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初代編集長 平野克巳の「猫の耳に大仏」湘南鎌倉便り


モデルカーズの生みの親、平野克巳氏による目からウロコの模型小噺。さぁどんな話が飛び出しますか。乞うご期待。

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2006年10月

2006年10月31日

昭和プラモデル物語(13)




 父は根無し草のような生活を好んだ。別に仕事上の都合ではなく、住宅の売買を好み住居を転々とした。ボクが生まれてから東京を3ケ所、埼玉、千葉と引っ越しを繰り返し、神奈川に移ってからも結局住まいを4ケ所変えた。途中からボクは独り立ちし東京に住んだが、結婚し現在の神奈川に落ち着いている。そんな生い立ちの為、幼稚園は3回、小学校を3回、中学校を2回転校を繰り返し、入学したところを卒業出来たのは高校が初めてであった。父は「子供なんかどんな環境でもすぐ順応出来る」が持論であったらしいが、実際にはそうはいかなかった。現代では日本列島広しと言えども地域差などそうは感じるものではない。しかし昭和30年代では関東の中でさえも厳然とした地域差があった。東京の幼稚園から埼玉県浦和市の幼稚園に転園した際、その余りのギャップに驚いたことを覚えている。ボクは半ズボンが当たり前であったが、そこでは女の子でさえ長ズボンでツギの当たっている子まで居た。サザエさんに登場するワカメちゃんのようなおかっぱが全盛で、リボンを結わえている子なぞ皆無であった。だからたったひとり長い髪で短いスカートから白いパンツのお尻が覗く、大きな洋館に住むお嬢様タカコちゃんに憧れを抱いた。それはボクの初恋であったが、それはまた別の話だ。今では信じられないことだが、関東圏の中にも方言が存在し、言葉の異なるものはまるで外国人のように見られた。子供というのはそうしたことには敏感で、しかも斟酌などしない。当然、ボクがその地域性に溶け込むまでは、物珍しい生き物であるかのような接し方しかして貰えなかった。さらに悪いことにボクは一人っ子であった。これまた今ではごく当たり前に近いのであるが、当時、兄弟姉妹の居ない子供、つまり一人っ子はとても珍しく、子供たちの間では好奇の対象であった。未知のものに対する怖れ、あるいはやっかみのようなものがあったのかどうかは分からぬが、一人っ子は子供の世界では贅沢、我が侭、病弱といったマイナスイメージが定着していて、忌み嫌うべき異人種のごとくに思われているふしがあった。「お前、東京の人間だってな」「兄弟居ないんだって?」そんな言葉を何度浴びせられたことか知れない。それでもやがて打ち解けて仲間に加えて貰えるようになる。しかしまた引っ越しによって転校し、また同じことをいちから始めなくてはならなかった。同じ所に4年と住むことのなかったボクは、やがて子供なりにも精神的に疲弊していった。いつか自分は異邦人なのだと思うようにさえなった。いじめられ続けた訳ではなく友達が居ない訳でもなかったが、次第にボクは自分の殻に閉じ篭るようになったのかもしれなかった。だから幼い頃の心象風景でボクはいつも孤独だった。常に充たされぬ寂しく哀しい思いを引き摺っていた。兄も弟も居なければそれは尚更であった。そんなボクの心の拠り所がプラモデルであった。恐らくそんな子供だったからこそ、あれほどまでにプラモデルにのめり込んだのであろう。
 ボクが30円のプラモデルを卒業したのはマルサンの1/100シリーズに出会ったからだ。ある日、天野屋にやって来た黄色地に赤い1/100の文字が目にも鮮やかな、一寸大きめな箱はボクに新境地をもたらした。箱を開けた刹那、そのモデル自体の大きさ、左右に分かれた胴体や主翼、尾翼、そして別パーツのカウリングや操縦士など、それまで作っていたものとは大違いの本格的な内容にショックにも似た驚きを感じたのだった。これこそがプラモデルなのだと心で叫んだ。それからは50円という価格との辛酸を舐めるがごとくの戦いが始まったが、一度作るともう以前の玩具のようなプラモデルを作りたいとは思わなくなった。まさにボクにはプラモデルにおけるカルチャーショックだったのである。50円では買えなかったP-38Lライトニング、前後逆にしたような姿に心酔した震電、猛禽のようにカッコ良く思えたJu-87スツーカ、もう今ではこのシリーズをいくつ作ったか記憶も曖昧になってしまった。しかし今でも何故かひとつの光景だけが心に残って忘れることがない。それはグラマンF6F-5ヘルキャットにまつわる光景だ。暑かったから夏であったろうか。畳に西日の射し込む部屋で、ボクは買って来たばかりのヘルキャットを作っている。畳の上に拡げたパーツの濃紺の色が一寸高級なプラモデルに思わせた。額に浮く汗を拭いもせず一心不乱に組んでいる。大好きなプラモデルを作っているこの瞬間、なのにボクは泣きたくなるほどの孤独に包まれている。それは何故だろう。訳もなく哀しく寂しいのは何故だろう。マルサン1/100のヘルキャットを回想する時、ボクはそんな小学生だった自分の心象風景をありありと描くことが出来る。いや出来るというより、そんな心と姿と共にしかヘルキャットを振り返れない。プラモデルに逃避し、そして救いと癒しを求めていたあの頃。ボクにとってプラモデルとは心の救済の住処だったろうか。(続く)

投稿者 平野克巳 : 2006年10月31日 18:15 | トラックバック

2006年10月27日

昭和プラモデル物語(12)




