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2007年05月29日
昭和プラモデル物語(44)
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トヨタ2000GTといえば誰もが憧れた国産車における名車中の名車だ。そのように頭の中で理屈としては理解している。だが今ではその思いに「抑えきれないほど熱く胸焦がして」いる向きもさほど多くはあるまい。あれほどの思いは一体どこに行ってしまったのだろう。自動車それ自体がステイタスでなくなってしまったせいもあろうが、格別のクルマに憧れるという感情そのものが何だか希薄になってしまわれたように思えてならぬ。確かに今でも美しいクルマだとは思う。日本のエキゾティックスポーツカーの元祖であり先駆けであるとは思う。あのツインカムヘッドで飾られたストレート6には見愡れてしまう。ウォールナットを多用した贅沢なコクピットには感嘆してしまう。だが、ならば乗ってみたいか、欲しいかと問われれば、そうでもない…。そうでもなくなってしまった自分が居て、そんな醒めてしまった自分がまた哀しくもあり寂しくもある。あの頃はどうしてあれほどにまで無条件にクルマに熱中していられたのだろう。まるで熱病に冒されたように…。
トヨタ2000GTが誕生した1967年、ボクは中学2年生だった。あの時代であったからボクの日常に自動車という存在はさほど身近なものではなかった。クラスの中では西田君のお母さんがようやく中古のダットサン1000から、これまた中古のブルーバード(ピニンファリーナの410型だったような気がする)に乗り換え、またチエミちゃんの家にはスカイライン(初代セダンの4灯ヘッドランプだったような…)が停まっていた。自家用車が一家に1台なんていうのは未だ夢のまた夢だったような時代だ。当然、ボクの家には自家用車なぞなく、父も運転免許証など持ってはいなかった。そんな時代であったからトヨタ2000GTは、今でいうならランボルギーニやマセラティみたいな物凄い存在であった訳だ。実物など見たことはなかった。ただボーイズライフなどの少年誌の写真で知っているに過ぎなかった。だからボクにとってのトヨタ2000GTはプラモデルの世界にしか存在していなかった。当時、ボクのバイブルのひとつであった工作ガイドブック(科学教材社刊)には、今井科学と大滝のトヨタ2000GTが載っていた。どちらも前期型でスケールは1/16、当時としては大きなデラックスモデルである。その両社キットの完成モデル写真を穴の開くほど眺めては溜め息をつく、一体そんなことをどれだけ繰り返したことだろう。大滝のキットはオール開閉可動、エンジンも内蔵された「超豪華版」であった。対して今井科学のキットはボンネットと左右ドアは開閉するものの、エンジンはない簡略化された内容だった。当然、当時の感覚からすれば大滝のキットに軍配が挙がる。何しろバッテリーボックスのカバーに至るまで開閉するのだ。超精密再現のスーパーキットここに極まれり、である。だがしかし…完成モデルの写真を見較べると明らかに今井のキットのほうがそれっぽい。いや、実車を見たことのない身である。直観というか、プラモデル大好き、自動車大好きのボクの琴線に触れる感じがしたのだろう。今ならバランスがどうだの、ここのラインがそれらしいだのと具体的な講釈を垂れられるのだろうが、当時のこととて「とにかく今井のほうがかっこいい」としか表現が出来なかった。買うなら今井だ。それに今井のほうが値段だってずっと安い(内容が違うのだから当たり前である) 勿論そう決断したとて、だからといっておいそれと買えるような訳もなく…いたずらに時間は過ぎた。そのうち、生半可に知識もつき、大滝のはホワイトウォールタイヤだしワイヤホイールだし…それに較べて今井はちゃんと標準のマグネシウムだよ。だけどボンネット開けても電池ボックスとタイヤが見えちゃうのってショボいよなあ…あれ? 今井のボディってルーフ丸く脹らみ過ぎてね??(当時の言葉遣いはこんなではない…) これはカッコ悪いよ~…遂にボディ形状の欠点に言及するに及んで、ボクは今井科学のキットも買う気が薄れてしまった。何しろ大枚を投入するのである。