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初代編集長 平野克巳の「猫の耳に大仏」湘南鎌倉便り


モデルカーズの生みの親、平野克巳氏による目からウロコの模型小噺。さぁどんな話が飛び出しますか。乞うご期待。

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2007年04月

2007年04月24日

昭和プラモデル物語(39)




 昭和20年に日本の敗戦によって終わった大平洋戦争は、我が国を大日本帝国から日本国へと変えた。それは平和と不戦の誓いを立てた民主国家体制の獲得であったが、同時にまた多くのものも失った。取り分け兵器に繋がる工業技術はGHQの占領政策によって禁止されたこともあって、再建不可能と思えるほどの壊滅的ダメージを受けたのだった。戦前までの技術力は葬り去られ、焼け野原から日常を取り戻そうと躍起になっている僅かな間に、世界はどんどんと進歩と発展を成し遂げて行った。いわば日本は世界から取り残された「浦島太郎」となったのだった。だが平和産業における日本の技術力再興は目覚ましく、敗戦から僅か10年後の1955年/昭和30年には純国産乗用車「トヨペット・クラウン」を世に送り、それから10年後の1964年/昭和39年には世界最速にして世界一安全な列車「新幹線」を実現させる。戦前の軍需一辺倒であった科学技術力は、姿を変えて経済大国日本の基幹産業における最大の武器にまで成長してゆくのだ。
 目を見張るばかりの戦後復興を遂げた我が国であったが、軍需産業だけは例外であった。平和憲法のもと戦争の放棄を掲げ、また事実上アメリカの属国のような地位に甘んじた事情にも起因したが、何よりもアメリカとの安全保障条約の発効が軍需産業再興には最大の障壁となった。軍事力を米軍に依存した我が国の国防の概念に、国産技術が求められることはなかったからだ。しかし世界情勢の変化によって我が国も警察予備隊、保安隊、そして遂には自衛隊発足と、事実上の自衛力増強が図られるようになると、兵器開発の為の技術力は急務となっていく。それは併せて独立国家のプライドをくすぐる「純国産」という言葉が復権する時代の始まりともなった。
 兵器に繋がるものとして最も厳しく規制されていた航空機(余程アメリカはゼロ戦に酷い目にあったと痛感していたのだろう)も、念願であった純国産機YS-11が1962年/昭和37年に初飛行し、我が国の技術力もようやく戦前戦中のレベルと自信を取り戻し始めた。そして軍需産業の解体で死に体となっていた旧重工業メーカーもようやく息を吹き返し始めると、純国産を旗頭とした軍事技術は揚々として世に出ることとなる。戦後初の純国産主力戦車61式中戦車、戦後初の純国産ジェット戦闘機(実際には練習機)フジT-1など、純国産を誇らしげに謳った軍事技術が際立って目立つ時代となっていったのだった。
 そうした国産技術の発露はプラモデルの世界にも影響を与えていった。戦後世代の少年たちにとっても純国産の言葉の響きは微妙なナショナリズムへの傾倒を生んだ。なんでもかんでもアメリカに従属して過ごして来た、そんな思いは子供ながらにあって、「国産」のふた文字に心震わせるような歓喜と充足を覚えたのである。現代の子供にはそんな感覚はあるまい。まあ実際には純国産であることのプライドと引き換えに、アメリカの最先端技術からは見劣りがする、だとか、コストばかりかかって実用性に乏しい、などの問題点も露呈したが、それでもなお日本の少年たちは純国産であることに自尊心をくすぐられたのだった。一光/イッコー1/3の64式自動小銃もそうしたキットのひとつであった。このシリーズは世界の軍用銃シリーズと称し、M1ガーランドやアーマライトAR-15(のちにM16として有名になる)などをモデル化したもので、世界の名銃の中に加えられたのも「純国産」がキーワードとなったのだろう。その名のとおり1964年/昭和39年に正式採用されたもので、豊和工業による純国産の口径7.62mm歩兵用小銃である。日本人の体格に合わせた設計のわりには構造が複雑で重いなどの欠点も指摘されるが、後継の89式小銃制式後の現在も運用が続けられている自衛隊を代表する装備のひとつである。キットは本体部分の黒と木製部分の濃茶2色モールドで、取り外し式の弾倉の中には金メッキされた弾丸が装弾できるようになっている。付属する弾丸は15発(実銃の装弾数は20発) 遊底がスライドするが、弾丸発射機能も含め他に可動部分は何もなく、バイポッド/二脚さえ接着固定(折り畳んだ状態で固定することは可能)になっている。しかし、それだけに外観は中々にリアルで完成後もガッシリとした仕上がりだ。
 西部劇ブームに始まりモデルガンブームで頂点を迎えた「ガンブーム」のただなかではあったが、プラモデルによる縮小ガンモデルの人気はさほど盛り上がることもなかったように記憶する。それでも純国産の呪文はこのキットに格別な色合いを持たせた。そして今となっては唯一のプラモデル化として稀有な存在でもある。世界の垣根が未だ堅固であった時代、日本人が日本人たるには国産のものへの信頼と誇りが必要であった。それが良き時代であったのか悪しき時代であったのかは、軽々に判断を下すことではないのだろう。(続く)

