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2006年11月28日
昭和プラモデル物語(21)
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日々の暮らしは夕餉を中心に回っていた。陽が西に傾く頃になると家々のお母さんたちは割烹着に買い物篭の出で立ちで近所の商店街へと繰り出した。地元密着型の商店街はその規模こそ様々であったが、肉屋、魚屋、八百屋、乾物屋、総菜屋など、日々の暮らしには欠くことの出来ないものが大概揃っていた。現在のようにスーパーマーケットなど無かった時代である。時にはマルどーたらスーパーだのマルこーたらストアだのといった名称の集合商店も在ったが、それらもあくまでも個人商店の寄り合いで、今で言えばテナント商法に過ぎなかった。レジなどというものは存在せず、藤で編んだ篭がゴム紐で天井から吊られていたような時代である。日々、顔を突き合わせ言葉を交わす近所の奥さん連と店主は皆顔馴染みで、熱いの寒いのの挨拶やご近所付き合いの噂話まで、なにくれと会話を交わすのもごく普通のことであった。こうした商法は今やすっかり廃れてしまったが、これを「対面販売」商法と呼ぶ。これに対してスーパーなどは「セルフ販売」商法と呼ばれている。スーパーが導入したセルフ商法は今や小売業の主流となっており、百貨店/デパートもその例に漏れないが、かつて百貨店といえば対面商法であったことはご記憶の方も多かろう。
百貨店は東京の大繁華街にある大型店鋪が有名だ。江戸時代よりの老舗も多く、前身は呉服商越後屋の三越、やはり前身は呉服商いとう屋の松坂屋、他にも松屋、大丸、白木屋など、花の東京には目も眩むほどの「巨大ビルヂング」が群雄割拠していた。近所の商店街のようにしょっちゅう行かれるような所ではなく、恐らくはボーナス期と連動していたと思われるが、夏と冬の年2回、特別な「お買い物」として家族総出で出かけたものである。その日は朝からとびきりのよそ行きを着込み、葡萄色の国電に揺られて都心へと向かう。降り立った帝都東京はクルマと人でごった返す魔都、子供心に好奇と畏怖が入り交じり、父母の背中を見失うまいとただ必死であった。そして百貨店。その入り口は荘厳なまでに物々しく、足を踏み入れる刹那、緊張と興奮で足がわなないた。玄関口をくぐるやそこは光りのページェントであった。溢れるばかりの照明に照らし出された大理石の艶やかな輝き、居並ぶショーケースが照り返すきらびやかな照明光の眩しさ。まるで別世界へと足を踏み入れたかのようで目眩さえ覚えそうな絢爛豪華さがそこには在った。
「チン」アナログな鐘の音と共に開いたエレベーターのドアの向こうには、この世の玩具が全て集められたのではないかと思わせるほど、見渡す限りに玩具の陳列が続いていた。現在のデパートの玩具売場は僅かなコーナーでしかなく、しかも幼児向け玩具かファンシー玩具ばかりであるが、当時の百貨店の玩具売場はワンフロアまるまる玩具ばかりで占められていたのである。ボクの目当ては当初、ブリキ、つまりティントイであったが、その後直ぐにプラモデルへと代わった。初期のプラモデルは品数が僅かで玩具売場の片隅一区画だけだった。ガラスケースには白い布が敷かれ、そこに色も塗らずに仕上げられた完成品のサンプルが、品名、メーカー名、価格の書かれた札と共に陳列されていた。商品であるキットは店員の背後の棚に重ねて並べられてあった。一定の間隔を置いて「売り子」と呼ばれた店員が立ち愛想笑いで応対する。つまり対面販売である。百貨店の制服である紺の上っ張りを着、胸にはセルロイド製の名札が下がっていた。大抵は20代前半のうら若き乙女だ。頼んでキットを出して見せて貰う。気に入らなければそれを繰り返すが、あまり何度もそれを繰り返していると、次第に店員の表情や態度があからさまにぞんざいになったりもした。両親との交渉が成立すると、店員もほっと破顔一笑、営業スマイルを取り戻す。そして丁寧にその店独自の包装紙に包んで貰い、小脇に抱えて売場を後にする。あとは大食堂でホットケーキを食べるのみ。恐らくボクの玩具は両親の買い物が終わってからの最後の買い物だったのだろう。こうしてボクは東京の百貨店で幾つかのブリキ自動車と幾つかのプラモデルを買った。だが何を買ったのかは今となっては余り思い出せない。マルサンの自動車は今ひとつそそられなかった。マルサンの宗谷、三共のキャノン砲も完成品を眺めただけだ。買ったのを記憶しているのは消防車(とみやまでも静教でも日本文化でもない。いすゞのフロントボンネット車だった。どこの製品だったろう…)と、よねざわのEF58と特急こだま(つばめだったか…)、そしてフジミ1/30天皇御料車/グロッサーメルセデスベンツ、正式にはメルセデスベンツ770グローサープルマンリムジンくらいなものである。取り分け天皇御料車はボクにとって思い出深いキットであると同時に、昭和の戦後史を物語るプラモデルのひとつとしても貴重なキットと言えるのでまた別の機会に採りあげようと思う。現在では売り子という関所のような存在が居らず煩わしくはないが、どこか買い物が味気ない。対面販売とセルフ販売の功罪は如何に…。(続く)
