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初代編集長 平野克巳の「猫の耳に大仏」湘南鎌倉便り


モデルカーズの生みの親、平野克巳氏による目からウロコの模型小噺。さぁどんな話が飛び出しますか。乞うご期待。

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2006年10月03日

昭和プラモデル物語(5)




 三共ピーナツ信仰による3日に1度の天野屋詣では続いた。当初、三共ピーナツシリーズには旧日本陸海軍機が多かった。シリーズ構成がそうした傾向になりがちだったのは、こうした子供向け玩具(と考えられていたのだ、当時は)である平和産業従事者にも、戦争の記憶を色濃く残していた者が多いせいであったかもしれない。僅かに敗戦から15年余り、どんな形にせよ軍隊の経験を持つ者たちの多かった当時、自国の兵器には愛着や執着、哀惜や憐憫など、様々な思いが交錯して未だ昇華も総括も惜別もしきれていなかったのだろう。それはある意味、敗戦国の悲哀のようなものが作用していたようにも思える。零戦や隼など勇名を馳せた傑作戦闘機のモデル化は至極当然のことであったが、震電や烈風、晴嵐など劣勢挽回が期待された機種が居並ぶあたりに、敗戦の民の無念さが伺われると言ったら余りに穿った見方であろうか。
 そんなピーナツシリーズにもジェット戦闘機が登場する。それはシリーズ3作目として発売されたロッキードF-104Jスターファイターであった。F-104スターファイターはミサイルのような姿とマッハ2の超音速性能から「最期の有人戦闘機」と形容された当時の最新鋭機だった。そのF-104が我が国の航空自衛隊次期主力戦闘機として昭和34年に採用決定されると、折りからのプラモデルラッシュもあって新興メーカー各社からのモデル化が続いた。F-104J第1号機の初飛行は昭和36年、そして実戦配備は昭和37年であったが、それを待たずにキット化されたケースが多かった為、中には名称をF-104C-Jなどと記したものもあった。三共ピーナツのモデルも実戦配備前のキットだが、名称は既に「F-104-J」となっていた。但しボックスアートに描かれた機体番号71は架空の番号であった。F-104は先端の尖ったロケットのような胴体に申し訳程度の主翼という斬新なスタイルだったこともあり、旧式なアメリカ軍のお下がりばかりの印象しかなかった航空自衛隊に、こんな未来型戦闘機が日本にやって来ると人気、話題共に絶大なものとなった。少年雑誌もこぞってF-104を採り上げたので、少年たちの間でも前人気のボルテージは大いにあがった。そして誇張された少年誌の記事の受け売りで「主翼の先端の厚みは剃刀の刃より薄いんだぜ!」などと吹聴するにわかF-104マニアは、クラスの中でも羨望の的となったのだった。
 さて、既にいっぱしのプラモ小僧として名を馳せていたボクも、ご多聞に漏れずF-104を買って作った。それが三共ピーナツのF-104だったことは言うまでもない。F-104はシリーズの中でもひときわ機体が小さく、実機の脚が複雑な構成だったこともあってスタンドモデルとなっていた。三共のVマークとF104の文字が組み合わされたデザインのスタンドは子供心にもやたらにカッコ良く思え、嬉しさに矢も楯もたまらずクラスの友達に自慢しまくった。当然その時代の子供であるから「見せて、見せて!」と盛り上がる訳で、学校がひけたある日の午後、ふたりの級友がわざわざ尋ねて来た。だが、しかし…プラモデルは、しかもF-104はひときわ脆いモデルであった。大人でも子供でも雑な性格というか大雑把な奴は居るもので、ふたりの内のひとりがいとも簡単にスタンドの支柱を折ってしまった。
「買って返して弁償しろよな…」
 ボクは自ら進んで自慢し見せびらかしておきながら壊したことを責め、それだけでは飽き足らず嫌らしくも損害賠償を強要した。嗚呼、我ながら何て卑しくて醜い下衆野郎なんだ! ボクはあの時の自分を振り返ると今でも反吐が出るほどに不愉快な気分になるのだ。確かに当時の子供たちにとってはプラモデルは宝でありひと財産であったのは事実だ。例え30円といえども今からは想像も出来ないほど高額に思えた。ボクにとっても30円で買ったF-104を壊されたのは、笑って済まされないだけの損害であったのは紛れもない事実ではある。だが、しかし…だ! しかし…だが、そうした時代感は子供世界に弁償の不文律を科していたのもまた事実であった。壊したら、無くしたら弁償する。尤も「コレあげるからさ…」と手持ちの何かで弁償するのが常道ではあったが。しかし当時の子供は純真である。F-104を壊した級友はどこに売っていたのかとボクに尋ねた。これから買いに行くのだという。ところが不運なことにF-104は天野屋には売っていなかった。たまさか浦和駅前の書店で買ったものだったのだ。バスでどう行くか。バス代は幾らか。ボクたちは先ずそこから相談し合わねばならなかった。もはや、その時点でこの話し合いは不毛なものでしかないことに誰もが気付いていた。所詮は小学校低学年の子供である。テリトリーは猫の額ほどの町内に限られていた。子供だけで駅前まで出向くなど外国に行くにも等しいものに思われた。ただ皆で去勢や意地を張っているだけに過ぎなかった。やがて無益な話し合いにも飽き、ボクもF-104を諦めた。三共ピーナツのF-104-Jを回想する時、口中に今も微かな苦味が伴うのは、多分自責と後悔の味なのだろう。ただプラモデルを大切に思う気持だけはあの頃も今も何ひとつ変わらない。「模型男」なんて洒落にもならないけれど。(続く)

投稿者 平野克巳 : 2006年10月03日 13:01

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