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2006年04月28日
男と女の間には
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先日、テレビでかぐや姫の「神田川」誕生秘話のようなものをやっていた。あの情感溢れ悲哀に充ちた歌詞は実は男性の心情を綴ったものだそうで、出演者皆が「へえー、意外ですねえ」などと驚いていた。だがああした女々しく切ない心象風景は実は男性の専売特許なのである。女性の本性はもっとずっとドライでさばさばしている。一度決めた事は決して振り返って懐かしんだり哀しんだりはしない。その点、男はどうもいけない。何時までも過ぎ去った事を引き摺って懐かしんだり愛おしんだりしてしまう傾向にあるようだ。
私も若い頃、神田川のような生活を経験した。3畳ひと間ではなく4畳半ひと間の安アパートであったし、窓の下には神田川ではなく私鉄の線路が走っていた。改札口で君のこと何時も待ったものではなかったが私鉄沿線であった。電車が通る度にがたごと揺れる部屋には、何時からか住みついてしまった彼女が居た。イギリス留学から帰ったばかりのアクティヴな女性だった。カメラマンを目指していて、三社祭などにはカメラ片手に御輿の群れに飛び込んで行くような女性だった。ダークグリーンのランサー1400SL5で真夜中でも飛び出して行ってしまうような女性だった。そんな彼女がある晩、私の安アパートの外階段に座って私の帰宅を待っていた。その頃の私は駆け出しの編集者として日夜残業残業の日々であったので、その晩も真夜中はとうに回っていた。そんな姿に男は弱いものである。情にほだされてしまうのだ。その晩以来、一緒に住むようになった。小さな石鹸をかたかた鳴らして横丁の銭湯にも通った。24色のクレパスは買わなかったが、一緒にプラモデルを作ったりもした。プラモデルを作るのが巧い女性と云うのは比較的珍しいのだが、彼女は何をやらせても如才なくこなした。
互いに身の上は忙しかったが、貧しく慎ましい4畳半の生活はそれはそれで楽しかった。久し振りに二人揃っての休日、私はこんな部屋にくすぶっていないで、渋谷に出て映画でも観ようと言った。彼女はこの部屋で二人きりでゆっくり過ごしたいと譲らなかった。喧嘩になった。朝から鉛色の空がどんよりと立ちこめ冷たい雨の振る朝だった。日常に変化と刺激を求めていた私と日常を愛おしんだ彼女と。若い日の男と女は譲歩する事は出来ても決して分かり合えない。雨の日曜日には今もあの日の切なさを想う。
本当に金が無く貧しかった。月給11万7千円の二人の暮らしは楽ではなかった。だからあの頃の私の愛車フロンテクーペGXCFはセルモーターが壊れたままで、始動は何時も押しがけだった。それでも二人で八ヶ岳などに遊びに行った事を覚えているが、日々の殆どはただあくせくと働いた。ある時、彼女が真っ赤な長靴が欲しいと言った。小洒落たブーツなどではない。ただのゴムの長靴である。そんなものひとつ買うにも大変な決断がいった。鬱陶しい梅雨の季節を真っ赤な長靴があったら楽しく乗り切れると思ったのかもしれない。だが私は反対した。赤い長靴なんて使い道がない。ベージュか何か無難な色のほうが良いのだと強硬に反対した。言い合いになり、やがて彼女は泣いた。そして赤い長靴はそれきりになった。私は今でも後悔と共に赤い長靴を思う。あの時、何故気持良く買ってあげられなかったのか。つまらぬことに意固地になって、さも分かったふうな顔をした私自身が愚かしく思えてたまらない。
あれから随分と永い年月が過ぎて行った。しかし今でも私は赤い長靴を思っては、居たたまれぬ気持に心が沈む。気持良く笑って買ってあげれば良かったではないか、と今も思い出しては後悔し続けている。もう彼女は赤い長靴の事などとうに忘れてしまっただろう。何故欲しかったのかさえ覚えてもいないのだろう。なのに私は今もあの頃の青く幼かった自分自身に腹を立てては、切なさに胸が締め付けられるのだ。赤い靴履いてた女の子は異人さんに連れられて行っちゃったけれど、赤い長靴を履けなかった彼女はあれからどうしただろう。こんな心にしみ込むような冷たい雨の降る日には、柄にもなく遠い日々に想いを寄せては、今でも赤いゴムの長靴って売っているのかしら、などと考えてみたりする。かくも男とは遠い過去の詰まらぬ事まで愚図愚図と覚えていては、嘆いたり哀しんだりしてしまう生き物である。少しは女性のバイタリティを学べばよさそうなものだが、現実論者である女性と理想論者である男性とではどこまでいっても人生哲学において接点はなさそうである。男と女の間には深くて暗い川がある。誰も渡れぬ川なれどえんやこら今夜も舟を出す、なのである。男はロマンティストなのよ、などと言えば聞こえは良いが、要するに体裁ばかり強がって芯の部分ではガラスのように脆く危ういのだろう。タフである事に憧れそう装おうけれど、その実は密かにめそめそしてしまうのだ。いや~ん、おぢちゃん可愛い~。アタシが守ってあげた~い、などとうそぶかれて、にまにましてしまうおやぢが多くなってしまった昨今、スティーブ・マッキーンやトム・ベレンジャーのようなタフでニヒルでストイックで、しかし孤独で寂しい男性像は古臭くなってしまい流行らない。あんな男は映画や小説の中だけなのか。ちょーっっ、トシちゃん52さーい! えいえいっ、涙なんか飛んでいけっ! なんだかなーっ…。