投稿者 平野克巳 : 2006年11月28日 21:51 | トラックバック
2006年11月24日
昭和プラモデル物語(20)
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昔、ロバのパンというパンの街頭販売があった。その名のとおりロバがパンを載せた荷車をひいて売っていた。ただ実際にはロバではなく馬がひいていたようだ。ボクも見たことがあるが、ロバではなく巨大な馬がひいていた。馬は間近で見ると驚くほどにデカい。だから「ロバがひいてやって来るパン屋さん」という愛らしいイメージとは裏腹に威圧的で恐ろしかった。そのうすらデカい馬と荷車が蹄の音も高らかに「かっぽかっぽ」と道路の真ん中を歩くのだから、自動車が増え始めた'60年代にはもはや生き残る術はなかったろう。第一、馬糞を道路にボテボテと振りまいて歩くのだから、食べ物商売としてはイメージだけでなく実害もあったろう。そんな訳で'51年から始まった馬車による移動販売は'64年に全廃された。やはりここでも東京オリンピックがひとつの契機となったようだ。しかしロバのパンは子供たちには人気があったようで、'55年には「パン売りのろばさん」という歌がレコードとなって発売されている。これが移動販売中にはテーマソングとなってスピーカーから流されていた。♪ロバのおじさん、チンカラリン…という歌だ。当時の子供にとっては懐かしい。このロバのパンは'31年にビタミンパン連鎖店としてチェーン展開し、現在も京都に本部があって健在だ。
昔、下水道が完備されていなかった時代、トイレは水洗式ではなく汲み取り式だった。バキュームカーは'51年に川崎市が導入したのが始まりと言われているが、ボクの子供時代にはバキュームカーさえ無く、肥樽を天秤棒で担いだ「おわい屋さん」が定期的にやって来て、肥柄杓で汲み出してはリヤカーに載せて帰って行った。ちなみに料金は前もってチケットを買う。この人糞、当時は売買されていた。畑の肥料に使うのである。だから肥樽を満載した大八車を牛がひいて行く姿は良く目にしたものだ。ロバのパンに続いて恐縮だが、やはり牛も巨大な糞を道に落として歩いた。当時の道は殆どが土道か精々砂利道で、アスファルト舗装など滅多に見られるものではなかった。だから道を歩く時には常に神経を配った。昨今ではコンビニの前どころかそこいらの路地でさえも高校生のぼっちゃんじょーちゃんが猫のようにぼろぼろ落っこちているが、当時はとてもでないがそんなことは出来なかったのである。第一、人様だってどこでも構わず立ち小便していたような時代だ。
犬や猫は言うに及ばず、鶏、山羊、豚、牛、馬などの家畜が生活圏の中に幾らでも居た。しかも前述のとおり、そこいらで行き交っても余り不思議には思わなかった時代である。養豚場から豚が逃げ出したり、屠殺場から逃げた牛が悲痛な叫び声をあげて路地を駆け抜ける、なんてことさえあった。ヒルマン監督でなくとも「シンジラレナ~イ」と口走ってしまうような時代であったのだ。
さて動物が身近であったならプラモデルでも動物モノが盛んであったのかと言えば豈図らんや、答えは否である。まあ硬質なプラモデルには動物は相応しくないと思われていたであろうし、動物は縫いぐるみか節供人形が定番で、現在のように通称フィギュアといった概念もなかった。レベルやオーロラなどの海外メーカーには多く見られたものの、国産キットでは皆無と言っても良かったろう。そんな中、国産プラモの動物モノでは今井科学の「歩くシリーズ」が最も馴染み深いものかもしれない。歩くというのはモーターやゼンマイなどの動力を用いず、重力によって前進する仕組みを意味する。正確な名称を知らないのだが、現在では俗に「のこのこ」と呼ばれるものだ。下り坂の上に置くと自重によって左右の足を交互に前後させ、それによって進むからくりである。今井の歩くシリーズは熊、象、サイ、剣竜(ステゴサウルス)、恐竜(ティラノサウルス)があって、1頭入りと2頭入り(色違い)で売られていた。熊はそのシリーズ1で、ボックスアートは梶田達二氏の迫力に充ちたものだが、キットの中身は何とも可愛げのある平和なものだった。熊と言うよりはクマちゃんといった感じである。箱と中身は大違い、これは当時のプラモデルの常識のひとつでもある。ボクはこの歩くシリーズが大好きで、熊、サイ、剣竜を買い、卓袱台を斜めにしては異種格闘技ならぬ異種動物競走でひとり遊びを楽しんだ。なにしろモーターも電池も必要ないのにプラモデルが「動く」のがとても嬉しかった。取り分け擬人的に微笑みの表情を見せる熊がお気に入りで、当時のプラモデルとしては珍しく数年もボクの元で生き永らえた。他に三和のトラ、ブルドッグ、カメ、ワニなどもあったが、こちらはモーター、電池が必要で、しかも箱を開けると子供心にも「あまりの生物感の無さ」に愕然とし、とても大枚を投じる価値はないと判断した。その辺りの子供の判断基準というものは、改めて現在考えてみても、厳正でありなおかつ不可思議ではあった。
