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初代編集長 平野克巳の「猫の耳に大仏」湘南鎌倉便り


モデルカーズの生みの親、平野克巳氏による目からウロコの模型小噺。さぁどんな話が飛び出しますか。乞うご期待。

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2006年09月

2006年09月29日

昭和プラモデル物語(4)




 駄菓子屋店内の客と店主の相関関係は対照的だ。勇んで飛び込んで来るガキどもは意欲満々、元気溌溂、大人には死んでも真似の出来ないような異常なハイテンション。対して暖簾を掻き分け出て来るおばさんは戦意消失、意気消沈、アンニュイな午睡のあとのよう。なにしろ外宣スピーカーのごとくにひたすらただうるさいだけの子あり、その言葉しか知らぬかと思えるほどに「これいくら」ばかりをやたら連発する子あり、いつまでも村はずれの地蔵のようにじっと佇む子あり、駄菓子屋における子供の生態はまさに百科繚乱、多種多様、千変万化、まるで動物園の猿山を見るようだ。伸びたランニングシャツの山猿や刈り上げおかっぱのこまっしゃくれに対峙するのは、駄菓子屋の主人たるおばさんである。おばさんと言っても子供たちの目で判断する「おばさん」であるから、意外にも若かったりする。歳の頃なら30でこぼこか。それに今と比較すると当時の人たちは老けて見える。「ちょーだーい!」の声に促されて、いかにも渋々といった風情で出て来るおばさんは、大抵の場合、前掛けで両手を拭き拭き現われる。なにせ今、たらいと洗濯板で勤め人のご主人のワイシャツを洗っている真っ最中だったりする訳だ。駄菓子屋を営むがごとき一般庶民には未だ電気洗濯機は行き渡らない。だから家計の助けになればと内職のつもりで始めた駄菓子屋に、実は生活が振り回される辛酸をなめていたりするのである。つい露骨に「あんた買うの?」と本音を吐いてしまうのも中年に差し掛かった女の性の嫌らしさであったりするのだが、子供たちはそんなことには頓着しない。「おばさん、今日は機嫌悪いや」と心の中で呟いて、あたり構わず物色を始める。今日は何か新しいものが、握った銅貨が惜しくないものがありはしないかと、半ば泳いだ目を店の隅から隅まで走らせる。あれ、一昨日まであった青い軍配がない! 向こう町のガキどもにやられちまったか…。店の表では数人がしゃがみ込んでろう石で道路に抽象画を描いている。男の子なら汽車、女の子ならお姫さまが渡り相場である。その脇を玩具の色めがねをかけ、首に風呂敷を巻き付けた月光仮面なのかまぼろし探偵なのか少年ジェットなのか正体不明のイガグリ頭が棒きれを振り回しながら走り抜けて行く。駄菓子屋の周辺はかくも子供の人口密度が高い。学校が終われば誰もが一目散に空き地か駄菓子屋に馳せ参じた時代。塾に通うような子はクラスに僅かに居る秀才のみだった時代。あるいは算盤塾が精々であった時代だ。
 ボクは駄菓子よりも駄玩を好む子供であった。でも大抵は1回5円のくじを2回ひくか、1個5円のゴムまりを2個買って三角ベースをするか、1箱5円(だったか?)の銀玉を補給して戦争ごっこをするかだった。そしてある日、それがボクがいくつで何年何月だったかは忘れてしまったが、暗い土間でプラモデルと出逢った。それまで店で見ていた駄玩とは違って箱が華やかだったのでとても目を引いた。なにしろ新しい玩具には敏感だった。飛行機のリアルな絵。それは少年雑誌のグラビアのように、一瞬にしてボクを魅了したのだった。箱を開けると小さな飛行機がバラバラになって出て来た。組み立てるものなのだということは瞬時に理解した。バラバラなのに出来上がった姿がありありと脳裏に映った。細かい彫刻が施されたそのリアルさ加減といったら木製模型の比ではなかった。爪の先で叩くとコツコツと硬質な感じがして、しかもピカピカと表面が光って見えた。今風に言えばボクの全身をアドレナリンが駆け巡った。凄い。こんな模型があったんだ。いっぺんに夢中になった。その時ボクは一瞬にしてプラモデルに恋したのだ。20円のキャラメルの箱より更に小さな横長の箱には黄色地にVのマーク。そしてロケット弾を発射するF-51ムスタング。背景の地平線が傾いているからロールをうちながら爆進しているのだと思った。こんな小さな世界に臨場感が溢れて見えた。それまでの玩具にこんな写実的な箱絵があっただろうか。そして、それに違わず実物を彷佛とさせる模型の中身。箱を裏返すと展開図のような部品の組み合わせ方が描かれていた。片隅には30.-の鉛筆の走り書き。おばさんが書いた値段だ。30円は余りに高い…しかしもうボクはプラモデルの虜だった。それが三共のピーナツシリーズとの、そしてプラモデルとの本格的な出逢いの最初であった。果たしてその時、ボクは三共ピーナツのムスタングを買ったのか。その記憶は残念ながら残っていない。多分、買わなかったろう。いや、買えなかったろう。10円銅貨1個しか握り締めてはいなかった筈だから。20円を獲る為に何とか母を説得出来はしまいかと、おそらく夢中になって川べりに続く桜並木の下を自宅目指して走っただろう。そんなことはありはしないと分かっていても。それは昭和35年夏頃のことだったろうか。だとすればボクが満7歳、小学校2年生の時だった筈だ。そして、それからのボクはとても禁欲的な少年となった。2日間はじっと我慢して過ごし、3日目になると10円銅貨3枚をぎゅっと握り締めて桜並木の下を走る「天野屋エクスプレス」と化した。今日こそは恋い焦がれていたメッサーシュミットを買うのだ。どうか売れてしまっていませんように、と祈りながら一目散に走る。その時ボクは風になった。(続く)