投稿者 平野克巳 : 2006年04月28日 16:22 | トラックバック
2006年04月25日
続・デパートの思い出
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小学校低学年の頃だったと思うが正確にいつ頃だったかは漠然としか思い出せない。ある頃よりデパートの玩具売場のフロアにプラモデルが登場した。と云っても最初は僅かな点数しか無かったので、あの広いフロアの片隅の僅かな一画だけがプラモデルのコーナーとなっていた。縫いぐるみやブリキ玩具が居並ぶ広大なフロアのほんの片隅であった事が印象的に思い出される。その陳列方法はガラスのショーケースに白地の布をひき、その上に完成モデルが並べられ、キット名と値段の書かれたラベルが添えられていた。ケースの中の完成モデルの並び具合に密度はなく、一寸寂しい光景であったのを記憶している。何が並んでいたのかはもう殆ど思い出せないのだが、三共のキャノン砲、マルサンの南極観測船宗谷だけははっきりと憶えている。どの完成品もキットをそのまま組み上げただけで、多分着色もされていなかったように思う。大体からして初期のプラモデルとはそんなものであった。ヤスリでけずったりペーパーがけしたり、ましてや塗料で色を塗ったりなどは考えも及ばなかった。箱を空けたらちゃっちゃと組んでハイおしまい、それが当時のプラモデルに対する認識であったように思う。まさにインスタント時代と呼ばれた時代的背景に相応しい玩具であったのだ。
この初期のデパート売場ではヨネザワのキットが充実していた記憶がある。ヨネザワとはあの桜のマークの玩具メーカー米沢の事で、初期にはプラモデルにも参入していたのである。憶えているのは鉄道モデルが多かった事で、スケールはHOサイズ、特急こだま(新幹線が登場する前の、先頭車輌がボンネット型のこだまである)やEF58などを買った事を憶えている。他にも山手線などの通勤車輌や東海道線などの近郊型車輌(鉄道マニアではないので何れも正確な形式名は分からない…)がシリーズになっていたと思う。またトミーの前身のとみやまも扱われていて、箱の熊さんマークを妙に鮮明に記憶している。この頃、消防車のキットを買った記憶があって、近年になってあれは何だったろうかと考えるのだが記憶の糸が辿れない。友人に「とみやまじゃない?」と云われ調べてみた事がある。確かにとみやまには小スケールのボンネット型梯子車(いすずだったか?)があるが当時130円の小モデルだ。記憶ではもっと大きい。消防車と云えば今井の1/40エルフ消防車、日本文化の高圧化学消防車、静教の梯子消防車もあるがその何れでもない。記憶ではいすずのボンネット型トラックベースの消防車だったように思う。恐らく消防車などと云ったアイテムは現在とは違って他に幾つもキットがあったであろうから、いつか「嗚呼!これこれ!」と懐かしく出会う事があるのではないかと思っているのだが、中々どうして巡り会えない。あの消防車は何だったのだろうか…??
外国製品は別の棚に鎮座していた。前にも書いたがオーロラ1/32トライアンフ・スピットファイアは棚に飾られているパッケージのボックスアートで魅了された。是が非でも欲しかったが女店員の「ボクには難しいかな」の一言で却下され、それは今も心の澱となって残っている(しつけーよっ…すんません) まあ女店員も父の「そんな高いモン駄目だ」モードを察してそう云ったのであろうから、別に彼女の責任ではない。為替レートが1$360円の時代であったから輸入品はべらぼうに高かったのだ。輸入品と云うと後年(と云っても私が中学生の時分だったと思う)、やはりデパートでレンウォールの1/48“コレクターズショーケース”シリーズを初めて見た時の衝撃は忘れられない。1/48スケールの小モデルながら、その造りは国産キットのようなちゃちなものでなく、立派にスケールモデルの体裁を保っていた。それに身近な駄菓子屋や文房具屋、勿論たまに遠征して行く隣町の模型店でも、そんなキットは見た事がなかったから、衝撃と感動の度合も大きかった。そのシリーズ名称のとおり、キットにはクリアのディスプレイケースが付属していて、完成後は飾って楽しめるようになっていたのも、国産キットの玩具然とした世界とは一線を画していた。商品は専用の回転するディスプレイスタンドに陳列されていて、何故かフロアの隅にぽつねんと置かれていたのが印象に残っている。シリーズの車種構成も普段は知る事もないような外国車ばかりで、その時の私と云ったらどれだけ新鮮な興奮を覚えた事か…。ああっ、オッフィーだっ! グランプリマシーンもあるっ!!(どちらも売り切れて品物は無かった…) そして私が選んだのは'49フェラーリ342アメリカと'40フォードセダンであった。ボディのモールドが昔のモノグラムのようにピカピカであったのにも感動したものである。このシリーズは30種ほどもあって全部欲しいと熱望したが如何せん子供時代の話である。結局はその2車種のみで終わった。更にずっと後年になって'63ロータスフォードと'34デューセンバーグSJを入手したが、あのデパートで喉から手が出てただオロオロしていたあの少年の日の記憶が鮮やかに甦ったものである。雀百までとは良く言ったものだ。しつけーよっっ!!