一応、断念しつつも常に気になるモデルであり続け…そのうち今井科学のキットが店頭から無くなってしまい、それでも1/16トヨタ2000GTはバンダイから再び発売され…それでも「ルーフのおでこ部分を修正しないと組み立てる気のしないキット」になってしまい…そんなこんなしているうちに時代は1/20が主流となって、ボクも1/16なぞ作る気がしなくなってしまい…やがて実車に接する機会が増えると模型への興味は一層薄れ…しかしモデルカーズ創刊で再びトヨタ2000GTへと回帰し…だが対象はニチモとオオタキの1/24となっていた。そして、それからまた幾とせ、改めて1/16トヨタ2000GTが気になってならぬ。思い出す度、M博士が奉納してくれた今井科学の海外版であるAHM/Associated Hobby Manufacturersのキットを取り出しては眺めている。今井のキットは赤ボディだよなあ…いやスピードトライアル車もいいよなあ…。40年を経ても未だ惑い続けている。どうやらボクの中ではクルマへの思いは未だブスブスと燻り続けているらしい。(続く)
投稿者 平野克巳 : 2007年05月29日 18:34 | トラックバック
2007年05月22日
昭和プラモデル物語(43)
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'67年暮れに発売されたタミヤ1/12ホンダF-1(RA273)が国産プラモデル史上に残る傑作であることは既に有名だ。この年には1/35ハンティングタイガー、キングタイガーも発売され、タミヤの他を圧倒する技術力が発揮された年でもあった。これをして1967年/昭和42年を“国産プラモデルのベル・エポック”と称する由来である。そして翌'68年、タミヤはホンダF-1に続いて1/12ロータス49を発売する。未だ前年のホンダF-1ショック覚めやらぬ当時のモデラーたちが、このキットにどれだけ大きな期待を抱いたかは想像にかたくない。そしてその期待は裏切られることなく、再び多くの自動車ファンを狂喜させた。合理性の権化のようなコーリン・チャプマンの設計手法は、そっくりそのままこの1/12スケールモデルに投影されていた。モノコック構造の葉巻型ボディシェル、そして名機DFVエンジンそれ自体を車体構造材として用い、それに取り付くリアサスペンション。まさに革新的設計のロータス49がそのままモデライズされていたのだ。しかも少ないパーツで作り易い構成は、パーツが細分化されて複雑なホンダRA273とは好対照を見せた。それはまさしく実車の特徴をそのまま再現したともいえた。それは模型が単に外観を模したに過ぎないものから、実物のコンセプトまで追求した「実写主義」に大きく様変わりした瞬間であった。ただ当時のプラモデル開発は目まぐるしく進化を続ける実車の世界にはとても追い着けず、常に年次落ちモデルであったことがモータースポーツファンにとっては大きな不満でもあった。
'68年シーズン、ティームロータスは既にボディカラーをナショナルカラーのブリティッシュレーシンググリーンから、ゴールドリーフカラーのスポンサードカラーへと変更しており、またマシーンそれ自体もマイナーチェンジが施されていた。最も大きな変更点はコクピットを取り囲むウインドウスクリーンが大型化されたことと、流行の兆しを見せ始めていたウイングを装備したことであった。当時、F-1の最強ティームであったロータスである。プラモデルファンがこれを見逃さぬ筈はなかった。そしてそれに応えるようにタミヤの情報誌「タミヤニュースVol.12号」('68年11月)の「これだけは作ろう」でロータス49Bへの改造が紹介された。当時、これだけは作ろうの頁はモデラーにとってバイブル的存在であったが、如何せん1/12の大型モデルであり、何よりも透明パースペックス製ウインドウスクリーンの自作は、当時の一般的モデラーの技量では手におえぬ改造であった。車体を赤/白/金に塗り替えてウイングを立てただけではもはや納得出来るモデラーも少なかった。これだけを作ろうを何度も繰り替えし読みながら、どうしても消化不良のような思いは消えることがなかったのだ。