投稿者 平野克巳 : 2006年09月29日 14:46 | トラックバック

2006年09月26日

昭和プラモデル物語(3)




 かつて全国の小学校や中学校の正門、裏門のはす向かいには必ずといって良いほどの確率で文具店が在った。教材として用意しなくてはならない大和糊だの白ボール紙を購入するのも無論だったが、学校の授業とは関係の無い戦車や汽車のカッコウをした鉛筆削りだの匂い鉛筆だのを友達と競って買ったのもこうした文具店であった。そして大概の場合、学校門前の文具店には廉価なプラモデルも置かれていて、それが切っ掛けとなってプラモデルにのめり込む子供たちも多かった。こうした文具店はラムネや菓子パン、遊具や玩具なども取り揃えて駄菓子屋的要素を担った店もあったにはあったが、やはり安直で怪しげな菓子や玩具の品揃えでは横丁の駄菓子屋に勝てるものではなかった。昨今では「駄菓子屋」というとイベント用模擬店のイメージが強いが、その昔はどこの横丁にも在る生活に根差した地道な商いであった。駄菓子屋は合成甘味料や合成着色料をふんだんに使った如何にも怪しげな菓子や、街の玩具店では扱っていないインチキ臭い玩具を扱うだけでなく、地域の子供たちにとっては社交場であり娯楽の殿堂であった。そしてまた挨拶の仕方や買い物の方法などを覚える社会性、公共道徳を学ぶ場としても貢献し、時には人生相談にさえ応じた、ある意味、子供社会の縮図であった。こうした地域コミュニティが在ったからこそ、昔の子供たちはクラスの友人よりも近所どうしの友情と付き合いを重視した。おいおい年齢や体格の異なる者どうしが一緒になって遊ぶので、知識や考え方も画一的ではなく、そうした中から様々なことを学んだのであった。まさに駄菓子屋は子供が社会へと一歩を踏み出す為の登竜門であったのだ。当時の子供社会にはそれなりの掟があって、駄菓子屋の土間に踏み込む前には必ずちゃんと挨拶をしたものである。「おくれーっ」「ちょーだいなー」「くださいな」その家庭環境によって表現はまちまちだったが、誰もがそれを律儀なほどに守っていた。子供社会には子供社会なりのルールが自然と出来上がっていた。大人と子供の垣根の無くなってしまった現代ではもう見ることの出来ない、子供らしさの美徳がそこには在った。
 さて天野屋の裸電球の灯る薄暗い土間でボクが見たプラモデルの最初は三共ピーナツ(1/150)のF-51ムスタングであった。それまで日光写真やブリキのカチカチや銀玉鉄砲や弓矢やビー玉や(書いていたらキリがない…)、つまり如何にも駄菓子屋で扱っていそうな駄玩ばかりを見慣れていたボクにとって、プラモデルとの出逢いは余りにも衝撃的であった。それまでの駄玩オモチヤはアンチモニー製で、子供心にも「本物っぽい」とはとても思えないような代物でしかなかった。しかし、この小さな飛行機のオモチャはどうだ。箱の中身はバラバラであるにも関わらず、はっきりと飛行機の姿が想像出来た。それも本物の飛行機の姿をだ。しかも表面がツルツル、ピカピカしていて、その硬質な光りは金属で作られている実物の飛行機の質感を連想させた。ボクがずっと待ち望んでいたものはコレだ、漠然とではあったが恋い焦がれて来たのはコレなんだと、埃臭く狭い土間で一人静かに感動していた。その日からボクは三共ピーナツの虜となったのだった。組み立てそれ自体は別段苦にはならなかった。元々どちらかといえば手先は器用なほうだったし、それまでも散ざっぱら木製組み立てキットを作っていたので要領は得ていたのだ 。木製キットに較べればむしろプラモデルはいとも簡単に組み上がってしまった。組み立てに10分とは必要でなかった。暫くは卓袱台の上でなめるようにして眺める。そしてその後は指先で摘むようにして離陸、上昇、反転、降下、着陸などの一連の動作をシミュレーションしてみる。唇の先で爆音や機銃発射音の擬音を真似ながら空中戦に突入すれば、空想世界の中でボクは雄々しく空の荒鷲を飛ばす撃墜王となる。白い雲を眼下にいただき風を切って進む戦闘機の威容。それは小さなプラモデルが与えてくれる至福の時だった。
 当時三共ピーナツシリーズは30円。これは決して安い買い物ではなかった。その頃のボクの1日のお小遣いはといえば10円だったのだから。10円あれば未だ駄菓子がふんだんに食べられた時代だ。既に何銭硬貨は流通してはいなかったが、2個1円なんてモノが幾らでもあった。そうした時代に30円はかなり厳しかった。だがボクはプラモデルと出逢ったその日から全ての駄菓子、駄玩と訣別した。それからのボクはといえば2日間を修行僧のごとくに耐えて過ごし、そして3日目には10円銅貨3枚を汗が出るほどに握り締め、桜並木の下を天野屋目指して一目散に駆けたのだった。あの頃のボクたちはプラモデルが欲しくて欲しくて、作りたくて作りたくて仕方がなかった。あのキャラメルのように小さな箱の中には、かつてのボクたちの想い出が溢れんばかりに詰め込まれている。それはその後数十年変わらずに抱き続けることとなるプラモデルへの熱情の原風景だ。天野屋へと続く埃舞い立つ砂利道の向こうには、当時の子供たちが愛した横丁最大のアミューズメントパークが在った。そしてそこには革新的な玩具プラモデルがボクの到着を待ち詫びていた。あの時代、もしもプラモデルが無かったら、今のボクは一体どこで何をしていたのだろう。(続く)

