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2006年05月30日
あのときキミは若かった
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皆様の迷惑も顧みず「やって来ましたデンセンマン、♪それチュチュンがチュン…」(もう誰も覚えてねーって…) 前回までに今井科学1/36米つき水車小屋と山田模型プロペラボート・フェザーについて個人的感傷に浸ってしまったので、モノはついでと山田模型1/555大阪城天守閣もやっつけてしまうことにした。城と言えば相原模型と緑商会、そしてそれを引き継いだ童友社と相場が決まっているが、生来が本道、王道から微妙に外れたところの好きな私(子供の頃からサブカルちゃんなのである)、城のプラモデルで真っ先に連想するのは山田模型の大阪城天守閣である。勿論、天上の存在でずっと憧れて来た、などと云うことはない。その昔、買って作った記憶があるから懐かしいのである。だがしかし…何故に山田の大阪城なのだ。何ゆえにそんなモンを買ったのだ、と疑問に思われる方も多いかもしれぬ。昨今なら店鋪が減ったとはいえ模型専門店などでは、国内、海外を問わず発売されているもの全てとは言わないまでも、結構な種類のキットが店頭に並べられている。しかしその昔はプラモデルを売っている近所の駄菓子屋、文房具屋、雑貨屋などの店先では、精々20~30個も置いてあればいいほうであった。しかも現在のようにカタログや専門誌があった訳でもなく、情報も氾濫していたりはしなかったので、自分の行きつけの店に仕入れられているものが全てであった。つまり欲しいキットをどこかで探して買うのではなく、店先で売られているキットの中から欲しいキットを選ぶのである。おいおい「つまらない品揃え」の店で買おうとすれば、妙ちきりんなキットや馬鹿馬鹿しいキットを選択してしまう結果となる訳だ。恐らく私が山田の大阪城を買ったのもそんな事情からだったろう。ただ奇妙にも明解に記憶しているのは、そのボックスアートに酷く「ぐっ!」とキタことである。山田模型らしく絵本などの児童画的なタッチのものであったが、金の千生瓢箪を先頭にして鎧甲冑の軍勢が雄々しく出陣して行くさまが描かれたもので、その背景に勇壮にそびえ立つ大阪城天守閣が子供心にもたまらなく魅力的に思えたのである。現在なら小学校低学年がお城に心奪われるなどちょっとありえない。だがその昔は「ちゃんばらゴッコ」が流行ったように、侍の闊歩する日本の戦国時代は、今よりずっと身近なものであった。現代なら城を見て歩くのが好きだ、とか、城の研究をしている、などと云うのはじーさまの専売特許のように思われがちだが、その昔は「白鷺城の美しさ」を滔々と語ってしまうような少年好事家も居たのである。まあ、そこまではいかないまでも、少なくとも城は年寄りの好むものなどと云った偏見は余り無かったように記憶している。
当時、プラモデルは大人たちの「ウケ」が悪かった。子供たちが不良になる有害玩具として忌み嫌われていたところがある。PTAでも漫画雑誌やプラモデルが問題視されるような時代であり、当然親にとっても少年サンデーや少年マガジン、そしてプラモデルは我が子に与えたくないものの筆頭であったような時代だった。だから我が子が戦闘機や戦車のプラモデルを買って来るよりは、大阪城を掴んで帰って来るほうが、まだちっとはましな気分がしたのだろう。別に何の根拠もないものの「そこはかとなく」アカデミックなイメージが感じられたのかもしれなかった。そんな訳で第一の関門である親の叱責を潜り抜けた私は、早速大阪城天守閣の製作にとりかかる。四角い枠を組んでは積み上げていく積層パズルのような要領で子供心にも結構楽しめた。白と灰と緑のモールドなので、着色せずとも取り合えず城らしくは見える。完成してしまえば他愛もないようなものなのだが、文机(学習デスクなぞ存在しなかった)の上に置いてちょっとしたタイムスリップを楽しむ。何とも長閑な時代であった。
ところで城の天守閣と云うのは実は玩具の定番である。マルサン製のブリキの城など、この形態の玩具は沢山あった。たいがいは貯金箱になっていたが、貯金箱が玩具であったと云う辺りが、いかにも大人の倫理感を押し付けようとするもののようで胡散臭い。子供の日常は現代からは想像も出来ないほどに統制されていたのである。だがプラモデルが登場してそうした箍が外れてしまう。玩具が玩具である事に開き直り子供の世界の中で勝手に暴走したのである。だからプラモデルは大人の論理を振りかざす正しい社会の中では嫌われたのだった。しかし、そんな偏見の目も今は昔となった。今では大阪城天守閣のプラモデル、などと云うとむしろ「異端なプラモデル」のように思われてしまう。何れにしても私は大人社会への反抗で山田模型の大阪城天守閣を選び買った訳ではない。どんなプラモデルでも楽しかったし、欲しかったし、作りたかった。子供の観念は何時の世も固定概念に捕われる事もなくフレキシブルである。その時「グッ!」とキタか否かだけが判断基準なのだろう。私にもそんな時代があったのだ。そう思うと、このキットの存在がただただ懐かしいのである。
投稿者 平野克巳 : 2006年05月30日 18:32 | トラックバック
2006年05月26日
ようやく巡り逢った感傷