しかし更に遅れて'69年、ロータス49はロータス49Bへと改修されてキット化された。ウインドウが改められて、最も困難な改造も必要なくなった。前後ウイングもパーツで付属され、ついでにグレアム・ヒルの乗車姿勢フィギュアまで奢られたのだ。これにはロータスマニアならずとも狂喜乱舞の態であった。このタミヤの企業努力にはいくら「天晴れ」と叫んでも叫び足りることがなかった。プラモデルは、取り分けレーシングカーは「旬」が大切である。当時は特にそうであった。確かにロータス49は老兵となった3シーズン目の'69年も第一線に留まり続けた名機であったことにも助けられたが、ひとつのキットをこれだけ熟成を続けたのはそれまでの国産プラモデルとしては稀なケースであり、タミヤの企業理念がどれだけ「本物指向」であるのかが伺い知れる事象であった。こうした地道な努力がユーザーをしてタミヤを信奉させる原動力となったのだろう。そしてまた、そうした開発努力があったからこそ、タミヤ1/12ロータス49並びにロータス49Bは永遠不変の名作キットとして、現在でもその存在意義を失っていないのだろう。
枝葉末節で恐縮だが49BからはギアボックスがZFからヒューランドに変更されており、キットでもちゃんとその辺りも手直しがされている。そうしたキットへのアフターケアがマニア心をくすぐるのもまた事実である。かつてモデルカーズ6(NO.114/1988年8月号)でもロータス49、'67年モデルのR2号機、そして'68年モデルのR4号機を冒頭特集している。年月を経ても如何にタミヤ1/12ビッグスケールシリーズが色褪せないかの証明であろう。出来ることなら今度はロータス49Bをそのような形で改めて作り、誌面で紹介する機会を持ちたいものだと思う。ジム・クラーク、グレアム・ヒルの名前を知る向きも少なくなってしまったかもしれぬが、DFVエンジン全盛期のF-1はF-1史上の黄金時代でもあった。まだエフワンが自動車であった時代への記憶は忘れ去られてはならない。このキットを見る度に良き時代のF-1が甦るのだ。(続く)
投稿者 平野克巳 : 2007年05月22日 12:35 | トラックバック
2007年05月16日
昭和プラモデル物語(42)
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プラモデルの検証とは本当に「考古学のようなもの」だと思う。偶然発掘された化石のかけらをつなぎ合わせては往時の姿を可能な限りに再現してみる。それが叶わなければ地道な裏付けを元に想像したりもしなければならない。そして時には発見され尽したと思っていたにも関わらず、すわ新種かと愕然とさせるような骨片が新たに土中から発見されて驚いたりもする。要するに、プラモデルとはそれほどにまで学術研究の成されていない分野なのである。'60年代に始まる国産プラモデルの歴史研究もその全貌は未だ手付かずのまま残されているようなもので、今にしても「80へえ(古いね、どーも)」と感嘆してしまうような事象も決して珍しくはない。
今でこそ国内のプラモデルメーカーもタミヤ、ハセガワを筆頭にして、おおよその勢力分布図が出来上がっているが、草創期の'60年代から'70年代にかけてはそれはそれは戦国時代の様相を呈した多社乱立の時代であった。戦後の自動車やオートバイのメーカーを見ても同様であるが、そうした乱立期を経て淘汰されては弱小が消滅し強者だけが生き残る、そんな摂理によって社会は動いて来た。プラモデルメーカーとてそれは同じである。数限りなくメーカーが誕生しては消滅することを繰り返して来た。それだけにその全貌の把握は極めて難しい。そうした時代背景、事実関係を記録した文献が皆無なだけに、物事の全てが経験則によって語られるしか術がないからだ。それは「たまたま出会わなければ無いこと」に等しいという結論を導いてしまう。まさに国産プラモデルの全貌は未来永劫、霧の彼方であるのかもしれない。
ボクが岡本模型というメーカーの名を知ったのはたまたまである。小学生の頃、叔父一家がお土産に買って来てくれた「関西汽船むらさき丸」によって、そうしたメーカーの在ることを知った。そのお土産を貰わなければ、叔父がむらさき丸を選ばなければ、ボクはずっと岡本模型などは知らずに生きて来たことだろう。近年になってネットオークションにより岡本模型のキットが幾つもあることを知ったのだが、このブログでも過去に書いた「サッカー」もそんな岡本模型のキットであった。勿論、その現物を間近にするまでボクはそんなキットの存在さえ知らなかった。そして更に岡本模型による「新種の恐竜」発掘にボクの目はまたもやテンになった。