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2007年02月27日
昭和プラモデル物語(31)
我が国にプラモデルが誕生してはや半世紀にもなんなんとする。しかし玩具という、より総体的な括りで考えるならばその発祥は更に古く、紙や土の玩具までさかのぼったら神代の昔まで行きつかねばなるまい。人類の営みはかくも悠久の流れのごとしであるのだが、私たち個々の人生ではかれば長いようでもあり短いようでもあり、である。
先日、鎌倉の老舗玩具店「からこや」が閉店廃業した。店先のガラス戸には「85年間ありがとうございました さよならセール」の手描きのポスターが貼られていた。どれだけ実績や由緒や歴史があろうとも祭りの終わりというのは拍子抜けするほどに呆気無い。いともあっさりと、あるいは淡々と終焉の日はやって来た。私の知る限り、全盛期には由比が浜通本店の他に、乗り物部(ベビーカーや三輪車など)別店、鎌倉東急店が在ったのだが、それらは大分以前に閉鎖撤退して本店のみが営業を続けていた。鎌倉は今でこそ手軽で身近な観光地として賑わっているが、かつては高級別荘地として静かな佇まいを見せる都市であった。いわば文人歌人などと共に限られたハイソサエティな社会人の住まう土地柄であったのだ。そうした地域ゆえに戦前のからこやはそんじょそこらの玩具店とは異なって、高級で上質な品揃えを特徴とした商いをしていたようである。戦後、避暑地や海水浴場として街が庶民化したのちもマテルなどの外国製品はここでなければ拝めなかった。しかし近年は鎌倉の街の変貌に合わせるようにして、からこやもごく一般的な街のオモチャ屋さんとなっていた。この30年ほどは私もこの店を眺め続けて来た訳だが、やはり時代の流れに伴って店内の陳列様相も少しずつ変化していたことは感じ取っていた。縫いぐるみの動物が減り、ブリキの自動車や電車が姿を消し、ダイキャストミニカーがトミカのみになった。それでも年の暮ともなれば羽子板や凧、夏には浮き輪やビニールスイカ、花火が店頭を飾り、古き良き時代の玩具店の色彩を残していた。プラモデルに関しては昨今の玩具店としては在庫量、種類共に多かったほうであったが、近年はタミヤ、ハセガワのスケールモデルとバンダイのガンダムが殆どを占める状況で、プラモデルの不振ぶりがここでも現われていたように思う。当然、模型用の工具や塗料も扱っていたが、一時、プラモ用ラッカー系塗料の有機溶剤が問題視されると、水性塗料のみしか店頭には置かないなど、あくまでも子供本意の店としての良識を貫くようなところもあった。
かつて鎌倉駅近辺にはからこやの他に、京屋、ミッキートイなど、やはり老舗の玩具店があったのだが、何れも既に無くなって久しい。ボクは鎌倉に住むようになったのは中学生からであるが、地元で生まれ育った友人たちは「ミッキーで50円のプラモは随分買ったけど、からこやは敷居が高かったからなあ」などと回想する者が多い。やはり大正から昭和初期の頃の名家御用達玩具店のイメージは戦後も微妙に残っていたのかもしれない。別に店の気位が高いとかいうのではないのだが、いわゆる駄玩のようなものを余り扱っていなかったせいだろうか。かくいうボクもからこやで何かを買ったという記憶が殆どない。買ったとしてもそれほど僅かでしかないということだろう。唯一、記憶しているのは潜水艦のスクリューを塗ろうとしたところ手持ちの塗料に金がなく、妻に買いに行って貰うと水性カラーしかなく、結局、逗子の馴染みの模型店まで足を延ばさねばならなかった、ということくらいである。これは実のところ切実な問題で、今回のからこやの廃業に伴って、いよいよ鎌倉界隈では塗料のひとつも買えなくなってしまった。既に個人経営の模型店が壊滅状態であり、大型量販店などの大型店鋪のない鎌倉駅近辺では、プラモデルはおろか塗料のひと瓶も売っていない状況になってしまったのである。その昔は製作途中で「あ、○○色がない!」などと気付いてもバイクでひと走りもすれば手に入ったものが、今は大船、戸塚、港南台、逗子などの専門店まで出向かねばならなくなった。これでは「気軽にプラモデル」などとは増々言えなくなってしまう。まあ、今やプラモデルという趣味はパソコン上で売買し、あとは積んどくだけだから…などの皮肉もつい言ってみたくもなってしまうが、健全(?)なモデラーにとってはまさに死活問題ともなりかねない。