投稿者 平野克巳 : 2006年09月26日 13:19 | トラックバック

2006年09月22日

昭和プラモデル物語(2)


月刊少年 昭和37年7月号より抜粋/高荷義之作画


 '50年代から'60年代にかけて情報文化は大きく様変わりしようとしていた。その最たるものがラジオに取って替わって、新たな娯楽と情報の伝達手段となったテレビである。昭和28年、NHKテレビが公共放送を開始、続いて日本テレビ放送網が民間放送を開始し、昭和33年には日本電波塔/東京タワーが完成して、いよいよテレビ時代は本格的に幕を開けた。その一方でテレビ受像機は未だ高価な電化製品であった為、一般庶民への普及率はさほど高くはなかったものの、テレビ、電気冷蔵庫、電気洗濯機は三種の神器と呼ばれて大衆の憧れとなった。活字文化も週刊誌が主流の時代となり、少年雑誌も昭和34年に初の少年週刊誌である少年マガジンと少年サンデーの創刊によって月刊の時代に終わりを告げた。この時期の「少年」や「ぼくら」「少年画報」などの月刊誌から「少年マガジン」や「少年サンデー」、遅れて創刊された「少年キング」などの冒頭特集は大平洋戦争を題材としたものが大勢を占め、「連合艦隊のすべて」とか「これがゼロ戦だ!」「壮絶!戦艦大和の最期」などといった戦記ものが居並んだ。そして冒頭グラビアや絵物語の挿し絵には小松崎茂や伊藤展安、高荷義之、梶田達二など錚々たる面々がキラ星のごとくに名を列ね、テレビもビデオも知らぬ当時の少年たちを臨場感一杯の光景で魅了した。そして戦後世代の少年たちの多くはいっぱしの戦史兵器研究家へと育っていった。これが所謂「戦記ブーム」と呼ばれるもので、こうした少年文化の高まりの中でプラモデルは爆発的な人気を獲得することとなる。
 さて、ボクたちの初めてのプラモデルとの出逢いとはいつ、どこでだったろう。それはおそらく人の数だけあるのではないだろうか。ボクの場合を例にひいてみよう。記憶では近所の駄菓子屋「天野屋」で三共ピーナツシリーズのF-51ムスタング(PではなくFなのがむしろ時代を感じさせる)を見たのがその最初だと思っていたのだが、どうやらそれ以前に見ていたような微かな記憶もある。当時、ボクは埼玉県浦和市に住んでいたが、国鉄浦和駅まで出ると県庁所在地だったせいもあり大きな繁華街が拡がっていた。駅の近辺には大きな書店があった。吹き抜けの二階建てで、当時のボクにとってはまるで図書館のようにあらゆる本が何でも揃っている大店のように思えたものだ。その書店の一画に一本だけガラスケースが置かれていて、中には白い布が敷き詰められてプラモデルが幾つか並んでいたように思う。それが何なのか興味も知識も無かったので、並べられていたキットは覚えていない。ただ、ケース後方の柱にぶら下げられていたキットだけははっきりと記憶している。紙の台紙に透明フィルムで貼付けられたパラバラな飛行機の玩具。あれは間違いなく小さな高翼単葉の飛行機だった。そして赤と白の旭日旗のようなマーク…。後年になってあれは三和のセスナ180だったに違いないと判った。勿論、旭日旗のようなマークというのは朝日新聞社の社旗マークであったのはいうまでもない。それがプラモデルという玩具であることはあとになって気付いた。つまり見た瞬間から欲しくてたまらなくなった三共のムスタングと較べて余りにも温度差があることからしても、セスナとの邂逅はムスタングより前のことだろうと推測するのだ。やはり後年、今は東京五反田駅前でミニカーショップコジマを経営する小嶋慶三氏が、未だ中央区八丁堀で玩具店を営んでいた時分のお話を伺ったことがある。氏は記憶の中で問屋が「今度こんな玩具が発売された」と初めて持って来たのが三和のセスナだったことを覚えておられた。つまり三共も三和も発売時期はさほど差が無かったとしても、どうやら三和の商品のほうが手広く、そして早く流通したのではないかと想像されるのだ。それらの事実からしてあくまでも推測の域は出ないのだが、ボクがプラモデルを見た最初はどうやら三和のセスナだったようだ。
 浦和駅前の繁華街には小さいけれども玩具店もあった。間口の狭い古めかしい店構えであった。その店内の棚にプラモデルが積まれており、ボクはそこでコグレの黒船と相沢の戦艦三笠を買った記憶がある。駅前は滅多に行く所ではなかったし、そうそう玩具を買って貰える身分でもなかったが、縫いぐるみのウサギを買って貰った記憶もあるので、おそらくは幼稚園児から小学校低学年の頃であったろう。これまた天野屋で三共のムスタングを買ったのと時期的には微妙に前後しているようで正確なところは定かではない。更に駅付近には土間で蛍光灯が薄暗い模型店もあった。こちらはUコンなどの品揃えが多い大人向けの模型専門店であった。そこで幾つの誕生日なのかは覚えていないが両親にねだって日本ホビー1/20M-41ウォーカーブルドックを買って貰った。それは1年越しの交渉の末に実現したものであったが、モーターも電池も買って貰えず、しかも途中で挫折してしまい完成しなかったことを無念さと共に思い出す。駅前繁華街は1年に何度も行く場所では無かったので、曖昧で微かな記憶しか残っていない。やはりボクのプラモ小僧の始まりは駄菓子屋「天野屋」の店頭から始まるのだ。(続く)