投稿者 平野克巳 : 2006年04月25日 16:53 | トラックバック
2006年04月21日
私は猫になりた…くはないな、やっぱり
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子供の頃、学校を休んだ日の朝はわくわくした。学校へ行っていると決して知る事のない大人の日常が垣間見え、どこか別世界に紛れ込んだように新鮮な気分がしたものだ。ラジオから流れて来る流行歌、台所の洗い物の茶碗がぶつかる音、そんな静かで平和な時間がゆっくりと流れていて、ボクが居ない間の住む街はこんななんだ、と小さな驚きと発見に胸が躍った。あれから数十年の月日が過ぎ、私はあの病気で学校を休んだ日と同じような日々を毎日送っている。元来、団体行動の苦手な私は学校や職場が好きではない。拘束される事がこの上もなく嫌いなのである。だから勤め人には向かなかった。職場の窓からふと眩しい空の青さを見てしまったり、蛍光灯の下で甘い風に頬を撫でられたりしてしまうと、もう落ち着いて仕事などしている気分ではいられなくなってしまうのだ。「あー、どこかに行きたいなあ…」などと衝動的にフラフラと行方をくらましてしまいたくなる。別に放浪癖はない。ただ仕事などしていないで、青空の下、そよ風の中、大地を踏み締めて外を歩きたくなるのである。別に遠い所でなくとも良い。旅に出たいとか温泉に入りたいとかではなく、ただ路地裏を歩いたり街を散策したりしたいのだ。なにやら猫のようではあるが、自由に自分の時間に浸っていたいのである。だから現在の自由業を選んだ。私のような職業は経過は何も評価されず結果だけが全てである。一生懸命やったんです、などと言い訳したところで誰も認めてはくれない。ちゃんと結果を出して納品しなければ一切の評価には結び付かない。その分、自分なりの進行と効率で仕事が許される。締め切りに間に合いさえすれば、平日の午前に当て所なく散歩をしていようと誰にも咎められない。だから現在の日々は好き勝手に自転車で街を眺めてみたり、バイクで四季を味わいに出かけたり、クルマで友人に会いに行ったりしてしまう。但し、締め切りから逆算したスケジュールは常に自分が管理しなくてはならない。すいませ~ん、出来ませんでしたあ、では許しては貰えない。それをやったら二度と仕事も来なくなる。権利の主張には必ず義務を追う責任がついてまわる訳だ。
私たちが子供の頃は学校へ通うことが義務だと強く信じていた。だから休んだ日はちょっとだけの罪悪感と開放感でわくわくしたのである。そんな日は暇つぶしにプラモデルを作る気になぞなれなかった。やはり義務をきちんと果たしているとした充足感があって初めて遊んでも心底楽しい。今の子供たちは義務感が欠如しているようなところがあって、だからさぼって遊んでも少しも楽しくなく心も晴れない。そして無気力と脱力感に襲われて権利も義務も放棄して引き蘢ったりしてしまう。何だかつまらぬ人生の過ごし方である。精一杯働いてとことん遊ぶ、そうでなくては人生つまらない。だから私は仕事が大好きである。好きな上に義務を果たす事を固く信条としているので、たとえどれだけ表の空気が魅惑的であろうとも、やらねばならぬ時は一心不乱に仕事に没頭する。ただ環境と形態は学校を休んだ日と同じようなものなので、何とはなしにわくわしたりする。パソコンからふと目を窓の外へと向けると、音もなく山の木々が揺れていたり、トンビがゆったりと輪を描いていたりすると、平和で幸せな気分に充たされる。そしてやはり「あー、どこかに行きたいなあ」とぼんやり考えたりもする。でも今日は駄目。ここまでやらないと間に合わなくなる、と自分に言い聞かせ、改めて仕事の世界へと神経を集中させるのだ。だが時には仕事から逃避したくなったり、どうやっても納得出来る文章が紡ぎ出せない時もある。今日はバイオリズムが低調なんだよ、などと自分に言い訳して、DVDやTVのリピート番組などでぼうっと時間を過ごしたりしてしまう。そういう時は楽しくない。どこかで気が焦っているし、駄目な自分自身を叱責する声が鳴り止まない。それこそプラモデルになぞ手をつける気にもならぬ。私の場合、プラモデルは仕事の一部であるのだが、やはり本来が好きなモノを仕事にしていると云う事は仕事であってもやはり楽しい。気分的に逃避していると絶対に巧く作れないし塗れないが、真剣に向き合っていると作業も捗り仕上げも満足のいくものとなる。人間はついつい楽なほうへと逃げ込みがちである。だが私はその間中、苛まれる事となる焦燥感がことの外嫌いなので、真面目に真剣に生きようと思っている。だから日々、学校を休んだ日のような環境の中で、今日出来る事は決して明日へは持ち越さぬと自分を鼓舞しながら日々の暮らしを送っている。これが私にとっては「何だかいー感じ」なのである。しかし、いーことだらけでは無論ない。その替わり、沢山のリスクも追わねばならない。安定収入もなくボーナスなぞ貰えない。国民年金なので事実上リタイアもあり得ない。生涯現役を貫くしかないのだ。しかも現役に留まれるかは全くの未知数でもある。フリーランスなどと云う肩書きは、要するに流浪の旅人のようなものである。どこまで走り抜けられるかは神のみぞ知るである。ま、人生ケセラセラなんですけどね、そう言って笑っていないとやってはいられない。
投稿者 平野克巳 : 2006年04月21日 13:10 | トラックバック