玩具というものの概念も実体も変わりつつある今、昔ながらの街のオモチャ屋さんは消え行く運命にあるのだろうか。ボクはこの歳になっても時たまフラッと玩具店を覗くのが楽しみであるのだが、そうしたささやかな街散歩の憩いのひとつがまた失われてしまうのではないかと残念でならない。そして、それだけでなくからこやの消滅には、古き良き時代の鎌倉の風情がまたひとつ消えてしまうことの寂しさも感じている。(続く)
投稿者 平野克巳 : 2007年02月27日 21:35 | トラックバック
2007年02月20日
昭和プラモデル物語(30)
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映画「世界最速のインディアン(The World's Fastest Indian)」を観た。人生の夢を諦めず夢と共に生きた実在の人物、バート・マンローの物語だが、これまで彼を取り巻く地元の人々はことごとく「良い人」ばかりである。劇中での登場直後は悪意を予感させる隣人や地元の暴走族(便宜上そう呼ぶが当時にそんな呼び名はない)も実は心根の優しい者たちである。続く舞台となるアメリカ上陸からユタ州ボンネビル・ソルトレイクフラッツまでの旅の行程はロードムービーの様相を呈するが、そこでも純粋な魂の持ち主であるバート(これまで性格異常者やサイキッカーばかりを演じてきたアンソニー・ホプキンスが好々爺を好演している)は様々な人々と交流する。これがまた誰ひとり悪い人が登場しない。行きずりの警官でさえ良い人だ(ランボーを初めアメリカの警官は悪意の象徴のように描かれるのが通例である) みな心優しく暖かい人ばかりなのである。それを不思議と「お人好しな演出」とも「映画ならではの絵空事」とも思わせない。時代設定が1962年前後ということもあるのだろうが、確かにこんな時代があったなあ、などと胸を熱く懐かしくさせる。
そういえばリヤカー(和製造語なのでリアカーではない)はオートバイのサイドカーからヒントを得て日本人が発明したものだが、そのルーツとも言える大八車にしても人が背中を向けて引く道具である。これは外国では生まれ得なかったものだという。外国の場合なら後ろではなく前になるそうだ。何故ならば他人を信用しないからだという。つまり背を向けて引いていたら荷物を盗まれてしまうからだそうだ。治安が良いというよりは人を信ずる、つまり悪い人は居ないという「性善説」に基づく国民性だからだろう。「人を見たら泥棒と思え」などと言われるようになったのは一体いつの頃からだろう。確かにボクたちが幼い頃は「人さらいのおじさんに気をつけなさいよ」などとは良く言われた記憶があるが、それは滅多にないことだからこそ戒めとして用いられた言葉ではなかったか。現代のように悪意に充ちた時代ではむしろ当たり前のことなので誰も改まってそんなことは言わない。
現代は製造現場での品質管理が行き届いたせいもあって、プラモデルの中に「不足パーツがあったらお送りします」などといった但し書きなどない。しかし、かつてのプラモデルには大抵そんなメーカーの一文が必ず添えられていたものである。ボクたちが少年だった時分にはメーカーが対応するなどということは考えられず、買った店に持って行くと店のおばさんが「あら、しょうがないわねえ」などとぼやきながら、同じキットがあればそれと、なければ違うキットと交換して貰うのが常だった。しかし、メーカーが直接対応してくれたケースとして、ボクの記憶にある限り最も古いのはコグレだった。それはコグレ1/16フォードGTで、エンジンのエグゾーストパイプとメガフォンマフラーを繋ぐエグゾースト中間部のパーツの不足であった。当時としては大枚を叩いてようやく手に入れたキットである。しかもそんな目立つ部分が組み立てられないのであるから、その事実を発見した時には目の前が真っ暗になった。