つい最近のことである。キット名は「剣と鹿」 英訳してもSword & Deer…まんまである。ルームアクセサリーシリーズNO.1…ならばNO.2以降もあったのか?!…残念ながらパッケージサイドにシリーズが紹介されているようなこともないので、その詳細は全く不明だ。若い年齢層では剣と鹿と言われてもピンとは来ないかもしれない。要するに剥製の飾り物である。中世から近代に至る時代の貴族の遊びであった狩猟の獲物で剥製を作って部屋に飾るのは、上流階級の者にとってのひとつのステータスであった。その名残りから比較的最近の時代まで金満家(ボクにとっては概して成り上がり者のイメージがある)の応接間などには「これ見よがし」に動物の剥製が飾られていたように思う。その昔の貴族ではアフリカ狩猟旅行の記念として、虎の全身像やら象の足だけの剥製などを部屋の装飾にしていたり、近年では角が立派なせいか鹿や水牛などの首だけの剥製を壁掛けにして飾るのも見られた。実際、ボクの子供の頃にはそんな剥製が壁に掛かった応接間のある家に行ったこともある。現在ではワシントン条約が厳しく野生動物を保護しているし、第一動物愛護の観点からしてそのような趣味嗜好は廃れてしまった。しかし未だ剥製の壁掛けが上流階級の高級な装飾と見なされていた時代なら、こんなプラモデルの登場も頷ける。何しろ世の中は良い暮らし、上流な生活に憧れた時代であったから、プラモデルがそれらをチープに模した疑似体験の道具としても作用していた時代であった。これでアナタのお部屋も中世の王侯貴族の雰囲気に、ということだろうか。ボックスアートに描かれているように、壁掛け台座を持つ立派な角の鹿の首の剥製と、その角を飾り台とする剣、鉄鎚が再現されている。スケール表示は特になく、また何鹿なのか鹿の種類も分からないので確かなことは言えないが、鼻先から壁までの実寸法がおよそ70mm程度なので、常識的には1/6~1/8程度のスケールであろうか。鹿の首と飾り台座、剣の鞘が茶色、角がクリーム色、剣の刀身と装飾が銀メッキ、剣の柄が金メッキと多色モールドで、他に鹿の眼球用に人形用の目玉、壁に取り付ける為の吸盤も付属するなど、中々にデラックスな内容である。今なら「ナニこれ~」と一笑に付されてしまうような「色物・際物」の類いであろうが、当時は結構、手軽に遊べて楽しめるお部屋のアクセサリーとして珍重されたに違いない…だろう…かもしれない…もしかすると。こうしたプラモデルも許容された国産プラモデルの懐は深くて広い。
(続く)
投稿者 平野克巳 : 2007年05月16日 14:01 | トラックバック
2007年05月08日
昭和プラモデル物語(41)
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「国産」という話題が何度か続いたが、ボクは別にナショナリストではない。三菱ジープ(H-J59)に乗っていた頃、右翼の街宣車にスピーカーで「前にどうぞっ!」とガナられ道を譲られたことがあっても国粋主義者ではなく、東名高速某SAで駐車場に入れようとしたら、演習帰りの自衛隊73式小型トラック(旧)の群れのほうに誘導されたことがあっても軍事マニアではない…。強いて言うなら'60年代少年雑誌の戦記ブームに洗礼を受けた世代であり、戦闘機や戦艦や戦車ばかりだったプラモデルに影響されたメカ好き世代である。要するに他愛の無い罪無き(自分で言うか…)カッコイイの大好き少年の成れの果てである。ボクたちの少年時代は軍事兵器が大変貌を遂げた革新の時代であった。戦闘機はプロペラが消えて音速などという得体の知れない世界を飛ぶ機械となり、軍艦は原子力で半永久的に航行する動く要塞となった。音速飛行する飛行機が如何にもそれらしい格好をしていたのも束の間、F-4ファントムなどという最新鋭機はクジラのような姿をしていながらもマッハ2で飛ぶと聞き驚かされた。最早、速く飛ぶことは特別ではなくなりつつあった。戦争前までは軍事技術後進国のように思えたアメリカやソ連が今や世界の最先端を突っ走っていた。