2006年04月18日
永年蓄積された癖が治らない
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友人の新居に初めて伺った。新居と云っても転居して既に1年以上が経っているから、今さら新居祝い(そんな風習はあるのか?)でも転居祝いでもない。彼が東京住まいをしていた頃は比較的頻繁に会ってはぼやいたりしていたものなのだが、隣街の隣人さんとなった途端に、なかなか会う機会もなく、お宅に伺う事など一度も無かった訳で、妙なものだと思ったりもする。通された部屋はパソコンの置かれたデスクだけで実にこざっぱりとしていた。嗚呼、壁が見える、壁が…私はこの20年がとこ、こんな暮らしに憧れている。何も無い生活空間。触れば何かが崩れてしまうCDロムや葉書や封筒や辞書や筆箱やその他諸々がうずたかく積まれたパソコンデスク、プリンタと云いスキャナと云いPC周辺器機の上にまでみっちり積まれた段ボール箱やプラモの箱、机の足元と云い壁際と云い本棚の前と云い何重にも並べ積み重ねられた書籍や雑誌の数々、あらゆる隙き間と云う隙き間に詰め込まれた資料やファイルの束、壁中を覆うポスターや写真や原画の数々、模型に占領された納戸から溢れ出し壁に吊るされたジャケットやダウン、もう何が入っているのかも忘れかかっているパーツや材料を入れたタッパーや小箱の山、箪笥から溢れてそのまま積み上げられた衣類の数々、妙にデカい猫トイレ、そして633爆撃隊のように波状攻撃を加え続ける猫型戦闘機の群れ、三式戦風がくわえて来ては置き去りにしていく娘のパンツ、そんなモノたちに占拠された我が家の生活空間は息詰まるほどの緊張感と狭苦しさに充ちている。気付けば常に首を傾げたり縮めたり猫背になっていたりの不自然な日常が続いている訳だ。いつかそんな生活から脱却したい、そう思い続けてはや幾とせ…思えば現在の住まいに越して来た時には、今度こそゆったりとして広々とした暮らしをするのだと希望に充ち充ちていた…筈であった…。だが今では応接間は幻となって霧散し、納戸は入ったら二度と生還の叶わぬ秘境へと姿を変えた。モノの無い暮らし…私の憧れがそこには在った。
ただ私はマンションと云う箱が嫌いである。息が詰まるような気がするのだ。四方に、せめて三方に窓が無いと私は窒息死してしまう生き物なのだ。そして何よりも地べたに足を着けて生活がしたい。何とかは高い所が好きの喩えのとおり、私は高い場所が大好きである。東京タワーなど「まい・ふぇいばりっと・ぷれいす」である(六本木ヒルズなどには縁がない…) 今でも喜び勇んで昇ってしまう。だが少年時代の5階建て公団住まいがトラウマとなっていて、終の住処は絶対に庭のある戸建てと心に固く決めている。現在住んでいる地は「鎌倉のチベット」と呼ばれている場所であるが、銭洗弁天の直ぐ裏手と云う案外と観光スポットだったりする訳で、「良いところにお住いねえ」などとは言って戴くのだが、クルマかバイクが無いとどこへも出られない。それでも静かだけが取り柄で、年齢と共に集中力を失いつつある自分にとっては仕事のしやすい環境ではある。それに何よりも地べたがある。モグラが穴だらけにしようがトカゲが這い回っていようがサワガニが横切ろうが「まい・がーでん」なのである。今年は遂に念願であった吉野桜の苗木も植えた。部屋の窓から桜吹雪を眺める事がたっての望みであったのだ。死ねねえ…桜の木が成長するまでは。
さて、そんな私とは違って、逗子駅からほど近くに住まう友人はあらゆる面で住環境において恵まれている訳で、日常生活を営むについてクルマもバイクも戦車も必要としない。そこで自転車である。高校時代、カンパニョーロのブレーキで強化したブリヂストン・オーバル10で4kmの通学路を6分で走破していたと云う猛者であるから、それもまたむべなるかなである。地方ほど自動車に依存し都会ほど公共機関で事足りる。う~む、逗子は都会だが鎌倉は田舎なのかあ…。ペントハウスの編集者を経てCGで執筆もしていた彼が最終的に辿り着いたのは自転車であった。またクルマもあらゆる使用環境を鑑み、そして自分が気持良い許容範囲にあるのはゼロ・クラウンであるとの結論に達したそうだ。ある意味達観している。それが内外のあらゆる市販車を経験し、ニュルブルクリンクまで走った男の行き着いた結論である。奥が深い…。まあ、その結果、クラウンなら是が非でも欲しいと云う方向には結び着かぬのだろう。だから彼は現在、クルマの所有をやめている。TVRタスカン壊れんだろーなー。コルベットのC5ぢゃイマイチだよなー、などと今だジタバタしている私とは大違いである。だがコルベットやコブラで平気でイトーヨーカ堂に買い物に行ってしまったりする私は使用環境とは無縁なところでクルマと生きている。私には使用目的による価値基準も判断基準もない。好きなクルマに自らの生活を無理矢理でも合わせる事が苦ではない。結局はコーリン・チャプマンに毒された独善的自動車嗜好症候群が慢性化していて治らない。要するに餓鬼なのである。かくも達観していない私は、身辺整理が潔いと云うか、すっきりとした彼の住スペースがこの上もなく羨ましく思える訳だ。そんな風に生きたいなあ…駄目だろうなあ…。今はただ、我が家がゴミ屋敷になってしまわぬ事を祈るばかりだ。こらーっっ!ネコーっっ! 積んだ段ボール蹴散らして走るなーっっ!!