投稿者 平野克巳 : 2007年04月24日 21:25 | トラックバック

2007年04月17日

昭和プラモデル物語(38)




 国産プラモデルの始祖マルサンについては多くの人が個々それぞれに様々な思い出を持っていることだろう。ただ駄菓子屋でプラモデルと出逢った世代は、思いの他にマルサンとの接点は希薄で馴染みが薄いのが実情であるかもしれない。と言うのもマルサンは30~100円といった低価格帯のプラモデルを余り世に送らなかったからだ。追々、マルサン初期のプラモデルに馴染みのある向きとは、当時既に中学生以上の年齢であったか、もしくは裕福な家庭の子息であったかのどちらかに当てはまる場合が多い。「最初に作ったのはマルサンの1/50飛燕だなあ」などと聞けば、「ああ、この人はボクより幾つか年齢が上か、それとも育ちの良い人なのだなあ」などと見当をつける訳だ。なにしろ'60年代初頭、駄菓子屋に出入りしていたような世代の子供たちには、200円、250円などの価格帯のプラモデルは高嶺の花で、とても手の出るような代物ではなかったからである。
 そんな時代にマルサンは1/50スケールの飛行機シリーズを大々的に展開していた。当時、模型と言えばイコール飛行機のような時代であったので、その選択は当然であったが、子供たちには憧れのプラモデルでもあった。マルサンの1/50飛行機シリーズは米リンドバーグやモノグラムなどのデッドコピーも多く、それを称して海賊版などとも呼ばれてマルサンの評価を少なからず落としたことは事実だが、同時にまたオリジナルキットの名作も世に残している。このオリジナルキット誕生に深く関わったのが橋本喜久男であった。橋本はマルサンに乞われて企画から開発、設計、製図、そしてパッケージのボックスアートに至るまで一手に引き受けた、国産プラモデル界草創期における傑出したブレインであった。橋本がマルサンの為に設計した数々のキットの中でも、零式三座水偵、百式司偵、F-86Dセイバーは1/50スケールにおける傑作三部作と言われるが、取り分けノースアメリカンF-86Dセイバー(セイバードッグ)はマルサン1/50における、橋本喜久男設計における国産プラモデルの金字塔として記憶される。当時、プラモデル後進国であった我が国が、リンドバーグやレベル、モノグラムに「追い着き追い越せ」を目標に、持てる力と知恵の全てを、いやそれ以上を注ぎ込んだ「渾身の一作」であったのだ。機体のプロポーションとディテールの正確さは無論のこと、胴体後部を取り外しJ47ジェットエンジンが脱着可能、ノーズコーンを取り外し機首レーダーが見られる、キャノピー開閉式、スラット、エルロン、フラップ、ラダーなど全ての補助翼が可動、前後脚収納可能、胴体下ロケット弾ランチャー可動など、本家のギミックモデルを凌駕するオール可動が実現されていた。そして更には胴体後部のドリー、運搬トラクタ、ロケット弾、パイロット乗降用ラダー、地上クルーなど、アクセサリーも豊富に備わって、まさに外国製品に対抗しうる「国産プラモデルのプライドの結晶」となっていた。
 ただ航空自衛隊における実戦配備期間が短く、その後の名機F-86Fセイバーの不動の人気に「株を奪われた」格好で、脚光を浴びたのは短期間に過ぎなかった。マルサン消滅後はフジ、アーカンシェル(韓国)で細々と生き延びはしたものの、現在では完全に絶版となってしまったようだ。実機、キット共に不遇な役回りを強いられた非運な存在であったが、それゆえに永い間、唯一の本格的キットとしてマニア間で珍重され続けたことも時代の皮肉であった。
 このマルサン1/50F-86セイバーを想起するとき、昨今のトランペッターなどの中国事情が連想される。時代は巡るとは良く言ったもので、現在の中国のプラモデル事情はまさに'60年代のあの頃の我が国にとても良く似ている。恐らくは「打倒日本製プラモデル」を旗印に精魂傾けてプラモデル創りをしているに違いない。
 三丁目の夕日のような時代背景の中、打倒アメリカ製プラモデルに燃えたマルサンと橋本の情熱は熱く強固なものであったろうと想像される。1/50F-86Dセイバーを見れば、それが嫌でも伝わってくる。だが、少年たちには余りにも贅沢で豪華なキットに過ぎたので、多くのプラモデル少年たちには単なる遠い憧れの存在でしかなかったやもしれぬ。マルサンのブランドネームが伝説と化した今、改めてハチロクデー・セイバーを組んでみたいと望む向きも少なくないだろう。オール可動や豊富なアクセサリーが再評価されている昨今では、ことさらこのキットと向き合ってみたい願望も強かろう。しかし、既にキットは市場にはない。無ければ欲しいの無い物ねだりは私たち人間の煩悩のようなものである。ただ、そう熱望させるだけの魅力を持っているキットはそうそうあるものでもなかろう。けだし傑作、なのである。(続く)

