリ




 最近はテレビで深夜にF1の録画中継をしていても知らんぷりである。何だか一向に興味も沸かず、裏番組の下世話なお笑い番組などを観ていたりさえする。思えば初めて日本にF1がやって来た1976年以降、それとなく盛り上がっては落ち着いて、を繰り返しては、次第に沈静化して来たように思える。ホンダ・パワー黄金時代、ロータスと中嶋 悟の撤退、セナの死、そんな要因が作用しては「みーちゃんはーちゃん」まで巻き込んで熱く燃えたF1グランプリも現在の衰退へと至っているようだ。大体からしてF1グランプリと云うのは「世界で最も権威ある自動車レースの最高峰」を自負しているが、元を正せば自動車文明では世界の頂点を自認していたかつてのフランス、イタリア、イギリスなどの欧州各国が、勝手に世界チャンピオンシップを謳って始めたクラブレースみたいなもので、極めてローカル色の強い「地域限定」草レースみたいなものである。喩えて言うならアメリカのメジャーリーグ・ベースボールが全米チャンピオンを決めるシリーズに「ワールドチャンピオンリーグ」を謳っているようなものだ。まあ時代と共に町工場規模では出来なくなって、現在では良くも悪くも世界規模になってはいるが。ボクが仕事を通じて会った事のあるF1ドライバーは、ジョン・サーティース、ジム・ホール、キャロル・シェルビー、スターリング・モス、フィル・ヒル、そしてF1のシートには到達出来なかったが生沢 徹と云った面々であったろうか。その陣容からしてお分かりのとおり、ボクにとってのF1は1960年代、それも1961年から1965年に施行された1,5・レギュレーションの時代である。無敗の空飛ぶスコットランド人ジム・クラークの、二輪と四輪の両方で世界を制した天才ジョン・サーティースの、そして我らがホンダ乗りリッチー・ギンサーの活躍したあの時代である。1,500ccの小排気量エンジンが絞り出す悲鳴のようなエキゾーストノートに、ナショナルカラーに染め上げられた華奢なマシーンの俊敏な走りに何よりも魅了されたものだった。当時はテレビ中継など勿論の事、ビデオ、DVDなど一切無く、精々三月遅れのモータースポーツ誌やレコードで静止画像や排気音に接する程度だったから、映画「グランプリ」(1966年製作/監督:ジョン・フランケンハイマー/出演:ジェームズ・ガーナー/イヴ・モンタン/三船 敏郎他)には狂喜乱舞したものであった。車載カメラ映像を見たのも初めてであったが、モンテカルロやスパ・フランコルシャン 、モンツァ、ザンドフォールトなど、雑誌のモノクロ写真でしか見た事のなかった風光明美で牧歌的な世界のサーキットを目の当たりにし、まるでフルシーズンを転戦しているような気分であった。
 先に記したようにVHSもDVDも存在しない時代であったから、この映画がかかっている所へはどこへでも出掛けた。70mmシネマスコープのテアトル東京の封切ロードショーから横浜の三流館まで、都合11回は劇場で観ている筈である。この劇中でも英国のBRMはストーリーの中心的存在として登場するのだが、当時のボクのご贔屓はロータスと共にBRMだった訳で、あの鉛筆のようにスリークなスタイルには例えそれがレプリカであっても釘付けとなってしまったものだ。1965年のスロットブームの際には、コックスは高くて買えず、東京プラモ、童友社、マルサンは小馬鹿にして(わ〜ん、D友社のU田さん、ごめんなさ〜い)買わなかったので、BRMは1台も持っていなかった。それから永い年月が過ぎ、ある日、ネット・オークションでBRMを見つけた。プラボディのフリクション走行玩具であるが、明らかに1964年のBRM P261であった。ミニカーの、ましてやオモチャの趣味なぞまるきし無いボクが、まるっと玩具のBRM F1を買ってしまった。ちょっと大振りだがおよそ1/24スケールだ。ボディ上半分が赤で下半分が白い不思議なBRMだがP261である事には違わない。紅白のBRMなんて目出度いばかりぢゃねーか、などと笑い飛ばす事にしている。どうも童友社のスロットボディの焼き直しらしき臭いがするが、それならそれで尚更オッケー! である。しかし箱はジェット・ロータス…ほんと「なんでんかんでん」オッケーな時代の産なのであろう。しかし、こんな玩具を誰が欲しがったのか…「おめーだよ」と言われれば返す言葉もないが、店頭でこれを指差して「買ってよーっ」と泣いた(その昔、子供は玩具が欲しい時は必ず泣くか拗ねるかしたものだ…)子供など居たのであろうか。今でも車体を押すと、当時のF1とは似ても似つかぬサイレンのようなフリクション音をたてて走り、あの映画グランプリの劇中、モナコGPでのピート・アロンとスコット・ストダードの熾烈なバトルを彷佛とさせる…「嘘くつんぢゃねーよ」…だうも、すんません。
 さて、時の勢いで、つい何とはなしに購入してしまった玩具のBRM P261ではある。飾って楽しむほどのものではなく、所有している事に喜びを感じるほどのものでもない。だが、今さら手放す事も出来そうにない。大事なような、場所塞ぎなだけのような…何やらこんな存在のものがボクの生活空間の中にはやたらと多いような気がしている。取り合えずは意に介していない振りをしておこうとは思っているのだが。どうするのよ、オレっ!