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今井科学の米つき水車小屋を友人の厚意でいただいた私の喜びは如何ばかりであったか、前回のブログで伝わる方には伝わったかもしれぬ(この手の嗜好を世の大勢と見るのは間違いで、一般の方々はな~に言ってんだか、と云う程度の感想しか持たれないのだろう…) そこで今回は更に私的ワールドへと暴走してしまう。既に記したと思うが、仕事関係を別にして、純粋に私個人の“マイ・フェイバリット・プラモデル”を挙げるなら、今井科学1/36米つき水車小屋と山田模型1/555大阪城天守閣、そしてやはり山田模型のプロペラボート・フェザーが「三種の神器」となっている。ただもう懐かしくてたまらない。もはや内容しかじかとかプラモ史上云々などと云った理由付けなどどうでも良い。そこには理屈など介在しない不条理、理不尽な私的感情が渦巻いているからだ。
その山田模型のプロペラボート・フェザーと遂に再会した。つい昨日の事である。その出逢いの場所は既にお察しの事と思うがネットオークションである。この数年間、私はネットオークション上で常にフェザーを待ち続けて来た。過去に一度だけ出品を見たが、その時は想像を絶する高値で「とてもでないが入札に参加する気にもなれず」傍観した。まあ、キャラものでもないし、人気のオリジナルSFものでもないし、ましてやB級メーカー(山田模型さん、ごめんなさい…)の二流キットなので、またナンボでも出て来るだろうとタカをくくっていた。ところがどっこい(表現が古いねえ…)、それ以降、待てど暮らせど一向に出て来ない。金型を改修したその後のモデルは幾つも見たものの、オリジナルのフェザーはそれっきりパッタリ姿を見なくなってしまった。まあ致し方ない。全ては時の運だ、と長期戦を覚悟した。いつか出逢える日が来る事を信じて…そして数年が経った。その間には世紀も新たになった。それでも辛抱強く待った。じじいになって死んでしまうまでにはきっと出逢いのチャンスも巡って来るであろうと。そんな願いが通じたか、遂にその時は来た。恒例となっている検索パトロールでフェザーの画像を発見した時は、飛び上がらんまでに歓喜し、一瞬にして全身をアドレナリンが駆け巡った。見ればパッケージの状態も良く、巻物式のインストもある。キット自体も未組立完品、FEATHERのステッカーもちゃんと備わっている。これは買いきりだ。このチャンスを逃したら、この次は何年後か分かったものではない(これまでの経験からすれば大抵の場合そうした予想は覆されるのだが…) ともかく次があろうがなかろうが、より安かろうが程度が良かろうが、そんな事はどうでも良い。この出品を「買い」だと決め、落札上限価格は考えない事とした。さて、そう覚悟を決めると腹は座る。高値更新の嵐に泣きそうになる事もなく、ドキドキする事もなく、ただ淡々とライバルたちがあきらめ脱落して行くのを見守るばかりの私であった。そして無事落札。とうとうフェザーは私の手元へ。思えば20年越しの思いが達成された瞬間であった。果てしない旅路の果て、遂に好きな女を我が手に抱いたにも等しい感動が…あ、そんな仰々しいものではないですか。そうですね。だうもすびばせん。しかし、とにかく永年追い求めたキットをとうとう入手する事に成功した訳である。
少年時代、あれはいくつの頃だったか。恐らく小学校低学年の時分だったかに記憶するが、夏休み中、何の行楽の予定も持たない私はこのキットを抱えて、独りで長い夏休みを千葉の祖母の家で過ごしたのだ。元来プラモデル好きだった私の事であるから、恐らく1日でフェザーは組み上がってしまったに違いない。それからの暑い8月は、ひたすら孤独な時間の経過を見つめるだけに費やされる日々であった。井戸でスイカを冷やし、鶏小屋で生みたての卵を集め、昼前に農家のおばさんが背負い篭を背負って売りに来るトウモロコシを茹でて食べ、あとは伯父に裏山や川に連れて行って貰い、田舎暮らしは平々凡々と過ぎて行くのであった。そして何もする事のなくなった夕暮れ、近所にあった小学校の校庭の片隅にある防火用水池でフェザーを走らせた。休みの日の学校ほど寂しいものはない。ただ蝉時雨だけが聞こえる校庭の隅っこで、私はフェザーを黙々と走らせた。マブチ15モーターであるから大した推力ではない。ゆっくりゆっくりさざ波を立てて進むフェザー。ただカタマランなので挙動はいつも安定していた(それだけが救いである。当時、ボートなどの船ものでは皆悲しい思いをしている筈だ) そんな単調な遊びだから、2、3度遊べば、もう飽きてしまって、またやろうとも思わなかった。やりきれない寂しさを抱え、フェザーで遊んだ夏休みの記憶。そんな郷愁と感傷がこのキットには塗り込められている。多分、忘れてしまいたいような切ない思い出だ。なのにフェザーが心の中に刻まれて、今も懐かしくてならない。人の心とは不思議なものである。そんな40数年前の記憶の断片をちりばめながら、山田模型のフェザーは今、私の手元で静かな余生を過ごそうとしている。
投稿者 平野克巳 : 2006年05月26日 18:56 | トラックバック
2006年05月23日
北の国から
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とーさん、北国の遅い春もようやく訪れたのではないかと思われ…「都会を離れ早や13年、あっという間に過ぎました。当然老け込むわけで、モノ覚えは悪くモノ忘れは早く、田舎のゆっくりとした流れに身を任せ、ボケてゆく…。これを「地方症」と言う…N野県にひき込んだ友人南 辛抱氏(仮名)の手紙より抜粋…うまいっ!座布団2枚!! なんて言っている場合ぢゃない。最近は地方症ではなく任地症と呼び名も変わり、地方だからと云って無闇に首都と差別化してはいけない風潮となった。それでも確かに大帝都東京などとはあらゆるもののペースが異なるのは事実で、最近では「銀座に行ったら人ごみに疲れて頭痛がした」などと人の言うのも分かる気がするようになった。確かに気が緩むと老け込むような気はする。しかし気を張ってばかり居たのでは疲れて身体が持たぬ。若くなくなるとその辺の匙加減が難しい。物覚えが悪く物忘れは早いのもその通りである。余りに度を越した病的なレベルでは不味いが、所詮人間の脳であるからメモリを積むなどと云う訳にはいかず、覚えたくないものは覚えずとも構わないし、覚えていなくてもいいものは忘れて構わぬのではないか…あれ? 何も記憶しないと云う事になるか…人はアルツハイマーなどの病気と認証されずとも自然にそうした方向へと脆弱化してゆくものなのだろうか。
