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2006年10月31日
昭和プラモデル物語(13)
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父は根無し草のような生活を好んだ。別に仕事上の都合ではなく、住宅の売買を好み住居を転々とした。ボクが生まれてから東京を3ケ所、埼玉、千葉と引っ越しを繰り返し、神奈川に移ってからも結局住まいを4ケ所変えた。途中からボクは独り立ちし東京に住んだが、結婚し現在の神奈川に落ち着いている。そんな生い立ちの為、幼稚園は3回、小学校を3回、中学校を2回転校を繰り返し、入学したところを卒業出来たのは高校が初めてであった。父は「子供なんかどんな環境でもすぐ順応出来る」が持論であったらしいが、実際にはそうはいかなかった。現代では日本列島広しと言えども地域差などそうは感じるものではない。しかし昭和30年代では関東の中でさえも厳然とした地域差があった。東京の幼稚園から埼玉県浦和市の幼稚園に転園した際、その余りのギャップに驚いたことを覚えている。ボクは半ズボンが当たり前であったが、そこでは女の子でさえ長ズボンでツギの当たっている子まで居た。サザエさんに登場するワカメちゃんのようなおかっぱが全盛で、リボンを結わえている子なぞ皆無であった。だからたったひとり長い髪で短いスカートから白いパンツのお尻が覗く、大きな洋館に住むお嬢様タカコちゃんに憧れを抱いた。それはボクの初恋であったが、それはまた別の話だ。今では信じられないことだが、関東圏の中にも方言が存在し、言葉の異なるものはまるで外国人のように見られた。子供というのはそうしたことには敏感で、しかも斟酌などしない。当然、ボクがその地域性に溶け込むまでは、物珍しい生き物であるかのような接し方しかして貰えなかった。さらに悪いことにボクは一人っ子であった。これまた今ではごく当たり前に近いのであるが、当時、兄弟姉妹の居ない子供、つまり一人っ子はとても珍しく、子供たちの間では好奇の対象であった。未知のものに対する怖れ、あるいはやっかみのようなものがあったのかどうかは分からぬが、一人っ子は子供の世界では贅沢、我が侭、病弱といったマイナスイメージが定着していて、忌み嫌うべき異人種のごとくに思われているふしがあった。「お前、東京の人間だってな」「兄弟居ないんだって?」そんな言葉を何度浴びせられたことか知れない。それでもやがて打ち解けて仲間に加えて貰えるようになる。しかしまた引っ越しによって転校し、また同じことをいちから始めなくてはならなかった。同じ所に4年と住むことのなかったボクは、やがて子供なりにも精神的に疲弊していった。いつか自分は異邦人なのだと思うようにさえなった。いじめられ続けた訳ではなく友達が居ない訳でもなかったが、次第にボクは自分の殻に閉じ篭るようになったのかもしれなかった。だから幼い頃の心象風景でボクはいつも孤独だった。常に充たされぬ寂しく哀しい思いを引き摺っていた。兄も弟も居なければそれは尚更であった。そんなボクの心の拠り所がプラモデルであった。恐らくそんな子供だったからこそ、あれほどまでにプラモデルにのめり込んだのであろう。
ボクが30円のプラモデルを卒業したのはマルサンの1/100シリーズに出会ったからだ。ある日、天野屋にやって来た黄色地に赤い1/100の文字が目にも鮮やかな、一寸大きめな箱はボクに新境地をもたらした。箱を開けた刹那、そのモデル自体の大きさ、左右に分かれた胴体や主翼、尾翼、そして別パーツのカウリングや操縦士など、それまで作っていたものとは大違いの本格的な内容にショックにも似た驚きを感じたのだった。これこそがプラモデルなのだと心で叫んだ。それからは50円という価格との辛酸を舐めるがごとくの戦いが始まったが、一度作るともう以前の玩具のようなプラモデルを作りたいとは思わなくなった。まさにボクにはプラモデルにおけるカルチャーショックだったのである。50円では買えなかったP-38Lライトニング、前後逆にしたような姿に心酔した震電、猛禽のようにカッコ良く思えたJu-87スツーカ、もう今ではこのシリーズをいくつ作ったか記憶も曖昧になってしまった。しかし今でも何故かひとつの光景だけが心に残って忘れることがない。それはグラマンF6F-5ヘルキャットにまつわる光景だ。暑かったから夏であったろうか。畳に西日の射し込む部屋で、ボクは買って来たばかりのヘルキャットを作っている。畳の上に拡げたパーツの濃紺の色が一寸高級なプラモデルに思わせた。額に浮く汗を拭いもせず一心不乱に組んでいる。大好きなプラモデルを作っているこの瞬間、なのにボクは泣きたくなるほどの孤独に包まれている。それは何故だろう。訳もなく哀しく寂しいのは何故だろう。マルサン1/100のヘルキャットを回想する時、ボクはそんな小学生だった自分の心象風景をありありと描くことが出来る。いや出来るというより、そんな心と姿と共にしかヘルキャットを振り返れない。プラモデルに逃避し、そして救いと癒しを求めていたあの頃。ボクにとってプラモデルとは心の救済の住処だったろうか。(続く)
投稿者 平野克巳 : 2006年10月31日 18:15
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