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初代編集長 平野克巳の「猫の耳に大仏」湘南鎌倉便り


モデルカーズの生みの親、平野克巳氏による目からウロコの模型小噺。さぁどんな話が飛び出しますか。乞うご期待。

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2006年02月

2006年02月28日

冬はお篭りするもんだって




 古典キット倶楽部ネタで永大1/20ポルシェ917を前々からやりたいと思っていた。キットは手元にあるので準備万端、いつでもオーケー状態である。しかし当初より古典キット倶楽部は2台セットが慣例となってしまっている。今さら1台にすればパワーダウン、ネタ切れの誹りは免れまい。常に2台を関連付けたテーマで構成して来ているので、何でも良いから組み合わせちまえ、と云う訳にはいかない。2台を対比させるなどのテーマに添った説得力がなくてはならないのだ。しかも実車と違って、全てがプラキット化されている訳ではないので、出来合いのキットの中からテーマを見い出さなくてはならない事情もあって、実は案外とキットの選考には難儀する。キットの内容を優先させるなら同じく永大1/20ポルシェ917スパイダーなら悪くない。実車をテーマの中心に据えるなら1/20でポルシェ907/908はないので、ポルシェ910はどうだろう。これならナカムラ1/20があるし…どちらも永年温存したキットがあるので、これを第2候補としよう。よし! では早速キットの発掘だっ! そして段ボールの山と格闘すること三日。元は応接間だった第2号倉庫(とほほ)と元は納戸だった第1号倉庫(とほほのほ)の徹底捜索の結果…ない …永大の917スパイターもナガノの910も発見されない…これはもしかして…最近、富みに漠となりつつある細い記憶の糸を辿ってみること暫し…「オークションで売っちまったかもしんねーっっ」…あ、いたたたたたた…やっちゃったよー。どーすんだよ、肝心な時にないってこの現実を。これぢゃ本末転倒である。単車転倒より痛いぞおーっっ! などと愚痴って嘆いて後悔していても始まらない。どうせもうどこの店頭でも手には入らないキットである。もはやポルシェ917は製作発注かけちゃったから、ここは一番、何としても917スパイターか910を入手するのみである。頼みのネットオークション…な〜にやってんだか、などと独りごちながら検索してみる。あった! 永大1/20ポルシェ917スパイター。5,000円スタートかよお…売った値段より高いし…なーんか売ったモノをそれより高く買うのって間尺に合わねえ…。んぢゃ、ナガノ1/20ポルシェ910はどーだい? おおっ、あるある。幾つも出てるって…4,000円? 仕込みにそんなに投資してたら、こちとら商売あがったりだよー。あっ、1,500円スタートがある。当然こんなキットだから入札もないし。それに2,500円が希望落札に設定されている。終了までのあと二日が待っていられない。その分、締め切りは刻々と近付いて来るのだ。えーい、しゃーねえ。2,500円出して買っちゃえーっっ!! こうして今回も古典キット倶楽部は無事に日の目を見る事と相成った。♪ちゃんちゃちゃんちゃんちゃちゃんちゃちゃん、ちくしょーっっ!!
 さて、ひとつ問題が解決したらまた次の問題である。一難去ってまた一難。鉄の馬歴史館の予定が大幅に狂っている。狂っている元凶は誰あろう、私自身にある。本来であれば既に半分がとこ仕上がっていなくてはならない筈の三和1/8ホンダ・ドリームCS72が全く手付かずの状態のまま…それにエフトイズ1/24ホンダ・スーパーカブC50を改造する試みも、未だC100になるであろう筈の1台が机の上でバラバラ屍体となって転がったまま…困った。困れば困るほどに、気が焦れば焦るほどに、目は見えない(文脈にまるで整合性がない…)♪ちゃんちゃちゃんちゃんちゃちゃんちゃちゃん、ちくしょーっっ!! (うるさいよっ! すんません) ニューレイ1/6インディアン・チーフだってやりたいし、有志藤島部屋の温情でレベル1/8カワサキ・マッハ3だって実現可能な状態だし、我が友超重爆撃機富嶽ちゃんのおかげで日東1/12ホンダ・ドリームCB450も発車オーライだし、同じく友人いしはらちゃんの厚意で日東1/12ブリヂストン・チャンピオンホーマーも今や遅しと出番を待ち構えているし。N尾くん、ごめんなさい…みんなみーんな、このワタクシ、ねこちゃん大玉が悪いのだがや〜。しかし集中力は失ったわ、目はきかないわ、指先はふるえるわ(ふるえんわーっっ!!)、三式戦風と夜戦海の波状攻撃は熾烈を極めるわ、血圧は高いわ、血糖値は異常だわ、腹は減るわ、銭はないわ、わかったからわかったから。もううるさいから…。
 閑話休題 (勝手にハナシ締めんぢゃねーよっ) 街は未だ冬の装いではあるが、着実に春は近付いているようで、そこここで梅の花が満開である。白い梅も良いが、やはり寂しい冬の風景の中では紅梅が色取りも鮮やかで楽しませてくれる。我が家の梅は例によって遅く未だ固い蕾のまま。先日、今年になって初めてメジロのつがいがやって来たのだが「ちっ。なんだよ。未だ咲いてねーのかよ」とさっさと山に行ってしまった。「ふー、こけきょ」と未だ巧く鳴けないウグイスの第一声も今朝聞いた。待ち遠しい春もはや直ぐそこまで来ているようだ。♪春はどこから来るかしら。「あっち」…。暖かくなれば私の作業の手も滑らかになるやもしれぬ。だからそれまで、さあさあ、しまっちゃおうね…「しまうんぢゃねーよっ!! (N尾くん吠える)」 