投稿者 平野克巳 : 2006年09月22日 12:41 | トラックバック

2006年09月20日

昭和プラモデル物語(1)


日本模型新聞 昭和33年12月15日号より転載


 ボクたちがプラモデルと初めて出逢ったのは一体いつのことだったろう。おそらく年齢や生活環境によってそれは随分と異なるものだったのかもしれない。プラモデルと通称されるプラスチックモデルの誕生は1930年代のイギリス、そして広く普及したのは1950年代のアメリカであった。'50年代に既に成人であった年代なら進駐軍のPXでその存在を知ったかもしれない。あるいは新橋のステーションホビィで手にしたかもしれない。東京オリンピック開催の年、1964年まで日本人の海外渡航は禁止されていたから、極めて限られた一部の特殊な人たち以外、一般庶民が外国でプラモデルを手に入れることは事実上なく、精々海外とやり取りの出来る人たちが通信販売によって取り寄せるくらいが関の山の時代であった。だから今では知らぬ人も居ないレベル、オーロラ、リンドバーグなどの初期プラモメーカーそのものを、当時のほとんどの人々は存在さえ知らなかった筈である。為替レートが1$360円もした時代でもあったから、いずれにしても海外のプラモデルは余りに高価に過ぎ、例え成人であったとしてもかなり恵まれた生活環境にある人でしか買うことは出来なかった。
 ボクたちがプラモデルを知ったのは'60年代以降のことである。高価で入手の難しい外国製品ではなく、国産キットの登場によってプラモデルは身近なものとなったからだ。日本製プラモデルの始祖は1958年にマルサン商店が発売した1/300原子力潜水艦ノーチラス号と言われている。そして、それに加えて1/25ダットサン1000、1/100PT212哨戒水雷艇、1/200B-47ストラトジェットが世に出て、マルサンは国内初のプラモデルメーカーの栄誉を担った。但し、これはあくまでも現在までの業界における公式見解であって、日本プラスチックの原潜ノーチラスや零戦、P-51マスタング(当時の表記ではムスタング)、日本模型(現ニチモ)の伊号潜水艦などが、国内初の(それはとりもなおさず国内最古の)プラモデルではないのか、とする論争も後を絶たない。しかし当時の日本模型新聞(我が国戦後最古の模型業界誌)で見る限り、やはりマルサンが国産プラモデルの始祖である可能性が極めて高い。正式に流通したものであるならば、必ず日本模型新聞に発売告知記事が掲載される筈であるにも関わらず、マルサンのノーチラス号発売記事の前後にそうした記述が見当たらないからだ。
 さてマルサンのキットが直ぐに全国に行き渡ったかといえばそうではない。最初の4点が比較的高価であったせいもあり、当初、マルサンの販売実績は決して芳しいものではなかったようだ。一般ユーザーがというよりは業界筋、つまり玩具問屋がプラモデルには難色を示したようだ。目新しいもの、物珍しいもの、それが革新的なものであればあるだけ、懐疑的になり容易には受け入れられないのが世の常である。玩具業界には壊れたゴミのようなものとしか映らなかったのだ。業界が商品価値を認めず仕入れなければ必然的に市場の販路は狭まる。当然、そうなれば情報の少ない当時のこととて多くの人の目に触れることも無かったのである。苦肉の策として翌'59年にはマルサンが提供して、新たなメディアとして注目されていたテレビ放送でプラモデル番組をスタートさせる。「陸と海と空」(フジテレビ)がそれである。しかし、それも莫大な宣伝費が嵩むばかりで、肝心のプラモデル販売実績には中々結び付かなかった。当初、マルサンのプラモデルは低迷したのだった。だが不発と思われたプラモデルが'60年代の幕開けと共に爆発的な増殖を見せる。マルサンに続き、新たに三共や三和、山田、にしきやなどの新たなメーカ ーが続々とプラモデル界に新規参入、プラモデルはたちまち街に溢れた。それは戦後経済再建に沸く国内新規産業の起業家たちによってもたらされたもので、新たな素材プラスチックとそれを用いた新たな玩具プラモデルの将来性を期待してのことであった。敗戦から未だ15年、街にはアコーデオンを抱えた傷痍軍人が行き交い、復員や特攻くずれなどの言葉が死滅していなかった時代のことである。昭和20年8月を境にして全ての世界観も価値観も、そしてそれまで在ったあらゆる物が消滅し一変した日本の社会の中で、しかし誰の心の中にも戦争の残滓が色濃く残されていた時代のことである。時代の必然だったか否かは判然とはしないが、プラモデルとは戦争の残像を哀痛と共に郷愁へと転化させたひとつの道具であったように思えてならぬ。それはあらゆる誇りと自信を失ってしまった日本人の心象風景であり、玩具というオブラートに包んだ往年の栄華を密かに懐かしむ手段だったろうか。とにもかくにも戦争を乗り越えて来た人たちは回想するかのように、プラモデルという玩具にかつて在った日本の姿を塗り込めて世に送り出したのだった。その筆頭が零式艦上戦闘機と戦艦大和であったことは言うまでもない。そしてプラモデルは、同様な感情によって突き動かされ編纂された少年雑誌が創り出した戦記ブームとの相乗作用により、たちまち少年たちを魅了して一気に少年文化の中心へと伸し上がってゆくのだった。(続く)                                       