投稿者 平野克巳 : 2007年04月17日 20:14 | トラックバック

2007年04月10日

昭和プラモデル物語(37)




 大きなことは富の象徴であり贅の極みと考えられていた時代、やはりプラモデルにおいても大きなキットはスペシャルでデラックスな存在であった。100円のキットをようやくの思いで手に入れていたような時代であったから、巨大で高価で贅沢なキットには溜め息が出るほどに憧れた。そうしたキットの筆頭にあったのが日本ホビー1/250戦艦大和だったろう。なにしろ「世界最大の戦艦模型」のうたい文句には抗しきれない魅力があった。プラモデルでありながら全長は1mを越す巨大さである。手の平に乗るような大和しか知らぬ身にとって、それは想像を絶する未知の領域であった。少年雑誌の広告や紹介欄でその存在を知って以降、ともかくその大和が欲しくて仕方が無かった。勿論、簡単に手に入れられるような代物ではなかった。近在の駄菓子屋や模型屋では見ることが出来ず、街の大型模型店でないと置いていなかった。しかも決して手の届くようなところには陳列されていなかったから、どうしようもなく遠い特別な存在でもあった。箱もその頃の一般のプラモデルとは意匠を異にしており、まるでマニア向けの無線操縦用の飛行機や艦艇のようなパッケージであった。キットに対する夢と期待は嫌がうえにも脹らんでいった。
 国産プラモデルの草創期、日本ホビーは子供向けというよりは大人向けの、マニアックなイメージの強いメーカーであった。同社のマンモス戦車などは防衛庁協力による実車取材を売り物にしていたし、九七式中戦車も「当時の三菱重工業主任設計技師の協力を得て」などと、取り分け考証の確かさが強調されていた。こうした文言は当時の純真な子供たちにとっては極めて説得力が高く、そのまま鵜呑みにしては「日本ホビーを殊更神格化」していった。この1/250戦艦大和が登場した際のメーカーの言を借りれば、

本当に正確な大和の模型が欲しい。川や湖で安心して無線操縦出来るプラの大和はないかとの御要望に応えて当時の造船技術将校各位の御指導のもとに、世界最大の戦艦模型が出現しました!!