投稿者 平野克巳 : 2006年04月18日 18:05 | トラックバック
2006年04月14日
ロマンティックがとまらない
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Qサマ「ビビリ橋」をアンタッチャブル柴田が3秒で走り渡った。バラエティ番組にも関わらず思わず感動してしまった。アレが今の私に出来るだろうか。まず絶対に出来ないに違いない。それは日頃の鍛練をしておらず、しかも52歳と下り坂の年齢である事も大きな要因と思われるが、何よりも私はバランス感覚が甚だ怪しいのだ。実は20歳代の時に大きな病気を経験している。メヌエル氏病症候群と云って、ある日突然、平衡感覚を失い、激しい目眩と吐き気に襲われる病である。原因は分からない。私の場合もある晩、突然倒れ、立つ事も座る事も出来なくなった。この病気の辛いのは安静にして寝ている事も出来ない事である。身体を横たえても常時、激しい目眩が続くのだ。目を開けば視界がグルグルと回り続ける。当然、激しい吐き気を伴い、胃液の最期の一滴までをも吐く。それが何ヵ月も続く。歩く事など殆ど不可能なので、通常の生活は完全に出来なくなる。医学的には三半規管の異常が原因とされ、主に強いストレスなどによって引き起こされると云われている。私の場合、原因として思い当たる事が無いでもないのだが、それはここでは触れずにおこう。ともかく大病院で検査をし、脳腫瘍の精密検査なども受けたのち、耳鼻科でメヌエル氏症と診断された。あと一歩重症となれば身障者手帳だよ、と担当医に云われた事を今も思い出す。そしてその後遺症として難聴となり、片耳は現在も殆ど聞こえない。最終的には漢方薬で治したのであるが、完治するまで数カ月を必要とした。1年振りに電車に乗った日の嬉しさも良く憶えている。
そんな病気を患った結果、私のバランス感覚は酷く衰えてしまった。今も真直ぐ歩く事が不得手で、例えば女性と腕を組んで歩こうとすると身体と身体がぶつかってしまう。だから本来はモーターサイクルなぞ乗ってはいけないのかもしれない。事実、それ以来、峠のコーナリングなどは酷く不得手になってしまったのは事実である。それでも好きなものはやめられず、それからもモーターサイクルには乗り続けた。ただアメリカンタイプのマシーンに宗旨変えし、病気後はあらゆる意味でキャデラックのような乗り味のヤマハXV750などに乗るようになった。あれから幾とせ、体重は増え体力も衰え身体能力は10代の頃の何分の1であろうかなどと漠然と考えてみる。数年前からはクルマを運転していても反射神経や判断能力が衰え、コンマ数秒反応が遅くなった事も自覚した。慎重にはなったが集中力には欠ける事にも気付いた。それからと云うものは運転時のアベレージ速度を10km/h遅くする事を忘れずに心掛けている。そんな心身の状況に鑑み、更には経済的負担の諸問題もあって、コブラ427S/Cも手放す決心をした。今では安全に守られてメルセデス190Eで平凡なクルマライフを過ごしている訳である。
だがしかーし…やはりモーターサイクルには乗りたい。乗りたい虫が疼く事には何も変わりがない。もう止めときや、せっかくここまで無事に生き延びてこられたんやないの。ヘルメットも1個割っとるやん。手足全部に骨折経験あるやん。無事に人生全うせいや、と平凡で小市民的な私が囁く。するとすかさず、どうせ人生一回きりやん。好きな事して楽しく生きなつまらんやん。ただ長生きするだけが人生ちゃうで、ずっと若い頃からハーレー乗りたかったのとちゃうのん、と無謀で向こう見ずな私も囁くのだ。そんな二人の私のせめぎあいの中で私は日々暮らしている。しかしどうにか平静を装って日々を全うしようと努力している。陽射しが暖かくなり風も温む季節となると、オープンカーもモーターサイクルも恋しい事は事実である。せめてスクーターでちょっとだけ気分を晴らす。くっそー、50km/hで走るの命がけぢゃん、などとフルスロットルで走る。あ゛ー、4速が欲しい、4速がああ、などとシフトペダルをべこべこ踏んでみたりもする。そして街中で“どべちどべち”の重々しいエクゾーストノートを聞いてしまうと、やっぱカッコいーわー、昔の250ccクラスくらいの大きさしかあらへんもんなあ。アレなら楽に乗れそうぢゃーん、などとうっかりソノ気になりかけたりもするのだ。まさに年寄りの何とかである。あぶねーあぶねー。ここは一番、家に帰って猫のふにふにの感触を味わい、心の平穏を取り戻さねばなるまい。みゅいんみゅいんと振られる尻尾を見つめて、血圧を平常値へと戻さねばなるまい。癒しぢゃ癒し。猫はいいやねー。そして気分も良く(?)なり興の乗ったところで、真面目くさった顔の猫を抱き上げ「グリコのポーズっ!」などと遊ぶのである…なんか惨めったらしくねーか、おやぢぃ? …。健康な心身(?)を取り戻したら、思いのたけを1/8に縮小して鬱憤を晴らす。これはこれで、また結構楽しい。だから模型はスポーツなのである。ドラッグバー、かっちょいいよねーっ!! でもやっぱアイブロウが付いてるのがスポーツスターだよー、などとホザきながら。この結末は次回「鉄の馬歴史館」にて。期待して待たれよ!(期待しちゃいねーか…)