投稿者 平野克巳 : 2006年02月28日 21:50 | トラックバック

2006年02月24日

アイディア倒れで目が効かない…

 私も監修や物語設定などで参加させて戴いたエフトイズのモペットコレクションが東日本地区で発売されている(西日本地区は3月27日発売予定)。おかげさまをもって中々の好評を戴いているようで、聞けばE-bayなどの海外のオークションでも出品されているらしい。国内でもシークレットと云うかスペシャルの○○○カブがそれなりの高値でやり取りされているようだ。別に私はそうした現象を望んでいる訳ではないのだが、オークションにおける価格の度合は商品の人気の指標となるので大いに参考になる。ちなみにモペットと云うのは我が国独自の造語で、本来欧州でモペッドと呼ばれていたものを語源としている。モペッドと「ペットのように可愛い」をくっ付けてそう呼んだのは昭和30年代の事のようだ。欧州ではペダル式のモペッドが主流であったが、我が国ではカブに代表されるような小さなオートバイを指してそう呼ぶ。
 カブ出現以前は自転車にエンジンを取り付けた「原動機付自転車」とスクーターが主流であったが、'50年代末になるとスズキ・モペッドSM1、田中工業タス・モペッド、ブリヂストン・チャンピオン1型、東昌自動車工業エコー、丸正ベビーライラック、宮田製作所ミヤペット、三共電器コリーなど、各種モペッドが多数出現する時代となった。しかし'58年のホンダ・スーパーカブC100の登場により、それら無数のモペッドたちはことごとく駆逐されてしまう。そして余りのカブの爆発的な人気は、他社にカブを真似た「カブ型スタイル」の導入を余儀無くさせた。それが今日まで残るカブのそっくりさんのルーツである。例えばスズキはセルペット→U50→スーパーフリー→フリー→バーディー、ヤマハはモペッドMF1→モペットMF2→メイトと進化しつつ現在へと到っている。他にはカワサキもペットM5を参戦させたが、ヤマグチ・オートペット、シンクロペット、ミヤペットB、イセキ・タフ、ブリヂストン・チャンピオンホーマーなど、他のカブもどき同様、カブの圧倒的シェアの前に惨敗、'70年代を待たずして消えて行った。とにかく世はカブのひとり勝ちで、何とかカブに似せてカブの牙城に迫ろうとする試みはことごとく崩れ去ったのであった。この全国内メーカー総カブ化現象によって、一般には鋼板プレスフレームにポリエチレン樹脂製レッグシールドを備えたスタイルそのものをカブと呼ぶ風潮が拡がった。例えばメイトを指して「ヤマハのカブ」などと呼ぶようにである。
 以上のような歴史的経緯を踏まえて振り返ると、実にカブに酷似したモデルの多い事が改めて知れる。そこで私の頭上で「裸電球が光を灯した」訳だ。モペットコレクションは1/24スケールの小さなモデルである。このスケールでバーディーやメイトやタフ、チャンピオンホーマーがズラリと並んだら何とも可愛い! 実際に1/24スケールの写真を作って比較してみると、厳密に云わなければサイズもコンマ数ミリ以下の差異でしかなく、このスケールでは許容範囲内と思われた。モペットコレクションのカブから作れるのではないか?…ぐっどあいでぃあ、ぐっじょぶ、である! ぐふ、ぐふふ。喜び勇んでエフトイズにお願いし、カブのモデルを余計に送って戴いた。改めて実車写真で検証してみる。おおっ、特徴さえ巧く捕らえれば、このスケールでは「如何にもそれらしく」見えそうだ。切って削って盛って、さくさくと楽しい工作が進みそうだ。よおし、取り合えずは手慣らしにカブC100を作ってみよう! シリンダーは黒く塗ってしまえば良いよな…先ずはモデルをバラしてレッグシールドを全体に華奢な感じに削り込んでと…見えない…手元のパーツに焦点が合わないのだ。当然老眼鏡はかけている。ならば加えてバイザータイプの天眼鏡もかけて…へ? 未だ見えない…嗚呼、余りにもモデルが小さ過ぎるっ! これぢゃ、お腹と背中がくっ付くぢゃろがああっっ! 旨チョコバニラいちごおおっっ!! ぢゃなくて…苛立ちともどかしさに独り絶叫する私。どーすんのよー、どーすんのオレっ! と云う訳で現在只今、完成したモデルは未だ無い…果たして作れるのか? この続きはブログで …って、そんなオチぢゃ済まされない。第一、エフトイズの東尾さん(仮名)が許してくれない。社長の新田さん(再び仮名)からだって叱責を買うに違いない。こーなったら苦し紛れに「ちゃいちゃいモデリング」ぢゃああ。ちっちゃいモデルなんだから、無理して弩改造なんかせんでも、それぞれのボディカラーに塗り分けときゃ、それとなく「それらしく」見えるだろう…って、どれもくすんだようなグレー系ブルーで似たり寄ったりぢゃねーのおおっっ!! 色味による差異なんてねーぞーっっ!! どっひゃああ~(リアクションが古いね、どーも…) やっぱ1/6だの1/8はいーわ…なんてボヤいてるバヤイぢゃない…。さ、気持を切り替えてレベル1/8のカワサキ・マッハ3の下準備でも始めっかなー(こ、こここ、こらーっっ!! …東尾さん吠える) そんな訳で現在、私の仕事場の机の上では酒屋の源さんが捨てに行く筈だった沢山の子猫たちがみゃーみゃー鳴きわめいている…あ、ちなみにF島親方、スペシャル以外のモデルの含有率はどれも同じだそうですよ。あなたのところでも子猫がみゃーみゃー鳴いちゃってるのは、単にあなたと猫の相性が良いっつーのか、猫のヒキが良かっただけだと思います…。