投稿者 平野克巳 : 2006年09月20日 11:59 | トラックバック

2006年09月15日

脳内にも秋風の吹く…




 秋がなーい、秋がっ! この数日いきなり涼しいを通り越して寒くなってしまった。どんよりと低く垂れ込めた鉛色の空、身体全体にまとわり付くような冷たい霧雨。なんだかいきなり一足飛びに冬になってしまったようだ。いつものようにTシャツと単パンで居ると、そくそくと足元が寒い。やはり寒いのだろう。いきなり猫どもが私の膝の上の奪い合いを始めた。デカい猫を2匹も膝に乗せている気も無いので放り出すと、即座に違う猫がやって来て腕枕で横になっている私の身体でくらくらと揺れつつバランスを取って香箱を作っている。お前はチャスラフスカか…ってどうも古いね、喩えが…そんなにしてまで人の体温をあてにしていたいのか。まあいい。こっちもそれなりに毛まみれ動物のぬくぬく感の恩恵に預かってはいるのだから。
 しかし、暑い暑い、こんなこっちゃ模型なんぞ作っちゃおられん、などの言い訳を継続していたら、本当に模型を作る気力などすっかり失せてしまった。やらなきゃならぬモノはなんぼでもあるのだ。だが日々携わっていないと、段々と自分の日常の中からそうしたものが消えて行く。

三共1/25 三菱ブルドーザBD11
三和1/8 ホンダドリームCS72
クラウン1/40 ウィリスジープ
青島1/-- トヨタダンプトラック
日東1/15 メグロスタミナ500白バイ
山田1/-- プロペラボートフェザー
日東1/12 ホンダドリームCB450
日東1/12 ブリヂストンチャンピオンホーマー
三共1/150 ノースアメリカンSNJテキサン
ニューレイ1/6 インディアンチーフ
クラウン1/20 ホンダZ
エフトイズ1/24 ホンダスーパーカブ
今井1/40 トヨペットクラウンパトカー
三和1/-- XM47リトルジョンミサイル

 嗚呼、今ざっと思い付くだけでもこれだけある。今目の前にある危機だ、これは…。だが日々の中でちょっとでも手をつけないでいると無いも同然の感覚に襲われて行く。この歳になると模型に限らず、こうした心理的現象は多々見られる。刺激を半ば強制されていれば忘れないが、そのものから遠離ったままでいると次第に記憶の中で薄まって行く。例えば若い頃なら恋人に逢えない時間が多ければ多いほど想いは募ってゆくのだろうが、私らの年齢になると逢えなければ逢えないだけ自然にフェードアウトしてしまうのである。それは日々、脳細胞がぷつぷつと音を立てて消滅しているのと同現象かもしれない。日々ずっとかかずり合っていれば辛うじて忘れないし、自分の日常の中に組み込まれているものとして認識も持ち続けられる。だが、どれだけ密接に関わったものであろうとも、インターバルを置いてしまえばその分だけ確実に記憶回路からは消去されて行く。私はかつてミニ、ビートルについてはどれだけ仕事をしたかしれない。でも今では何年から12インチだったっけ~とか、1302とか1303Sとかって何だっけかあ~、などとまるで覚束ない。完全に先祖返りならぬド素人返りしてしまった。そんな調子だから模型の世界に関しても、かつては明確に把握していたような事でも、今改めて思い出そうとするとその知識がてんであやしい。嗚呼、いかん。日々、脳内メモリが消去作業を促進している。このままでは「かっぱらぱあー」になってしまう日は近い。もはや若年性も付かなくなってしまったアルツハイマーに冒される日も目の前なのか。
「かっちゃん、駄目男なのねっ!」
「ねこ男ですよ」
「なんだそりゃっー!」
「だから駄目だって言ったにゃん…」
 かくして私は月夜の晩にねこ男に変身し、ただもー何にも考えない生き物へと生きざまを変えてしまうのだった。ちなみに姿形は変わらない…(詳しくはwebでウサタクの話を検索して…も何も触れられてはいまへん…) そんな訳なので写真のようなクルマを見つけても「へー、古いのに新しいナンバー付けて走っとんねんなあ…」くらいしか思い付きませぬ。だって今更、何云々したってしょんないような古いふる~いブルーバードでしかないし…。Wピックったって…「自動車文明のIT革命やあ~」(彦摩呂の口真似で…その前に意味分かんねーし…)

投稿者 平野克巳 : 2006年09月15日 19:42 | トラックバック

2006年09月12日

フィギュアの源流はチョコ菓子にあり…?