投稿者 平野克巳 : 2006年04月14日 17:17 | トラックバック
2006年04月11日
デパートの思い出
かつてデパートの玩具売場にはこんなモノさえ売られていた。未だプラモデルが広く普及していなかった時代なればこそだろう。しかし、コレを買うとデパートの包装紙で丹念に包んでくれたのだろうか…。
今から40数年も昔、東京の百貨店(余りデパートとは呼ばなかった記憶がある…)は私にとっては竜宮城みたいなものであった。ライオンがお出迎えするところだったかマルに高マークのところだったか、いや日本橋ではなく東京駅の漫才師と同じ名前のところだったか、今ではうろ覚えでしかないのだが、その館内はともかく豪奢できらびやかで荘厳で、館内に足を踏み入れるだけでもとても緊張したことを憶えている。そして観光バスのガイドさんや旅客機のスチュワーデスさん(キャビンアテンダントは最近になってからの呼び名だ)のような仰々しい制服、身のこなし、口調のエレベーターガール(これまた現在では死語である)の「○階、玩具売場でございます」の声と共に開くエレベーターの扉の向こうには、まさに眩いばかりの別世界が拡がっていた。昨今のデパートの玩具売場はフロアのほんの一画にあるに過ぎないが、当時はワンフロアまるまるオモチャ売場だったのである。見渡す限り玩具の陳列である。無数のガラス製ショーケースが居並んで、縫いぐるみ、ブリキ玩具、プラモデルなどのジャンル別に分類されてコーナー毎に分かれていた。それは子供にとっては目にも眩い感動と興奮の光景であったのだ。
当時の接客方法は現在主流となっているセルフサービス販売とは異なり対面販売であった。つまり商品は全てサンプルがショーケースに飾られていて、顧客が自由に手に取ったりは出来ないようになっていた。顧客が近付けば担当販売員が出迎え、いちいち求めに応じてサンプルを取り出し見せる。顧客は手渡されたサンプルを吟味して、それで良ければ店員にその旨を伝える。そうでなければ断りを言ってサンプルを返し、また別のものを出して見せて貰う。決心が出来ずに何度もそれを繰り返すと、次第に嫌気がさすのか物腰がぞんざいになる店員も居た。まあ、その辺りは各デパートの社員教育と個人の資質の問題であったが、店員の顔色を伺って「早く決めなさい。お姉さんに悪いでしょ!」などと親も子供をせっついたりした。現在より何かにつけて、社会の中での人間の触れ合いが濃密であった時代である。購入が決まると後方の棚から実際に販売する商品が取り出されて丁寧に包装紙で包んでくれるのである。白地に赤い模様の包装紙にくるまれた箱を大事に小脇に抱え玩具売場を後にする時の気分は、おおむね満足感よりは無念さや失望感のほうが強かったかもしれない。当時の子供の大半は本当に欲しかったものを買って貰えたケースなど滅多に無いに違いない。殆どの場合が親に言い包められて、より安価なもので我慢させられたからだ。そうした場合の親の最終兵器は「こっちなら買ってあげる」であった。何よりも手ぶらで帰る事の恐ろしかった当時の子供にとって、これは有無を言わさぬ取り引き条件となった。そして心の中では「泣く泣く」納得を無理強いさせられて、親の奨めに従うのであった。親も店員も「万事解決」とでも言わんばかりの破顔一笑。充たされぬ思いを抱いて子供たちは「次の機会こそ」と固く心に誓うのであった。
昨今プラモデルの取り扱いは大手専門店が主流であるが、かつては個人経営の模型店が主だった販売経路であった。その後、スーパーマーケットや大手家電量販店などでも扱われたが、最近はそうした傾向もすっかり廃れてしまった。スーパーの玩具売場ではガンダムなどのキャラ系が置かれていれば良いほうで、かつてスーパーのプラモデルと俗称された「日本の名城もの」とて見受けられなくなった。安売り家電量販店などもRC関係やミニカー関係は未だ見られるが、プラモデルの比率はとんと低くなってしまったようだ。街の玩具店でもプラモデルは隅に追いやられてしまったし、街の模型店は店主の高齢化にも伴い廃業が相次いでいる。デパートに至っては最初に記したように、フロアの僅かな一画の玩具コーナーに幾らかでもあれば良いほうである。最近ではすっかりサ○リ○だののキャラクター関連のファンシーグッズや幼児向け玩具くらいしか扱っていないところも多い。米沢の特急こだまやマルサンのオースチンケンブリッジ、三共のキャノン砲などを前にして悩みに悩んだあの頃のおぼろな記憶も、もはや遠い日の郷愁でしかなくなってしまった。