 国産プラモデルにおけるモーターライズ戦車の第1号は三和模型のM-4タンクであると言われているが、そんな立派で高価な戦車プラモなどとてもでないが手の出なかった幼稚園児から小学校低学年のプラモ少年たちにとって、最もポピュラーで懐かしい戦車のプラモデルは三和のHOサイズ、M(マイクロの略)タンクシリーズではなかったか。三共ピーナツと並んで、国産プラモデルの最も初期の時代を飾った駄菓子屋プラモの典型として、国産プラモデル史を語る上で忘れてはならない存在であろう。今で言えば幼児がトミカのミニカーを欲しがるような感覚で、当時の子供も三和Mシリーズのプラモデルを欲しがった。だが日常的なお小遣いレベルでは中々買うことの叶わなかったのがこの種のプラモデルであって、やはり両親などとどこかに出かけた際にねだって買って貰うプラモデルだったような認識が残っている。ボクの場合もそんな折りに買って貰ったことが多かったと記憶している。
 母に連れられて時たま浦和駅前まで買い物に行った。何か特別な用事があったものなのか、近所では済まない買い物があったものなのか、その理由は今となっては皆目見当もつかない。とにかく天野屋でないところでプラモデルを買って貰えるかもしれない、ただそれだけでもう有頂天であったし、ボクの興味はその一点のみに集約されていた。国鉄浦和駅(現JR)周辺は県庁所在地であっただけにとても大きな繁華街で賑わっていた。その近辺でプラモデルを扱っている店鋪には模型店、玩具店、書店があった。しかし、母の買い物に着いて歩いていると、それ以外にも思わぬところでプラモデルと出会った。とても地味な店構えの手芸用品店もそんな店鋪のひとつであった。ガラスの引き戸を入るとガラスケースが数本あるきりで、何ともひっそりとした店内では中年の奥さんがひとりきりで対応していた記憶がある。そしてそこにまるで申し訳程度にプラモデルが置かれていた。それは小さな戦車のプラモデルで、あとになって気付いたことだが三和模型のMタンクシリーズであった。その時、Mタンクのキットが幾つ置かれていたかは思い出せないのだが、確か数個程度しかなかったように記憶している。ただ、その時、ボクの目を惹いていたのはやはり売り物の、モールで作られた小鳥の人形であった。黄色いカナリヤだか何だか、やはり幾つかがボール箱に入れられてケースの上に置かれてあったのだ。未だ小学校低学年であったボクである。正直、小鳥の人形も欲しいと思い、戦車のプラモデルと天秤を計って暫し迷った。それでも結果的にボクは三和のMタンクを選んだのだった。やはりプラモデルに優る物欲の対象はなかったのだろう。そして選んだのがT-98戦車であった。真四角で車体全体を覆うほどにターレットの大きいのが個性的で惹かれたのかもしれない。これがボクが三和のMタンクシリーズを知った最初であった。三和Mタンクシリーズはのちには車体裏側から木ネジで止める接着剤不要のキットとなったが、当初は通常の接着組立方式であった。特徴は車体下部に車輪4個が付いていて、コロ走行するようになっていたことだが、このスタイルがオーストリアのロコ製品の模倣であることを知るのは、もっとずっと後年になってからのことであった。それどころかシリーズの幾つかはモデルそれ自体がロコ製品のコピー(デッドコピーではなく、ロコからコピーマシンで倣い製作したもののようで、大きさ、モールドも異なる)でもあった。だが、その時点ではロコの存在そのものをボクは知らない。
 今見ると酷く稚拙なモデルであってどう贔屓目に見ても玩具レベルでしかないのだが、当時のボクにはそれまでになくリアルな戦車模型として映った。キャタピラ(ボクらは履帯のことをそう呼んだが、実は固有商品名である)と転輪が一体成型なのもむしろ精密に思えたものだ。こうして三共のピーナツシリーズと共に、三和のMタンクシリーズはボクのコレクションアイテムの筆頭となったのである。ただこのシリーズはそれほど沢山は集められなかった。もちろん、浦和駅周辺の手芸店で買ったMタンクはこのT98ひとつのみで、その後、天野屋にも入荷するようになったので、あとはもっぱら天野屋で買った。ただボクの生活圏ではこのキットは50円で売られていたから、やはり一寸ばかり高価に過ぎたのである。そけだけに頻繁には買えなかったので、やがてそこかしこの店頭から姿を消し始めると、それと共にボクの熱も冷めていったのだった。
 その後数年して、ボクはロコの虜となるのであるが、当時ロコは更に高価で、それこそ数えるほどしか手に入れることが叶わなかった。その代償としてロコのコピーであるマルサンHO米独機甲師団シリーズにも手を出したが、マルサンのものはロコに比較するとモールドが粗雑で切れ味も悪かった。その頃にはとうに三和のMタンクシリーズのことなど忘れてしまっていたが、数十年後の現在、ロコと三和のHOタンクには格別な思いがやはり残っている。
(続く)

投稿者 平野克巳 : 2006年10月27日 23:39 | トラックバック

2006年10月24日

昭和プラモデル物語(11)