投稿者 平野克巳 : 2005年12月20日 16:12 | トラックバック

2005年12月16日

男たちの大和糊




 フエキ糊と云うのもあったな…ボクたちが最初に糊と云う接着剤と出会ったのは一体何時の事だったろう。ボクは幼稚園児の頃には月刊少年まんが雑誌を愛読していた。本誌が分厚く、その間に第1付録のペーパークラフトと帯封がされた別冊付録が挟まって、紙紐で十文字に縛って売っていたアレである。大概は少年ブックか少年画報を贔屓にしていたが、付録の善し悪しでぼくらや冒険王などの他誌に宗旨替えしてしまうような月もあったが。その付録のペーパークラフトででかい三式戦飛燕や零戦を作った記憶があって、それが本格的に糊と云うものを使った最初ではなかったかと思う。三式戦や零戦は1/24スケールほどの大きさがあったように記憶しているが、子供の感覚はご存知のように実際より大きく広く記憶しているものなので真偽の程は確かではない。当時のペーパークラフトであるから谷線、山線で折り、それを更にしごいてアールを出すような難しいものだった。だから零戦のカウリングなど微妙な丸みなど出よう筈もなく、カックンカックンした姿になってしまうのが必定だった。そして糊代にヤマト糊を塗っては指先で押さえ、ビヨヨンと剥がれてはまた糊を塗って…それはそれは根気の要る苦役であった。セロハンテープは現在のように使い放題し放題な消耗品などではなく、一家にひとつの贅沢品であったので、工作や模型作りに勝手に使えるような代物ではなかった。水色の円筒形の容器に黄色い蓋の付いたヤマト糊は、小学校の工作でも必需品で、ボクたちが経験した最初の接着剤だったように思う。ちなみに夏休みなどで田舎のおばあちゃんちに行くと、糊は朝の残りのご飯粒をお櫃から出して、自分でねって作らなくてはならなかった。そしてプラモデルの登場と共にボクたちは本格的に接着剤との付き合いを余儀無くされる。
 既に黄色いチューブで赤いキャップのセメダインは売っていたが、余程のプラモデル狂でもない限り、そこまで設備投資出来る者はそう多くはなかったように思う。何故かボクたちのエリアではあれをセメンダインと呼んでいたが、あの強烈な刺激臭には麻薬のような魔力があって、犬のように「くんかくんか」吸い込んでは恍惚とする危ない奴も居た。とにかくプラモデルには接着剤が付いていたので、大概の子供たちはそれでどうにか済ませていた訳だ。だが絶対的に接着剤の量が足りなかったので、かなり神経質に節約しながら工作しなければならなかった。初期には試験管のようなガラス管にコルクの栓がしてあるタイプがあって、これは大抵シンナーそのままのようなシャビシャビな液体であった。パーツに塗ってもその先からサーッと乾いてしまう。とてもじゃないが使いこなせなかった。続いて薬品アンプル状のものも登場したが、これはハート型のガラス切りがセットになっていて、ガラスアンプルの首のところを切り取らねばならなかった。この作業は子供には絶望的に難しかった。同様にアルミ製の菱形パックも使い難さでは言語に絶する。真ん中から二つ折りにして一方の先をハサミで切って使うのだが、栓や蓋がある訳ではないから、開けたら最期、垂れ流しなのである。チューブタイプが登場し普及するまではプラモデルの接着剤には難儀したものだった。ラベルのない銀色に輝く初期のチューブ型接着剤は最も馴染みのあるものだろうが、これにはキャップが付属していないので、待ち針を刺してチューブで開口部を作ると同時に、裁縫箱から失敬した待ち針を栓替わりとして使用した。チューブの接着剤も慣れるまでは失敗も多く、指先の力加減が悪いとグチュチュと一気に出てしまいオシャカとなるケースが頻繁にあった。まあ、最初は大抵がゴテゴテと使ってしまうので、キットの完成まで付属のチューブ接着剤では間に合わない。そこで母に泣いてすがって件のセメンダインを買って貰う訳である。確か当時は20円だったろうか。ヤマト糊はあんなにでっかくて10円だったように思うので、やはりセメダインは贅沢品なのであった。接着した隼の主脚が机の上でスローモーションでぐにゅう~と傾いでいく…慌てて接着剤を塗り足すほどに一式戦隼は白く曇った接着剤でこてこてとなっていくのだった。
 やがて時代が過ぎ生活は裕福になり、ボクたちも育って知恵が付いた。接着剤が硬化するまで輪ゴムや洗濯ばさみ、セロテープなどで固定する技を覚えた。だが、いちいち接着面の乾燥を待つので、プラモデルの工程は中々進まず時間がかかった。大きなパーツの接着などしてしまうと、乾燥待ちで今夜はおしまい、なんて事もざらにあったのだ。そうした煩わしさを一気に吹っ飛ばしてくれたのが瞬間接着剤の登場であった。誰もがこれには感動した。待たなくていい快感。次から次へとちゃっちゃと作業を進められる嬉しさ。なんて凄い化学の進歩なのかと思ったものだ。そして爪と指先の肉が引きつれるように固着してしまった気持ちの悪さ。大事なVANのコッパンに丸いカチカチな模様を付けてしまった無念さ。当時のプラモデラーたちは瞬着に泣き、瞬着にまた笑った。最近ではスナップキットだのビス止めキットだの、接着剤レスな組立キットも沢山出回るようになっている。もう接着剤に泣き笑いした時代も遠い過去のものでしかないのだろうか。だが同じ過ちを犯さぬ為にも、不幸な時代の記憶を風化させぬ為にも、ボクたちはヤマト糊で戦った男たちの悲劇を忘れてはならないのだ。日本人の心の中にいつまでもヤマト糊をとどめておかねばならない。