(続く)
投稿者 平野克巳 : 2006年11月24日 20:06 | トラックバック
2006年11月21日
昭和プラモデル物語(19)
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電子ハイテク技術の進歩が著しい。戦闘機から玩具に至るまでその進化の勢いとスピードは目を見張っている暇さえもないほどだ。かつてパーソナルコンピュータなどというものが庶民の暮らしには存在しなかった頃、世の中はとても手間と時間のかかるものであった。例えばボクが30年近く携わっている雑誌や書籍の製作も今では信じられぬほどのアナクロなものであった。本文やタイトル、リード、キャッチ、キャプションなど、つまり文字は原稿用紙に手書きせねばならなかった。当然、間違えたり書き直したりしようと思えば、キーボードひとつで削除などという訳にはいかない。鉛筆書きなら消しゴムで消して書き直し、ペン書きなら新たな用紙に初めから書き直した。それを級数やフォントの指定をして写植に打ち出して貰う。図版は写真を紙焼きにしてレイアウト用紙に定規を使ってサイズ指定する。写植文字もレイアウト用紙にペーパーセメントで貼り付ける。これを1ページごとにしなくてはならなかった。やがてワープロという文明の利器が出来た。文字を手書きしないで済むのは何て便利なのかしら、と感嘆した。いくら間違えようが手直ししようが丸めた紙屑が出ない。これで文字原稿を書くスピードは飛躍的に早くなった。原稿も最初はプリントアウトしていたが、直ぐにフロッピーディスクという電子記録媒体の普及で紙要らずとなった。ちなみについ数年前、我が家にフロッピーのデッドストックが山のようにあったので、文字原稿だけの時にフロッピーで入稿したところ、某編集部に鬼のような勢いで怒られたことがある。曰く「ワタシのPCにはもはやフロッピーのドライブ用スロットが存在してません!」…。
今やワードプロセッサも絶滅し文字原稿もパソコンで書く。写真も紙焼きどころかフィルムさえすっ飛ばして、デジカメから画像をそのまま取り込み、画像処理しレイアウトもパソコン内で済ませてしまう。まさに世はパソコン様々である。そして電脳技術のおかげでゲームもボードゲームが廃れ、コンピュータゲーム一辺倒となった。画像処理能力は日々劇的かつ飛躍的に進歩し、それまでは無かったバーチャルリアリティという言葉も生まれた。つまり現実ではない二次元の世界に仮想現実と称した、あたかも本物のようにリアルな世界が展開されるようになった。しかし、それによって子供たちの特権であった夢想する世界は失われ、空想力、想像力は減退していったように思える。
ボクたちが子供だった昭和という時代、バーチャルリアリティとはプラモデルそのものだった。あたかも自分がラバウルの空を舞う零戦のパイロットに、またある時はモナコのタバココーナーを駆けるロータスのドライバーになった気分で、完成したプラモデルに額を寄せては見知らぬ空想世界に思いを馳せた。フェラーリ1512F1のコクピット越しに見えるのはニュルブルクリンクの田園風景だった。それはまさにゲームのようなものだった。友達とプラモデルを買って作っては「なんとかゴッコ」をした。あの頃、プラモデルとは作るものではなく遊ぶものであった。とある放課後のひととき、ボクは近所の雑貨屋でオオタキのユンカースJu87スツーカ(何型かはどうでも良かった時代だ)を買った。友達は同じくオオタキのメッサーシュミットMe109(これまた何型かは問題にされなかった)。ふたりで一緒に作り、出来上がると直ぐになんとか戦線に出撃した。ボクのスツーカが急降下爆撃をし、友達のメッサーシュミットがその護衛の任につく。オオタキのスツーカは爆弾投下装置付きだった。腹のボタンを押すとスプリングの作用で、胴体下に吊った爆弾がパチッと音を立てて落下するのだ。これ一点のみで楽しくて仕方なかった 。メタリックの赤紫色の機体は奇異だったけれど(それから数十年してオーロラの真似であるらしいことを知った)、本物のスツーカのように爆弾を投下するギミックは心底凄いと思った。友達のメッサーシュミット(あの頃はBf109ではなくMe109と呼ばれていた)はオール可動式で、特にキャノピー(風防と呼んでいた)が開閉するのに感心した。Bf109であるから前後にスライドするのではなく横に開くのだ。それに新鮮な感動を覚えた。その開閉風防を操作したいが為に、友達は(彼がドイツ人パイロットとなって搭乗しているのだ…)スツーカを守って、自らはP47サンダーボルトに屠られ愛機からベイルアウトするのだった。ミッションは無事に成し遂げられ、目標の橋は落ちた。眼下ではイギリス軍のトラックや装甲車が炎をあげていた。しかし、鈍速なスツーカ爆撃隊を援護した戦闘機隊は哀れ敵の餌食となって二度と基地に帰還することはなかった。めでたしめでたし…いや、めでたくないが、当時の戦記フェチ少年たちは悲愴感にこそ酔った。空想の世界なればこそ勇猛果敢、しかし悲惨な最期に美学を見い出していたのだろう。戦争が終わって未だ15年ほどしか経っていなかった時代である。戦争の昭和は未だ色濃く息づいていたのかもしれない。それにつけても今や誰がプラモデルで映画や劇画の世界を連想し想像したりするだろうか。あり得まい。(続く)
