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初代編集長 平野克巳の「猫の耳に大仏」湘南鎌倉便り


モデルカーズの生みの親、平野克巳氏による目からウロコの模型小噺。さぁどんな話が飛び出しますか。乞うご期待。

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2006年07月04日

独りの誕生日に何を思う




 私は戦後生まれだ。私たち昭和世代が戦争と云う時、大概において第二次世界大戦/大平洋戦争をさす。朝鮮戦争でもベトナム戦争でも、ましてや湾岸戦争でもイラク戦争でもない。あの昭和16年の暮に始まって、昭和20年の夏に悲惨な終わり方をしたあの太平洋戦争である。私がその戦争についての何かしらを学んだのは月刊少年雑誌、そして週刊少年雑誌が切っ掛けであったが、私の中では「遥か昔の時代の出来事」のように思われた。だが、良く考えてみれば私が生まれたのは昭和28年であって、戦争が終わって未だ8年しか経っていなかった訳だ。私にしてみれば戦争とは歴史の中の出来事に過ぎなかったが、今の若い人にとってみれば私は戦争体験世代と大して変わらない括りであるらしい…。勿論、私自身は兵隊に行った訳でもなく戦禍を被った訳でもないが、その時代に生きたと云う意味ではベトナム戦争が身近に思えた。最近ではヘリコプターの爆音の音質も変わってしまったが、今もたまに旧式なイロコイスのバタバタバタと云う爆音を聞くと、反射的に恐いと思ってしまう。
 プラモデルの国産化が顕著になった'60年代初頭、日本の産業を支えていた労働者の大半は戦争体験者、それも兵隊経験者、つまりは軍人あがりだったろうと思う。三共ピーナツシリーズのパッケージの蓋ベロには“ピーナツシリーズ次は○○です”と予告されていたのが印象的であったが、あれを決めていたのも以前は陸軍や海軍のパイロットだったり整備士だったりした人ではなかったかと想像してみる。だからどうしても旧日本陸軍機ゃ海軍機が目立って多かった。そうした思いの中には現実的な感傷や郷愁や悲哀や憤怒や、恐らくそれは様々な思考が交錯していたに違いない。だが、それを買って作っていたボクたちは既に歴史の中の絵空事も同然に感じていたと思う。してみると戦後の僅か数年は、とてつもなく人々の思考を変貌させてしまった「変革の時代」だったろうか。ボクたちはそれまでの人生観や価値観が180度変貌してしまった敗戦ショックは知らないのだが、高度成長時代の中で欧米化に伴う生活の急激な変化は知っているので、やはりあの時代は激動の時代だったと言える事が出来ると思う。激変する時代の中でボクたちは物事を真剣に等身大に見つめる事をともすれば忘れてしまったのではないだろうか。先へ先へと進む余りに物事に対する見方が「その場限りな、その場凌ぎな」安直なものとなっていったような気がしている。そして過ぎ去ってしまえば絵空事のように現実感の乏しいものでしかなくなってしまう。だからリアルタイムに何かを経験した人には、それを後世に正確に伝える義務がある。それでも所詮は絵空事になる。時間の経過とは滅び行くものを無にする作業にすぎないからだ。
 私も7月が来てまた新たにひとつ歳を取った。53である。織田信長の時代には人生五十年と詠われたが、平均寿命が延びた近年では50は分岐点のように思われている。だが現在の健康で元気な状態であと50年を生きられる訳ではないので、それとなくゴールと云うか終着点は見えている。もはや誰かに「おめでとう!」などと祝って貰いたいとも思わないし、デコレーションケーキやプレゼントを期待する訳でもない。だが、今年の誕生日は前夜、単車でコケた我が家の愚息を整形外科に連れて行くのでほぼ1日を費やした。親であるからそれは当然ではあるのだが、ようやくひと段落ついて仕事場から梅雨の合間のうっすらとした陽射しを見ていると、親として日々生きているのはつまらぬものだな、そんな思いがふと過る。別に今更アバンチュール(古いね形容が…)も望まぬが、何かたまには日常にはない潤いのようなものがないものか…ないか…。所詮子供はそうした存在ではあり得ず(育ってしまえば尚更だ)、やはり人生は個としての自分の中にこそ有るらしい。社会や家庭や友人に頼るのではなく、自分自身に確たるアイデンティティーを見い出さぬ限り、日々生きる事の充実感はもたらされないのだろう。50過ぎのおっさんになっても誕生日にはそんな感傷に浸ったりもする訳だ。こうして世の中ではそれとなく更年期障害に冒され鬱に陥り笑みを失って喜びを見失ってゆく人も居るのであろう。別に死にたいなどと思った事はない。だが誕生日やクリスマスや盆暮れ正月などが、年々鬱陶しいもののように思われて来てならぬ。なまじそんなものがあるから改めて考えてしまい、充たされぬ思いがあるような気になってしまう。心の隙き間が気になってしまう。たかが誕生日、365日あるうちの1日にすぎないにも関わらず、いちいちそんな煩わしい思いに浸るのも面倒だ。そーだよなあ。考えてみれば、子供の時から誕生日は「何かを買って貰える日だから嬉しい」くらいの認識しか持っていなかった気がする。買って貰えなくなった分、それを何かで充填したいなどと心のどこかで期待しているから、寂しい結論しか導き出せないのだ。窓辺の猫の向こうをリスが走って行く。いきなり猫の呼吸が早くなる。そんな眼前の光景は面白い。日々の潤いとは概してそんな所にあるものだ。人生スペシャルな事は期待するものではない。それがまた大人と云うものだ(笑)

投稿者 平野克巳 : 2006年07月04日 17:35

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