投稿者 平野克巳 : 2006年02月24日 19:26 | トラックバック

2006年02月21日

DT250のこと

 モーターサイクルに限らずクルマにおいても、私はエクゾーストノートにこだわる傾向にある。傾向にある、どころではない…実のところ、そのマシーンの価値基準、つまりワタクシ的な好き嫌いの6割がたはエクゾーストノートで決めているようなところがある。私がモーターサイクルに熱中したのは騒音規制なぞ存在しない時代であったから、それはそれは百花繚乱、個性爆発(相変わらず言葉の使い方が違うような…)なバイクたちが我が物顔で闊歩していた。排気音など出たい放題、出し放題で、一丁も先(どうも表現が古くていけませんや)からでも聞こえそうな強烈な音の洪水をまき散らすモデルばかりであった。時はあたかも2ストローク全盛。マルチなんて言葉は商法にさえ無かった並列2気筒が当たり前の時代であった。最もやかましかったのは「ぎゃんぎゃんと云う金属音」のカワサキ。但しパワーは圧倒的だった。しかし品質は劣り、クローム部などブラジルレベルのメッキのようであったし、パーツ供給もままならなかった。次にうるさいのが「ぎゃんがら虫が巣食っているような」スズキ。ピーキーでトルクバンドは細いが、6速ミッションを使いこなすとべらぼうに速かった。左足キックアームに慣れていないと 、咄嗟のエンストに慌てる事となる。低周波のこもったような音質なのがヤマハ。最もスムースな味わいがしたし、デザインの垢抜けているのも好ましかった。私が最初に欲しいと思ったのはヤマハDS6 250、通称デスロクであった。元々線の細い地味なイメージで、既にデザイン、メカ共に古めかしい部類に入ろうとしていたが、あの必要にして充分な(どこかで聞いたような懐かしい響きだ…)パワーと、未だニーグリップ・ラバーを有してはいたものの、キャンディーカラーに塗られたティアドロップタンクが洗練されていて惹かれた。アクセルグリップを捻ると「わんがんがんがが」と荒削りなサウンドを奏でるのも良かった。しかし、結局デスロクには乗らず、DX250の出現によりそちらに心を奪われる事となる。DXは速かったが音の印象は余り残っていない。近代的になった分だけ、音もそれまでの2ストローク車に較べると大人しくてスムースだったせいだろうか。
 2ストローク・ツインに較べて、オフ車の2ストローク単気筒は独特な音質だった。初めてトレールと云う言葉を使ったヤマハDT1は、焼き玉エンジンのような「すぱんぱんぱんぱん」と云う弾けるサウンドが特徴的だった。スズキのハスラーのほうが少しばかり荒い音質だったろうか。とにかく私はDT1に恋したにも等しく、パールホワイトの丸いタンクにこの上もないほどに憧れた。高校生の時などカタログをクリアファイルに入れて、教科書と一緒に学校にまで持ち歩いたほどである。しかし運命の悪戯で結局、DT1には一度も触る事もなく時は過ぎ、気付いた時には既にパールホワイトのDT1は製造中止となっていた。結局、DT1の面影を求めて後継機種のDT250を買ったが、実質的には同じだろーが、となだめようとも、今もDT1への思いは断ち切れない。それはともかく、グリーンのDT250に私は暫く乗った。それが今回、片付けものの最中に偶然出土(?)した当時のスナップである。スリムでスタイリッシュなオフロードモデルであった。意外にも歴代の私の愛車の中でも上位にランクされる。ライバルたるハスラーはより実戦的だが野暮な印象が感じられた。それに較べればDT250は都会的センスの、言わばオフ車と云うよりはマルチパーパスな雰囲気が強かった。跨がると眼前の光景は驚くほどにマスが無かった。2連メーターと大柄なブリッジ付きアップハンドル、そしてニーグリップするにはX脚でなくてはならぬかのように思わせる細いタンク。それが全てだった。スポーツモデルに慣れ親しんだ者には余りにも頼りなく貧弱な眺めで、慣れるまでには時間を要した。当時の大排気量単気筒車はセルもなく、デコンプなども備わっていないから、始動時にケッチンを喰らうのは日常茶飯事であったが、RTならともかく250ccのDTではさしたる問題ではなかった。XS650をキック始動していた私にとって、DT250のキックなぞ怖るるに足らなかったのだ!
 DT250は乗り味の軽い、それでいてパワーも充分に備えた良いバイクであった。私はあくまでも実用のアシとして使用したので、殆ど林道だの荒れ地だのの不整地には乗り入れなかったが、街乗りには扱いやすくストレスのない乗り物であった。ただプロックパターンのタイヤだったので舗装の表面によってはそれなりにヒヤリともさせられた。当時はロード用タイヤに交換して乗るのも流行ったようだが、そうは懐に余裕のなかった私には出来ない相談であった。「すぱんぱんぱんぱんぱん」と乾いた派手な音を立てて、太いトルクでグイと引っ張る感じが何とも好きであった。実際には決して速くはないのだが、当時のバイクは体感速度で楽しませてくれたのだ。あれから30年以上も時が過ぎてしまった。10年数ほど前には憧れのDT1を買い自らレストアを開始したのだが、折り悪く身体を壊して長期入院となり、自宅の庭でサイパン島に打ち捨てられたチハ車のごとくに草むしてしまった…。最近のネットオークションを時には覗いたりもするのだが、DT1はもはや高嶺の花。DT250なら一寸ばかりこなれた価格で一瞬クラッと来たりもするのだが、いやいや同じ轍は踏むまいとぐっと我慢する私ではあった。それにつけても、あの「ぱんぱん」が懐かしい…。