投稿者 平野克巳 : 2005年12月16日 16:52 | トラックバック

2005年12月13日

続・復刻版「古典キット倶楽部」の舞台裏


ハセガワ1/12フェアレディZ300ZXツインターボ、キットインストより転載。画:和田 隆良

 タミヤ1/12フェアレディ240Zラリーの相方(漫才ぢゃねーんだから…)をどうするか…おおっ、そこで閃いたのはハセガワ1/12フェアレディZ300ZXツインターボであった。まあ、はっきり言って個人的には「古典キット」のカテゴリーに入れるのは如何なものか…なにせ1991年発売のキットである。14年前と言えば昨日も同前。読者諸氏にはお叱りを受けてしまうやもしれぬ。だがしかし、現在はたちの若者なら未だ小学1年生…「あれ? 知らない? 一寸前の事だからさあ」などと口走ると「ボクは未だ生まれていませんよ」などとよく言い返されてしまう昨今、10年は充分にひと昔と考えることにした。だがキットが新しすぎて手持ちがない。といって店頭で買える訳でもない。そこで再び頭の電球が点灯した。湘南東海岸戦車隊突撃隊組頭わだっち大佐なら所蔵しているに違いない。なにしろ彼がハセガワのボックスアートを描いた真犯人なのだから。あだ名を和田さんと呼ぶ彼はハセガワやタカラのボックスアート、モーターサイクル雑誌の表紙などのイラストレーターとして活躍中で、古いモデルカーズファンなら連載“MC's Illustrated”の航空絵画でもお馴染みであろう。案の定わだっち大佐は持っていた。気持ち良く譲って貰える事となったのだが、でっかい箱を見るなり腰が砕けた。定価32,000円…え? さんまんにせんえん?…とてもぢゃないけど、そんな金額払えないって…つーか、何でそんなに高いのよーっっ。蓋を開けて納得した。これって単なるプラキットぢゃないのね。当時、静岡のホビーショーで現物見てるのに、そんな事すっかり忘れ果てておったわ…ABS樹脂、PP樹脂、ホワイトメタル、亜鉛ダイキャストなどが多用されたマルチマテリアル・キットで、シャシー板などダイキャスト製でしかも塗装済み、エンジンも完成済みと云うハセガワ渾身の一作なのであった。

わだっち大佐の戦闘詳報より
9月吉日 源氏山の戦いに出撃、トブクロ戦線においてドングリ爆弾を抱えた敵武装偵察りす部隊と交戦、これを撃破す。葛原ガ岡駐屯地の補給廠へ新型長谷川Z300ZX特殊爆弾を搬送するも、現地司令部には既にこれを使用するだけの戦力無し。泣きそうな顔のねこんた参謀総長より「恩賜の煙草、敷島」三本のみ受領、これを新型特殊爆弾に替えて突撃せよとの下命。これまた泣きそうな顔の我、致し方なく万歳突撃を敢行す。嗚呼、憂国の想い、万感を込めて祖国湘南国の礎にならん。値切るなー、ねこんたーっっ!