と謳われ、更には、

理想としては、1/100でなければ模型としての精度は、出せない…。しかしそれでは、大和の全長は、263メートルだから、なんと2.63メートルの模型になってしまう。理想としても、現実にはどうにもならない。そこでしかたなく1/250にとどめましたが、それでも全長1.05メートルの大型になりました。全型に使用された鉄の重量4.5トン。プラ模型としては、外国にも例をみない世界最大のものと確信します。

と自信満々なアピールが続いた。しかも「ダンゼン組立て易い! 小学生にも充分組立てられます」の但し書きも添えられていたから、このセールストークにプラモデル少年の誰もが夢中になった。
 ラジコン搭載可能なのが最大の見せ場であるのは当然のこととして、他には測距搭(測距儀)が回転し、サーチライトが点灯するのも特徴となっていた。動力用にはマブチ55モーター2個、測距搭旋回用にはマブチ35モーター、電池は単1を4本使用する。当時の価格は2,900円。銀メッキ版もあってこちらは3,700円であった。実際にキットの蓋を開けてみると、一体成型の船体の大きさに度胆を抜かれるが、艤装パーツ自体は意外とシンプルで確かに組み立てはさほどには難しくなかった。だがパーツ精度は決して良くはない。小さなパーツは折れにくいポリプロピレン製であるが、その為に塗装が出来ず困ったことを昨日のことのように記憶している。後年、童友社で再販された際にはポリプロピレン製パーツが全てスチロール成型に変更されたので、むしろ作る際には再販キットが適している。尤もモールドが変更になっているので、日本ホビーのオリジナルにこだわる向きには残念な部分かもしれない。主砲と副砲の砲身基部を被う防水カバーは、当時、艦艇のプラモデルを作る際には「やってみたいこと」の際たるものであったが、パテなどの知識が無かった当時のこととて、半永久的に乾燥硬化することのないプラスチック粘土で仕上げたものである。弛みや皺も再現出来てボク自身は大満足であったのだが、いつまでもペトペトした感触のままなのには閉口した。その後、最大の戦艦プラモの地位は日模1/200の大和に奪われたが、当時を知る向きにとっては日本ホビー1/250の大和により強い愛着を現在でも感じてしまうのではないだろうか。(続く)

投稿者 平野克巳 : 2007年04月10日 14:37 | トラックバック

2007年04月04日

昭和プラモデル物語(36)