投稿者 平野克巳 : 2006年02月21日 18:55 | トラックバック

2006年02月18日

バイクの音のこと


10代の頃の私である。バイクはヤマハXS650E。前後バンパー、黄色と黒の工事現場風泥よけ、リアキャリアー、そしてヘルメットなしとロングブーツが、いかにも昔の時代を物語っている。


 私はクルマやオートバイなどと云ったエンジンの付いた乗り物が幼い頃より大好きであったが、それに反して身の回りにはそうした環境が皆無であった。私が生まれる以前、父はオートバイメーカーのヒラノ(洒落ではなく本当である。また社長などでは無論ない)に勤めていた事もあるが、個人的には自動車にもオートバイにも興味のない人で、ずっと永らく通勤にはカンガルーのフェンダーマスコットの付いた自転車を使用していた。私の家のお隣りの小泉さんはスズライト・フロンテを持っていたが、クラスの友達で自家用車を持っているウチはどこそこの会社重役のウチ一軒きりで、レースのカーテンの付いたマツダ・キャロルに乗っていた。その当時、私の家はパン屋と云うか菓子屋を営んでおり、毎朝菓子パンを配達して来るパネルバンのトラックと浦和駅前の菓子問屋のダイハツ・ミゼットが唯一出入りする自動車であった。駅前には黄色く塗られた日通のトラック(三菱ジュピターだったように記憶している)、大通りに出れば国際興業の路線バス、たまに家の前を埃を蹴立てて走り去る原付(現在のスクーターなどではなく、本当に自転車にエンジンを備え付けたものだ)、内科医院の車庫に鎮座している茄紺色のオースチン・ケンブリッジ、日常の中で見られるクルマと云えばそんなものであった時代である。
 前回書いたように中学生まではカーマガジン、オートスポーツを愛読していながらも、実際にクルマに接する事は一切なく、ときたまクラスの友人、西田くん(実名ご免)のお母さんが乗るダットサン1000に乗せて貰うくらいが関の山であった。ただ身障者の叔父がマツダR360クーペに乗っており、一度、千葉大のグラウンドで運転させて貰った事がある。これが私にとっては生まれて初めての自動車の操縦であった。身障者用の改造がされているから、手前に引くとアクセル、前方に押すとブレーキ(だったと思う…)の手動レバー操作だが、本来のフットペダルはそのまま残されていたので、操縦そのものはゴーカートと一緒でさほど難しいものではなかった。遊園地などの乗り物ではない、本物のクルマを初めて自らの手で走らせた日の感動は、今も鮮明な記憶となって残っている。
 高校生になるとクルマより先にモーターサイクルの免許を取るのが当たり前であろう。当然、私も授業をさぼって試験場へと通った。当時は中型も大型もなく、単に原付の上は自動二輪免許であったから、試験場のホンダ・カブ90で実地試験に合格すれば、目出度くナナハン・ライダーになれた時代であった。ちなみに普通免許は高校を卒業してから取得したが、私は軽免許に一年遅い世代で残念ながら取得が出来なかった。軽免を取った有福な家の先輩などは学校にVANのステッカーを貼ったホンダN360に乗ってきたりして、その光景を羨ましく眺めたものだった。それはともかく、自動二輪を取った友人から借りたスズキT21(だったと思う…)に乗った。“んぎゃんぎゃらぎゃんぎゃら”とやたら騒々しいマシーンだったが、街中を2本の白い排気煙を引き摺って走るのは楽しかった。初めて自分のマシーンを買ったのはその後で、中古のホンダSL90であった。コブラマフラー以前の前傾単気筒、レッグシールド付の初期モデルである。このSL90は車格の割りにフロントフォークが長く、前から見ると250ccクラスと錯覚する大きさであった。ツーリングに出ると、当時沢山走っていたヤマハDT1やスズキ・ハスラー250のライダーたちが、私に挨拶のサインを送って来たものだった。当時はバイクの台数が極端に少なかったせいか、道で出会うと挨拶し合うのが普通であった。今では信じられない長閑さである。その後はヤマハDX250、ヤマハXS650E、ホワイトダックス70、ヤマハDT250、ヤマハXS650E、ヤマハXT500、ヤマハSR400、ヤマハXV750スペシャルと、ヤマハ一筋に過ごして来た。その頃には家族も出来て、叔父から抜群の程度のホンダ・ライフ360スーパーデラックスを譲って貰ったので、モーターサイクル休止時代となる。まあヤマハ・キャロットやヤマハ・パッソルなどには乗ってはいたのですが…(苦笑) その後、エンジンを降ろしフレームの全塗装をし直したレストア途上のヤマハXS650Eが預けたショップごと夜逃げで行方知れずになったり、庭でバラし始めたヤマハDT1が私の入院の間に土に還ったりの笑うに笑えない不幸が続き、モーターサイクルからは段々と縁遠くなっていった。私は排気騒音規制前の最も排気音がうるさかった時代にモーターサイクルに乗っていたので、今でも排気音には格別のこだわりがある。カワサキW650が発売になった折りにはその復刻デザインの度合と低価格に久し振りにクラッと来たが、“しゅるしゅる”と云ういかにもスムースな音に幻滅した。これではキャブトンを付けても駄目だな(私はスーパートラップが嫌いだ)と即座に諦めたくらいである。やはりW1Sの“べりべりべりべり”でなくてはいけない。現在、この手の音が生き残っているのは、例えエボリューションとなってもハーレーのみで、“どべちどべちどべち”のアイドリング音には聞き惚れてしまう。あ、もう紙面が尽きてしまった。この続きはまたいつかするとしよう。

