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2007年06月26日
昭和プラモデル物語(48)
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007シリーズの第21作“カジノ・ロワイヤル”DVD発売に併せたキャンペーンにつられて過去のシリーズを購入した。と言ってもドクター・ノオからダイヤモンドは永遠にまでのショーン・コネリー出演の6作品に限ってである。007が日本で毎年正月ロードショー公開となった頃、ボクは小学校高学年から高校生の時分であったが、既に硬派な映画マニアであった為、お色気とアクションだけをウリにした娯楽作品の権化のような007シリーズは低俗に思え小馬鹿にしていた。それだけに劇場では一度も観たことがない。だがプラモデルを通してみると妙に懐かしくもあり、実は改めてちゃんと観たいものだと常々密かに思っていたのである。40年以上もの歳月を経て観る007シリーズは、ダイナミックなアクションとハイテクを駆使した当時最大級のエンターティメント作品ながら、現在の感覚では間延びしたアクションシーンや如何にも時代がかったハイテクメカが陳腐でさえありやはり時代を感じさせる。そんな中にあってボンドカーと呼ばれる主人公ボンドの愛車は一寸ばかり心惹かれる存在である。
サンビーム・アルパイン、ベントレー・マーク4に続いて登場したアストンマーティンDB5は、特殊秘密装備の数々でボンドカー最大の人気となったが、それを除いてもやはり魅力的なスポーツサルーンである。
劇中で使用されたDB5は当時、我が国にもやって来て一般展示公開されたが、さほど興味のなかったボクは見に行くこともなかった。だが、何故か今井科学1/24のボンドカーのプラモデルだけは買った。車体後部にせり出す防弾板はガタがあったし、3ヶ国のレジスターナンバーを表示できる回転式ライセンスプレートは、プレートが紙製ステッカーであった為、回す度に縁に引っ掛かって剥がれてしまった。それでもそれなりに楽しく遊んだ記憶は残っている。またスロットカーブームの折りには米レベルの1/24と1/32のキットが輸入されていたが、比較的安価な部類であったレベルとて輸入品であることには違いなく、おいそれとは手の出せる代物ではなかった。そこに童友社から1/24キットが発売された訳だ。このキットの発売は多少遅めだったように記憶する。つまりは中弛み状態の時に市場に出たので、もう一寸飽きて何を買おうか迷っていたような心の間隙に入りこんできたモデルだった。つまり買ったのである…。ボックスアートは007の劇中カーチェイスシーンが描かれていた。運転しているのは確かにショーン・コネリー(当時の映画雑誌などではシーン・コンネリーと紹介されていた)のボンドのようだ。だがクルマはボディが赤紫色だった…。キットのどこにもボンドカーだとは書かれていなかった。だが当時の日本でアストンマーティンと言えば、それはイコール「ボンドカー」を意味するようなものだった。ボクはサーキットを走るレーシングカーでなければスロットカーとしては認めない「ワタクシ的原則」を貫いていた。だからアルファロメオ・カングーロのようなショーカーやゴーカートのような遊具(そこまで言わずとも全く別ジャンルの競技車輌)はボク的にはNGであった。そこまでイカずともDB5は裕福な特権階級の為のスポーツサルーンで、サーキットを走るには不釣り合いなクルマに思えた。ましてやボンドカーなどのキャラクター性を持っていたら尚更似合わない。だがボクはこのキットを買った。それが今となっては何故だったのか皆目見当もつかない。欲しいモデルが手近にはなかった、それでも物欲は旺盛だった、もしかするとそんなところだったのか…。