 国産プラモデルの曙は潜水艦によって始まった。それが1958年/昭和33年に発売されたマルサン商店の1/300アメリカ海軍原子力潜水艦SSN-571ノーチラスであることは余りにも有名である。そして、それに続いて発売された日本模型の伊号潜水艦はゴム動力で推進し、船体に空気を送り込むことで潜水や浮上を行なう機構が人気を呼んだ。マルサンのノーチラスが米レベル社製品のコピーである為、アクションやギミックを持たないディスプレイモデルであったのに対して、日模の伊号潜は遊べることで子供たちからは絶大な支持を得た。更にこれ以降も国産プラモデルの草創期には潜水艦が氾濫した。山田模型のミサイル潜水艦、同UボートX-102、一光のスーパーサブマリン・マックス、同ミサイル潜水艦スコーピオン、日本ホビーの原潜ノーチラス、小暮模型のジョージワシントン、緑商会のイ号、ロ号潜水艦、東宝模型の原子力ミサイル潜水艦ハリバットなどなど、いちいち挙げていたらきりがないほどである。
 何故にそれほどにまで潜水艦だったのか。かつて金型設計をされていた技術者の方に伺ったところによれば「最も金型を作るのが容易かった」からだそうだ。確かにどこのメーカーもいきなり難度の高い製品は作れなかったのだろう。だが、それだけではあるまい。国産プラモデルは当初より動力モデルが主体であった。それはプラモデルが欧米の模型文化とは異なり、日本独自の玩具文化から発祥した為と考えると合点がいく。自動車よりはアクションが面白く戦車ほどはコストがかからない。動くプラモデルとしては潜水艦が最も手頃でありながらうま味があったということかもしれない。
 それでは潜水艦の動力模型を一体どこで動かすのか。潜水艦であるからには水辺でなくてはならない。現代ではかなり困難なことのように思えるが、その昔、我々の暮らしの中に水辺はかなり沢山あった。ちょっと裏山を超えて行けば川が流れ、水田や畑の近辺なら小川、農業用水路、一寸汚いがどぶ川、あるいは池、沼、防火用水池など、余程の都心でない限り、関東近郊でもそんな水辺は生活圏の中に幾らでもあったのだ。そうした自然の恵まれていなかった子供たちは銭湯や市営プール(昔の子供は公営プールしか行けなかった)でこっそり試したりもしたようだが、大抵は近所の恐いおじさんや生真面目な監視員に見つかって怒られては断念したのだった。因みに学校のプールは論外であった。今の子供のように夜遅くに出歩くことは出来なかったし、仮に無謀なチャレンジャーと化したとしても、竹刀片手にジャージ姿の保健体育の先生か生活指導の先生にこっぴどく叱られるくらいが関の山であった。
 川は例え小川であったとしても模型の船には流れがきつくて不向きであった。農業用水路のようなところでも流れに飲まれたり揉まれたりした挙げ句、土手や水草に突っ込む水難事故と化した。極力、波立つうねりや水流の無いところ、そうなれば沼や池が最も環境的には相応しかった。ただ沼は時に河童が出没したし(嘘である)、池は魑魅魍魎が「置いてけ~」などと脅かしたり(これも嘘である)するので、親には知られぬように遊びに行かねばならなかったが。そして勇んで進水式となり、浮かんだ瞬間には歓声が上がる。その歓声が悲鳴と嗚咽に変わるのもまた直ぐであった。沈没である。時には轟沈の悲劇もあった。だが最も悲しいのは見事に航行したものの、手の届かない辺りまで進んだところで機関停止して漂流、岸から必死で竹竿や枯れ枝などで手繰ろうとはするものの思うに任せず、遂には眼前で水没してゆくさまを呆然と見る、という光景であった。何しろ当時の「水モノ」プラモは完璧な設計ではなかった。防水性、気密性は考えられてはいても貧弱なものでしかなく、ましてや「いーからかん」にしか組み立てられない小僧たちが作った代物であるから、水難事故は全国で多発した。あの時代、一体どれだけの潜水艦や艦艇のプラモデルが日本中の川や池に沈んだことだろう。恐らくその数たるや天文学的数値を示すだろう。
 この時代の潜水艦プラモの中でも山田模型のUボートX-102(Uボートとは名付けられてしても架空の潜水艦である)は、500m以上にも渡って自動浮沈を繰り返しながら航行するという本格派であった…らしい。と言うのも、ボクは誕生会に友人からプレゼントされたのだが、モーターと電池を買う財政的余裕が無かったので、ハリボテとしてしか作った経験がない。ただ作るだけだと潜水艦ほどつまらぬプラモデルもまたない。あっさりと完成してしまうし組み立て行程の醍醐味もない。このX-102は単純だが水圧を利用した原理のユニークな自動浮沈装置を備えていて、今でも興味津々なキットである。少年時代には叶わなかった実際に航行するさまを是非見てみたいものである。今ならモーターも電池も奢って作ってやれる。ただ問題なのは、どこで動かすか、である。子供の頃あった水辺など全ては宅地化で消えてしまった今となっては…。(続く)

投稿者 平野克巳 : 2007年04月04日 21:38 | トラックバック

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