投稿者 平野克巳 : 2006年02月18日 17:43 | トラックバック

2006年02月14日

本のこと




 私がモータースポーツ専門雑誌に興味を持った初めは小学校低学年の頃だったように記憶する。通っていた耳鼻咽喉科医院の待合室で、大学生くらいの若者が平凡パンチを読んでいて、その特集グラビアに世界のスポーツカー、クラシックカーが掲載されていた。私はクルマが大好きであったので、早速母にあの本を買って欲しいとねだったところ、あの特集のページだけ切り取るなら買ってあげても良いと言われた。当時の事とて女性のヌードグラビアやSEX関係の記事ばかりの本のように母には思えたに違いない。結局その本は買っては貰えなかったと思う。それから暫くして、近所の行き着けの書店(文具店、模型店も兼ねていた)で初めてカーマガジンと云う雑誌の存在を知った。現在、ネコ・パブリッシングから刊行されているカーマガジンではなく、ベースボールマガジン社から刊行されていた初代カーマガジンである。それは1966年のタルガフローリオがリポートされた号であった。モノクロのグラビアで見るポルシェ906に魅了された。そして、何よりもそのポルシェ906が走る光景が私の琴線に触れた。牧場の柵のようなものを背景とした牧歌的背景の中を、最新のレーシングカーが疾駆する光景に心震えた。何て美しい情景なのだろう。まるで映画の中の美しいシーンを切り取ったように、そのグラビアは私に新鮮な感動を運んで来てくれたのだった。すっかりそのカーマガジンに魅せられた私は、母を拝み倒して翌月から毎号、定期購読するようになった。もうそれからと云うものは発売日が待ち遠しくてたまらなくなった。学校から帰るや否や、ダッシュでその書店へと走った。眼鏡のおばさんに「来てるわよ~」と言われる瞬間の、どうにも興奮して高揚が止まらぬ気持ちは今も忘れない。袋に入れて貰って後生大事に小脇に抱えて家まで走る時の、早く開けて読みたくてたまらない逸る気持ち。今月はどんなだろうと想像するだけでアドレナリンが全身を駆け巡った。ルマン24時間のフォードGTとフェラーリ330P4の激闘、その背景にチラチラと写るマーコスミニへの興味。ニュルブルクリンクのジャンピングスポットで宙を舞うジャック・ブラバムのブラバムF1。ホンダRA273の衝撃デビュー。銀と黒のベルのジェットヘルを被ったギンガムチェックのカッターシャツ姿のリッチー・ギンサー。いかにもイタリアの伊達男を彷佛とさせる風貌のロレンツォ・バンディーニのポートレート写真。赤いロータスでインディ500を制したジム・クラーク。オートマチック・トランスミッションと可変式フリッパーで話題をまいた白い怪鳥シャパラル。現在へと続く私のモータースポーツへの思いの原点がこのカーマガジンには詰まっていた。
 そして1968年のある日、いつものように書店に駆け込んだ私は、カーマガジンの廃刊を知った。「なんか入って来なくなっちゃったのよねえ。本、なくなっちゃったみたいよ」 眼鏡のおばさんの声が私の頭の中で虚ろに木霊していた。ショックだった。あんな素敵な本がなくなるなんて…。その時、私は初めて売れないモノはなくなる、と云う世の中の商売の道理を知ったのだった。だが捨てる神あれば拾う神あり…喩えが違っているような…である。今度はオートスポーツと云う専門誌を知った。そんな訳でオートスポーツ誌は1968年から1980年代まで毎号欠かす事なく購読した。しかし時代が情報のスピード化を求めるようになり、それに対処する為にオートスポーツも月2回発行となると、内容が稀薄になりつまらなくなった。そして遂には購読をやめてしまったのだった。私はオートスポーツイヤーと称したイヤーズブックも大好きであったのだが、こちらのほうは私が買うのをよしたのではなく、本自体が発行されなくなってしまった。最も後期のものは内容自体も偏ったものとなり面白くなくなっていたのだが。10数年前まではオートスポーツ誌も資料として大切に保存していたのだが、転居を繰り返しているうちにやがて邪魔になって古書店にまとめて引き取って貰い今はない。1970年代からずっと購読したカーグラフィックも同様である。
 本と云うものは、取り分け雑誌はたまると重くガサばるものである。一時は書庫を作ったり、一部屋をまるまる本の保管庫にしたりもしたのだが、古い借家で一部屋の床が抜けて以来、雑誌を後生大事に維持保管する事はよしにした。それでも文庫本や雑誌の類いは気がつくと収まりきらずに溢れていたりする。必要と思われるページのみ切り取ってファイリングするなどを試みた時期もあったのだが、世の中は意外と予想に反していて、捨ててしまったページがあとから必要になったりするのが常であった。なので馬鹿馬鹿しくなってファイルもやめてしまった。そんな訳で、最近の私は仕事の度に資料を求めては右往左往している。MC編集部に「資料庫になにそにの資料が掲載された本ない?」などと助けを求めては鬱陶しがられている日々である。だが模型も本も個人で全ての要を成すほどに完結させるのは容易な事ではない。そのくせ資料に頼っては不明点をグダグダとボヤく日常である。「分かんなきゃ想像でやっときゃいいぢゃん」古くからの模型仲間のそうした言動が心底羨ましく思える今日この頃ではある…。