 日本は周囲を海で取り囲まれている島国であることから、伝統的に海軍国であった。取り分け世界に冠たるロシアのバルチック艦隊を撃破した昔日の栄光を引き摺る余り、近代戦の様相を呈した大平洋戦争に至っても海軍力に頼った。飛行機の時代であることを自らが世界に証明したにも関わらずだ。レーダーとて八木秀次博士の開発になる八木式アンテナ(♪見えすぎちゃって困るの~のTVCFをご記憶だろうか。TVアンテナでは最も有名なブランドの開祖である)が世界における先駆であるにも関わらず、最期まで帝国海軍は電探の重要性を解さず、伝統の夜戦に自信を持ち続け結果敗れた。古色蒼然たる大艦巨砲主義にいつまでもしがみつき、遂には戦艦大和の特攻出撃という愚考をおかし悲劇のうちにその生涯を終える。というようなことは、当時、少年雑誌から学んで少年たちの良く知るところであった。ことさら戦艦大和の最期は美化して語られ、戦争を知らない子供たちにとって大和は最大のヒーローでありスターでもあった。大和を頂点とする旧日本海軍連合艦隊は幾度となく少年雑誌で特集され、戦艦のみならず巡洋艦、駆逐艦にも精通した「少年にわか戦争アナリスト」が幾らも居たような時代でもあった。国産プラモデルの草創期を回想する時、当時のプラモデル業界従事者は「大和とゼロ戦さえ作れば、どんなモノでも作った端から飛ぶように売れた」と述懐する。この黄金コンビの片割れ、戦艦大和のプラモデルはまさに小から大、良から非、喜から悲、それはそれは無数のキットが世に出ては消えて行った。現在と違い、大和の写真や資料などは極端に少なかった時代であったから、少年たちは大和の情報には飢えていた。探究心に燃えていた。グラビア画や不鮮明な白黒写真ではない、より具体的で明解かつ詳細な姿を追い求めていた。だからこそプラモデルには価値があった。立体的であらゆる角度から観察することの可能なプラモデルは、現代で言うところのバーチャルリアリティの元祖であったのだ。
 そんな大和なればこそ駄玩プラモにおいても格別な存在であった。三和や一光のキットももてはやされたが、ボクはにしきやのキットが一番の贔屓であった。にしきやは戦前からの老舗だが、木製模型からプラモデルへと時代が変わろうとしつつあった当時、東京JNMC模型研究会の名称でプラモデルメーカーへの転身をはかろうとする途上であった。やはり戦艦大和をシリーズNo.1とするポケットシリーズはスケールが統一されていない、いわゆる「箱スケール」であったが、ミニモデルとしては中々に本格的な内容であった。精密洋上模型(今で言うところのウォーターラインモデルである)と称した喫水線から上のみの模型で、大和は1/2630スケールの半端スケールであった。余りに小さなモデルなので船体中央部にハリネズミのように廃された高角砲や対空銃座の対航空防御火器を再現することは諦められ、竣工時の副砲を備えた姿でお茶を濁してある。それでも一光などよりはずっと大和らしさを表現していたように思う。パッケージには有名な白波を蹴立てて進む公試運転中のモノクロ写真を着色したものが使用され、ことさら強調するかのようにプラスチックの文字が躍っていた。蛇足ながらこのポケットシリーズもNo.13には戦艦武蔵が登場するのだが、これは良くある大和のパッケージ替えではなく、スケールも1/2400と一寸大きめになった。そして全部で12基の高角砲もちゃんとパーツで再現されていた。ただプラモデル界のクリアモデルブームに便乗したものなのか、武蔵は透明武蔵の商品名を付けられて幽霊戦艦にされてしまっている。戦艦武蔵バージョンのパッケージも存在したが、クリアモールドであることには変わらない。いずれにしても当時の30円クラスのキットとしては、にしきやのものはパッケージの装丁が立派であった。絵でないのに多少の味気なさは覚えたものの、写真仕立ての迫力はひと目でボクを轟沈させたのだった。ただ天野屋での価格は35円であった。天野屋での、と書いたのは、当時はマルサンを除き全国統一価格ではなかったからである。30円の所もあったろうし、輸送費のかかる地方では40円だったかもしれぬ。ともかく天野屋では35円だった訳だ。これには困った。なにしろボクの手には例によって10円銅貨3枚きり握られていなかったのだから。あと1日の辛抱などとても出来そうになかった。もはや物欲の虜である。家にとって返したボクは店の売り上げ金に手を出した。当時、一般の商店にレジスターなど無く、小銭の釣り銭はブリキの空き缶に入れられていたのだ。そこから5円玉をくすねた。もちろん母の目を盗んでだ。自分の家であっても立派な窃盗である。粋揚々とにしきやの大和をつかんで帰ったボクは母に見つからぬよう裏木戸から部屋に上がり、箱裏の35.-の鉛筆書きを消しゴムで消し30.-と自分で書き直した。我ながらやったと思った。完全犯罪の成立である。だが悪事はいとも簡単にバレた。天野屋のおばさんの筆圧は高く、くっきりと35.-と書かれた痕跡が残っていたのである。こっぴどく叱られたのは言うまでもあるまい…。物欲は身を滅ぼすという教訓である。昨今の渋谷でたむろする少女たちは母親の財布から金をくすねたなどと悪びれもせずあっけらかんと笑うが、例え親だろうと金品を盗むなど御法度であると厳しく戒められた良心の時代であった。(続く)

投稿者 平野克巳 : 2006年10月24日 14:00 | トラックバック

2006年10月20日

昭和プラモデル物語(10)