グリーンメタリックのスプレー塗装仕上げがなされたボディはレベルから範を取ったらしく、中々にシャープな良い出来であった。シャシーは平凡な真鍮プレス製だったが、このキットのウリである「特許ブレーキ装置」が備わっていたのが特徴だ。これは後車軸のクラウンギアのハブに付けられたテーパー溝によって生じるスラストによってゴム製ドラムを押し付ける構造で、中々の効果を発揮したとは聞くのだが、このモデルをサーキットに持って行ったことのないボクにはその実力の程は分からない。当時は余り思い入れのないモデルだったが、後年になるとむしろ懐かしく気になるモデルの最右翼となったのは、既に記したように007に対する気持ちの変化かもしれない。のちに童友社ではこのモデルをスケールモデルとして復刻させたので、ボクとしては何とかスロットカーとして復活させたいと願っているのだが、当時のシャシーはジャンクとして残っているものの、肝心のブレーキ装置を紛失してしまっていて未だ実現には至っていない。模型ファンならDB5は今井科学1/24に尽きるのだろう。だがボクにとってはそれ以上に童友社1/24が気になってならぬ。少年時代にはさして琴線にも触れなかった007ジェームズ・ボンドが、今になって一寸気になりだしているところだ。(続く)
投稿者 平野克巳 : 2007年06月26日 21:39 | トラックバック
2007年06月20日
昭和プラモデル物語(47)
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ボクが高校生の頃であるから'60年代後半のことである。当時、思春期の青年たちは16歳の誕生日を指折り数えて待ちわびた。二輪車免許の取得可能年齢であるからだ。ボクより少し上の世代には軽四輪免許があったので、幸運だったり裕福だったりすれば16歳でホンダN360を乗り回せたのだが、タッチの差で軽免は廃止されてしまっていた。尤も仮に免許制度が変わらなかったとしても庶民の倅であるボクたちに自動車など買える筈もなかったから、別に口惜しいとも残念とも思ったことはなく、むしろ興味の焦点はオートバイそれ一点に集中していたと言っていい。時代的にスポーツモデルが台頭しようとしていた。メッキ側版にニーグリップラバーの備わったフューエルタンクがたちまち過去のものとなり、オートバイと言えば黒、精々が赤という車体色のイメージもカラフルなキャンディーカラーの出現で大きく様変わりしつつあった頃だ。それは自動車同様、オートバイも急速に近代化を果たそうとする時代であった。
ボクが自動二輪免許を取得したのは自動遠心クラッチ付きカブ90に乗れれば、即ナナハンOKという「恐ろしい」時代であった。ただ、その第一段階としてしばらくは原付免許だけで過ごした。土曜日の放課後、クラスの仲間が蕎麦屋の倅の家に集まっては、無断で出前カブを乗り回して遊びはしたが、おおっぴらに無免許運転をする訳にもいかず、やはり原付で修行を積んでからでないと自動二輪の免許試験は受けられなかった。当時は今と違ってスクーターはカブとその類似モデルに取って替わられてしまった遠い過去の乗り物として事実上死滅しており、またオートバイには「可愛い」などという形容詞が無縁であった当時のこととてカブだの実用車だのには誰も見向きもしない時代であった。
第一ミニバイクのような類いは全くといって良いほどに存在していなかった。そこで限られたスポーツモデルを見渡せばホンダSS50も既に古臭い感じがした。そんな中、ボクが魅せられたのは新登場のヤマハFS1であったが、友人たちの中には「いきなりスーパースポーツの類い」に乗るのは抵抗があるという者たちも居た。だが実用車の小手先を変えてトレールだのCLだのを名乗る見え透いた胡散臭さにも満足ならなかった。そんな折り、ダックスホンダが誕生した。ミニバイクというそれまでには無かったジャンルの、しかも若者向けなスポーティーでレジャー指向の強い性格付けで、「これならカッコいい」と血気盛んな原付ライダーをも納得させたのである。燃料タンクのないスタイルも斬新だった。その名の謂れである小径タイヤに長い胴から連想させる「ダックスフント」のイメージも愛らしかった。そんな訳でダックスホンダは一躍、時代の人気車種へと躍り出た。ボクの周辺でも「ヤーサン(山田なのでそう呼ばれた。別にヤクザなのではない)」が早速50エクスポートを買い、クラス仲間からは羨望の眼差しを一身に受けることとなった。思えば、これがミニバイクが市民権を得た最初であったろう。