辛抱さん、ボケ防止に久し振りに仕事でもしますか。何なら個展きっと苦楽無なり徹之午轢死缶(…)なりキット押し付けちゃいますぜ。「あ、それはやめて下さい(きっぱり)」…ブログを私信に使うのはよして下さい…などと色んな人が入り交じって…どーすんだよ。この収拾のつかない状態は。そんな北の国(どんなだよ。読んでる人にはさっぱり分からぬ内輪ネタぢゃねーか…)の辛抱氏から久し振りの便り。どうやらブログを密かに読んでいてくれたらしく「今井の水車小屋ならウチに転がってるから送ったげる」との沙汰あり。嗚呼、古い友人とはありがたいもの。貰うから言う訳ではないが(でもそう聞こえるか、やっぱり…)友達冥利に尽きると云うものである。多分、石積みの立派な土台が付き、干した大根や柿の古木などが奢られたモーターライズの改訂版後期キット、1/36米つき水車小屋だろうが、基本的に上モノは同じなので、ありがたく頂戴する事にした。ところが我が家の郵便ポストに届いた段ボールの包みを解くと、な、な、なんと…もっとずっと古い版のキットが出て来て吃驚である。確かに私が永年追い求めている初版の水車小屋ではないが、1972年版、自由工作シリーズNo.5、キットナンバーB-230-150であるから充分に古い版である。しかも、この版では未だ土台に金型修正が加えられておらず、作ってしまえば初版と全く同じである。嗚呼、何たること! 気軽に「ありがとね」などと言っては申し訳が立たなかった。余りのありがたさに暫し寡黙になってしまう私ではあった。暫し寡黙、暫し呆然の後は、暫し感慨に耽る私…。先ずはパッケージのボックスアートがいいやね。ボックスアートとは言ってもこのキットの場合は実写である。どこの郷の水車小屋なのであろうか。藁葺屋根に漆喰壁…絵に描いたような昔の故郷の風景である。ゴットンゴットンと木の水車の廻る音が聞こえてきそうだ。幼年時代には確かにこんな水車を見た記憶がある。小屋まではいかないまでも水田の中に水車があって、手拭いを姉さん被りした絣の野良着姿の奥さんが水車を踏んで回している光景は良く目にしたものであった。だから親近感があったのか、小学校低学年の私は何故だかこの米つき水車小屋に惹かれた。キット自体は素朴なもので、水車が廻るとその回転力を利用して小屋の中の2個の石臼を杵が突く仕組みになっていた。要するに原理としては実物と同じである。水車に水を落とすと実に良く廻った。そしてふたつの杵がカッタンコットンと石臼をリズミカルに突くのである。ただそれだけの事であったが、このメカニズムと動作が面白く、私は飽く事なく水車小屋の単純な動きをいつまでも眺めていたものだった。どうと云うほどでもないモノなのに忘れられない存在のキットは誰にもあるものだ。私の場合はこの今井科学の米つき水車小屋がまさにそうした存在であった。妙に愛着があって、その後も何度か買った筈である。「イマイは良いよなあ。昔のキットをいつまでもそのままで再販してくれるから」などと安心していた頃、件のキット改修が行なわれた事実を知ってとても哀しい思いをした事も忘れられない。今一度、あの素朴な初期の水車小屋に巡り会いたい。そんな思いを胸に抱きつつ、何とはなしに年月は流れてしまった。それがふと思い付いた事を文字にした事を切っ掛けに、古い友人が与えてくれた「昔日の郷愁」への旅。私は今、穏やかに心静かに感動しているところである。
投稿者 平野克巳 : 2006年05月23日 19:35 | トラックバック
2006年05月19日
ホビーショー今昔
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ご承知のとおりプラモデル、ラジコン、ミニカーの業界が催す展示会、ホビーショーが今年も静岡で開催されている。春は静岡、秋は東京のローテーションで毎年行なわれているものだが、かつてはプラモデル見本市と呼ばれていた。現在のようにショーアップしたものではなく、要するに全国の小売業者向けに行なわれる品評会であり受注販売会であった。私が見本市に行った最初は恐らく'70年代の事である。当時、懇意にして戴いていた鎌倉ホビーのご主人のお供で行ったものだ。日本中のプラモデルメーカーが一堂に介して全製品が一挙に居並ぶ事など他にはなかったので、とてもボルテージが上がり楽しかった記憶がある。それからの私はモデルカーズの創刊によって、曲がりなりにも業界の末席に加わる事となった為、以後は遊び半分と云う訳にはいかなくなったが、それでも華やかな年2回のお祭りである事には変わりがなかった。