 プラモデル発祥の本来の精神はインスタントな模型であった。時代が豊かになり文明が発達するにつけ、身の周りには簡単で手早く出来るものが増え始め、それを称してインスタント時代などと呼んだ。いわばインスタントとは文明社会が高度に発展することの象徴であった。日清食品のチキンラーメンが誕生したのが昭和33年、奇しくもマルサンのプラモデル誕生と時期を同じくしているが、それは偶然であるにしても、その頃よりインスタント文化はひとつのブームのようになって日常へと入りこんで来るようになる。
 敗戦まで一環して軍国教育が徹底された我が国では伝統的に模型とは飛行機の模型をさす場合が多く、飛行機の模型とは実際に空を飛ぶライトフライヤーをいう場合が多かった。それでも空を飛ばすアクションよりも実物の姿を再現するリアリティ重視の俗称実体模型、現在で言うところのソリッドモデル、スケールモデルは戦前からあって、「にしきや」などを筆頭にして高価な超精密模型も存在した。戦後もライトフライヤーとソリッドモデルは存続したが、終戦直後、GHQによって模型に至るまで飛行機という飛行機が禁止されたこともあり、飛行機以外のジャンルの模型も台頭するようになると、模型イコール飛行機だった時代は終焉を迎える。プラモデルが登場するのはそんな時代背景の中であった。それでも戦記ブームの影響からプラモデルは圧倒的に飛行機と戦車、軍艦で占められたが、現在と比較すればそれこそ種々雑多なジャンルが林立し魅力とバイタリティに溢れた世界を創り出したのだった。
 当初、プラモデルはインスタント時代の申し子のようなものであったから、時間も手間もかからずに「ささっ」と作れる遊びとして世に出た。本格的なものはいわゆるソリッドモデル、木製模型に任せておけば良かったからである。ソリッドモデルが基本的には自作する工作で、図面から木材を形に削り出すなど大変技術と知識と手間を必要とする模型であったのに対し、プラモデルは接着剤で貼り合わせるだけで完成する、まさに誰にでも出来る手軽な模型であった。今ならプラモデルに鉄ヤスリ、紙ヤスリ、パテ、塗料は必須であるが、当時のプラモデル作りにそんなものは必要ではなかった。ランナーからパーツを切り取るのに必要な裁縫ハサミだけで組み立てていた。三共のピーナツシリーズに至っては初めからランナーから切り離されてあったから、袋から出してそのまま接着剤を塗りさえした。なにしろパーツ相互の合いを修正するどころか、残ったランナー跡さえ気にはならなかったのである。
 しかし、プラモデルに手慣れてくると、「もうちっとはマシに仕上げたい」と欲も出てくる。それに三共ピーナツとは違って、ランナーにパーツが付いたままのキットも次々と表れる。先ずは切らなくてはならない必要性が生まれた。そこで裁縫箱(当時はどこの家庭にも大抵あった)の裁縫ハサミなど、家庭備え付けのハサミを流用するようになる。専用ニッパーなどが登場するのはまだまだ後のことだ。また当時の子供は鉛筆を削らなくてはならなかったので、ボンナイフや肥後の守など刃物の扱いには手慣れており、そうした刃物もプラモデル作りに欠かせぬものとなっていった。だが接着面を整形するだの合わせ目を削って消すだのは意識にも知識にも未だない。その頃には完成までには絶対に量の足りないキット付属のボンドのチューブには頼ることなく、強烈な有機性物質臭のする「あの黄色い」セメダインCを使うようになる。20円の支出は痛かったが「マイ・セメダイン」を持っている子供はプラモデルに入れこんでいる証しであった。そして次は色着けである。やはりいつまでも成型色のままでは納得も満足もいかなかったからだ。先ずは主車輪のタイヤを油性マジックインキで塗った。いー感じであった。そこで次にプロペラのブレードも黒くぬってみた。やがて黒いのはブレードの裏だけであることも知った。これはイケる…。ならばカウリングも…。続いて今度は胴体と主翼、尾翼の上面を緑で塗り潰してみた。嗚呼、何だかとっても立派に見えるじゃないの。その時のボクはもはやご満悦な殿様もかくありなんの態であったろう。だが、しかし…この機体全面に浮き出たナメクジがのたくった跡のようなクネクネは何だろう…そこで初めて気がついた。プラモの表面が溶けてしまったのだと云うことに。嗚呼、マジック(これは商品名だが、当時は誰もが油性ペンをそう呼んだ)の有機性分はプラモデルを溶かしてしまうのだ…。こうしてボクの三和ミゼットシリーズ、97式艦上攻撃機はちょっと見良いのだが、よくよく見れば表面がヌタヌタなプラモデルとなってしまったのだった。この三和ミゼットの97艦攻には後日談がある。その後、ボクはマルサンのラッカー塗料で初めてプラモデルの塗装を経験したのだが、その時のモデルがまたもやこの三和ミゼットの97艦攻だったのだ。原色の緑を機体にボッテリと塗り、カウリングと主車輪と尾輪のタイヤを黒くし、スピナーを赤く塗った。今度こそやった!と思った。そこまでこだわったのは良いキットだったからだ。何しろ胴体が左右割りで、コクピットには豆粒のような搭乗員がちゃんと別パーツでふたり乗っていた。今にして思えばそれがボクの本格的なプラモデル作りの始まりだった。(続く)

投稿者 平野克巳 : 2006年10月20日 18:39 | トラックバック

2006年10月17日

昭和プラモデル物語(9)




 その昔は正規の商法ではない路上販売をいたる所で見ることが出来た。今でも浅草などではその名残りがあったりするのだが、昔は銀座などでも堂々と行なわれていた。路上にむしろを敷いて、縫いぐるみだのブリキ自動車だの怪しげな玩具が並べられていたものだ。この商いはテキ屋に属する部類のもので、言わば縁日の屋台により近い業界らしい。マルサンの石田社長がご存命の頃、戦後直ぐはマルサンも「昭ちゃんの冒険」(昔の人気漫画である)と称した針金で作った三輪車を作り、それがテキ屋に良く売れたと伺ったことがある。ボクも渋谷かどこかの路上で蜜柑色のクマの縫いぐるみを買ったことがあった。手の平に載るほどの大きさで、中には籾がらが詰まったいかにも駄物と云った風情のクマだった。その後も、糸で繋がった分銅に引っ張られて歩く人形(正式名称は知らないが最近ではトコトコなどと呼ばれているようだ)などを買った。更に後年、新橋の駅前街頭では常にベルトやライターを売っていたことを記憶している。偽物の鰐革ベルトだったりいんちきダンヒルなどを前に、啖呵売ではないものの「会社が倒産して給料が現物支給。助けると思って買ってくれ」と云うのが大概の売り口上であった。後年、それらはバッタ商法であると云うことを知ったが、プラモデルの世界でもバッタもんが出回ったことがあった。それは昭和40年に爆発的ブームとなって、一瞬のうちにブームが去ったスロットレーシングカーである。ボクの知っているのはT社のインディカーで、路上に幾つも重ねられて150円で売られていた。ブームの頃の正規流通価格は700円であったから、子供心にも爆安(その頃、そんな表現はない…)に思え、母にすがってねだった。もちろん700円で売られていた時には一度も欲しいとは思わなかったキットだ。「安いっ!」この言葉には今も昔も変わらぬ魔力がある。
 現在では法規制が厳しくなってむやみに路上で物品販売のみならず何かをすることは許されないが、あの時代、青空の元で人々は自由奔放であった。「右や左の旦那様ぁ~」でお馴染みの「おもらいさん」、白衣を羽織りアコーディオンで軍歌を歌う傷痍軍人、朝の納豆売りに夕方の豆腐売り、夏の金魚売りに風鈴売り、飴や煎餅を売る紙芝居屋(ちゃんと許可免許を持っている)、もちろんそれぞれ事情も立場も全く異なるが、天下の公道では色々な人々が様々な人間模様を繰り広げていた。忘れてならないのは学校の門の付近にふらりとやって来る行商人であろう。いかにもインチキ臭い玩具や文具をさも素晴らしいモノのごとく吹聴しては子供を手玉に取る一種の悪徳商法で、当時の子供は大抵がころっと騙された。ただお金を持っていない子が多かったから、その場で騙されて被害にあう子供は少なかったろう。慌てて家に帰って小遣いをつかんで戻っても、既に自転車の荷台にトランクを括りつけた怪しげな男の姿は煙りのように消えていた。それにその場で「おじさん、明日も来る?」と聞いても曖昧な返答しかせず、大概はそれっきりであった。そうしたモノにやたら引っ掛かる級友も居たが、ボクの場合はプラモデル一途であったが為に、そんな被害にはかかりたくてもかかったためしがなかった。下校時の寄り道は御法度であったのだが、学校の近くには生活圏の駄菓子屋とはまた別の駄菓子屋があって、時たまこっそり寄っては物色した。そんな中にはアンチモニー製の勲章だとかバラ売りされていたコンバット7のパチもんだとかがあったが、プラモデルらしきモノで今も懐かしく思い出すものがある。それはチープなロボットで一体15円で売られていた。種類は記憶が確かなら3種類。ボクはそのうちの2種、海底ロボットとパトロールロボットを買った。一体成型の頭、左右の腕と足を胴体前後で挟めば完成の他愛無いものであった。海底ロボットに至ってはドラム缶のような胴体に顔が付いているので頭部パーツさえない。二流SF漫画のそのまたパクリもんのような「とほほなデザイン」だったが、手持ちの小銭で買えるプラモデルとしてはそれでも充分に魅力的だった。ボクが買った時は台紙からビニール袋をもぎ取る装丁の、いわゆる駄玩商品の形態であったが、どうやらその後パッケージ入りに昇格したらしく(この時点では未だブランドマークなどはない)、更にその後にはODKのブランドマーク付きの、つまり尾高産業のプラモデルとして市場に出る経緯を辿ったようだ。どうやら、その辺から検証するに、この「へなちょこな」ロボットシリーズは、ODK/オダカがプラモデルメーカーへと成長して行く過程を物語っているのかもしれない。童友社なども同様な過程を経たのだが、国産プラモデル草創期の生い立ちはこのようなものであったようだ。
 現代の子供の意識がどのようなものなのかは判らぬが、その昔の子供たちはキナ臭くインチキ臭く怪しげなモノにほど惹かれた。通い慣れた店先よりも路上にふらりと表れる行商人に心奪われた。ただそこには「お天道様の下」で悪事は行なわれないという不文律のような概念が作用していたようにも思う。それだけ子供は無防備であったが無邪気でも居られた。それを単に佳き時代と言ってしまって良いものかどうかは判らぬが、現代ならそんな子供はたちまち食いものにされてしまい下手をすれば命さえ失いかねない。(続く)