人気モデルとなったダックス(略してそう呼ばれる)は、当然プラモデルにも登場する。その最初が日東科学/ニットーの1/8ダックスホンダST70EXPOである。ホンダの宣材から借用した水着姿の松尾ジーナ(当代きってのフェロモン出まくり人気モデルであった。のちにレーサー高原敬武夫人となったのは有名)に興味がいってしまったファンも多かろうが、当時のプラモ好き高校生なら大概の者が作ったという傑作人気キットであった。プレスフレームの「胴」に当たる部分が妙に四角い以外は、レベルの1/8シリーズにも劣らぬ内容で、実車に手が届かない青年たちにとっては「暫しの慰め」をもたらしてくれる存在であった。このダックスをNo.1にヤングレジャーシリーズと称してモンキーZ50Z、ホッパー50、バンバンRV90もシリーズに加わったが、時代の推移と共にカフェ仕様へと無理くり変身させられてしまい、それも日東の消滅と共に廃版、その後は近年になって台湾ブランドの怪しげなカフェレーサーもどきだけが少量流通したに過ぎない。
ロードパルやパッソルの出現によって硬派なオートバイとは性格も趣きも異にするミニバイクが台頭するのは'70年代後半のこと。そして、その延長線上で原付スクーターが隆盛し現在に至るのであるが、それまでは「この種のちょい乗り、気軽なお遊びバイク」といった風情のジャンルは無いにも等しかった。今にして思えばダックスホンダはそうしたバイクの先駆けであったと言えるだろう。そしてまた、あの頃は実車に憧れてダックスのプラモデルを作った時代であったのを改めて思い出すが、現在では誰が「おらがスクーピーやリトルカブ」のプラモデルを作りたいと考えるだろう。それは物質的な贅沢さと引き換えにして精神的な豊かさを失った結果ではないのだろうか。(続く)
投稿者 平野克巳 : 2007年06月20日 16:37 | トラックバック
2007年06月12日
昭和プラモデル物語(46)
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5月に「王様のアイディア」が廃業閉店した。最近ではその名を知る向きも減っていたかもしれないが、かつてはユニークでナンセンスな雑貨を売り物にしたギフトショップとして広く親しまれていた。未だ「おもしろ○○」とか「キモカワイイ」などといったフレーズが巷に氾濫していなかった時代には、悪戯っぽく茶目っ気のある「おちゃらけ感覚」を一手に担う商品構成で、一部の遊び心に長けたマニアには人気のショップであった。1965年/昭和40年から東京駅八重洲地下街に店鋪があって、ボクも少年時代からつい最近までそのショーケースに陳列された「おもしろグッズ」を冷やかしで眺めるのが好きだった。だからといって買ったことはないので、ファンを自認して今回の閉店を惜しむ資格などはない。改めてホームページを検索してみると、廃業というよりは業務形態の転換であるらしく、今後はお洒落なサングラスを取り扱うショップへと生まれ変わるらしい。大体からしてこの企業の母体は金鳳堂であるのでそれもむべ成るかなである。そういえば金鳳堂の名も久し振りに聞いた気がする。その昔には「眼鏡の金鳳堂」のTVCMを良く目や耳にしたが最近ではすっかり忘れていた。こんな時、昭和という時代が確実に遠くなりつつあることを改めて実感する。
王様のアイディアで扱っていた商品で最も印象に残っているものがふたつある。ひとつはフランケンシュタインの人形。電動仕掛けでスイッチを入れるとズボンがストッと落ち、フランケンが恥ずかしさに顔を真っ赤に紅潮させるという玩具だ。そしていまひとつは小銭のコインを置くと、箱の中からゾンビの手が出て来て小銭を引き込んでしまう貯金箱。名称は「ミステリーバンク」だったろうか。お金を置くとスイッチが入り、内蔵するメカがやおらジージーと音を立て始めたかと思いきや、いきなり片手がカパッと飛び出し小銭を持ち去るギミックが面白かった。現代では子供向け玩具であっても吃驚するようなメカが珍しくないが、その昔はゲームといえばボードゲームくらいだったので、「電動からくり」にはとても興奮したのであった。このミステリーバンクは王様のアイディアの定番商品として随分と永く売られていたように記憶する。ボクが大人になってからも「へええ~未だ売ってるんだ」と感嘆したことを懐かしく覚えているからだ。ただ、それも貯金箱の衰退と共にいつからか消えてしまったらしい。そして、ミステリーバンク(?)がそっくりプラモデルになったのが、有井製作所/アリイのゴーストボックスだ。このキットが一体いつから在ったかは覚えていないが、これもやはりロングセラー商品で永く市場に留まり続けていた。それだけにボクにとってはアリイといえばこのキットを連想するほどに強く印象に残っている。まあ当時から「色物、際物」の類いとしてプラモデルファンからはそっぽを向かれ、何だか良く分からないけど孫のお土産にプラモデルを買っていくお爺ちゃんやお婆ちゃんからさえも敬遠され、ずっとプラモデル界の異端として四面楚歌の中に置かれ続けたキットである。