私たちモデルカーズ編集部が見本市当日に取材を行なうようになったのは'85年頃だったろうか。当時、会場に取材に赴くのはモデルアートやホビージャパンなどの業界誌だけだったろう。業界誌以外の雑誌媒体で見本市当日取材を行なったのはモデルカーズが初めてではなかったろうか。それだけに当初は色々と難渋したものであった。モデルカーズの編集方針は全てにおいて高いクオリティを堅持する事にあったので、会場での撮影取材といっても35mm一眼レフを片手に会場をまわる、と云うような手法は一切行なわなかった。専従のカメラマンを同行し4×5で撮影をしたのである。当然、機材と撮影ブースだけでも相当なものであった。だが、当時の見本市はあくまでも小売業者の為のものでしかなく、報道媒体の販促効果などは全く考慮されてはいなかった。そこで我々は会場の片隅、大概は階段の踊り場などに撮影ブースを設営し、新製品などの撮影をした。そして、その為に新製品などを展示ブースから借り出す訳であるが、それさえも決して容易い事ではなかった。「お客さんが見に来た時にモノが無いんじゃ困るんだよねえ」などと鬱陶しがられ、粘り強く頼み込んでは渋々ながら貸し出して貰うと云うのが実情であった。しかし、これにいち早く対応してくれたのがタミヤであった。貸し出しても困らぬようにふたつ以上複数の完成品を出展するようになったのだ。またストロボ撮影の電源確保も難儀したもののひとつであった。事務局にお願いしても煙たがられるだけであったが、最初に「ウチのブースの電源を使いなさい」と言って下さったのが、田宮督夫氏であった。当時、督夫氏は田宮模型の商品デザインや広告などを一手に手掛ける田宮模型デザイン室の長であった。それだけに雑誌媒体の宣伝効果を充分に知り尽された方で、我々の取材活動にも何かと理解を示して下さった。初めは電源を、次にはタミヤのブース裏を提供して下さった。時にいよいよ撮影ブースの設営に困っていると、会場のひと部屋を提供してさえ下さった。そこで撮影をしているとたまたまA社のお歴々が入ってみられ「こんなとこでそんなことされたら邪魔で困んだよなあ」的な嫌味を言われた事もある。嗚呼、あれもこれも督夫氏の英断であったのか、と改めて感謝の念を強くしたものである。暫くは招かれざる客のごとき存在の我々だったが、次第に報道の重要性への理解も深まるようになり、事務局が雑誌社の為に撮影ブースと電源を用意して下さるようになり、とても撮影取材がスムースに行えるようになった。その時代に我々雑誌社に何かと便宜を計って下さったのがユニオンモデルの原田孝一氏であった。より効率良く快適な撮影取材環境を我々に提供して下さったばかりか、本来、我々には用意されていない昼食の弁当まで手配して下さったのはありがたかった。何しろ明け方の寝起きと共に、機材を抱えてすっ飛び出して来る欠食中年集団の我々である。実際、撮影を中断して食事にでかけるなどといった悠長な状況にはなかったのだ。食べ物と言えばその昔、静岡のホビーショー招待状にはご当地名物の安倍川餅の引き換え券が付いていた。全国の小売業者を招待するのでお土産が奮発されていた訳だ。報道向けのプレスパスなど存在しなかった時代なので、我々にもその招待状が流用されていたのである。各メーカーからいただくので結構な数となる。時効だから暴露しても怒られないだろうが、忙しさではNEKO随一であったカメラマンのA山羊さんをホビーショー取材に引っ張り出す為にはこれが中々に効力を発揮した。仲良く皆で家族へのお土産を抱えて家路につく。それはまさに忙中閑ありの平和な光景であった。今からは想像もつかないような仄々とした時代であった。
投稿者 平野克巳 : 2006年05月19日 18:34 | トラックバック
2006年05月16日
命短し恋せよ乙女…
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最近の世情は物騒だ。やたらに殺人事件が多い。それもうら若き女性が男の首を切り落としただの、小学生の女の子の屍体に悪戯しただの、生理的に悪寒の走るような不快で無気味な猟奇事件が頻発している。確かに昔から殺人事件は絶える事がないが、ここ最近は余りにも人命が軽視されている。鳥に吹き矢を吹いてみたり猫の首を切り落としてみたり、人に至らぬまでも、何だか世の中には狂気が渦巻いているようだ。過激な暴力描写の多いゲームが氾濫する事に起因しているなどとは言われているが、そんな簡単な事なのだろうか。平和惚けの時代の中で、明日をも知れぬ命の危機なぞ全く無い安心感からか、どうも命と云うものと真剣に向かい合っていないように思えてならぬ。人間と云う生き物はどうも切羽詰まったギリギリの状況に追い込まれなければ、物事を真剣に考えないようだ。締め切りだって一杯一杯になってから慌てて焦って半泣きになったりする訳で…あ、そんな話はこの際どーでもいいな…。
その昔は学校の授業で鮒や蛙の解剖などをやった。現在では全くやらないと聞く。確かに動物愛護の精神からすると解剖など残酷極まりないのだが、そうした経験を経て命と云うものを真面目に考えたものであった。昆虫採集とて虫を捕えて殺して標本にする訳だ。言ってみればボーンコレクターや羊たちの沈黙のような世界ではある。だが、命を自らの手で終わらせる事実に直面する事で、命を愛おしむ気持が芽生えたのもまた事実だったように思う。昔の子供はそうして命の大切さを知った。トカゲやヘビやザリガニやメダカでも命の意味を学んだのだ。それをいきなり人間でやられてはたまらない。昆虫だから良くて人はいけない、などと言うつもりはないが、やはり人で命を学ぶ訳にはいくまい。スーパーやデパートで買ったカブト虫が動かなくなったら、電池を入れ替えれば蘇生する、と本気で信じている幼児も多い昨今である。そんな子供が育って人の命に中途半端に興味を持つのは空恐ろしい事のようにも思える。生き物を飼わないのもいけない。犬、猫、モルモット、ネズミ、小鳥、そうした身近な命と触れ合う事も少ないらしい。空前のペットブームなどとは言われているが、それもほんの限られた一部の事らしく、マンション暮らしが大概を占める一般の家庭では生き物と生活を共にする機会もそうは無いらしい。彼らの寿命は私たちより確実に短い。ペットと暮らせば必ずや死と直面しなければならない時が来る。だが、それは大切な経験なのだ。取り分け子供にとっては必要な事なのだと私は思う。