 小ねこサブレ…うーん、見るだに可哀想で食べられない。子猫の顔、頭、生首(おどろおどろしいな…)にかぶりつくなんざあ、人非人のやることである。しかし旨い…微かな苦味を効かせたココア風味。やはり東京老舗銘菓ならではの上品な味わいやね。鎌倉在住の人間としてはサブレと言えば鳩サブレなのであるが(銀杏サブレと云うのもあるのだが、鳩サブレに較べると全国的な知名度は今イチである)、あの鳩も慣れぬと頭からはかぶりつけない。だが鳩三郎(と云う名前があるのだ、アノ鳩には…)は単純な形にデフォルメしてあるし、表情もどちらかと云えば無機質だ。それに引き換え小ねこサブレの場合は思いっきり猫が笑みと共にこちらをじっと見つめている。嗚呼、惨くて食べられない。でも旨い。ちなみにこの猫には名前があるのだろうか。例えばコージーちゃんとか… ♪ドンドンドーン、ベタでーすっ!
 かように可愛い小動物を象ったお菓子では古いところでひよこがある。あれもさしてリアリティのある姿はしていないのだが、やはり昔から頭をかじって喰い千切ってしまうには抵抗があった。今でも東京銘菓を謳っているが、勿論全国のどこでも売っている普及率の高い有名商品である。子供の頃にはお土産に戴く以外には食べる機会なぞ滅多にあるものではなく、たまに父の客人などに戴くと、勿体なくて可愛そうで食べずにずっとしまっておいたりしたものだ。やがては干涸びて中のあんこがカラカラと音を立てる頃には、ひよこも立派なツタンカーメン王の出土品となっていた。ボクらの世代では恐らく「お菓子のホームラン王」と共にひよこが非日常的な菓子の代名詞だったろう。後年になってバレンタインデーには良く猫型のチョコを貰ったが、これまた首を噛み切ってもぎり千切るのが惨くて、結局冷蔵庫の中で永久凍土化石となってしまうケースが多々あった。一時はシリコンでかたどりしてレジンの複製品を作り、永久保存してみようかしら、などと本気で考えたりもしたものだった。食べ物に限らず「永久に在る、永遠に変わらぬ存在」はやはり人類史上不変のテーマであるらしく、はからずも若い頃の私は古代エジプト人ででもあるかのような思考回路を持っていたらしい。まあ、今では「森羅万象すべからず永遠不変のものなどあり得ず、いつか必ず土へ海へ空へ還って行くもの」と達観している。
 小動物を象ったお菓子で思い出される最も古いものは、チョコレートで出来た犬や猫、あるいはキャラクター(ディズニーものだったか??)の高級菓子だろうか。私の少年時代、我が家が菓子店を営んでいた事は既にこのブログでも書いた事があったと思うが、その商品の中で最も高価なものがそのチョコレート菓子だった。透明フィルムの貼られた穴空きボール箱に入った形態で、私の家の店でも贈答品などを陳列する、最も奥まった壁の棚に置かれていた。高価な商品なので常時ふたつかそこらしか置かれておらず、売れるのもたまでしかなかった。3D立体的形態の商品で、金型注型されて左右張り合わせたもので、中は空洞になっていた。言わばあんこの入っていない最中のようなものである。内部構造の全くオミットされた飛行機プラモのようなものである…?? 当時、チョコレートは高級菓子だったので、ムクではないそのような形態が採られたのであろう。この形態は今でも卵の形をしたチョコレート菓子に残っているが、それらにはオマケのカプセル入りフィギュアが入っていて、それこそが目当てであって卵のチョコレートだけでは誰も買わない。だが、当時はチョコレートと云うだけで子供たちは死ぬほど食べたかった。なにしろ鉛のチューブに入った練りチョコでさえ貴重品に思えた時代だ。
 立体像のチョコレート。それは憧れのお菓子であったが、それ以上にリアルで可愛い人形として興味をひいた。言わば縫いぐるみと同じような感覚で見ていた気がする。もしかしてのちに入れ込む事となるフィギュアへの一里塚だったのかもしれない。私は美少女フィギュアや兵士フィギュアが余り好きではないのだが、無類の動物フィギュア好きである。猫好きである事を差し引いても、可愛いしぐさの猫フィギュアなどは一遍見たならもう辛抱たまらぬ。欲しくて欲しくて我慢が出来ぬ。家では生きて動き回るリアル猫フィギュアがいくつも居たとしてもだ。そうか…それは子供時分から培われたものであったのか、と今改めて思う。子供時分にいつも眺めていたチョコレートの動物たちが、現在のフィギュア大好きおやぢの原点であったのかと考えると感慨もひとしおである…それは大袈裟か…。子猫の顔を象ったサブレを食べていて何気なしにそんな事を考えた。これまで鳩を象ったサブレにはそんな事は何ひとつ思い至らなかったにも関わらずだ。ん~、やはり猫は私に何らかの啓示を与える神がかった存在なのであろうか。猫の神通力とはいかばかりなものなのであろうか。モニターの傍では今も小ねこサブレのコージーちゃん(勝手に決め付けんでねーよっ)が、じっと笑みをたたえて私を見つめ続けている。三色戦や夜戦、煮染めたウエスや灰色サバ(我が家の猫どもの蔑称…あ、いやいや別称である)はと云えば、そこいらにただ落っこちているだけですけどね…。