もはや落胆で泣きそうな気分だったが、めげて諦めてしまえば全ては霧散して終わる。自らを鼓舞し奮い立たせたボクは、一枚の葉書に一縷の望みを托した。このパーツが足りません。だから作れませんと書き、組み立て説明図のイラストを見ながらパーツの絵を丹念に描き添えた。そうしながらもどこかで「子供の言うことなんか大人が真剣にとりあってくれる筈がない」と諦観している自分が居た。しかし、それから暫くしてボク宛に一通の封書が届く。封筒にはコグレのブランドマークがプリントされていた。ボクの胸は高鳴った。中にはボール紙の台紙にテープで貼り付けられたあのパーツが入っていた。しかも「ご迷惑をかけました。良いモデルに仕上げて下さい。これからも宜しく」というような内容の手書きメモまで添えられて。感動していた。たとえ相手が子供でも馬鹿にすることもなく真剣に向き合ってくれたのだ。初めて社会に自分がまともに認められた気がした。子供にとっては人生における大きな出来事であり、大人社会に一歩踏み出せたような誇らしさを感じた。
かくも何の疑念もなく他人を信用できた時代は確かに在った。人間社会が信頼の上に成り立っていた。それは人を思いやる優しさであり人と思いを共有する心の豊かさであった。だが次第に世情は疑心暗鬼となって人間社会はギスギスしたものへと姿を変えて行った。だから人同士が密接に関わり合いたくない社会が生まれて行ったのだろう。世界最速のインディアンに登場する全ての人の逸話が心に染みた。そして、ふとあの時、ボクにメッセージを書いてくれたコグレの人とはどんな人だったろう、と考えてみる。(続く)
投稿者 平野克巳 : 2007年02月20日 17:44 | トラックバック
2007年02月13日
昭和プラモデル物語(29)
残り物には福がある、とは古からの喩えであるが、プラモデルに関して言えばまさにそのとおりである。万物永遠足りえず、命は必ず死に、物は何時か壊れる、これらをして土に還ると古代の人は称した。しかし現代文明の象徴(少なくとも'60年代にはそうであった)であるプラモデルは、時代のスピードと変化を表わすように、昔の人が達観した物の命よりも遥かにライフスパンが短かくなった。目まぐるしく新製品が登場しては古いものがたちまち消えていった。石油製品それ自体は酸化し土に還る事の難しい材質であることを皮肉っているかのようにだ。要するにプラスチック製品という言葉の裏側には「使い捨て」という意味合いが込められている。手軽で便利でインスタントを売り物とするものは、極言してしまえば「その時、用を成せば良い」のである。まさに昭和30年代とはインスタント文化全盛期であり、それこそが人間が織り成す現代文明の進歩と発展の証しでもあった。
昨今、プラモデルは大型専門店もしくは家電量販店で売られるもののようになってしまったが、その昔は駄菓子屋や文房具屋が主であった。駄菓子屋や文房具屋は子供をターゲットとした商いであるから、おいおい小学校や中学校の正門、裏門などの近くで商っていたものである。少子化によって全国公立学校の統廃合が著しい現在とは異なって、団塊の世代が小学生、中学生であった時代には各クラス40数名、各学年10クラスなどはざらであったが、それでも学校が足らず、次々と新しい学校が創設されていた。プラモデルが隆盛を極めたのはまさにそうした時代であったが、学校が多ければその分だけ駄菓子屋や文房具屋も多かった訳で、結果としてプラモデルを扱う店は全国に星の数ほども在ったということだ。
もう30年近くも昔のことだが、ボクが友人たちと古い絶版プラモデルを求めて地方行脚した際の鉄則は、先ずは地元の公立小学校や中学校を探すことであった。それほど学校の近くには判で押したように玩具や文具を扱う店があった。それは全国どこでも同じで、既に埃だらけな開店休業状態のような古い店は必ずといって良いほどに見つかった。古ぼけてガタピシと音をたてるガラスの引き戸をくぐると、既に布地も黄ばんで色褪せてしまった鉢巻きや赤白帽、カチコチに硬化してしまった砂消しゴムなどに混ざり、店の正面に面していた側だけが印刷の抜けてしまったプラモデルの箱が目に入る。