それはともかく、人をあやめるなぞ決してあってはならない、あらゆる命をむげに扱ってはならないと厳しく教えられて育った昔世代の私たちにとって、その姿形をしたものにさえもそうした抑止力は働く。例えばすっかり古くなって邪魔なばかりの縫いぐるみが捨てられない。火にくべてしまうなぞとてもでないが出来そうにない。その末路を想像するのでゴミ袋に入れてゴミに出してしまう事さえ出来ない。例えばディオラマなどの作業行程でフィギュアを手荒に扱う事が出来ない。ここはこう改造して、などと首や腕を切り落とすのを躊躇してしまう。ただの「ひとがた」で命なぞ介在していないのだと自分に言い聞かせてても、人や動物の格好をしているだけで駄目である。手首にデザインナイフの刃を立てながら「いたたたたた…」などと口走ってしまう。ここまで来るとむしろ駄目である。やはりクルマやバイクをやってるほうが良さそうである。などと言いつつ、その舌の根も乾かないうちに言う事ではないのだが、私は動物のプラモデルが大好きだ。レベルの'50年代の作品である子猫“SASSY THE KITTEN”は今でもキットを切望している。日本文化/NBKのネコも是非一度は行き会ってみたいキットである。三和の虎(これも猫族なので…)は入手済みでレストアを待つばかりである。これらの癖をして「平野さんのヘンなもの好き」と人は言うが、それほど私はヘンなプラモデルが好きな訳ではない。今井科学の水車小屋とか山田模型のプロペラボート“フェザー”とか日模のマジックロケットとか、精々その程度のものが欲しいだけで…あ、充分ヘンなものでしたか。あーそーですか。どーもすいません…。
投稿者 平野克巳 : 2006年05月16日 17:54 | トラックバック
2006年05月12日
続・GW下請け男祭り、ヤバい、オレたちかっこ悪すぎる…
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「鉄の馬歴史館」の資料協力ばかりか絶版キットの手配までお世話になっている静岡は浜松の藤島部屋親方(以下文中へ)と、親方におんぶにだっこを決め込んでいる元悪徳編集者、現背徳執筆家のマイン還付ねこすけ(以下文中ね)が、夜な夜な密かに交わす禁断の淫美なメールから一部抜粋。
ね:ハセガワの1/10XS650、ようやく手にいれましたわ。
へ:ご禁制ものですね。こないだDT1も2個買ってましたね。
ね:ここんとこ落札価格が底上げしてまっしゃろ?
へ:ハセガワのキットはレアなんて感覚ないのにねえ。
ね:でね、XS650の出品のQ&Aに「まだ2個あります。購入希望の方はメールでお知らせ下さい」って書いてあったんで買ったですよ。
へ:1個5,500円は厳しい。2個も買ったですか??
ね:それが「実はまだ1個隠してます」ってんで、出品の落札と併せてつごう4個! 4個で22,000円! 再販モノの定価なら10個買えちゃう…。
へ:早く言ってくれればウチのを定価で出したのにぃ!
ね:いやいや、親方の老後の楽しみは奪えないですから…。
へ:そーかー。鉄の馬でXSかあ…XS1モーターショー出品仕様、キャンディグリーンのXS1、キャンディイエローのXS650、レッドとオレンジのXS650Eも捨てがたいしなあ…(完全に妄想の領域を浮遊している親方)
ね:ほらーっ!! そんな事言ってるから大人買い(この場合使い方に間違いがある)しちゃう結果になるぢゃないですかあ。
へ:へ? ワシのせい?? でもなんでそこまでXSなんですか??
ね:ワタシ個人が好きだからです(きっぱり)
へ:おおっ! 説得力ありますね!
かのシゲタ博士とは真逆な反応なのが、我らが非公認反政府組織「ヤマハ亡者団」が地下に深く潜った秘密結社たる所以である。待たれよヤマハファン!
キカイダーとは無縁な世代の紙の子“KIT”ねこまた(以下文中ね)は焦っていた。鉄の馬の仕込みが思うように進んでいなかったからである。そしてまたハカイダーとは全然接点のない世代である浜松最強の模型柔術家グレイシー一族のマスオさん(以下文中ま)は、そんなねこまたの動揺に同情を禁じ得なかった。以下はそんな男たちの葛藤のメールからの一部抜粋。
ね:ナガノ1/8カワサキGT500スペシャルサイドカー、競り負けちゃいましたわ。18,000円超もの高値になるとは腰砕け、噴版ものです…。
ま:う~む。ワタシの記憶が確かなら、1~2年前に浜松駅前のRくらふと店頭で見たような気がします。今度見て来ましょう。
そして第2ラウンド。ネットオークションとは現金なもので、高値落札があるとすかさず「二匹目のドジョウ」を狙った出品がある。
ま:は、早まらないで下さいっ! 今、入札されてるのは幾らまでビットされてますか?
ね:○○○○円です…。
ま:あわわわ! それ以上は積まないで下さい。すぐRくらふとに強行偵察分隊を出撃させますから。そこにあれば定価+税ですっっ!!
第3ラウンド。強行偵察ますお分隊は銀輪を連ね、椰子の葉茂る敵地を疾走する。敵兵放つ雨霰の祭り囃し攻撃をものともせず。
ま:あ、ありましたよーっっ!! その上、キカイダーの1/8レジン人形まであります。この際ですからサイドマシンにしますかっ??
ね:やはり'70年東京モーターショー仕様でしょう。
ま:大陸モータース製の白いオリジナルですね。うんうん!