投稿者 平野克巳 : 2006年11月21日 12:35 | トラックバック
2006年11月16日
昭和プラモデル物語(18)
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1964年、東京オリンピックが開催された。それは敗戦によって焦土と化した我が国が戦後復興を遂げ、改めて国際社会復帰を高らかに謳い挙げた国家的一大ページェントであった。今では当たり前な存在である名神や中央や東名の高速道路も、東京の空を網の目にように行き交う首都高速も、東海道新幹線も、全ては東京オリンピックを契機に出現したものであった。東京の景観からは木と土と石の明治、大正、昭和の佳き時代が一掃されて、高層ビルディングひしめくコンクリートのテクノポリスへと変身したのだった。その変貌はまさに劇的で、まるで一夜城が出現したかのように危うく奇異なものとして映った。とにかく世界に恥じることのない日本を、東京オリンピックとはそればかりに腐心した白日夢ではなかったか。
当時、東京から都落ちし関東近在に暮らしていたボクにとって、東京オリンピックとは遠い憧れの地の華やかなお祭りのように思えた。喩えて言うならモーツアルトが音楽の都ウィーンに憧れたくらいに、まるで実体を伴わない遠い遠い出来事のように感じていた。それでもボクの愛読書である少年サンデーでは次第に東京オリンピックの特集記事がヒートアップしてゆき、それによって嫌がおうでも興味は増していったのだった。中でもボクの琴線に触れたのは航空自衛隊ブルーインパルスによる開会式のセレモニーであった。国立競技場上空で5機のF-86Fセイバーが空に五輪マークを描く、戦記ブームが育んだ「遅れてやって来た愛国少年」のボクにとってこれ以上の国威発揚はなかった。日本に空軍はないけれど、アメリカさんのお下がりばかりな貧弱な装備しか持たないけれど、やはり世界を恐れさせた零戦パイロットの侍魂は健在なのだ。どうだ見たことか世界。今、こうして文字にすれば酷く危うい思想少年のようだが、当時の少年たちは大抵が似たようなことを思っていたに違いない。
ノースアメリカンF-86F-40セイバーは戦後の航空自衛隊の象徴のようなジェット戦闘機だ。思想的にはエンジンがピストンからジェットに代わっただけで、局地的な銃撃による空中戦、いわゆるドッグファイトを戦術として生まれた戦闘機に過ぎない。既にかなり古臭いイメージがあって、F-4B/Cファントム2を擁するアメリカ空海軍に較べれば骨董品のような印象も強かった。そんなセイバーだけれど、日本人の手にかかれば名人技を発揮する名機たりうるのだ。名人の手になればセイバーは名刀正宗、虎徹と化すのだ。武芸の達人は刀を選ばない(セイバー=サーベルだけど…)、まさに三船敏郎の椿三十郎のようでないの。この時、ボクのナショナリズムは頂点に達していたのだった。
航空自衛隊の主力戦闘機であっただけにF-86Fセイバーのプラモデルは多数が発売されていた。中でも一番のお気に入りは日模1/80であった。いわゆる箱スケールの100円キットで、日模としても初期の作品である。それだけに脚もない簡単なキットであったが、日模らしいがっしりとした雰囲気で好感が持てた。自在球で好みの姿勢にすることの出来る付属スタンドも豪華な感じがして、大枚100円を投じただけの満足感を与えてくれたものである。パッケージのボックスアートも富士山上空を飛ぶ空自のセイバーで、店頭でも先ず箱に惹き付けられた思い出がある。他にも三和のマメプラシリーズやマルサンの1/100、YMCのベビープラスチックなどもあって、当時はレシプロ戦闘機に飽きるとセイバーを買っては作っていたような記憶さえある。
今やセイバーはおろかファントムさえ退役しつつある。知らぬうちに時代は確実に流れ去ろうとしているようだ。九州をバイクでツーリングしていた時に出会った、眼前を超低空でフライパスして行ったあのセイバーも、恐らくは既にスクラップになってしまったのだろう。もはやハセガワの1/32キットでさえも懐かしいもののように思えてしまう。でも今にして思うとセイバーという飛行機はどこかチャーミングであった。池の端で口をパクパクさせている鯉のようで、殺戮の道具としてのおどろおどろしさが無かった。どうやらボクにとっての飛行機、取り分け戦闘機はトムキャットあたりからどうもいけない。F-105なんてコーラ瓶みたいな滑らかさに、もっと言っちゃうと女性の裸体のような曲線美に目を奪われてしまう。F-100だって鯉のぼりみたいで可愛いし、今となっては鯨のように馬鹿でかいファントム2でさえ優美な起伏が美しく思えてしまう。
1964年、どこの家でもカラーテレビを買うか否かの家族会議が真剣に行なわれていた。ボクは開会式の入場行進をモノクロで見、あれほど楽しみにしていた空の五輪マークが呆気無い中継で終わったことに失望したが、それでも机の上の日模のセイバーを見る度に日本人であることの誇りを感じては高揚した気分になった。