日進月歩で飽くなき進化を遂げる世界の最新兵器を、少年雑誌のグラビアや冒頭特集で常に学んでいたボクたちは一端の軍事アナリストであった。そんなボクたちにとって自衛隊とはどうにも歯がゆい存在に思えた。何とも貧弱で旧式な兵器ばかりが目立ち、韓国や台湾、フィリピンなどの国軍のほうがずっと装備が進んで見えた。当時は世界の政治情勢や軍事バランスなぞ全く知らなかったから、単純にそんな風に比較しては物足りなさに不満を募らせた。それに何よりも自衛隊はアメリカのお下がりばかり、それも古くなってもうお払い箱のようなモノばかりがあてがわれていて、国とは戦争に負けるとこんなにも惨めなものになってしまうのかと劣等感ばかりを脹らませていた。1965年/昭和40年、防衛庁は一般から公募して現有航空機に「和名のペットネーム」を付けた。兵器を日本名にすることで広く親しんで貰い、憲法と自衛隊の微妙な国民感情を緩和させることが狙いだったのかもしれない。最新鋭戦闘機F-104Jスターファイターは栄光、F-86Fセイバーは旭光、F-86Dセイバーは月光、T-33A練習機は若鷹、C-46コマンド輸送機は天馬、ビーチクラフトT-34Aメンター練習機ははつかぜ、ロッキードP2V-7ネプチューン哨戒機はおおわし、グラマンS2F-1トラッカー哨戒機はおおたか、などなど…。子供心にもダサい、と思った。飛燕、隼、鍾馗、疾風、雷電、紫電…それまで慣れ親しんだこれらの名称の何とグッと来ることか! そしてその名と機体のイメージの何とピッタリ来ることか! それに較べて自衛隊機の新名称は何れもピンと来ない感じのものばかりに思えた。ハチロクデーが月光なのかあ…往年の月光とは余りにも心情的に印象がかけ離れ過ぎているよなあ…第一国産じゃねーし。ボクたちプラモデル小僧は大抵がこの新たな和名を拒否するのだった。
そんな中、ようやく国産初のジェット機、富士T-1Aが登場する。ジェット機とはいっても戦闘機ではなく、あくまでも練習機ではあったが、とにもかくにも戦後最初の日本人が設計した国産ジェット機であった。ちなみに和名(当然というか英名は持たない)は「初鷹」と命名された…。初飛行は1958年/昭和33年、当初イギリス製ブリストル・オーフュースMk-11ジェットエンジンを搭載したT-1A、続いて石川島播磨重工J3国産ターボジェットエンジン搭載のT-1Bが登場する。プラモデルマニアで軍事フェチの当時の少年たちにとって国産ジェット戦闘機(民間機ではないという意味だ)はまさに誉れの極みであった。そして、そうした気運を察しての登場だったか否かは知らねども、当時は新進気鋭のメーカーであった日東科学/ニットーが1/75スケールで富士T-1Aをキット化した。折りしもニットーは1/75で航空機の分野に本格参入しつつあった時期で、この富士T-1Aはかなりリキの入ったキット内容でもあった。ボックスアートにも「自衛隊機 富士重工 富士T1A」と描かれているが、それが如何にも誇らしげでもある。全体の印象はニチモの100円シリーズを良く研究したなという感じで、プロポーション、ディテール共にまずまずの仕上がりだった。機体表面にリベットを穿たず凹モールドの筋彫りなのが近代的でシャープな雰囲気であったが、主脚が固定なのにカバーだけは開閉するなどの不自然さも見られた。他にエルロンとキャノピーが可動する。飾りスタンドは自在球付き、Airplaneの文字を象ったアーム、地球の北半球を模したデラックスなベースの、当時のニットーの飛行機プラモを象徴するデラックスなもの。国産であることがセールスポイントと考えられ、それ故より一層の精力が傾けられたプラモデル、今にして思えばそんな印象を強く持つのだが、それは余りに穿った物の見方なのだろうか…。(続く)
投稿者 平野克巳 : 2007年05月08日 14:47 | トラックバック
2007年05月01日
昭和プラモデル物語(40)
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1964年/昭和39年の開業当初、夢の超特急と呼ばれた新幹線も、今では誰もがごく当たり前のように利用する観光、ビジネスの日常的移動手段となっている。戦後の日本は昭和39年の東京オリンピックを契機に大きく変貌したのだが、この新幹線もその昭和39年に誕生した。戦争で失った国家の威信を取り戻す為には、文化、経済、その他あらゆる分野において“Made in Japan”を世界中に広め、認知させねばならなかったが、新幹線とはまさにそうした存在の急先鋒であり、国内的には「純国産」により国民感情を鼓舞し啓蒙しうる存在の象徴であった。