 こうして無事(何がぶぢだあ~っっ!! …わだっち談)ハセガワ1/12フェアレディZ300ZXツインターボは、古典キット倶楽部のネタとなって、イリオモテイエネコと共に暮らす沖縄のA山氏のところへと海を渡って行ったのだった。♪泣きな~さあい~笑いなさあ~あい、いつの日かいつの日か記事を咲かそうよお~「うるさいっ!」 ところでタミヤの240Zラリーをそのまま作るのも脳が無いねえ、などと思うに至り、どうせならメイン車種なのにモデル化されていないZ-Lにモデファイするのも良いかも…などと考えてみたりもした。しかし確かスカイラインと共通のホイールキャップではなかったか? 1/12スケールでわざわざ作る事もあるまい、てな訳でさっさと前言撤回。ならば目先の変わって面白い432、いやいっそ432Rはどないやねん。でもあれってモノコック形状が全然別モンなんだよね。いや、もけーなんだからいーぢゃん。外回りはどうせ同じなんだからさあ。などと好き放題し放題の挙げ句、サファリラリー仕様で完成させる事に決定。それってキットのまんまぢゃーん。おあとがよろしいようで。ちゃんりんちゃんりん…「よろしくねーだろ」すんません…。もうこうなりゃ数を頼みのアメリカ的大攻勢だっ。タミヤ1/12フェアレディ240ZGもいったれーっっ。こうして再び「わだっち大佐」の悲劇は繰り返されたのであった。二度ある事は三度あるよ、わだっち大佐…「あっ、連絡絶った!」これが我らが「古典キット倶楽部」義勇軍の日常的武勇伝である。武勇伝、武勇伝、ぶゆうでんでんででんでん、れっつごー。あ、やかましいですか。すんません、すんません。さて…エーダイ1/20ポルシェ917が待機中なのですが。武装親衛隊K藤中佐っ!「ぎくっ! 正月はテレビ三昧したいのよ~」…なんでんかんでん送りつけちゃっていーかなあ~。国防軍Y川少佐っ! 「はーい、まっかせなさあーい。人間寝なきゃ何でも出来まっせーっっ」…あ、いや、Y川少佐に倒れられてしまうと、国防の危機でありますから…。かくして今日もモデルカーズ下請け部隊、別名外人部隊は進む。死んでも喇叭を離しませんでした(やめなさいって…) 頼もしき精鋭部隊によってモデルカーズの一部は創られるのでありました。ちなみに手が4本あるカパエール曹長は現在クルマ2台を同時進行で製作中である。足が余っているのでバイクも引き受けるとの嬉しい便りも届いている…らしい。はい? 私ですか? 子猫のお守で忙しくて…「お前なんぞ呪われてしまえ~くぽーっ(カパエール曹長の独白)」 今回も現地語放送にてお送り致しました。言語不明瞭な部分は適当に想像してくだすわい。