(続く)
投稿者 平野克巳 : 2006年11月16日 23:08 | トラックバック
2006年11月14日
昭和プラモデル物語(17)
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その昔、我が国に来航した黒船の艦名がサスケハナであるということを初めて知った時、何と妙ちきりんな名前なのだろうかしらと思った。「佐助と花」…ボーイズ・アンド・ガールズみたいなものなのか?…アメリカ人が日本人に寄せた愛着からそう命名したものなのか?…それにしても日本を代表する名前がなぜ佐助に花なのだ?…太郎に花子ではなかったのか?…今思えばそんなまるで頓珍漢なことを考えていた。勿論そんなことはたわ言に近く、正しくはUSS Susquehanna/アメリカ合衆国海軍巡洋艦で、ペンシルベニア州サスケハナ川から取られた名だ。黒船の名称も別にサスケハナだけを指すものではなく、主に鎖国時代に西洋から来航した航洋船を総称してそう呼んだ。そして黒船と呼ばれる由来は、当時の欧米船が水密性保持の為に船体をタールで黒く塗っていたことによるものだ。
そんなミニ情報も知らず、それどころかサスケハナという艦名さえ知らなかった頃、ボクの中での黒船は単に黒船でしかなかった。戦艦大和のように少年雑誌のグラビアや特集ページで黒船が採り上げられていたという記憶はないので、黒船の存在を知ったのは学校の社会科の授業であったのかもしれない。少年雑誌をバイブルと崇め奉り戦記ブームにどっぷりとハマっていたボクにとって、蒸気外輪フリゲート艦の黒船は余りにも古色蒼然たる代物で、日本史、世界史の教科書を超えて興味が持てるほどの存在ではなかった。なにしろ、あの頃は戦艦大和、武蔵を頂点とした連合艦隊の全貌、戦艦陸奥のミステリー、駆逐艦雪風とPT109の悲劇などの大戦モノは言うに及ばないが、原子力空母エンタープライズや原子力ミサイル巡洋艦ロングビーチなどの最新兵器に目が奪われていた時代である。日本海海戦でバルチック艦隊を撃破した戦艦三笠でさえも、歴史上に名を残した古めかしい軍艦としか受け止めていなかったように記憶しいてる。ましてや黒船など明治以前の江戸時代の話である。ちょんまげに刀の時代の話である。これはもうメカ好き少年にとっては有史以前にも等しいものとしか映らなかったのだ。しかし、突然のように黒船のマイブームがやって来る。とある夏休み、それが小学校1年だったのか2年だったのか、はたまた3年だったのかは、既に記憶の彼方でしかない(小暮の黒船の発売から逆算すれば、どうやら小学校2年の時だったのかもしれない)のだが、我が家で夏の行楽に伊豆下田に行ったのが切っ掛けであった。当時、海のない埼玉県に住んでいたボクにとって夏の海は憧れであったし、伊豆などというきらびやかな行楽地で遊ぶことは外国を漫遊するにも等しい一大行事であった。そして現地で名所旧跡を訪ねたボクは黒船をより身近なものとして実感する。なにしろどこに行っても黒船、ペリー、お蝶婦人であった。そして旅の仕上げといえばお土産であるが、これがまたどの店に入っても黒船、黒船であった。現在とは違って郷土へのこだわりは強く、決してご当地キティなどでお茶を濁すようなことなぞなかったのだ。その黒船も千差万別、貝で作った小さなものから木製の本格帆船模型に至るまで、実に様々なものが売られていた。ボク的には当然、リアリティ溢れる高級模型が欲しかったが、旅の土産にそんなモノが買える筈もなく、下田の筆文字ばかりが立派な、カラス貝で出来た全長5cmにも充たない黒船を買って帰った。それでも夏休みの思い出は黒船で大いに盛り上がってしまったボク。夏休みの工作の宿題には下田旅行を題材に選んだ。お歳暮のワイシャツの箱の中に伊豆半島を地図を描き、観光ポイントに手作りの模型を糊付けした。要するにディオラマである。黒船を取り分け丹念に作ったのは言うまでもない。
それからというもの黒船にご執心なボクであった。
そして絶好のチャンスが巡って来る。駅周辺の玩具店で黒船のプラモデルを発見するのである。それは小暮模型の100円キットであった。100円のプラモデルであるから、何か特別なご褒美として買って貰ったのだろう。これは恐らくコグレ初のプラモデルであろうと思われる。船体そのものは全長12cmにも充たないノンスケール、マストだけで帆はなく、船体が黒いモールド色だった。今にして思えば如何にもコグレらしい、小さいながらも凝ったモデルであった。小さな艤装パーツが多く、組み立てに難渋したことを覚えている。ただこのモデル、サスケハナ号ではなくミシシッピー号であったが…。しかし当時のボクにとってそんなことはどうでも良かった。黒船は黒船なのだ。所詮、その程度にしかこだわりも知識もなかった。直ぐに続いて戦艦サラトガ、海賊船も発売されたが、それらを手にする機会は一度もなかった。やはり黒船を一途に思う気持がこのキットに引き合わせたのだろうか。未だ「ペルリ提督」などとまるで戦前のような言葉遣いが大手を振っていた時代のことである。(続く)