投稿者 平野克巳 : 2006年10月17日 14:05 | トラックバック

2006年10月13日

昭和プラモデル物語(8)




 ボクは幼少のみぎりにバイオリンを習っていた。別にボクがハイソな家庭の子供だったからではない。どちらかと言えば中産階級サラリーマン家庭の子供であった。時はあたかも昭和も30年代、戦後から脱却して社会に余裕が生まれ始めた時代だった。高度成長時代である。だから世俗的な親は我が子の未来に希望を托し、ピアノやバイオリン、絵画や書道など「習い事」に熱心であったのだ。ただボクの家庭は別に教育熱心だった訳ではなく、たまさか何を勘違いしたものかバイオリニストに憧れたボクが、連日、ダックスフンドの縫いぐるみを顎の下にはさんでは菜箸で擦っている姿を見て、「この子はバイオリンをやりたがっている」と習わせ始めたものだった。当時、鈴木バイオリン教室というのが全国規模で隆盛していて、ボクもそこの地方支部に所属して門下生(?)となった。幼稚園児の頃は親の言うことを良く聞く、先生(大概はおばちゃんの先生であった)に従順な生徒であって、1年に1回だったか東京の大体育館で行なわれる全国大会にも律儀に参加した。これは全国から選抜された「がきんちょバイオリニスト」が一同に介しての合同演奏大会であった。代々木体育館だったかはっきりとした記憶はないのだが、その駐車場にメッサーシュミット(飛行機ではなくバブルカーの。多分KR200だったろうか)が何台も停まっていて、やっぱり東京は凄いなあ、と感動したことをはっきりと記憶している。
 さて、バイオリンの「お稽古」は週1回だったか、幼稚園の年長組から小学校低学年の頃は地元の幼稚園を借りて行なわれていた。その道のりは商店街を抜け雑木林が林立する寂しい住宅街まで歩く。ある時、夏休み明けに幼稚園児が持って来た夏休みの工作に混ざっていたカマキリの卵が孵化してしまい、教室の床一面に子カマキリが溢れ出した。そこはもはやカマキリの絨毯と化し、大パニックとなったことがあった。それはまるで映画トロイの大軍団を見るような光景で、ボクはそれ以来、カマキリという生き物が嫌いである。あの三角の顔をロボットのようにギクシャクとした動き(この感覚も今や古いものとなりつつある…)で傾げ、カンフー映画のようなポーズを作る仕草を見るだけで怖気が走る。まあ、そんなことがあったからだけではないのだが、既にボクは無理矢理拘束されてはあれこれ指示されるバイオリン教室に嫌気がさしていた。そんなボクを母は仕方なく餌で釣った。それが週いちのプラモデルであった。
 商店街が途切れ雑木林となる辺りに金物屋があって、その店先でプラモデルが売られていた。餌の舞台である。昔ながらの薄暗い土間の店内には薬缶や鍋などが並んでいた。そんな店にプラモデルがあったのだから、今にして思えば実に不思議な光景ではあるのだが、当時は決して珍しいことではなかった。その店先の柱にあったのが十五番ホビー(のちの日本ホビー)のマッチガン「世界有名ピストル集」であった。マッチガンとは弾丸に見立てたマッチ棒をスプリングの力で撃ち出す玩具銃のことで、マッチ棒を弾として使用するのでマッチガンと呼ばれた。当時は銀玉でさえも買って補充するのは容易いことではなかったが、マッチならどこの家庭にもあったので、マッチガンは子供の間では人気があった。十五番ホビーのマッチガンはおよそ1/3スケール程度のミニピストルで、西部開拓時代から最新のものまで、世界の軍用、警察、民間拳銃がラインナップされていた。金属棒のファイアリングピンというか撃ち出し棒と金属コイルスプリングを挟んで左右を接着すれば完成の何とも簡素なキットではあったが、実際にマッチ棒を撃って遊べるのと、ミニチュア拳銃が蒐集出来るのが楽しくて、いっときボクはこのマッチガンに完全にハマったのだった。そして週1回のバイオリンの稽古に真面目に通えば、マッチガンを1個買って貰えた訳である。十五番ホビーのマッチガンはちょうど駄菓子屋玩具とプラモデルの中間的な商品形態であったのが時代を象徴した。駄玩のように台紙シート売りとなっていて、台紙は紐で柱にぶら下げられていた。そして店頭でその都度1個ずつ台紙から切り離されて売られたのである。台紙の裏には組立説明が記されていたが、およそ年少者向けの内容ではなかったのがいかにも日本ホビーらしかった。このマッチガン欲しさにボクは毎週嫌々ながらもバイオリンの稽古に通った。帰りにはマッチガンをひとつ握り占めて。週いちなので十五番ホビーのマッチガン蒐集は時間を要した。コルト・ガバメント/ブローニング・ハイパワー/ルガーP08/ワルサーP38/モーゼルHScなど、欲しいものから順にひとつずつ集めたが、ある日突然にシリーズ完全制覇への夢はいとも容易く断ち切られた。金物屋の店頭からマッチガンが姿を消したのだ。当時のこととて、その店に無くなればそれで全てはおしまいだった。それでも幾つかが手元に残っただけでボクは満足だった。中でも一番のお気に入りはレミントン・デリンジャーだった。他には見られない優美な曲線ボディ、ユニークな上下2段連発式、そして何よりもデリンジャーだけが銀色のモールド色だった。銀色に輝く銃はボクの琴線に触れた。シリーズの他の銃のどれとも違っていた。思えば後年のクルマに対する趣味嗜好は、このデリンジャーを選んだ時に既に形成されていたのかもしれなかった。(続く)