投稿者 平野克巳 : 2006年09月12日 19:43 | トラックバック

2006年09月08日

新旧交代を素直に受け入れられない




 私は人生の20年余りを雑誌屋として生きて来た。常々思うのは雑誌は生きている、と云う事だ。生き物なので常に変化し続ける。元気に生き続ける為には時代の空気に敏感に反応していなければならない。そしてどれだけ元気であっても、時代の世相が激変すれば急激に生命力を失う事もある。その雑誌で私が主に提唱し伝承して来たのは「過去の時代の精算」であった。過去とは私たちが辿って来た歴史であり、その積み重ねが現在と未来を造り出す。先を見て生き続けるのが私たちの生きざまではあるのだが、先ばかり見て過去の反省を忘れると未来は危うい。だから過去の歴史を正しく後世に伝えたいと願う。それが私がずっと心掛けて来た基本理念のひとつである。団塊の世代が大量に退職者となる所謂2007年問題はもはや目の前であるが、ここへ来てようやく彼らに向けて各界が動き始めている。その昔、社会からリタイアした者は単に老人と呼ばれ、精々ゴルフと盆栽くらいを楽しみとする無趣味人間として扱われて来た。だが今後、社会の第一線を退く団塊の世代はそうした人種ではない。現代の若者たちが「自分たちこそ社会の最先端に位置する世代」などと考えるのは奢りに過ぎず大いなる勘違いである。現在の風俗文化の全ては団塊の世代によってその礎が創られたもので、現在あるものはその遺産の継承であるに過ぎない。ビートルズやストーンズ、ツィッギーやアンディ・ウォーホール、ピーコック革命やサイケデリック文化、ニューシネマあって、現在の文化は成立していると云える。そうした経緯を踏まえて本も模型も昭和をキーワードに、団塊世代の青春を再考させるようなコンセプトが注目されているようだ。実際、私のところでも何れも他誌で恐縮だが、20世紀のプラモデル物語の書籍化、小松崎茂プラモデル・パッケージの世界や昭和絵師列伝-小松崎茂と昭和の絵師たちの復刊のお話を戴いている。私自身もこうした時代的うねりをひとつの切っ掛けとして、兼ねてより懸案となっている国産プラモデル史を何とか取りまとめて世に残す作業を本格化したいものと考えている。
 さて、雑誌が生き物なら、世の中全ても生き物である。毎日、自転車で走っていると街の景観も日々変化を続けていている事を痛感する。湘南貨物駅が廃止されて既に久しいが、その跡地には今は住宅展示場とフットサル、テニスコートが出来上がっている。その脇を走り抜けて行く電車も湘南の人間が慣れ親しんだ橙と緑に塗られた鉄車輌ではなく、ステンレスやアルミの無塗装軽量車輌へと姿を替えてしまった。江ノ電とて気が付けば旧型車輌は引退してしまい、何系と云うのかは知らないが見慣れぬ車輌が何時の間にか走っていた。そんな風だから東京に出るとまるで浦島太郎である。地下鉄路線図は今では象形文字の羅列のようにしか見えないし、どの線に乗ってどこで乗り換えたら良いのやらも皆目見当がつかない。第一、銀座線が黄色くない。赤坂見附で駅に立てば丸の内線が白帯の赤い車輌ではない。今や車輌だけ見たのでは、ちょっと見何線なのかが分からない。あの暗く小さな黄色い鉄車輌の銀座線が懐かしい。クーラーが無く、金属音の軋みで会話も出来ないほどに、暑くてうるさかった銀座線。レール脇の第三軌条から電気を取る古臭い形態の為、キーキーと不快な金属摩擦音の轟く車内、駅間近になると車内の灯りが消え、代わりに非常灯が点灯する不便さ、むしろそうしたものたちが愛おしく懐かしい。私が最も親しみのあるのは渋谷、表参道、外苑前、青山一丁目、赤坂見附、新橋であるが、最近では浅草方面が興味の対象へと変わっている。モガモボの時代を知る日本最古の地下鉄には、やはり黄色い車体が似合っていた。
 JRがまだ国鉄だった頃、子供時代は未だ大人の因習で省線と呼んでいた。木製の葡萄色の車体が、線によって色分けされたのが華やかで嬉しかった。最初に慣れ親しんだのはカナリア色の総武線。大人になってグリーンやブルー、オレンジ色にも親しむようになった。やがて湘南電車とスカ線が世間と家とを結ぶ生活電車となった。私は「てっちゃん」(鉄道マニアの俗称)ではないので、何系と云う形式は知らないが、グリーンとオレンジの湘南電車(東海道線)、クリームとブルーのスカ線(横須賀線)に、高校生、大学生、社会人とずっとお世話になって来た。その昔はお面がふたつ窓でドアが前後2箇所の旧式車輌もよく混ざっていた。混雑時にそれがホームに入って来ると溜め息が出たものだ。ドアが前後にしか無いのでとても混雑するのだ。うっかりすると途中下車も出来ず東京駅まで連れて行かれてしまう。木製駅舎なのも如何にも観光地に住んでいる気分がしたものだ。早い時間の下り電車ではボックス席に座り駅弁にお茶で旅行気分も味わえた。だが今では完全に通勤車輌となってしまった。車窓の風景も大船辺りまではそこいらの地方都市とさして変わらぬ。何だかひどくつまらぬものとなってしまった。かつての車体色を僅かに帯にのみ残した無塗装車輌の脇を、私は今日も自転車で走る。恐らく窓の中からは田園地帯を自転車が走る長閑な風景として眺めているのだろう。何だかもう電車に乗る事も楽しみでなくなってしまった。

投稿者 平野克巳 : 2006年09月08日 15:48 | トラックバック

2006年09月05日

夏の終わりに自転車おぢさんが行く


自転車散歩道の中で私の好きな風景。子供の頃持っていた「絵の書き方図鑑」にあった夏の風景に似ている。尤もその絵には入道雲が描かれていたが。ここだってほんの数日前までは積乱雲いっぱいだった筈である。やはり数日前までは蜻蛉が乱舞していたのに急にひっそりしてしまった。人造物として目立っているのは幼稚園の庭に立つ遊具。天辺に巨大リスが座っている…。