投稿者 平野克巳 : 2005年12月13日 17:47 | トラックバック

2005年12月09日

復刻版「古典キット倶楽部」の舞台裏




 古典キットの定義が難しい。昨今では店頭では入手し辛いものを古典キットの範疇に入れる事としている。それでも私たちの年代ではタミヤの1/12ビッグスケールシリーズは範疇には入らんだろう、などとつい考えてしまう。当たり前のように常にショップで売られているキットと、今でも思ってしまいがちなのだ。だが気付けば再販でもかからない限り、欲しい時にいつでもショップで買える、と云う訳にはいかなくなってしまった。その上、ネットオークションでも意外に高値でバカにならない。そんな訳で手持ちのキットがあればそれにこした事はない。何しろキットの仕込み代は自前である。その都度オークションのプレミア価格で入手していたのでは、とてもでないが仕事にはならないのだ。私のストックに1/12ダットサンフェアレディ240Zサファリラリー仕様があった。新発売当時に買ったものなので既に35年も経たものだ。サスペンションやエンジンの一部は作ってしまった部分もあるが、概ねキットフォームそのままなので、成仏させてやる為にも今回、使用する事とした。埃と日焼けで年季の入った箱を開けると、何とボディのルーフが潰れて変形していた。永年、上に何かが積み重ねてあって、箱の蓋とキットの中身に「重し」がかかってしまったのだろう。普通ならそこでゴミ箱行きとなるのだが、変形パーツなどものともせずに作り上げる事を伝統とする我が「716中隊」の生き残りにとって、この程度ならレベルワンくらいの危機感でしかない。取り分けポーランド義勇軍カパエール曹長にとっては朝飯前の昼飯抜き、ピースオブケークのホールごと喰いたい、である(一部、現地語放送でお送りしております為、言語不明瞭となっている部分のある事をお詫び致します)。

カパエール曹長の空戦日報より
10月吉日 ホントチャチ空軍基地司令部より240Zラリー受領。ルーフ歪みは熱処理により修正し、あとはクリアパーツのウインドウを強引に接着する事によって更に矯正せんとせしむるも、ウインドウ何と実車張りの点付けで頼みとならず。ひたすら「きゅっきゅきゅーきゅっきゅきゅー」と歪みの手直し、四十の手習い。半組み状態の足回りなどを一度パーツ状態に戻すべく、肥後の守(今どきそんなモン使うかーっ! デザインナイフぢゃ)にて丹念かつ剛胆に切断分解。間違えて左前足指三本切り落とすも、瞬時に蘇生し生え替わり事なきを得る。ようやく足回りメカ部分の再構築を開始。ここに到って部品の不足に気付く。元所有者に聞いてはみたが既にアルツハイマーの症状深刻化し、何も記憶せずとの答え。致し方なく某田宮国空軍省主計官、某U野少尉に泣き付き、不足部品の補充を頼まんとす。