投稿者 平野克巳 : 2006年10月13日 23:59 | トラックバック

2006年10月10日

昭和プラモデル物語(7)




 昭和の時代には当たり前のように身の回りにあったにも関わらず、気がつけば何時からか日常より姿を消そうとしているものは多い。レコードやカセットテープ、一眼レフカメラ、フィルム、ワープロ、フロッピーなどはその最たるものかもしれないが、万年筆、布団叩き、メンタムなど絶滅危惧種は数多い。そうした物で最も象徴的なのがマッチではないだろうか。かつてはどこの家庭でも必需品であったマッチ。台所で煮炊きをする為に無くてはならないものであったし、ホタル族など存在しなかった頃の居間の卓袱台にも常備されている家庭が多かった。パイプ印など大きな箱の徳用マッチは庶民にとって慣れ親しんだものだったが、大抵は商店や飲食店、喫茶店などから貰ったもので済ませていた。それほど、かつてはマッチを幾らでも貰えたのである。サービスにかこつけて店名や電話番号をマッチ箱に入れ宣伝に利用する手法はかなり昔からあったものだが、喫茶店や洋食店、料亭や蕎麦屋で名刺替わりにマッチを置いていないところなど無かった。昔はサイズの大小こそあったものの、マッチはすべからず内箱を引き出す小箱型であった。今で言ういわゆるブックマッチは珍しく、たまにブックマッチだったりすると「ちっ、この店はこんなところでケチってやがる」などと小馬鹿にさえしたものである。それが何時からかコストの問題もあり、また洋風文化が浸透するようになってブックマッチが主流になってしまう。そして今ではマッチをレジのところに置いてある店なぞ滅多に見られなくなってしまい、それでもマッチを頼むと引き出しの中をごそごそ探したりする光景さえ目にするようになってしまった。確かに100円使い捨てライターの普及は急速にマッチの必然性を奪ったのだが、それだけでなくマッチの必要性そのものが日常の中で稀薄になってしまったことこそ原因の最たるものと言えるだろう。台所は何れも自動着火となり世の喫煙人口も減りつつある。日々の暮らしの中でマッチを擦って火をつける機会なぞもう滅多にない。
 だがボクたちが子供だった時代、マッチは生活の必需品であった。それだけにとてもポピュラーな存在で「マッチ、マッチ箱」は幼児さえ使う日常の常套語のひとつであった。また「マッチ箱のような家」という言葉の比喩も、誰もがマッチ箱に具体的イメージを持ち得た時代なればこそだったろう。つまりマッチ箱は小さいことの物の喩えともなっており、そしてまた同時にとても身近で親しみの溢れる存在であることの比喩でもあった。マッチ箱にはそんな既存イメージのあった時代なればこそ、子供向け玩具にもマッチ箱の名称が堂々と使われるケースがあった。それがマルサンのマッチ箱シリーズであったことは言うまでもないだろう。マルサンは国産プラモデルの始祖として知られているが、そのマルサンが世に送った唯一の駄玩プラモがマッチ箱シリーズであった。
 ボクがマルサンのマッチ箱シリーズと初めて出逢ったのは例によって天野屋であった。ある日突然、見慣れぬ箱に気付いたボクは、先ずその値段に驚いた。いつものとおり、おばさんが鉛筆で書き込んだその値段は20.-であったのだ。20円! それまで30円以下のプラモデルなどあったためしがない。間違いではないのか…10円も安いプラモデルなんてアリか?…暫しボクは感動のような興奮のような、それでいて訝るような不思議なテンションで、このキットを矯めつ眇めつ眺め続けた。余りにも小さいその箱の中には、確かに小さいながらも「プラモデルらしいプラモデル」が入っていた。その時のボクがマルサンのマークが入っていたことを、マルサンというメーカーそれ自体を、認識していたか否かはどうにも記憶がない。ただ天野屋の土間から桜並木に出たときに「とてもお得なプラモを見つけちゃったな」と上機嫌であったことだけを良く覚えている。なにしろ10円銅貨2枚でプラモデルが買えるのだ。これに優る幸せなぞあろう筈もない。マッチ箱のプラモデル1個と10円玉1枚を握り締め、ボクは意気揚々と自宅への道を歩いた。
 このときボクの選んだキットはシコルスキーS-58ヘリコプター。おたまじゃくしのような決して格好の良いスタイルではなかったが、自衛隊で使っていてとても馴染みのあるヘリコプターだった。ごろんとしたお尻からテールブームが生えている胴体は一体成型で、これに角材のようなローター、風防や車輪を取り付ければ完成の、いとも簡単な内容であった。ただ付属の接着剤がガラスアンプルで、首のところをハート型ヤスリで傷付けて切り取らねばならなかった。これは難しかった。大抵はピキッと変な所から欠けてしまうのだ。しかも中身はシャビシャビなシンナーそのままのような液体だった。まあ、それでもボクにとって20円の魅力は何にも代えがたいものであった。よーし、これからこの20円のプラモデルを買うぞー! と意気込んでいたら、たちまち天野屋の店頭から姿を消しそれきりとなってしまった。三共ピーナツは無くなっても無くなっても、またお店に補充されるのに…なぜマルサンのマッチ箱は仕入れてくれないのだろう…その疑問をおばさんに問うことはついぞ無かったが、やはりマルサンの商品は色々と大変だった(そうした諸事情はあとになって知るのだが…)のだろう。だからボクはマッチ箱シリーズをシコルスキーひとつきりしか作ったことがない。(続く)