見知らぬ通り一遍の客と分かるや何か買ってくれる訳もあるまいと、「ちょっと見せて下さいね」のボクたちの問いに「どうぞ、ごゆっくり」などと奥へ引っ込んでしまったりもする。今にして振り返れば奇蹟のような光景が眼前には在ったことを思い出す。バンダイ1/20サニー1200GXクーペやホンダ1300クーペ9などは未だ幾らでも在った。ジャンル違いなので手を出さなかったがタミヤ1/21M-40ビッグショット(!)やM-4シャーマン、三突ハーケンクロイツなども平気で売れ残っていたような時代だった。回想する度に後悔の念に苛まれるのだが、これらを買わなかった最大の理由は、当時のボクのひと言が雄弁に物語っている。それは「ちっ、定価かよ」である…。ネットオークションなぞ存在せず、自分の欲しいものを交換で入手するような機転も効かなかった当時のボクには、自分の欲しいものだけが全てであったのだ。そして、それは今も変わらない。融通も効かず要領も悪いが、それがボクの生きざまであるのだから仕方ない。
鎌倉の隣りの逗子には既に消滅してしまったが老舗の航研堂という模型店があった。その後、その通り沿いには翼模型という新たなプラモデル店も出来たが、この界隈は逗葉新道が開通するまでは逗子市の外れに位置するうらぶれた街道でしかなかった。既に潰れかかったようなしもた屋が並ぶ活気のない通りだったが、それだけに売れ残ったプラモデルがポツポツと置かれているような店が幾つも在った。ボクはこの通り添いで幾つもエーダイ1/20ジャガーXK-Eを買ったが、そのひとつは既にモデルカーズ「古典キット倶楽部」で作例として作った。他にもオオタキ1/24フェラーリ250テスタロッサ(スロットカー)やニチモM-46パットン戦車、ニコー1/16ロータスF-1(恐らく25F-1か29インディカー)などという珍キットも手に入れた。近場もまた絶版キットの宝庫であったのだ。しかし、そうした駄菓子屋だったり牛乳店だったり裁縫店だったりの昔ながらの「ついでにプラモデル」の形態は完全に絶滅し、そうした店々自体もマンションになってしまったりコンビニになってしまったりした。
思えば絶版プラモ探しはリラクゼーションでありスポーツであった。名を上げ財を成そうなどという気など更々なく、オークションでの一獲千金を狙うつもりも露ほどもなく、ただ自分の為に好きなプラモデルが欲しいというその一点に尽きた。だから少しでも安く買いたかった。上手く交渉出来て幾許か安く売って貰った時の達成感は、まさしくスポーツの後の満足感にも等しい喜びであったのだ。高揚感だけではなく安堵感も同時にあった。これで店頭から姿を消して買えなくなってしまったとしても困らない、そんな心理こそがボクたちの物欲を支配していたように思う。もっとドライで機転を効かせた人生だったら、今のボクはプラモ長者になって立派な御殿にでも住んでいたかもしれない。でも、それはボクのスタイルではないし、プラモデルをそうした手段や道具に使いたくはない。生涯をプラモデルに殉じて生きる、それがボクの生きる道なのである。一度決めたその道をこれからもボクは行く。不器用な男である。(続く)
投稿者 平野克巳 : 2007年02月13日 20:48 | トラックバック
2007年02月06日
昭和プラモデル物語(28)
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神奈川県の突端に位置する三浦市はマグロの水揚げで有名な三崎港があることで知られている。道が混んでいなければこいち時間ほどの距離なので、時たま気分転換に三崎港までプチドライブすることがボクの楽しみのひとつでもあるのだが、やはり此処も他の例に漏れず僅かながらではあるが街並の景観は変化しつつある。その鄙びた漁港の風情が良いなどとは思うけれど、街々の衰退は近年富みに著しく、また安楽亭だのデニーズだのが街道筋に目立つようになって、此処もまたステレオタイプな味気ない風情となりつつあるようだ。ましてや昨今のマグロを取り巻く環境はより一層厳しさを増しているので、この街が更に寂びれ廃れて行くのも時間の問題なのかもしれない。