投稿者 平野克巳 : 2006年02月14日 22:20 | トラックバック

2006年02月11日

地べたのこと




 地べたと云うのは動物や植物のものだと思っている。アリやダンゴムシやコオロギなどの昆虫は地表の上を這いずり回っているし、トカゲやヘビなどの爬虫類も地面を走り回っている。そして犬や猫が地面に座ったり横たわったりしている姿は日常的に見る光景だ。猫がそこいらにうずくまったり寝そべっている姿は良く見るが、私はそれを称して「猫が落っこちている」と言う事にしている。猫が道端で和んでいる風情は、猫が寝ている、でも、猫が横たわっている、でもなく、いかにも落ちていると云う表現が相応しい。だから猫は落っこちているのである。しかし、最近は10代~20代の若者、男ばかりかミニスカの女子高生までもが、平気でコンビニや街頭などに落っこちている。確かに街はコンクリートやアスファルトで固められていて、土の地表が出ているところなど滅多に見られなくなってしまった。それでも街頭や歩道は本来、「表」であって、座ったり寝転んだりする場所ではない。そうした場所に平気で腰をおろし、酷い時は肘枕で寝転んでさえいる。表と家、内と外との区別も見境もなくなってしまったらしい。思えば1964年の東京オリンピック開催を契機として、街の近代化と美化に努めた結果、街はきれいになった。それ以降に生まれた者たちにとっては、表と云えどもきれいな場所であり、座りこむ事にも何の抵抗もないのだろう。だが、昔の時代に育った私たちには決してそれは出来ない。表とは、外とは汚い場所であったからだ。家の玄関を一歩出れば、そこは土の地面であった。つまり地球の表面である(!) 路地も大通りさえも砂利の敷かれた土道であった。冬には霜柱が立ち、梅雨時には水たまりばかりの泥濘と化し、真夏には埃が舞い立った。そこいら中の路地には小便無用の「鳥居マーク」が描かれていたが、そんな事にはお構いなく、おやぢもガキも立ち小便を平気でした。人がするなら当然犬もした。今のように飼い犬ばかりで、しかもその後始末は飼い主が責任をもって致しましょう、なんて時代ではない。散歩の途中で糞をしようが小便をしようが、飼い主は犬のするままに任せて知らんぷりを決め込んでいたような時代だ。しかも飼い犬だけでなく、昔はやたらと野犬も闊歩していたから、なおさら酷い。人や犬ばかりではない。馬糞や牛糞だって幾らでも落ちていた。私が小学校低学年頃まではロバのパンと云う行商があって、本当に馬がパンを積んだ馬車をひいて売りに来た。ロバのパンとは云うものの、実際には馬がひいていたのだ。当然、馬は公共の場所だから我慢しなくては、などとは考えない。生理現象のおもむくままである。蛇足ながらロバのパンは現在も健在だそうである。但し今では馬がひいたりはしていない。各家庭のトイレが水洗化される以前は、そしてバキュームカー出現以前は、8時だよ、全員集合!(懐かしい…)のコントでもお馴染みの、肥柄杓で汲み出す人力が当たり前であった。そうして汲み出した人糞は畑にまく為に集められる。それを肥樽を満載した大八車で牛が運ぶのである。牛糞は砂利道に転々と小山のようにして残される。犬の糞をうっかり踏み付けてしまう事など子供にとっては日常茶飯事であったが、牛糞となるといけない。第一量が違う、量が…。うっかり踏み付けてしまうと、いくら洗っても暫くは運動靴の異臭は取れなかった。表とは、外とは、かくも汚いものであった。そうした環境の中で育った私たちが、いくら時代が変わり環境が変化したとて、外で座ったり出来ないのはむべなるかな…であろう。私は今でも道、それが歩道であっても、の端っこは歩きたくない。端ほどそうした糞や小便や投げ捨てた吸い殻や噛み捨てたガムや生ゴミ系の落ちている確率が高いからである。いや、そういうものだと思って育って来たからである。だから塀にベタッと寄りかかって、地面にパンツ一枚に等しい状況で座り込める今どきの女子高生の感覚が理解出来ないのだ。汚物も汚水も街中では見る事のない現在の生活は、それはそれで快適だしありがたい。だがたとえ汚くとも、私が子供の時代は自然と共に暮らしている実感があった。今の暮らしにはそれが稀薄である。何だかマトリックスの住人のような錯覚さえ覚えそうな時がある。地べたどころか頭上を見渡してもコンクリートの人造物ばかりがそそり立っている。空は遠く小さい。大空の下でのびのびと深呼吸が出来ないと、時に息が詰まりそうな気さえしてしまう。幸い、私は山にも海にも日常的に接する事の出来る場所に住まわっている。それでも散歩道に高層マンションなどが新たに出現すると圧迫感を感じてしまう。これではとても東京の都心になど住めそうもない。馬や牛とは暮らしたいとは思わぬが、犬や猫の居る環境の中で暮らしていたいとは思う。第一、そうした環境でなくてはロードスターに乗っても気分が良くない。あ、オープンカー、今は持ってなかった…。