投稿者 平野克巳 : 2006年11月14日 21:09 | トラックバック
2006年11月10日
昭和プラモデル物語(16)
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ボクがプラモデルと出会い、本格的にのめり込む切っ掛けとなったのが、近所の駄菓子屋、天野屋であったことは既に書いた。ここでボクは駄菓子や駄玩具を星の数ほども買っては浪費した。しかし、これも既に記したことだが菓子屋の倅であったので、駄菓子よりも圧倒的に駄玩具の割り合いのほうが多かった。いや、恐らくそれは正しくあるまい。菓子屋の倅とて存分に「つまみ食い」なぞ出来る訳ではなかった。なので食い気より色気、でなくて玩具により興味を示す子供であったのだろう。ボクの記憶している最も古い駄玩は弓矢である。弓はプラスチック製だったか竹製だったかは忘れてしまったが、矢の先端のひじりはゴム製の吸盤になっていた。それから針金で出来たパチンコ。パチンコのゴムは生ゴムだったような記憶がある。そして何故か相撲の行司軍配。これはプラスチック製だったが、立派な房付きの飾り紐も付いていた。大抵は友達の誰かが買えば見せびらかしに来て、見せられたものは口を揃えて「いいなあ!」と叫んでは同じものを買おうと駄菓子屋に走った。日替わりで、しかも僅かな時間だけ盛り上がる。まさにピンポイントな期間限定、それが仲間内のブームなのであった。
ビー玉、メンコ、ベーゴマなどの伝統的な庶民の遊びはボクの子供時代には廃れていて、クラスの中でも僅か数人しかやっていなかったように記憶する。牛乳やヨーグルトの瓶の紙蓋を口で吹き飛ばして裏返しにする通称「ぱっちん」がそれに代わって大流行していた。それでもビー玉やメンコを随分と買った記憶はある。他には何を買って遊んだろう。銀玉コルトは言うに及ばず、2B弾、ゴムボール、日光写真、軍人将棋、カチカチ、ブリキバッヂ、くじ、キューピー、潜望鏡、びっくりナイフ、その他諸々、何だか訳の分からぬ怪しげなものまで、いちいち挙げていたら恐らくきりが無いだろう。そうした駄玩は紙や木やブリキで出来たものが大勢を占めていたが、やがてアンチモニー、そしてプラスチックが新たに加わって様相を変えるようになる。その最たるものがプラモデルであったのは言うまでもあるまい。
プラモデルはそれまでには無かった新しい玩具の形態であったから、当初、国産プラモデルメーカーは何れも新規参入の企業ばかりであった。その企業分布は大別すると東京と静岡に二分され、東京の場合は浅草界隈を中心とした駄玩製造業、静岡の場合は木工教材製造業をその前身としている。いわゆる地場産業からの転身である。タミヤの前身である田宮商事合資会社が木材製材業であったのは有名だが、静岡の地場産業である木材製材から木製模型教材、そしてプラモデルへと発展して行ったのはタミヤばかりではない。対して東京のメーカーの多くはやはり地場産業である玩具製造業からの転身で、童友社などもまさにそうしたメーカーのひとつであった。童友社は昭和26年に設立された典型的な駄玩メーカーで、主にメンコや紙製ゲームなど「紙モノ」と呼ばれる紙製玩具を製造販売していた。その童友社が新たな玩具プラモデルに着目し、自らも手掛けることになったのは'60年代初頭のことのようであるが、その正確な時期は記録が残っていないので残念ながら分からない。
ボクの知る限り、初めて童友社のプラモデルを手にしたのは、航空機ペットシリーズ“Fighter Group”であったと思う。これはノンスケールのミニモデルで、F-106Aデルタダート/Fw190D/F-104Jスターファイター/F-80Cシューティングスター/ベルG47J/F-100Dスーパーセイバーの全6種があった。内容的にはマルサンのマッチ箱シリーズ程度だが、こちらには脚もスタンドも透明部品もデカールもなく、どちらかと言えばプラスチック製の駄玩そのものといった感じであった。他に自動車、戦車、大砲のシリーズもあったが、何れも内容的には似たようなものであった。パッケージは前回ご紹介したKSN/緑商会の国産車キットに似たもので、20円の価格もまた同じであった。プラモデルとしての商品クオリティは決して高くはなかったものの、20円で買えるプラモデルはやはり魅力であったので、航空機、自動車、大砲など幾つも買った思い出がある。大体からして草創期の童友社のプラモデルは、プラモデルに対する企業理念と言うかアプローチの仕方が、タミヤやマルサンとは根本的に異なっていたように思う。タミヤやマルサンの場合は当初よりレベルやリンドバーグなどを目標に本格的なプラモデルメーカーを目指したが、童友社の場合はプラモデルという玩具に人気があるようなので、これまでの販路にプラスチック製の玩具も売りたいというスタンスであったのではないかと想像されるのだ。まあ童友社の名誉の為にも付け加えておくが、現在の童友社にそのような姿勢は微塵もない。何れにしてもプラモデルが未だ暗中模索の中に在った時代のことである。
(続く)
投稿者 平野克巳 : 2006年11月10日 19:44 | トラックバック