 今年の夏は駆け足で過ぎていったような気がする。9月に入った途端、一晩で夏から秋へと季節が変わった。突然、陽射しも風も和らいで、蝉の声が小さく遠くなり、替わって秋の虫がいきなり鳴き出した。こんなにもドラマチックに四季の変節を感じられるのは珍しい。自転車で切る風の音ばかりが身体を包み、街は妙に静まり返っている。一寸前まで子供たちの歓声が響いていたプールには誰の姿も見られない。元気に走り回っていた子供たちは学校へ行って、街の中から姿を消した。通り過ぎる家の物干にビニールプールが干してある。楽しい想い出を沢山吸い込んだ水滴が、蒸発して秋の空へと昇って行く。自分の家でもそんな事が幾度もあった事をふと思い出す。もう20年近くも昔の記憶になってしまったけれど。またひとつの夏が終わる。夏の終わりには何時も寂しさがこみ上げるのは何故だろう。何かを置き忘れて来てしまったような哀しさにうちひしがれるのは何故だろう。
 今はもう操業を停止してしまった工場跡地の金網に添って走る。人の姿も喧噪も絶えた建物には空虚な感情が澱んでいる。開け放たれて忘れ去られたままの窓、もぬけの殻となったがらんどうの建物、それは働き疲れて汗と埃にまみれて見えた。雑草が生い茂るひび割れた敷地には鳩や雀が虫を追って飛び回っている。傍らの川には海鵜と鷺が海からさかのぼってくる海魚を狙ってじっと立ちすくんでいる。その脇を大きな鯉の群れが泳ぎ過ぎて行く。そんな小さな生き物たちばかりを眺めつつ、人やクルマを避けて小道や路地裏ばかりを選んで走る。時に自転車の直前を先導するかのようにシオカラ蜻蛉が飛ぶ。距離にしたら1mもあるまい。走りながらその姿に暫くの間見とれてしまう。まるで船の舳先を泳ぐイルカのようで一寸嬉しい。
 暑い最中なので流石に猫には滅多に行き合わない。農家の立派な門前に寝転んだ犬でさえも、けだるさに顎を上げようともしない晩夏の午後。ウチの猫どもはどうせ今頃、家のあちこちにおっこちて、思いきりぶいいんと伸びているのに違いない。たまには違う生態の猫を見てみたいもんだねえ、などとひとりごちて、更に田園地帯(平たく言えば田舎の風景)をへろへろと進む。仄かに黄色く色付き始めた水田や雑草に覆われた空き地では、つい昨日まで乱舞していた蜻蛉の姿が激減しコオロギが鳴いているのに驚かされる。あ、猫…前方を横切る小さな茶白。クルマを避けて無事横断したと思ったら歩道の上でひとり三越のライオン像状態に。緊張なのか暑さなのか、疲れてここでひと休みなんだねえ。今度は自転車に碾かれたりすんなよ。
 さすがに暑さを避けたくなって模型屋にでも、と思えども、ここいら模型を扱う店は全滅してしまって久しい。鎌倉では老舗の「からこや」は玩具店なれど、伝統的にプラモデルの品揃えは豊富であった。あったが今は支店も畳み、由比が浜銀座の本店のみしか残っていない。プラモデルのほうは未だに在庫の多いほうではあろうけれど、ツインスターブランドとガンダムばかりになってしまった。裏駅銀座にはかつて「京屋」と云う玩具店もあったが、遥か昔に店じまいしてしまった。閉店の際、マルサンのHOスロットレーシング、ホームセットが山積みされて500円で叩き売りされていたのも懐かしい。確か付属のクルマはセドリックとクラウンだったような…シゲタ博士も「何故にあの時買わなかったのか惜しまれます」と今も後悔しきりである。そう云えば以前、私の住んでいた鎌倉市雪の下にある「みのる文具」が先日、閉店したそうだ。これはその地区で生まれ育ち、現在もそこで家庭を築いているシゲタ博士の情報である。当時幼稚園児であった我が家の愚息も、よく「みのる行ってくる~」と通っていた店だ。既にその頃は文房具と画材ばかりで、駄玩具やプラモデルはいくらも置いてはいなかったが、玩具の消しゴムなど握っては帰って来た、当時の彼のテリトリー内では最も楽しいところだったかもしれない。幼少の時分のシゲタ博士(彼にも幼い頃があったのだ…私はシゲタ博士を中学3年の時から知っているが、あの頃から既に現在のシゲタ博士と何も変わっていなかったような…あっ、キャブレターに砂糖を入れるのはやめてくだすわいっ!)はその「みのる」で随分とプラモデルを買った記憶があるらしく、思い出話には必ず出てくる店の名前であった。やはり時の移ろいには何事も勝てない。そうして少年たちの懐かしい場所が消えて行くのは残念ではあるけれど。この近辺で老舗の模型店と云えば逗子の「航研堂」であったがそれも消滅して久しくなる。今では「つばさ模型」がその後を引き継いでいる存在である。巨大な白い犬が入り口に陣取って店内に入れない事で有名な模型店だ。犬好きでないとこの店で品物のところまで到達する事は難しい…らしい。この近辺では唯一の模型専門店であるから、いつまでも頑張って営業して欲しいものである。あ、もう文字数が尽きた。ここいらでワタシが「閉店がらがら!」

投稿者 平野克巳 : 2006年09月05日 17:18 | トラックバック

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