投稿者 平野克巳 : 2006年02月11日 17:49 | トラックバック

2006年02月07日

映画のこと




 VHSがDVDへと取って代わられるご時世となった昨今、ますますもって映画館が遠くなった。私は今でも映画館が好きだし、帰りしなパンフレットを買うのも楽しみのひとつである。だがめっきり映画館へ足を運ぶ回数は減った。かつて私は映画少年であった。週末の殆どは映画館で過ごしたし、高校生だった最盛期には日曜日に朝一番の回から最終の回まで三本観る、などと云う事もざらだった。土曜日には制服姿のまま学校から日比谷の映画館街に直行したものである。私が映画を観た最初はどうやらビーバーが主役の動物映画だったらしい。らしいと云うのは私自身に記憶がない程幼い頃の事で、両親から聞いただけで何も覚えてはいない。記憶する最も最初の映画はディズニーの眠れる森の美女('58年)で、埼玉県浦和市のうらぶれた劇場で観た。絢爛たる絵巻に圧倒され火を吐く竜が恐かった事を覚えている。自分で観たくて出掛けた最初はハタリ!('61年)だろうと思う。ハワード・ホークス監督の西部劇風アドベンチャーで、ジョン・ウェインやハーディー・クリューガーといった大物俳優が出演していた。古ぼけたトラックのボンネットに座り、カウボーイの投げ縄の要領でサイを捕まえるシーンは圧巻であった。ちなみに私は観た映画のほぼ全てのパンフレットを今も所蔵しているが、このハタリ!だけは残念ながら持っていない。一時期、欲しいと思いたち、その手のショップや古書店、ネットオークションなどで探したが、滅多に出る事がなく、たまに出てもかなりのプレミアが着いてしてとても手が出なかった。最近では新作を観るにしてもDVDで観てしまうので、パンフレットに対する興味もすっかり失せてしまった。小学生から中学生にかけては、小遣いの許す限り、日曜日には千葉市の繁華街にある劇場に足げく通った。封切り館ではなく二流館なので、いつも一寸遅れて新作を観ていた訳だが、マカロニウエスタンなどは随分と観た。京成サンセットとか京成ローザなどは行き着けであったが、数年前に千葉に用事があって出掛けた際、未だ営業していて一寸懐かしく嬉しかった。この頃はもう思い出せない程に様々な作品を観たが、ブルーマックス('66年)は強く印象に残る今も好きな作品のひとつだ。ジョン・ギラーミン監督、ジョージ・ペパード主演の航空映画で、レプリカのフォッカーDr.1の乱舞も素晴らしいが、何よりも映像の美しさが心に残った。特にオープニングのスタッヘルが見上げる大空の光景は、壮大なオーケストラの旋律と共に忘れ得ぬシーンとなっている。色取りとして色気をムンムンに発散するウルスラ・アンドレス(ドレス無しの芸名も凄い!!)は、当時セクシー女優のトップスターであったが、もはやそんな事も若い人は知らないだろう。頭上の敵機('49年)、翼よ!あれが巴里の灯だ('57年)、633爆撃隊('64年)など航空映画の名作は何れもこの頃観たが、これらは今は亡き父にねだって日比谷映画街で観たものだ。ちなみに日比谷映画街のさよならフェスティバルには足げく通い、舞踏会の手帳から翼よ!あれが巴里の灯だまで古い映画をしんみりと観賞した事も懐かしい。
 少年から青年へと育つ過程で深く影響を受けた作品は、太陽がいっぱい('60年)、卒業('67年)、イージーライダー('69年)、ソルジャーブルー('70年)など数知れないが、キャプテンアメリカがロスを略してLA(エルエイ)と言うのがやたらと新鮮でカッコ良かった。「オランダのロックバンドなんて田舎者だべさあ」などと嘲られながら、ステッペンウルフに傾倒したのもこの頃だ。目黒の三流館で観たロミオとジュリエットのオリビア・ハシーの瑞々しさも忘れられない。布施さんの奥さんになった時は吃驚したけど、今では恐い魔女のようなオバさんになってしまったので…。個人的な話題なのでどーでも良いっちゃーどーでも良いのだけれど、今でも好きな作品を挙げると男と女('66年)、オールザットジャズ('79年)、黄昏('81年)、ワンスアポンナタイムインアメリカ('84年)、ブルーベルベット('86年)、エンゼルハート('87年)、太陽の帝国('87年)などは直ぐに頭に浮かぶ。アラン・ドロンの時代のフランス映画も好きだが、地味なところではイタリアものの黒い警察('71年)なども意外に好きだったりもする。俳優の贔屓はスティーブ・マッキーンやトム・ベレンジャーなどの骨太で男臭い男優で、女優の好みは特にはない。フォーッ!!(違う違う!!) 邦画では喜びも悲しみも幾歳月('57年)やツィゴイネルワイゼン('80年)が心に残っているが、何と言っても私的には異人たちとの夏('88年)に尽きる。懐かしくて切なくて、何度観ても号泣である。片岡鶴太郎と秋吉久美子が演じる東京下町の夫婦が何とも味わい深い。手付かずのすき焼きを前にした浅草今半での別れのシーンは胸にしみる。市川森一の脚本も素晴らしいのだが、実はこの作品はやはり映画より原作のほうが遥かに良く出来ている。流石山田太一を思わせる内容で、同業者などとは恐れ多くて言えないが、私も物書きの端くれとして、とても真似が出来ない事を痛感したものだ。昨年の暮にはALLWAYS三丁目の夕日を観たが、ベタな内容で無理に笑いを取ろうとする演出も鼻についた。極め付けは最期の最期で夕日に向かって、子供にざーとらしいきれいごとを語らせてしまう事で、遂に私は我慢の限界を超えて腰砕けとなった。だが郷愁を誘う作品ではある。あれ? クルマもプラモも登場しなかったな…ま、たまにはいいか…。 

