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2006年10月24日
昭和プラモデル物語(11)
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日本は周囲を海で取り囲まれている島国であることから、伝統的に海軍国であった。取り分け世界に冠たるロシアのバルチック艦隊を撃破した昔日の栄光を引き摺る余り、近代戦の様相を呈した大平洋戦争に至っても海軍力に頼った。飛行機の時代であることを自らが世界に証明したにも関わらずだ。レーダーとて八木秀次博士の開発になる八木式アンテナ(♪見えすぎちゃって困るの~のTVCFをご記憶だろうか。TVアンテナでは最も有名なブランドの開祖である)が世界における先駆であるにも関わらず、最期まで帝国海軍は電探の重要性を解さず、伝統の夜戦に自信を持ち続け結果敗れた。古色蒼然たる大艦巨砲主義にいつまでもしがみつき、遂には戦艦大和の特攻出撃という愚考をおかし悲劇のうちにその生涯を終える。というようなことは、当時、少年雑誌から学んで少年たちの良く知るところであった。ことさら戦艦大和の最期は美化して語られ、戦争を知らない子供たちにとって大和は最大のヒーローでありスターでもあった。大和を頂点とする旧日本海軍連合艦隊は幾度となく少年雑誌で特集され、戦艦のみならず巡洋艦、駆逐艦にも精通した「少年にわか戦争アナリスト」が幾らも居たような時代でもあった。国産プラモデルの草創期を回想する時、当時のプラモデル業界従事者は「大和とゼロ戦さえ作れば、どんなモノでも作った端から飛ぶように売れた」と述懐する。この黄金コンビの片割れ、戦艦大和のプラモデルはまさに小から大、良から非、喜から悲、それはそれは無数のキットが世に出ては消えて行った。現在と違い、大和の写真や資料などは極端に少なかった時代であったから、少年たちは大和の情報には飢えていた。探究心に燃えていた。グラビア画や不鮮明な白黒写真ではない、より具体的で明解かつ詳細な姿を追い求めていた。だからこそプラモデルには価値があった。立体的であらゆる角度から観察することの可能なプラモデルは、現代で言うところのバーチャルリアリティの元祖であったのだ。
そんな大和なればこそ駄玩プラモにおいても格別な存在であった。三和や一光のキットももてはやされたが、ボクはにしきやのキットが一番の贔屓であった。にしきやは戦前からの老舗だが、木製模型からプラモデルへと時代が変わろうとしつつあった当時、東京JNMC模型研究会の名称でプラモデルメーカーへの転身をはかろうとする途上であった。やはり戦艦大和をシリーズNo.1とするポケットシリーズはスケールが統一されていない、いわゆる「箱スケール」であったが、ミニモデルとしては中々に本格的な内容であった。精密洋上模型(今で言うところのウォーターラインモデルである)と称した喫水線から上のみの模型で、大和は1/2630スケールの半端スケールであった。余りに小さなモデルなので船体中央部にハリネズミのように廃された高角砲や対空銃座の対航空防御火器を再現することは諦められ、竣工時の副砲を備えた姿でお茶を濁してある。それでも一光などよりはずっと大和らしさを表現していたように思う。パッケージには有名な白波を蹴立てて進む公試運転中のモノクロ写真を着色したものが使用され、ことさら強調するかのようにプラスチックの文字が躍っていた。蛇足ながらこのポケットシリーズもNo.13には戦艦武蔵が登場するのだが、これは良くある大和のパッケージ替えではなく、スケールも1/2400と一寸大きめになった。そして全部で12基の高角砲もちゃんとパーツで再現されていた。ただプラモデル界のクリアモデルブームに便乗したものなのか、武蔵は透明武蔵の商品名を付けられて幽霊戦艦にされてしまっている。戦艦武蔵バージョンのパッケージも存在したが、クリアモールドであることには変わらない。いずれにしても当時の30円クラスのキットとしては、にしきやのものはパッケージの装丁が立派であった。絵でないのに多少の味気なさは覚えたものの、写真仕立ての迫力はひと目でボクを轟沈させたのだった。ただ天野屋での価格は35円であった。天野屋での、と書いたのは、当時はマルサンを除き全国統一価格ではなかったからである。30円の所もあったろうし、輸送費のかかる地方では40円だったかもしれぬ。ともかく天野屋では35円だった訳だ。これには困った。なにしろボクの手には例によって10円銅貨3枚きり握られていなかったのだから。あと1日の辛抱などとても出来そうになかった。もはや物欲の虜である。家にとって返したボクは店の売り上げ金に手を出した。当時、一般の商店にレジスターなど無く、小銭の釣り銭はブリキの空き缶に入れられていたのだ。そこから5円玉をくすねた。もちろん母の目を盗んでだ。自分の家であっても立派な窃盗である。粋揚々とにしきやの大和をつかんで帰ったボクは母に見つからぬよう裏木戸から部屋に上がり、箱裏の35.-の鉛筆書きを消しゴムで消し30.-と自分で書き直した。我ながらやったと思った。完全犯罪の成立である。だが悪事はいとも簡単にバレた。天野屋のおばさんの筆圧は高く、くっきりと35.-と書かれた痕跡が残っていたのである。こっぴどく叱られたのは言うまでもあるまい…。物欲は身を滅ぼすという教訓である。昨今の渋谷でたむろする少女たちは母親の財布から金をくすねたなどと悪びれもせずあっけらかんと笑うが、例え親だろうと金品を盗むなど御法度であると厳しく戒められた良心の時代であった。(続く)
投稿者 平野克巳 : 2006年10月24日 14:00
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