2006年11月07日
昭和プラモデル物語(15)
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ボクは子供の頃、慢性の蓄膿症だった。元々耳鼻咽喉科系統が弱かったのだろう。毎年夏、プールに入る度に中耳炎になった。今は知らないが、あの頃、蓄膿症の治療は辛かった。綿棒のお化けのごとき先に薬品の塗られた長い菜箸のような器具を両方の鼻の穴に突き立てて待合室で暫し待ち、その後に先端がノズルになった小型掃除機のような器械で鼻什を吸い出す治療に週1~2回は通わねばならなかった。子供のこととてたとえ慣れても痛くて嫌なことには変わりなく、母はおとなしく行ったら帰りに何か買ってあげるから、とご褒美作戦でボクを無理矢理納得させていた。毎回、半泣きになりながら医院を出ては、帰り道で何かを買って貰うのが常だった。それはボクにしてみれば唯一の心の支えだった。帰り道のお菓子屋でよくナガサキヤのチョコが入った小さなプラスチックの亀やらコビト製菓のフェルトと紙で出来た指人形などをひとつ買って貰った。亀は列車の模型のように前後で連結出来るようになっていて、甲羅の色が赤や青、緑や黄色と多色あるので、一時はのめり込み、行く度にひとつずつ幾つも買って貰った。今で言えば食玩の類いである。だが、それだけではなく時にはプラモデルを買ってもらうこともあ った。雑貨屋のようなところで売られていた小さな自動車がそれで、あとになってKSN(のちの緑商会)の国産車シリーズであったことを知る。パッケージは小さなキャラメルボックスだが、厚みがあってコロンとした箱だったのが印象に残っている。この時代「コロンとした感じ」のキャラメルボックスと言えば、明治のサイコロキャラメルを連想するのだが、ちょうどそんな風情でプラモデルとしては珍しい箱だと感じた記憶が残っている。
中身はまるで「たいしたモノではなく」、色々と車種があった割りには、どれも「取り合えず」自動車には見える、という程度のものでしかなかったけれど、それでもプラモデルを買って貰えるのは無上の喜びであった。もはや最初に何を買って、何種類集められたかも忘れてしまったし、値段も20円だったか30円だったかも覚えていない。しかし'60年代に入ってからの新型車がラインナップされていたので、子供心にも華やかに映ったものだった。日産ブルーバード/トヨペットクラウン/プリンススカイライン/トヨペットコロナ/日野コンテッサ/日野ルノー/スバルなど、'60年代を迎えて登場した新時代の国産車たちがキット化されていたようだが、当時のこととてカタログもなく、店頭にあったモノだけでその存在を知るような時代なのでその全貌は分からない。
ボディは一体成型だが、スライド型以前のものなので、断面形は下部に向かって末広がりに広がっている。プロポーションも車名を言われれば、そういえばそんな気がする…くらいのものでしかない。ゴムタイヤと金属シャフトが奢られたコロ走行なのも、転がして遊べるいかにも年少者向けである。今ならこんな玩具など幼稚園児でさえ見向きもすまい。それでも当時の少年たちにとっては立派にプラモデルであったのだ。
現実にはボクたちの日常ではこの程度のプラモデルしか手にすることが叶わなかったのであるが、本当はもっと実車に忠実で精巧なモデルが欲しかった。ボクは元々自動車が嫌いではなかったのだが、当時の少年誌は余り自動車を採り上げることが多くはなかった。だからボクは自動車の写真や解説に飢えていたのかもしれない。前述の耳鼻咽喉科医院の待合室でのことである。ボクはいつものように長椅子に腰掛けて順番を待っていた。耳鼻科は常に診察を待つ患者で混み合っていて立錐の余地もない。となりに座っていたお兄さん(多分、大学生くらいであったろう)がやおら雑誌を取り出して読み始めた。そっと盗み見るとカラーのグラビア特集「世界のなんたら自動車」のページが開かれていた。ロールスロイスやジャガーなど、見たことも聞いたこともないような外国の自動車が写真でズラリと並んでいた。横目のままで釘付けになってしまったボクは、この本がどうしても見たくてたまらなくなり、それから半日というもの、母に買ってくれるようしぶとく食い下がった。多分必死の形相だったのだろう。遂に根負けした母は「特別だよ」と近所の書店でその雑誌を買ってくれたのだった。しかしその本はボクの手に渡る前に母によって無惨にも引きちぎられて、件の特集部分だけが手渡された。「こういう大人の本は子供が見ちゃいけないの」と母は涼しげな顔で言った。それが何故だかは皆目見当も付かなかったが、母がそういうのなら「そういうものなのだろう」と思った。それにボクにしてみれば自動車の特集ページさえ見られれば満足であったので、多少奇異には感じたものの格別不平不満を言うつもりもなかった。その雑誌の名は「平凡パンチ」と言った。ボクが10歳かそこいらの時のことである。今と昔の子供の精神年齢格差がとてつもなく異なっていた時代のことである。(続く)
投稿者 平野克巳 : 2006年11月07日 14:01 | トラックバック
2006年11月02日
昭和プラモデル物語(14)