投稿者 平野克巳 : 2006年10月10日 15:08 | トラックバック

2006年10月07日

昭和プラモデル物語(6)




 ボクの家は菓子屋を営んでいた。屋号を福屋といった。店は川(と言っても一寸大きめなどぶ川みたいなものである)伝いに桜が並木を成す、通称「桜並木通り」に面していた。通りといってもクルマが擦れ違える程度の未舗装の砂利道で、夏には陽炎が、冬には霜柱が立ち、雨の後はそこかしこに水たまりの出来るような道であった。尤もクルマなど滅多に通りはしなかったから、当時はやけに広々として見えた。そしてそれは典型的な昭和30年代の風景であった。川沿いは商店街であった。商店街とはいっても商店が軒を並べて密集している訳ではなく、随所にバラ線で囲まれた空き地が目立ち住宅が点在するような所であった。現在で言う戸越商店街のような立派なものなどではない。通りを右手に行くとやがてバス通りにぶつかるが、ボクのテリトリーはそれより大分手前のおじいさんのやっている床屋までだった。左手に行くと浦和競馬場へと至るのだが、やはり商店街の端となる銭湯とパン屋までが境界で、その先の記憶は真っ白で何も分からない。ボクがプラモデルを買いに走った天野屋はボクの家と銭湯の中間ほどに位置していた。この桜並木通りに関する限り、それがボクのテリトリー、つまり生活圏の全てであった。
 今、思うとあれは何だったのだろうか、と首を傾げるような不可思議なことも沢山あった。近隣が未だ見渡す限り空き地だった頃、ボクの家の庭を目がけて野犬の群れが襲って来たことがある。それは凄まじい吠え声で、母は必死の形相で「うちに入りなさい!」と絶叫した。恐ろしかった。昔は野犬が徒党を組んで徘徊していたし、狂犬病もさほど珍しくはなかった。雨上がり、葦の生えた空き地の水たまりで全裸の少女が狂ったように水浴びをしていたことがある。別のクラスの子ではあったが小学校の同級生であった。水たまりの中でゴロゴロと転げ回る肌が艶かしいほどに白く、ボクはただ呆然と見ていた。やがてその子のお母さんが叫びながら駆け着けて、そのままバスタオルにくるまれて銭湯へと雪崩れ込んで行った。当時、銭湯は昼間でも営業していた。女の子であっただけに隣近所は一時騒然となったが、あの時代は畑の肥溜めに落ちて銭湯に駆け込む子供なども珍しくはなかった。台風シーズンになると家の前の川がしょっちゅう氾濫した。たいていは膝上、酷い時は腰まで浸かった。今ならゴムボートなのだろうが、家の前を筏が通るのを見たことがある。そんな時は川との境が分からないので恐くて表を歩けない。ボクの家の中に赤い金魚が迷い込んで来たことがあって、その金魚はその後、何年もウチの金魚鉢で元気に生きた。ピッグス湾事件もU-2機撃墜も、世界が核戦争寸前であったことも、ケネディ大統領の暗殺も、時速200km/hの夢の超特急が開業間近なことも、東京オリンピックに向けて東京が大変貌しつつあることも、あの頃のボクたちの日常にあっては遠い出来事に過ぎなかった。むしろ、桜並木の下で起こる日々の小さな異変の中に、ボクたちは変わり行く動き行く世間を感じていたのかもしれない。喩えて言うなら遠く穏やかに空を渡って行くレシプロエンジンの飛行音。あの時代の心象風景はそれが全てを表わしているように思う。長閑な時代であったのだ。
 桜並木通り、天野屋、そしてプラモデル、極端な物言いをしてしまえば、それが学校以外のボクの日常のほとんどを占めていた。10円玉銅貨を3枚握り締め、親指の先に穴の開いたジェムシューズ(ズック靴)がたてる乾いた靴音を聞きながら、ボクは一目散に天野屋へと走る。そして今来た道を戻る時には手に小さな箱がひとつ握られている。満足と幸福に心が満ちる至福の時だ。そして時には家に帰るまで待ち切れず、桜の木の下に立ち止まり小さな箱の中身を取り出しては確かめてみる。手の平に慈しむようにそっと振り出したパーツはP-40ウォーホーク。切れ端のように小さな紙片のデカールに大きなシャークティースがあったのをはっきりと覚えている。あの時のボクはシャークティースだけでこのキットを選んだのだ。それほどに機首の鮫の口は強烈なインパクトがあった。だが、それから数十年の歳月が流れ、あの時のP-40はマルフジのキットであったことを知る。三共ピーナツでもなく三和ミゼットでもなくマルサン1/100でもない。マルフジ1/120カーチスP40Aトマホーク…トマホーク、キティホークは英国空軍の呼び名だ。だがパッケージのボックスアートには初期の米国空軍機の国籍マークが描かれている。そして付属しているデカールには両脇に白帯の付いた最も見慣れた米軍機の国籍マーク…キット名称はP-40Aだし…それにキットはP-40AだかBだかEだかFだか、もうどうでも良いようなカッコウをしているし、それどころかP-40なのかどうかさえ怪しいフォルムである…。だが、当時はそんなことはどうでも良かった。普段、天野屋の薄暗い土間で見慣れているのとは異質な存在のプラモデル。見たこともないメーカーのマーク。箱の裏ではなく、ちゃんと別紙になっている組立説明図。それは平凡なボクの日常にとって僅かばかりの事件だった。何かしらの新鮮さがボクを突き動かしたのだ。今ならこんなキットは欲しくない、などと思ってしまうのだろう。その分だけ今のボクはプラモデルが楽しくなくなってしまった気がしている。