成長すると共にデパートとはすっかり縁遠くなってしまったが、20年ほども前だろうか、日本橋のデパートに子供を連れてスペースシャトル(勿論レプリカである)を見に出掛けたが、久し振りのデパートは昔とはすっかり様相を変えてしまっていて、かつて玩具売場の次に楽しみであった「特選お好み大食堂」も姿を消してしまっていた。数年前も上野松坂屋にふらりと立ち寄った事があったが、天井の低い店鋪の古さこそ郷愁を誘ったものの、ブランドのテナントショップばかりの今様であった。勿論、玩具売場など寂しいばかりで、プラモデルのプの字もなかった。もはやあの桃源郷のように眩いフロアは「還り来らぬ郷愁」でしかないが、それと共にプラモデルはこれからどこに行くのだろうか。「あっち」うるさいよっ。
投稿者 平野克巳 : 2006年04月11日 14:42 | トラックバック
2006年04月07日
春は桜散り懺悔する季節
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古典キット倶楽部も鉄の馬歴史館も常に沢山の有志のご協力によって成り立っている。本来であれば心情的にも財政的にもとても折り合いのつかぬような事であろうとも、記事の実現の為に骨身を惜しまず援助の手を差し伸べていただいている。全くもってありがたい事である。そうした多くの方々に改めてこのブログの場を借りて御礼申し上げたい。♪悪いわねえ、ありがとね、これからも宜しくねえ~(この態度がいかんのだ、この態度が…) そこで今回は近年、ご協力をいただいた方々で協力クレジットにお名前の挙がっていない方々、つまり裏方に徹して下さっている諸兄を実名報道する事で、心からの感謝と哀悼の意を…違うべ? そーでねーべ? …感謝の意をお伝えしたい。以下は私からの謝辞と懺悔の告白である。
松井康真様、以前より何かにつけ色々とお世話になりっぱなしです。復刻版古典キット倶楽部第1回でフジミ1/30メルセデス660グロッサー天皇御料車の完成モデルを掲載出来ましたのもひとえに貴方様のお陰です。最近ではタミヤ1/6ホンダCB750K0並びに白バイのキットもご提供いただきながら、未だ記事となっておらぬ体たらくをお詫び致します。組み立てチェーンは必ずお返し申し上げます。今暫くのご猶予を賜りたく…。
矢吹明紀様、とりわけアメリカンオートモビルの世界では他に比肩なき知識の泉であるプロのライター氏であるにも関わらず、単に旧知の仲であると云うだけで、クレイグ・ブリードラブとそのマシーンのひとつ、スピリット2について、厚顔なるワタクシめは無償で知識を伝授していただきました。フレンドシップとビジネスは相反するものと承知してはおるものの、今となっては慚愧の念に絶えません。
和田隆良様、モデルカーズ以来のおつき合いである画伯わだっち様からは、鳶がハンバーガーをかすめ捕るかのごとくにしてハセガワ1/12フェアレディ300ZXをご提供いただき、更にはタミヤ1/12フェアレディ240ZGまで無償提供いただきました。お陰さまで立派な記事が実現致しましたが、画伯には何も報いておりません。
齋藤マサヤ様、その節はSWASH謹製、ニチモ1/15スーパーカブの限定レプリカ私蔵キットをご提供下さり、更には目のアガってしまったワタシに替わってスポークなぞ編んで下さりありがとうございました。お宅の猫ちゃんたちも大きくなったでしょうねえ。あ、関係ないですね。
藤島祐二様、レベル1/8カワサキ・マッハ3のキットをご提供いただいたばかりか、ニットー1/8シリーズのボックスアート画像などもお送り下さいまして、心より感謝申し上げております。またヤマハXS1の貴重な当時の写真などもお知らせ下さいました。キット持ってない?(こらーっっ、オレッ!)
鈴木重光様、秘匿されているホンダ・スーパーカブC100の撮影取材にご協力いただき、更にはタミヤ1/6CB750の組みチェーンを供出して下さる由(笑)、感謝の念に絶えません。
亀井俊一様、色々とご提供やご協力を賜りながら、未だスロットの記事の発進が叶いませぬ。カングーロが腐ってしまいそうです…。
高石賢一様、三菱ブルドーザの資料をご提供いただきましたが、グズグズとキットを作らぬ私が居る為に、いっこうに記事になる目処が立っておりません。
原野義朗様、かねてより役立てて欲しいと幾多のキットや完成品をお送りいただいております。最近ようやっとナガノ1/8ホンダCB750やニットー1/12ホンダCB450を倉庫から作業台へと移動致しました(移動しただけですが…) またタミヤ1/24フェラーリ330P2は相変わらずヘッドランプカバーの工面で何の進展もしておりません。後足で砂を蹴っております…。次の機会には戦艦三笠に乗船致しませうね!