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今でこそ日本列島を縦断する新幹線は当たり前であるが、昭和39年の開業以前には「夢の超特急」と呼ばれて、あたかもSF未来世界の出来事ででもあるかのように実感の伴わないものであった。ボクは電化以前の蒸気機関車もディーゼル車も実体験した世代なのだが、昭和31年の東海道本線全線電化に伴って、昭和33年にビジネス特急「こだま」(20系/のち151系と改称)が登場し、最高速度110km/h、東京~大阪間6時間50分の営業運転が開始されると、子供たちの間では憧れの特急電車として人気を博すようになった。現在では理解出来ないかもしれないが東京と大阪の往復が日帰り可能となったのは当時としては画期的なことで、まさしく戦後新時代の幕開け、スピード時代の到来を思わせたのだった。当時の男児なら誰もが好きだった乗り物絵本でも特急こだまはスター扱いで、まるで自動車のような流線形のボンネット型前頭部を持つクリームと赤のツートーンボディと、高位置に設けられた運転席、縦目の4灯式ヘッドランプ、そして誇らしげなヘッドマークが何とも颯爽としていてカッコ良かった。
特急こだまが就役したとはいえ、未だ日本は広く大きかった時代だ。東京駅と上野駅は地方との玄関口と呼ばれて親しまれたが、ボクより上の世代にとっては上野駅が青春の郷愁を呼び覚ます懐かしさに溢れた駅であろう。北国の中学を卒業したばかりの15歳の少年少女が、集団就職列車で希望と不安を抱えて降り立った上野駅は日本の戦後社会の縮図であったろう。生まれて初めて故郷と家族から離れ、身も知らぬ東京という街で働く。そこにはひとりひとりの人生の悲哀があり、生きることの現実の厳しさがあった。そして金の卵ともてはやされた彼らによって戦後の高度成長時代は造られたのだった。関東に生まれ未だ幼かったボクはそんな人生とは無縁であったが、当時、流行した井沢八郎が歌う「ああ上野駅」(昭和39年)に、良くは分からぬながらも人生の悲哀のようなものを感じたことを思い出す。
新幹線登場以前の特急こだまが如何に当時の子供心を捕えていたかは、以上のようなことからも想像いただけたかと思うが、書店店頭にぶら下げられた特急こだまの描かれた子供向けジグソーパズルや絵本がどれだけ欲しかったことか。実物に乗る機会など滅多にある訳もなかった当時の子供にとって、絵本や玩具の疑似体験こそ最大の喜びであったのだ。そしてプラモデルに傾倒していたボクにとっては、特急こだま号のプラキットこそ最も欲しいプラモデルのひとつであったのは言うまでもない。それを最初に見たのは恐らく東京のデパートで売られていたよねざわ1/100の「特急こだま」か「特急つばめ」であったように記憶する。ただボクはEF58電関を買った記憶があるので、結局こだまもつばめもチョイスしなかったのだろう。何しろ当時はこんな豪勢なプラモデルなぞ、そう何度も買って貰えるようなチャンスはなかったはずだからだ。
ようやく特急こだまを我が物としたのは近所の雑貨屋で売られていた童友社のミニチュア鉄道シリーズであった。これはTOゲージと称した50円売りキットで、シリーズは夢の超特急(のちに超特急ひかり号に改変)/特急こだま号(のちに特急富士号に改変)特急用客車/C51型テンダ機関車(のちにC62型テンダ機関車に改変)/2120型タンク機関車/特急ジョージワシントン号(のちに特急メラード号に改変)/TOゲージ軌条セット/有蓋貨物車/無蓋貨物車/タンク車/(のちに踏切セット追加)があった。今で言う9mmゲージほどのもので、車輌1輛とそれが乗る最低限の長さのレールが1本セットとなっていた。車輌内はがらんどうだが、車台などはそれなりで、ボクは一時、このシリーズにのめり込んだ。ただ所詮は50円を手にしてはその雑貨屋へと走る程度の買い方なので、先頭車輌を集めるだけで精一杯で、とてもでないが客車を買い集めて編成を揃えるような真似など叶わなかった。レールもそれぞれ繋げられるようになっていたが、それとて数本が手元にあっただけで終わった。50円のキットとしては異例なほどの立派な組立説明図が付いていたが、完成図は絵だったし組立説明もイラストではなく文字によるものだったのが時代を感じさせる。海外の鉄道雑誌か商品カタログから転載されたとおぼしき鉄道情景レイアウトの写真入りで、「皆で作ろう!! 鉄道模型」「新型続出!!!」と謳われていた割りには、確か上記のシリーズのみで終わってしまったと記憶している。いずれにしても店頭に無くなってしまえばそれでおしまいで、店番のおばさんは「問屋さんに頼んでまた仕入れておくよ」とは言ってくれるものの、それきりであることが多かった。実際には関連はないのだが、今もこのキットに触れるとボクの原風景の中では「♪どこかに故郷の香りをのせて~」のフレーズが甦ってしまう。(続く)
投稿者 baba : 2006年11月02日 23:37 | トラックバック
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