 かつて塗装用のハンディスプレーガンとコンプレッサーは憧れと贅沢の極みであった。それでも交換エアボンベを大量に消費するならと、かつての我が部隊員は皆、かなりの財政的負担を強いられながらも、オリンポスのピースコンとコンプレッサーを購入した。こいつがまた頑健で壊れると云う事を知らない。未だにヤング88を使用している「物持ちの良い奴」さえ居る。さすがにハンドピースはメンテナンスフリーと云う訳にはいかないが、コンプレッサーのほうは踏んでも蹴ってもコッチのほうが痛い、ぢゃなくて壊れやしない。それでもデジタルばかりでなくケミカルの方面も著しい進歩を遂げていて、缶スプレーも昔に較べれば遥かに扱い易く性能も色合いも宜しい。それに未だにスケールモデルは実車より小さい分だけ明度を高くしないと同じ色調には見えないんですよ、なんて蘊蓄を傾けてしまう向きがあるようだが、我々は既にそうした些末な次元を蹴り超えてしまった。いーぢゃねーの、所詮もけーは実物とは違うんだからさあ、と暴言を吐き、要は自分の感性に忠実な色であれば宜しいのよーと鯵の開き直っている次第である。当時の日産ラリー車に塗られた赤は、実際は小豆色にも近いような暗い赤であったが、いくら1/12とでっかいとは云え、縮尺模型をそんな暗赤色に仕上げては華やかさに欠ける。重箱の底のごとき枝葉末節部分に何時までも眉ねを寄せて云々していると、増々模型ヲタクのそしりを避けられなくなる。ましてや中年おやぢとなっては、そうしたイメージはことさら宜しくなかろう。ヒトの顔色を伺うつもりなど更々無いが、やはり社会的イメージをいつまでも矮小化させるような指向とはそろそろ訣別しても良い頃なのではないか、などと考えてみたりしている今日この頃ではある。そんな訳でボディカラーの赤も色鮮やかなサファリ仕様車が完成と相成った次第である。女も男も模型も世の中もみんな綺麗なほうが良いのよ、そうではありませぬかえ、ご同輩。で、色鮮やかなる赤いボディの240Zラリーは近々、復刻版「古典キット倶楽部」にてご覧いただける予定である。