投稿者 平野克巳 : 2006年10月07日 02:48 | トラックバック

2006年10月03日

昭和プラモデル物語(5)




 三共ピーナツ信仰による3日に1度の天野屋詣では続いた。当初、三共ピーナツシリーズには旧日本陸海軍機が多かった。シリーズ構成がそうした傾向になりがちだったのは、こうした子供向け玩具(と考えられていたのだ、当時は)である平和産業従事者にも、戦争の記憶を色濃く残していた者が多いせいであったかもしれない。僅かに敗戦から15年余り、どんな形にせよ軍隊の経験を持つ者たちの多かった当時、自国の兵器には愛着や執着、哀惜や憐憫など、様々な思いが交錯して未だ昇華も総括も惜別もしきれていなかったのだろう。それはある意味、敗戦国の悲哀のようなものが作用していたようにも思える。零戦や隼など勇名を馳せた傑作戦闘機のモデル化は至極当然のことであったが、震電や烈風、晴嵐など劣勢挽回が期待された機種が居並ぶあたりに、敗戦の民の無念さが伺われると言ったら余りに穿った見方であろうか。
 そんなピーナツシリーズにもジェット戦闘機が登場する。それはシリーズ3作目として発売されたロッキードF-104Jスターファイターであった。F-104スターファイターはミサイルのような姿とマッハ2の超音速性能から「最期の有人戦闘機」と形容された当時の最新鋭機だった。そのF-104が我が国の航空自衛隊次期主力戦闘機として昭和34年に採用決定されると、折りからのプラモデルラッシュもあって新興メーカー各社からのモデル化が続いた。F-104J第1号機の初飛行は昭和36年、そして実戦配備は昭和37年であったが、それを待たずにキット化されたケースが多かった為、中には名称をF-104C-Jなどと記したものもあった。三共ピーナツのモデルも実戦配備前のキットだが、名称は既に「F-104-J」となっていた。但しボックスアートに描かれた機体番号71は架空の番号であった。F-104は先端の尖ったロケットのような胴体に申し訳程度の主翼という斬新なスタイルだったこともあり、旧式なアメリカ軍のお下がりばかりの印象しかなかった航空自衛隊に、こんな未来型戦闘機が日本にやって来ると人気、話題共に絶大なものとなった。少年雑誌もこぞってF-104を採り上げたので、少年たちの間でも前人気のボルテージは大いにあがった。そして誇張された少年誌の記事の受け売りで「主翼の先端の厚みは剃刀の刃より薄いんだぜ!」などと吹聴するにわかF-104マニアは、クラスの中でも羨望の的となったのだった。
 さて、既にいっぱしのプラモ小僧として名を馳せていたボクも、ご多聞に漏れずF-104を買って作った。それが三共ピーナツのF-104だったことは言うまでもない。F-104はシリーズの中でもひときわ機体が小さく、実機の脚が複雑な構成だったこともあってスタンドモデルとなっていた。三共のVマークとF104の文字が組み合わされたデザインのスタンドは子供心にもやたらにカッコ良く思え、嬉しさに矢も楯もたまらずクラスの友達に自慢しまくった。当然その時代の子供であるから「見せて、見せて!」と盛り上がる訳で、学校がひけたある日の午後、ふたりの級友がわざわざ尋ねて来た。だが、しかし…プラモデルは、しかもF-104はひときわ脆いモデルであった。大人でも子供でも雑な性格というか大雑把な奴は居るもので、ふたりの内のひとりがいとも簡単にスタンドの支柱を折ってしまった。
「買って返して弁償しろよな…」
 ボクは自ら進んで自慢し見せびらかしておきながら壊したことを責め、それだけでは飽き足らず嫌らしくも損害賠償を強要した。嗚呼、我ながら何て卑しくて醜い下衆野郎なんだ! ボクはあの時の自分を振り返ると今でも反吐が出るほどに不愉快な気分になるのだ。確かに当時の子供たちにとってはプラモデルは宝でありひと財産であったのは事実だ。例え30円といえども今からは想像も出来ないほど高額に思えた。ボクにとっても30円で買ったF-104を壊されたのは、笑って済まされないだけの損害であったのは紛れもない事実ではある。だが、しかし…だ! しかし…だが、そうした時代感は子供世界に弁償の不文律を科していたのもまた事実であった。壊したら、無くしたら弁償する。尤も「コレあげるからさ…」と手持ちの何かで弁償するのが常道ではあったが。しかし当時の子供は純真である。F-104を壊した級友はどこに売っていたのかとボクに尋ねた。これから買いに行くのだという。ところが不運なことにF-104は天野屋には売っていなかった。たまさか浦和駅前の書店で買ったものだったのだ。バスでどう行くか。バス代は幾らか。ボクたちは先ずそこから相談し合わねばならなかった。もはや、その時点でこの話し合いは不毛なものでしかないことに誰もが気付いていた。所詮は小学校低学年の子供である。テリトリーは猫の額ほどの町内に限られていた。子供だけで駅前まで出向くなど外国に行くにも等しいものに思われた。ただ皆で去勢や意地を張っているだけに過ぎなかった。やがて無益な話し合いにも飽き、ボクもF-104を諦めた。三共ピーナツのF-104-Jを回想する時、口中に今も微かな苦味が伴うのは、多分自責と後悔の味なのだろう。ただプラモデルを大切に思う気持だけはあの頃も今も何ひとつ変わらない。「模型男」なんて洒落にもならないけれど。(続く)

投稿者 平野克巳 : 2006年10月03日 13:01 | トラックバック

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