ね:それはそうとやっちゃいました…。高値更新されることもなく○○○○円で落札しちゃいました。
ま:あいたたたたたた。
ね:2個あることだしサイドマシンやりますか…あは、あは、あはは…。
機先を制した飛び膝蹴り攻撃も時には痛いカウンターを浴びることもあるという教訓である。やばい。かっこ悪すぎるオレ…。
かくして今日も鉄の馬歴史館の仕込みはF島親方のサポート体制の元、地味に、しかし確実に進む。日東1/8スズキGSX1100カタナはブラックカラー仕様をヨーロッパ仕様へ、日東1/8カワサキZ1300ヨーロッパ仕様からKZ1300北米仕様へとキットを買い替えた。これも鉄の馬誌面に相応しいモデル選定とする為であるが、全てキットの仕込みは自腹であるので中々に厳しい。ところで親方ぁ。○○○3の車体色ですけど、チャコールグレーパールの最初期モデルのサイドカバーは黒かったですよねえ?? 当時、上野界隈の中古車街で見たのはそうだった記憶あるんすけど。不具合のあったCDI点火を改めた時点で共色になったような。違いまったか??(私信はやめて下さい…)
投稿者 平野克巳 : 2006年05月12日 18:07 | トラックバック
2006年05月09日
GW下請け男祭り、5月5日はダメダの日ぃや…
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世はGWなれど中年おやぢがふたり、雑談とも猥談ともつかぬ世話話、痴話話をしている。モデルカーズに掲載する記事内容の仕込み段階における共同謀議(今後は取り締まられるぞっ!)である。ひとりはかつてモデルカーズの編集責任者を相勤めていた「ねこちゃん大玉」(以下文中ね)、そしてもうひとりは永年のモデラー仲間である「かっぱらけ大王」(以下文中か)その人である。
ね:1/24は小さすぎていかんでわ。眼が疲れて作業効率ちょー悪いんだわ。
か:よくこんなモン作ったな。老眼鏡かけても見えんぞね。
ね:昔なら1/144のスピットにマーリンエンジン自作して入れたけどな。
か:人形作るって言ってただな…あ、ジオラマか!
ね:随分作ってないから泥人形になっちまわねばいーけどな…。
か:ぼろカブなおしてるにーちゃんと、田宮1/6 CB750のプラモデル買って、嬉しそうに見せびらかしてる弟って設定だったっけか?
ね:エフトイズの商品だから、極力同社の人形で仕上げたいだよ。
か:蕎麦屋のあんちゃんか源さんか。弟はどーすんだい?
ね:ロッパルの女大生をベースにしようとかと…。
か:女の子を弟に仕立てるんかい。弟でなく彼女にしちまえばいーぢゃん。
ね:人形は難しいでね。人間工学だら生理学だら知っとらんと不自然なフィギュアになっちまう。それと服のしわは面倒でいかんだわ。
か:なら裸にしちまえば。海パン一丁とかよ。
ね:彼女はビキニにしちまうか。
か:湘南だね。夏だね。いーねっ! で、何故に浜辺でカブなおしてんだ?
ね:壊れてんから…。
か:そーでなくてよっ! わざわざ海までなおしに来たんかい。
ね:彼女を国鉄藤沢駅まで迎えに行っただよ。
か:国鉄って…。
ね:50ccでふたり乗りかよっ。
か:で浜辺で彼女がビキニでナナハンのプラモ抱えてると…。
ね:シュールだね。鯔背だね。
か:また訳わかんねーことを。
ね:いっそ猫さんのライダーと河童のモデラーにしちまうか。
か:可愛いかもな。女性受けもしそーだしな。
こうして、かくも企画意図は作り手の都合と気紛れで、過給器が稼働したかのごとく、加速度的に本来の高潔な志したるシチュエーションからは遠退いていくのであった。出来りゃあいいのよ、出来りゃあ。ね、長うおくん? 「あ、あゝ、えーと、そうですね。へへっ!!」
世はGW中盤に差しかかった頃、本人同士だけが理解出来るらしい頓珍漢かつぽこぺんな会話が電話でなされている。ひとりはかつて自らを夜間戦闘機と名乗り、今や薬缶で湯を沸かし茶を飲むさえ億劫な「中年怪獣ねこんた」(以下文中ね)、そしていまひとりは猫に軒先きを占拠され流浪のモデラーとなりつつあるらしい「む印粗品1/76ハッチ可動男」(なげーな…以下文中む)である。
む:あー、連休ずっとグダグタしちゃいましたあ。どーしよー。
ね:どーしようぢゃなくて、早く作ったらんかい。
む:C100、2台なきゃ駄目ですかあ~。結構難しいんですよお。
ね:あんまりシビアに考えなきゃいーぢゃん。あの大きさじゃ雰囲気優先でいかないと表現しきれないぜ。
む:それはそーですけどお。キジーさんが怒りますからあ。
ね:またヒロポンうってんな…。
む:あ、ひっどーい。また人をジャンキーのように。
ね:ところでまたデカールの寸法間違っちゃった…。
む:ええーっ。またって3度目ですよお。
ね:ごめん。もいっかい刷って!
む:しょーがないなー。アルプス八万尺なんですから…。
ね:で、ポートカブは?
む:実は未だ何も手つけてません。どーしましょ?
ね:どーしましょ、って聞かれても…。
む:どーしよー。んでもって、どーしましょ?