投稿者 平野克巳 : 2006年02月07日 20:43 | トラックバック

2006年02月03日

時代で何かと移り変われど…




 何処もそうだろうが鎌倉の街も日々変貌している。立派な門を設えた広大な敷地の旧家は、新たに要塞のような西洋建築に取って代わられ、裏路地の戦前の風景を彷佛とさせる木造建築は何れもモルタルや新建材の瀟洒な建物に代わられてしまいつつある。かつて色で表わすと鎌倉の街は茶と黒の街並だったのだが、今では極彩色な黄色や黄緑、橙などの浮いた色が氾濫している。そして一寸ご無沙汰しているとどこかが空き地になり、たちまち見ず知らずの景観が現出してしまう。街に根差していた旧い産婦人科医院が今風のビルに変貌し、昭和初期の和風西洋館が時間貸し駐車場へと姿を変える。呆れた事に寺社の本殿さえ銅板貼りの屋根だけ残してモルタル造りの近代様式になってしまう。街も生きているので、日々刻々と変わる事は致し方ないとは思うが、私は鎌倉の古都の風情が好きでこの地に移り住んだので、やはり国籍不明な街並になっていってしまうのは寂しい。そう言えばかつて鎌倉の冬の風景の中には夏みかんが欠かせなかった。どこの路地にも、どこの家の敷地にも夏みかんが植わっていて、たわわに実を実らせていたものである。しかし、最近ではめっきり夏みかんの木も少なくなった。私にしてみれば次第次第に鎌倉らしい景観が失われて、今様の小洒落た雰囲気になっていくのが残念でならない。
 東洋のサンタモニカ(誰がそう呼んでいる?…)、海岸通り134号線もすっかり昔とは趣きを異にしてしまった。かつては首都圏の避暑地らしく、落ち着いた景観と鄙びた風情が独特な雰囲気を醸し出していたものだ。一寸高級なレストランやホテル、喫茶店が点在し、漁師町と海水浴場が渾然一体となった海岸ぺりには、氷の旗がはためく昔風の海の家が並んでいた。それがいつからか全国共通のファストフード店ばかりが目立つようになり、六本木が海に移転して来たかのような洒落たビーチハウスが勢力を競っている。それに季節に関わりなく週末ともなれば渋滞でまともに走る事もかなわない。アメリカ西海岸に憧れてオープンカーを流すなど、もはや遠い日の郷愁でしかない。私はこの地に住む限り、オープンカー、つまりロードスターを所有し続けたいと考えて来たが、既にそうした思いとは裏腹に環境は増々もって首都圏化しつつある。もうオープンカーの必要性も感じなくなってしまったし、それに乗っていたいとも思わなくなった。モーターサイクルとて渋滞の脇をすり抜けていくのみでは大して魅力を感じない。つまらぬ。実につまらない。だがそれが現実と云うものだろうし、人生と云うものでもあるのだろう。社会環境の変化を嘆いてばかりいても致し方ない。もはや違った面での喜び、楽しさを探さなくてはならぬのだろう。
 私たちが愛してやまないプラモデルも時代と共に随分とその姿を変えて来た。よりマクロ的に言えば今やプラモデルと云う形態は風前の灯のようにも思える。それもこれも中国四千年、悠久の歴史がもたらす(?)驚くべき工業力と人海戦術がもたらすコスト革命の申し子、食玩の台頭が深く影響している。あれだけ高度な仕上がりの完成品を目の前にして、一体誰がプラモデルを作りたいと思おうか。かつてのように「作る」と云う行為自体がホビーの主役から逸脱してしまった以上、それに替わって王座を占めるのはコレクションしか残されていない。だからプラモデルに対する見方も作りたいから眺めたいだの集めたいへと変貌してしまった。それを嘆かわしいとばかり言っていても仕方あるまい。今さら私が云々講釈を垂れるまでもなく、恐らく皆さんは既にプラモデルを作らずに楽しむ極意を極めておられる事であろう。ただ一点言える事は純粋なスケールモデルほど「作りたい」モードにはならない。むしろ怪しげだったり不可思議だったりの玩具的要素の強いものほど「作ってみてーな…」と思わせる。正月に倉敷の友人と会った事はこのブログでも書いたが、その時、友人が手土産に持参してくれたキット(いしはらちゃん、ありがとーっ!!)が、まさに「作ってみたい」と思わせる怪しいキットであった。その名もサッカー。岡本模型のジュニアースポーツシリーズNO.1である。ちなみにNO.2があったか否かは知らない。どうやらボックスアートの図柄からして「キャプテン翼」が流行った頃の、ブームあやかりキットなのではないかと想像するが、その真意のほどは確かではない。何れにしてもプラモデルの形態で何でもアリだった時代の産であろう。スケール的には1/10~1/12程度であろうか。スプリングで右足を蹴り出す動作をするサッカー少年フィギュアによって、ゴム製のサッカーボールをゴールにシュートして遊ぶと云う内容で、形態は完全にプラモデルなのだが商品の性格はどう見てもゲームトイである。しかしパーツを見てもインストを眺めても、一寸面白そうでキットのアクションを試してみたくなる。少年本体は水色、少年の台は緑、少年の顔と両手は肌色、ゴールは白のモールドである。ボールはゴム製で、黒い五角形の部分には付属のステッカーを貼るようになっている。キットを見ているだに楽しい。作ってシュートして遊んでみたい…でも、それだけの為に組み立てて塗装もするのか?…やはりプラモデルはキットのままで仕上がりを空想して楽しむのが無難なようだ。こんな良からぬスパイラルに落ち込んでいる限り、どうやら本当にプラモデルを完成させるのは難しくなってしまったようだ。

投稿者 平野克巳 : 2006年02月03日 21:17 | トラックバック

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