新幹線は戦前の軍国主義が生み出した「弾丸列車構想」をその起源とするが、経済立国となった戦後においては日本列島を大量かつ高速に結ぶ輸送手段となって実現を見た。それまでの特急は東京大阪間の電化と日帰りの実現で注目されたが、新幹線の登場はそれを劇的に上回る営業を可能とした。当時、鉄道が時速200km/hを上回る高速で運行されることは驚愕すべき出来事であり、まさしく「夢の超特急」と呼ばれたことは大袈裟ではなかった。当然、新幹線は子供たちにとっては乗り物のトップスターとなり、その運転手は憧れの職業の第1位となる。台頭しつつあったプラモデルの世界でも、そうした逸材を見逃すわけもなく、田宮、静岡教材など多くのメーカーがモデル化している。だからボクたちは大人になった現在でも新幹線には格別の想いが残っていて、クリームとブルーのツートーンに塗られた、ぬるっと丸いスタイルに言い知れぬ親近感を抱き続けているのだ。だが時代の移り変わりはいつの間にか新幹線にも変化を要求し、気がつけばあの慣れ親しんだ丸い顔の車輌は姿を消していた。ボクは仕事上、静岡や浜松への用向きが多かったのだが、こだまに乗る度に塗装がやれて、所々塗膜にヒビの入った「くたびれた車輌」が嫌だった。たまには新車輌のひかりに乗りたい、などの思いが頭をよぎった。だが、気付けば「くたびれた車輌」が100系になっていた。その100系さえ既に退役してしまって居ない。ましてや0系なぞもはや遠い昭和の追憶でしかないのだ。それでも0系(当初は0系などとは呼ばれなかった。100系以降の登場によって、識別目的から0系と呼ばれるようになったのだろう)こそが新幹線との思いは今も強い。八の字眉を連想させる運転席の窓、往年の最新鋭ジェット戦闘機を思わせるレドームのようなノーズコーン。新幹線の車輌デザインがどんどん列車のイメージから遠退く現在、0系の顔はモスラの幼虫のように愛らしく映る。まさしく'60年代の丸みである。
東京シャープの新幹線こだま号(Nゲージと表記される)は、100系が登場する'85年以前の、0系が新幹線を代表する主役であった時代最後を飾るキットであったろうか。いわゆるプラモデルのスタンダードたる100円キットという装丁であるが、発売時期がオイルショックの頃であったためか定価は200円となっている。内容は何とも長閑なものである。先頭車輌、客車、鉄橋付レールのセットで、Nゲージとは称しているものの「今流行り?のショーティモデル」で厳密なスケールモデルではない。コロ走行の車輪も各車輌2軸4輪。車体を走るブルーの帯が紙製シールなのは、かつての食玩を彷佛とさせる。確かに東京シャープというメーカーは「今どき未だこんなキットを作って売ってるのか」と呆れさせるようなメーカーではあったが、まさに東京シャープらしい典型的な時代遅れ(発売当時にあってもだ)のプラモデルであった。恐らくプラ製車体のNゲージ鉄道模型が隆盛し始めた頃に企画された時流便乗商法だったのだろう。日本の列車シリーズと称しており、この「こだま号」はシリーズNo.2。シリーズNo.1は当然ひかり号(0系である)であった。キットの中身はともかくとしても、パッケージは実写でなかなかに説得力を持つ。恐らくはこの写真の箱で欲しくなってしまう子供たち(中には大人も居たろう…)も多かったに違いない。ただ知ってか知らずか編成の最後尾車輌を撮影しているところがリサーチ不足というか微笑ましいというか…こうしたところが東京シャープならではと言えないこともない…。
地下鉄銀座線が黄色くなくなって桃太郎電鉄になってしまい、赤に白帯の丸の内線はアルゼンチンの地下鉄となってしまい、JR線が無塗装ステンレス車輌と化してしまった昨今、新幹線といえばカモノハシのような700系なのかもしれない。しかし激動の昭和に、国家の祭典東京オリンピックと共に誕生した0系新幹線こそが「新幹線の中の新幹線」と信じて疑わない。英国国立鉄道博物館では英国が誇る世界最速の蒸気機関車マラードの隣に0系新幹線が展示されているくらいだし…。しんかんせん…何気ないこの言葉が40年前にはとてもワクワクと胸躍るフレーズとして耳に響いた。(続く)
投稿者 平野克巳 : 2007年05月01日 14:53 | トラックバック
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