ね:……。
こうして、かくも建設的かつ精力的にモデルカーズ掲載作品は世に誕生するのである。このやる気、元気、いわき…ぢゃなくて、あればこそ、あのような力作が誌面を飾ることも可能となる訳である。更なる大作きぼんぬ! しかしてモデラースタッフの高齢化は進む…。以上、ブラックMCニュースでした。
投稿者 平野克巳 : 2006年05月09日 20:44 | トラックバック
2006年05月05日
訃報来たりて
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敢えて実名で書かせていただくが、雑誌編集者でありモータースポーツ・ライターでもあった日本モータースポーツ記者会会員、三田正二さんが急逝された。逝くには早すぎる未だ54歳という若さであった。三田さんはかつてネコ・パブリッシングに在籍していた事があり、実はモデルカーズの隠れた影の立役者であった。創刊号の立ち上げは私と三田さんの二人で成したもので、まさに二人三脚の共同作業によって創り上げたという思いが強い。アイディアを二人で話し合い、私が具体的な形とし原稿を書き、彼が編集作業を引き受けるというやり方でモデルカーズ創刊号は生まれた。未だネコ・パブリッシングが社名を企画室ネコと名乗っており、編集部が世田谷の用賀にあった時代の事である。膨大な仕事量をただ黙々とこなすその姿は常に編集部内にあって、幾晩も帰宅する事なく徹夜で作業に従事するようなタフな男であった。彼のデスクの引き出しには常にグロンサンアンプル液が常備されていて、私も良く奨められたものだった。「ちきしょー。なんだよコレーっ」などと作業をしながら独り喚いたり呟いたりしていたかと思うと、妙に静かなのでそっと覗くと、自分のデスクの椅子に胡座をかいて座ったまま、イナバウアー状態で爆睡していたりする。上背は高くはなかったが大柄な体躯で、50ccのスクーターに乗った姿はまるでボリショイサーカスのクマちゃんのようでもあった。シニカルな笑みをいつも浮かべているような男だったが、世を斜に構えるようなところはなく、大声で喚くような事も滅多にない気の優しい穏やかな男だった。
セダンのツーリングカーが好きで、ネコを辞してからは雑誌レーシングオンの創刊に参加、その後WRC取材の為に1年の半分ほどを海外の取材活動に費やすなど、根っからのラリー好きでもあった。モデルカーズの創刊に立ち会った事からも想像されるとおり、模型、取り分けプラモデルも大好きで、エレール/ユニオン1/24ルノー・ゴルディーニやアルピーヌA110を後生大事にコレクションなどもしていた。ネコでは暫くの期間、一緒に仕事をしたので、彼の担当する長期リポート車、シトロエン・ヴィザで、随分と日本中のあちこちへと取材に出かけたものだった。ネコを訳あって退社してからは、時々我が家にもふらっと現れては「もう作らないからあげるよ」などと言っては、幾つものプラモデルを押し付けていった。何か一緒にやりたいねえ、が何時も彼の口癖のようだったが、結局、何も実現はしなかった。定期的に我が家に現れるので、私の娘や息子の成長を赤ん坊の時から良く知っているが、つい最近の彼らの激変振りを彼は知らずに逝った。何時もベージュのコットンパンツを履き、ショルダーバッグを袈裟掛けにし、バイザースタイルの跳ね上げ式サングラスの付いた眼鏡をかけたあの慣れ親しんだ姿ももう見られない。生涯独身を通したが、それゆえ遠慮してか、近年は私の所へやって来る機会も段々減っていた。
私が関わっていた時代のモデルカーズの強力なブレーンであり良き理解者でもあった仲間が、櫛の歯が零れるようにして逝ってしまうのは言葉には表せない哀しみである。永くモデルカーズのカメラマンを担当してくれた岸さん、業界におけるモデルカーズの最大の信奉者であり理解者であった天賞堂の三上さん、そして今度は三田さんである。皆50前後と、逝ってしまうには余りにも若い。戦友のような仲間を失う度に寂しさと切なさと空しさに心が痛む。胸にぽっかり大きな穴が開いてしまったように空虚な気分でやるせない。だが三田さんの訃報を伝えてくれたネコのA山羊カメラマンが、昔と少しも変わらぬ元気な声であったのが少しだけ救いであったろうか。
ミスタークラフトのN岸さんが「あと2年したらオレ、赤いちゃんちゃんこだぜ!」とぼやくのを聞き、時の移ろいを改めて今思う。モデルカーズの創刊が1984年暮であるから、あれから既に20年以上の月日が過ぎ去った訳である。諸行無常、世はちょんわちゃんわである(意味わかんねえし…) 私も既に50を幾つか過ぎてしまったが、人生おちゃらけちゃいちゃいを合言葉とした、真情溢るゝ軽薄さ、の人生哲学には何の揺るぎもない。微動だにない(強調してどーする…) 旧友たちの訃報に接する都度、自分だって明日はどうなるか分からないと改めて思う。突然の病魔に蝕まれるやもしれぬし、不幸にも交通事故に巻き込まれるかもしれぬ。家でひっそりして居たところで猫にみぞうちを蹴られて窒息死してしまうやもしれぬ…それは無いな…。ともかく人生明日の事なぞ皆目見当もつかないのだ。だからやれる事は今日やっておこうと思う。やり残して悔いを残したまま死にたくはないものだと思う。「オメエに明日喰わせるタンメンはねえ」くらいの心積もりで、今日を、今を精一杯、しかし肩の力は抜いてやっていこう、そう思う。最期に改めて三田正二さんのご冥福を心よりお祈り申し上げる。今頃は空の上でご両親、妹さんと久し振りの対面を果たしているのだろうか…合掌。それにつけても何時も人の顔を見れば「元気?」が口癖だった三田さん。年賀状には何時も「元気?」の一言しか添えられていなかった三田さん。なんだよ! 自分はちっとも元気じゃなかったじゃん…。
投稿者 平野克巳 : 2006年05月05日 20:24 | トラックバック
2006年05月02日
プラモデル店店頭にて