投稿者 平野克巳 : 2005年12月09日 21:13 | トラックバック

2005年12月06日

続・60年目の亡霊


①'04年、土砂の崩落により地中より姿を現わした97式中戦車の残骸。
②'05年11月、土手に掘り出されて一時保管されている様子。


③田宮模型歴史研究室助手、戦車模型行動隊班長M井教授、査察時のスナップ。
④大東亜二輪戦車考古学教室S木教授、御視察の様子。


⑤ほぼ原型を留めていた補助転輪。ゴムに刻まれたロゴも明瞭に残っている。
⑥砲塔を裏側より見る。主砲基部薬室部分も残されていた。


⑦車体前方へ延びる変速機とドライブシャフト。ユニバーサルジョイントは稼 働していた。
⑧開いた状態で固着した操縦席ハッチ。


⑨出土してチハ車の起動輪が確認された。
⑩車体下部の側面鋼板の厚みは25mm。チハ車の数値と一致する。



 97式戦車が突然、土の中から現れたらしいですよ。そうした嘘のような噂が飛び交ったのは昨年の晩秋のことだった。騙されたつもりで現地に馳せ参じてみると、何と本当に戦車が半分、土中から姿を現わしていた。その眼前の光景に暫し唖然と立ち竦んだものである。場所は神奈川県の三浦半島のとっ先辺りの、人も通わぬような寂しい海岸べりである。直前まで波が押し寄せる砂浜に、赤く錆び果てた鉄隗が鎮座する様は何とも異様で、まるであの悲惨な戦争で散華した名も無き人々の怨念が甦ったかのような鬼気迫るものであった。
 現地に辿り着くにはとある漁港から、海岸縁の道を徒歩で行かねばならない。道そのものはクルマ1台が優に通れるだけの幅があり舗装もされているのだが、漁港からは一般車輌の侵入を禁止している。大戦中の不発弾などが多く埋められている事情もあり、またどこかへ抜けられる道ではなく、住民も居ないことから一般の立ち入りを禁止しているのであろう。暫く続く道も三浦市のさる公共施設で途絶える。ここから先は人も通わぬ天然の要塞のようなものである。チハ車の在る現地へは海岸の岩場を進んで行くしかない。他のアプローチとして逆方向から高い崖を下って海岸へ降りる方法もあって、そうしてやって来たと云う猛者も居た。そのような場所なので、余程の人でないと近付かない。だが、今年の夏には戦車の脇に最近使用したと思しき注射器が捨てられていて、少なからず暗澹たる気持ちにもなった。何度か通ううちには廃墟、歴史、兵器などのマニアにも出くわし、もっと奥の崖には旧軍の見張り所跡もありますよ、などと教えていただいたりもした。
 現物を見る限り保存展示に相応しいようなものとは思われず、恐らく引き取り手もなく所轄の地方自治体はその処理に苦慮するだろうと思われた。しかし、今年になって栃木県那須高原の那須戦争博物館に引き取られることになった。此処は映画226に使用されたブルドーザ改造の「90年式戦車」だの、やはり映画「203高地」で使用されたレプリカの28cm砲だの、複葉練習機ボーイング・ステアマンの上翼をとっぱらって陸軍95式戦闘機と称したりなどの、良く言えばギャグセンスに富んだ、悪く言えば昔の見世物小屋的味わいの個人経営ミュージアムであるようだ。取り合えず那須博物館に問い合わせ、事の真偽を伺ってみたところ、引き取ったのは事実であった。掘り出しはどのようにして行なわれたのか聞いてみると、何と3.5トン・トラックと2.5トン・パワーショベルが現場まで入ったとのこと。道なき道をどのようにして大型車を通したのか、改めて検証してみると、三浦市東浄化センター裏手の山に山道のような小道を発見した。これまでは下生えが鬱蒼と覆っていて分からなかったのだが、トラックとパワーショベルが踏み付けたおかげで、道筋が明確になっていた。恐らく戦時中は軍の施設に向かう為に延びていた道だろうが、今は通う者とてなく雑木が覆うに任せていたもののようだ。まさにタイヤと履帯で踏みにじられた痕跡は、原野を開墾したあとのようで無惨であった。
 現地では二度吃驚。「ええ~こんなにしちゃったの」と思わず叫んでしまうほどの惨状である。車体は更に溶断されてまさにバラバラ状態である。これを那須戦争博物館では表面の錆を除去し、来年3月頃には公開展示する予定であるそうだが、もはやこれは戦車と云うより戦車の部品に過ぎない。こんなことなら改めて埋め直して、そのまま静かに眠らせてやったほうが良かったのかもしれぬ。まあ地元としては晴天の霹靂のようなお荷物であったろうから、自費で持ち去ってくれるところが名乗り出てくれたのは大助かりであったろう。埋め直すでもなく撤去するでもなく、ただ簡単なロープを張って「危険なので立ち入りを禁じます 横須賀市土木課」のプレートだけ下げたお役所仕事に失笑したボクたちにしてみれば、重機まで動員して引き取った那須戦争博物館のほうがナンボかはましに思えたのもまた事実である。しかし、現状回復に関してはかなりいい加減と表現するよりなかった。戦車を掘り出した穴を埋めるには埋めてあったが、地形はすっかり変貌してしまっていたし、その下の砂浜は履帯に踏み荒らされたまま荒れるに任せてあった。さて、この顛末が過ぎ去ればこの浜はまた海鳥だけの静かな時が戻って来る。掘り起こせば未だ戦車や大砲が埋まっているらしいの噂は絶えないが、もはや静かに眠らせてやるのが得策と云うものだろう。敗戦の将を更に鞭打つようなことをしてはならない。

投稿者 平野克巳 : 2005年12月06日 00:01 | トラックバック

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