もう20数年も昔のことだ。ボクは友人らと定期的に三崎港を何度も訪れたことがある。その頃の目的は旧い街並を愛でることでも旨いマグロ丼を食べることでもなく、古い絶版プラモデルをさがす為であった。三崎港の周辺には玩具店が多かった。この狭いエリアにも関わらず玩具店の密集度は驚くほどであったのだ。そしてまた婦人服を扱う洋装店の数もまた多かった。それは遠洋漁業基地なればこその地域的特徴であったのだろう。数カ月にも亘るマグロ漁から帰ってオカに上がった漁船員たちは、この街で家で待つ妻子の為にお土産を買うのである。なにしろ懐はずっしりと重い。洒落た女性服や子供服、そして普段は買ってやれないような豪勢な玩具をしこたま抱えて久し振りの家路を辿るのである。勿論、今ではとうにそんな習慣も陰を潜めてしまったろう。だから20数年前には在った玩具店も殆どが姿を消してしまった。
未だ何件もの玩具店が在った頃、ボクはこの街でバンダイ1/20ポルシェ911ターボやら1/20ポルシェ914、1/20ロータス47GT、アオシマ1/25キャデラック、オオタキ1/24ランボルギーニチータ、しまいにはアイハラ1/4武将の名刀までをも買った。如何にも売れ残りそうなものばかりである。だが、とある店で壁際の棚の一番高い所にオオタキ1/12ホンダS800クーペを発見した時には、心拍数も血圧も一気に跳ね上がったのではなかったか。元々オープンに較べて出回った数の少ないキットだったらしく、当時も既にかなりプレミア付きの激レアキットであった。叩き売りで150円で積まれていたバンダイ1/12赤カブは勿論のこと、三崎港周辺で手に入れたキットの殆どは既に作ってしまったり手放してしまったが、このオオタキのホンダS800クーペだけは大事に温存して現在もボクの手元にある。その後、ネットオークションなるものが世に生まれ、オオタキ1/12ホンダS800クーペは10数万円ものプレミア価格で流通したりもしたが、その後、童友社がキットから金型を作り直し改めて販売してくれたお陰でそれも沈静化した。
今ではボクもマグロ丼(過去のブログで紹介済)を食べる為に行くくらいのものであるが、つい最近になって懐かしさに誘われ当時の友人と連れ立ってかつての玩具店巡りをしてみた。既に記したような状況なので「此処も玩具屋だったよね」を連発する遺跡巡りの様相を呈してしまったが、ホンダS800クーペを見つけた店は健在であった。しかし昔の面影は既になく、陽焼けしてしまった工作教材や電池ボックス、豆球、そして最近のタミヤやハセガワのキットが幾つか並ぶのみで、店内で最も古いと思われるのは精々ヨーデルのオートバイ用ディスプレイケースくらいのものであった。バンダイの赤カブを叩き売りしていた店も当時の姿を留めていたが、此処の主人は諦めがよく気も短いらしく、この時はカワイ1/20のオートバイ(ハーレーだのBMWだのヤマハXVだののアレである)をセット売りで叩き売りしていた。プラモデルが玩具の王様であった時代は終わったのかもしれぬが、「オモチャ」それ自体も斜陽になりつつあることをこの街並の変貌が顕著に表わしている。かつて我々の概念の中に在った玩具とはとても素朴なものであったが、現代における玩具とはコンピュータとそれに不随するソフトをこそ指すのだろう。ピンクや水色や様々な色合いが氾濫していた玩具店店内の賑やかさ華やかさは、遠い郷愁の中にしか無くなってしまいそうである。時代が変化すれば玩具も変わる。そしてそれによって街や人も変わってゆく。石炭から石油へのエネルギー転換による炭坑の閉山で街そのものが死滅してしまった北海道夕張とは事情が違うものの、やはり神奈川県三浦漁港も時代の変貌と推移の中で次第に取り残されて更に活気を失って行くのであろう。ただ石炭もマグロも天然資源である点においては同じで、行け行けどんどんで人も街も潤った時代は既に過去のものとなりつつある。ホンダS800クーペのキットを見る度に、ボクは遠い昭和という活況を呈した日々の潮の香りを嗅ぎ取るのだ。(続く)
投稿者 平野克巳 : 2007年02月06日 19:50 | トラックバック
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