石原和夫様、ニットー1/12チャンピオン・ホーマーを拝借したままです。別にこのままにしとけば互いに忘れて、なし崩し的に我が物になるなどとは思っておりません。だからまた旨いビールを飲みませう。
大内清隆様、未だ見ぬ貴方であるにも関わりませず、フジミ1/16カウンタックLP400のキットをご提供下さいました。お陰様で記事も無事に実現の運びと相成りました。ありがとうございました。
以上、思い付くままの順不動にて、簡単ではございますがご紹介させていただきました。全くもって他人様にご迷惑をかけ放題し放題で、私の記事は成り立っておるのでございます。これもひとえに私の不徳の致すところでございます。それでも志しだけは私利私欲とは無縁でございます。何卒、なにとぞご理解賜りまして、今後とも古典キット倶楽部、そして鉄の馬歴史館を宜しくお引き立てのほど、隅から隅まで、ずずずい~っと…うるさいから、分かったから、分かったから…。
投稿者 平野克巳 : 2006年04月07日 18:18 | トラックバック
2006年04月04日
ショート・しょーと「桜咲く頃に」
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春の訪れは艶やかな花々の色で彩られ、それまでのモノトーンな冬景色は一気に華やいだ景観へと姿を変える。そして桜咲く頃には頬を撫でる風に春の優しい匂いが感じられるようになる。古都鎌倉は今年も桜が満開である。古来、桜は弔い花と呼ばれているが、かつては古戦場の歴史を持ち現在も寺社や霊園の多いここ鎌倉は、そうした意味において最も桜が相応しい都かもしれない。
見渡す限りを薄紅色に染めた桜に誘われて、私は街道から川べりの桜並木の元へとバイクを乗り入れた。そこは花見客のクルマの渋滞でごった返す街道とはうって変わって静謐な空気に包まれていた。思わずエンジンのキーをオフにする。弾けるようなDT1の排気音が止むと、あらゆる街の喧噪が遠く消えて無くなった。それは古木が並ぶどこか心安らぐ懐かしい風景だった。人気の絶えた静かな桜並木の午後、私はバイクを置いて薄紅色に染まった街路を歩いた。淡い空の蒼さに桜の儚い紅が映えて心地良い孤独感が私を包む。ふと振り返ると大きな古木の幹に寄りかかるようにしてひとりの少年が佇んでいた。小学校低学年くらいだろうか。白い開襟シャツに半ズボン、手には真新しいグローブをはめ、ゴムのボールをもてあそんでいる。妙に寂しげなのが気になった。
翌日、通勤の途中で再び、あの桜並木に立ち寄った。妙にこの並木の下は心落ち着くのだ。桜はそろそろ満開になろうとしている。昨日の少年がやはり同じ木の下でグローブとボールを片手にして所在なさげにうつむいていた。
「昨日もここに居たね。友達を待ってるの?」
「キャッチボールしてくれる人を待ってるんだ」
「友達は居ないのかい?」
少年は小さく首を振り、病気療養中で友達が居ないのだと言った。何の病気かは聞かずキャッチボールの相手を暫くつとめてやった。上手くはなかった。学校に上がって以来、一度も体育の授業を受けていないに違いない。それでも少年は瞳を輝かし満面の笑みでボールを投げた。
「お父さんは? キャッチボールの相手はしてくれないの?」
「お父さんは居ないんだ…」
余計な事を聞いてしまったと思った。私と少年は無心でボールを投げ合った。
次の日も少年は桜の木の下で私を待っていた。小さな箱を大事そうに持っている。プラモデルだった。それも三共の1/150一式陸攻である。何とまた古いプラモデルを持っていたものか。私は感心してそう言うと、少年の瞳がこの上もないほどに輝いた。
「お兄さんもプラモデル好きなの?」
「ああ、大好きだよ。それ一式陸攻だね」
「そう。ボクの一番好きな飛行機なんだ」
「オレもハセガワのナナニイのキットを作ったことあるなあ」
「それどんなキット? かっこいい?」
「知らないかい? タミヤのヨンパチはもっと凄いぞ」
「へええ。ボク、そんな凄いプラモデル見たことないや…」
なぜか一式陸攻で話に花が咲いてしまった。死ぬことを宿命付けられた桜花の母機もまた、桜花に殉ずるように撃ち落とされていったことが「やさしい飛行機」なのだと少年は力説した。子供にしては不思議な感性のようにも思われたが、戦争の理不尽さをそうした形で感じていたのだろう。恐らくは病身の我が身を投影して非運な境遇に共感していたのかもしれない。
こぬか雨のような春の雨が二日ほども続き、私はバイクではなく電車とバスで通勤した。少年のことが気にかかった。私を日がな待って濡れて立っていはしまいか。あの寂しげな横顔が放ってはおけない気にさせた。どこか幼い頃の私を思い出させるのだ。いつも寂しくてつまらなくて誰かを待っていた自分を…。三日目に雨は上がった。桜吹雪が舞い降りてはヘルメットのシールドに張り付いた。あの並木の桜もまるで雪のように辺り一面を薄紅色に染めて舞い散っていた。少年は立っていた。あの一式陸攻を愛おしげに持っている。
「お兄さん、タミヤのヨンパチの一式陸攻作ってるんだ。まだ作りかけだけどウチに見に来ないか?」
たちまち輝いた少年の瞳だったが、しかし直ぐに哀しげな色をたたえた。
「見たいけど、ボク、行かれない」
「お母さんに怒られるのか?」
「違うんだ。もう時間がないんだよ。桜の花が散っちゃうじゃない…」
少年はそう言うとあの古木の幹に寄りかかった。初めて会った日と同じように。無言で少年の手がバイバイと振られていた。いつしか少年の姿はうっすらと消えかかっていた。少年がこの世の者ではないことに気付いた…。
「ボク楽しかったよ。もっと一緒に遊びたかった…でも、お兄さんも帰らなき ゃ駄目でしょ…」
私はまっぷたつに裂けたヘルメットを見つめた。そしてヘルメットを持つ私の両手も、桜吹雪に溶け入るように次第に色を失っていった。
投稿者 平野克巳 : 2006年04月04日 13:47 | トラックバック
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