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「タ○ヤの○作社長のご自宅物置きには古新聞と一緒に、組み立てチェーンのキットが幾つも紐で縛られて放り込んであるともっぱらの噂ですよ」
「元ぷろたあのOKVさんが組み立てチェーンを数10セット持っているって聞きましたけど」
「○藤クン情報ですけどSWASHでホワイトメタルとエッチングの別売チェーンキット発売を検討中だそうです」
(ある妄想家どもの会話/全てフィクションです)
最近はネット通販とネットオークションで事足りてしまうので、余り模型屋さんに出向く事がない。その昔は模型屋と本屋は三日に開けず通ったものだが、最近ではそのどちらともとんと縁がなくなった。仕事柄とはいえ増々パソコンの前から、自室の中から動く機会が減っている。それでも性分なのか気候が良くなって陽射しや風が心地よくなってくると、やはりじっとしてはいられない。そこで久し振りに模型屋や本屋に出かけてみた。勿論、それは口実であって、目的はそこに至る行程を楽しみたいのである。桜が散り椿が終わりツツジも盛りを過ぎ始めた昨今、目を楽しませてくれるのはフジである。見事な藤棚も良いのであるが、やはり山一面をパステルカラーに染めた光景は毎年の事ながら感嘆させられる。などと喜び勇んできょろきょろしていたら、目に虫が飛び込んでしまった。自転車やバイクに乗る人ならこれが結構キツいアクシデントである事がお分かりいただけよう。取ろうともがくほどに眼球の側面に回り込み、まるで小石が入ったようにゴロゴロと痛む。「ま、しゃーないわ。今、もう片一方の目にまで入るなんて事はあるもんでなし…」などと思った途端、入った…反対側の目にも虫が。こんな事態となる確率はそう高くはあるまい…。少年時代よりとことんクジ運の悪い私なのに、何故にこんな時だけ「ビンゴ!の大当たり」なのだっ! もはや殆どパニックである。ゴーグルかサングラスはやはり必要不可欠な装備である事を改めて痛感した。
半ば手探りで(そんなヤツはおらんやろ~)数軒の模型屋を巡った。思わず昨今のスーパーの売場を連想してしまった。妙に風通しが良いのだ。変に整然としているのだ。それはつまりは店頭在庫の数が減った事を意味している。かつてはキットが天井まで所狭しと居並び、すれ違う事も叶わなかった店内がスカスカしている。品数の多さは今や不良在庫とイコールで、デッドストックがあればあるだけその店鋪の経営状態は厳しいものとなる昨今。「その分は厳選された良いモノだけを貴方に」などとどこぞの宣伝文句のような事を言われても、やはり往時の賑わいを知る者にとっては寂しい限りではある。かねてよりプラモデルの品揃えを誇っていた玩具店も、その殆どがガンダムになってしまっていた。スケールモデルなどほんの気持程度でしかない。やはり今の子供のプラモデル離れは更に進んでいるらしい。スケールモデルを商っている模型専門店の様相にしても微妙に変化しつつある。塗料はともかくとしても、工具や材料を揃えている店が極端に減った。やはり滅多に売れもしないものを在庫しておく訳にはいかないのだろう。その分、最近では大型DIY店の各種材料の品揃えが豊富なので、はるか昔よりプラモデルと付き合っている我々にとっては格段不自由はないのだけれど…だけれど、だ。世はデフレ・スパイラルから脱却して、景気回復へ向かっているなどと宣うているようだが、ことプラモデル店の店頭を見る限りは悪循環の相乗作用は現在進行形のようにも思える。プラモデルよ、プラモデル店よ、頑張れっ!
古いキットが売れずに店頭に残っているような店は「穴場」などと言われて珍重されたものであったが、それも全国に巻き起こった絶版モデルブームですっかり姿を消して久しかった。だが、ここに来て、店頭で妙に古いキットが目立つようになっている。本当に売れ残って古いのではなく再生産品である。真新しいパッケージで懐かしいキットが幾つも復活している。ちょっと前にモノグラムが復刻版キットを大量に市場に送った事があったが、あれと少しばかり似たニュアンスが感じられた。新規金型で新製品を発売するには現在の市場はリスクが大き過ぎる。ビジネスである以上、元が取れなくては新製品の意味も価値もない。だが企業である限りは死に体で居る訳にもいかぬ。そこで過去の製品をリニューアルして引っ張り出す。言ってみれば苦肉の作である。業界は童友社(実名ご免!)のように決して絶版を謳う事なく、忘れた頃にまたそぞろ生産しては市場に出す、と云う嬉しいメーカーばかりではない。完全に生産停止、中止、もしくは終了となってしまうケースのほうが多い。いわゆる絶版である。そうした製品が最近、店頭に真新しいパッケージでちらほらと並び始めている。おおっ、フジミの1/12スカイラインGT-Rだ。アオシマからは旧イマイのサンダーバード秘密基地かあ。えーっっ。エーダイの1/72じゃーまん・みりたりい・すとろんぐ・ぽいんとだああ! ブランドマークはアリイに替わったけれど、懐かしい高荷義之のボックスアートも昔のままだあっっ。なんだか昔に還ったようで嬉しいねえ。まあ業界的には余り好ましい状況ではないのだろうが、古いキットをこよなく愛する私にとってはありがたい。何しろプレミア付きのオークションで購入するより遥かに気分が良い。それにユーザー層の世代交代もあって、'60~'70年代を知らぬ世代にとっては新鮮で、新製品キットと事実上は変わらない訳だ。まあキットの中身には時代を感じずにはいられないものも多いが…。ともかく絶版キット花盛りになれば、プラモデル店店頭にも「昔取った杵柄」のオールドルーキーたちが戻って来るやもしれぬ。プラモデル人口減少に歯止めがかけられるなら何でもアリだ…そりゃ暴言か…。
投稿者 平野克巳 : 2006年05月02日 18:42 | トラックバック
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