キットは木箱の中からミイラのような左手が出て、台に置かれたコインをかき込んでしまうというもので、そのギミックの仕掛けはゼンマイ駆動による。王様のアイディアでもロングセラー商品となっただけに、このアリイのプラモデルも定番商品となったようで、随分と永い期間、模型店や玩具店の店頭で見られた。のちには新設計のモーターライズ版も登場するなど、極めて息の長いプラモデルキットとなった。
ミステリーバンクの最も古いものは本体がブリキ製で、コインを掴んで取り込んでしまう手が仄かに光る蛍光樹脂製だったような記憶があるが、既に遥か昔のことなので判然とはしなくなってしまった。そのアクションが面白いと思えたのは多分小学生の時分で、その後は王様のアイディアで見かけても先に書いたように「今も作られている」ことへの驚きしか感じなかったように思う。そしてアリイのゴーストボックスに対する思いもまた似たようなものでしかなかった。取り分けスケールモデル以外は「真っ当なプラモデルではない」と思い込んでいた時代には尚更であった。しかし年齢と経験を重ねることで精神的な余裕が出来た結果なのか、思考と感性がより柔軟になり許容の度合が増すにつれ、こうしたキットも面白いと思えるようになった。ただ、それをして人には「変なモノ好き」とか「色物マニア」とか呼ばれる。まあ、そうかもしれぬ、と独りごちつつ、人生型にはめたら詰まらんでないの、世の中には妙ちきりんなものや変てこなものだって在っていいのよ、それが潤いってものぢゃねいの、などと自ら納得してもみる。王様のアイディアは無くなったけれど、世の中からB級感覚が消えた訳ではない。ボクにとってはこれもまた愛すべき世界なのである。(続く)
投稿者 平野克巳 : 2007年06月12日 20:16 | トラックバック
2007年06月05日
昭和プラモデル物語(45)
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ボクが三共1/25トヨペット・クラウンDXのキットと初めて出会ったのはこのパッケージの時だ。恐らく1964年/昭和39年の事だったろう。写真のナンバープレートからもそれは符合する。これ以前にもイラストのボックスアート版があったが、ボクはその時代はキットの存在を知らなかった。この箱を店頭で初めて見た時、トヨタのカタログ用写真を使用したパッケージに新鮮な高揚感を覚えた。それまでのイラストとは違ってとてもモダーンな気がしたのだ。金色に輝く車体、そして背景にはパノラミックビューイングな富士山。判で押したように極めて日本的でありながら、それまでの日本のイメージとは違ってアメリカナイズされた光景がここにはある。この時代を知らぬ人に説明するのは難しいかもしれないが、この新型クラウン、俗に“T型グリル”と呼ばれるRS40/41系クラウンは、国産車に洋々新時代がやって来た事を予感させるものであった。戦後発の純国産車、初代RS系クラウンの後継車種として1962年/昭和37年に登場した2代目クラウンは、それまでの国産車の固定概念を払拭する直線と平面で構成された近代的イメージに溢れたボディが新鮮であった。それは'50年代の古臭い「ずんぐりむっくり」とした国産車からの訣別と、そしていよいよ日本もアメリカのような国になってゆくのだという期待感を抱かせた。このクラウンの登場によって街の風景は華やかで垢抜けたものに一変し、一気に時代が進んだような気分にさせてくれた。今では“ゼロ”クラウンと称し、改めて原点へ回帰してリセットせざるを得ないような情況にあるクラウンだが、この時代のクラウンには国産車の頂点たるステイタスが充ちていたのだ。その登場に対する反応も、喩えて言うなら「フェアレディZやスカイラインGT」のそれにも匹敵したかもしれない。
キットそれ自体に対しての反応も、まさに実車のそれに近いものだった。なにしろそれまでの国産プラモデルの自動車キットには華がなかった。元となる実車が質実剛健ばかりをウリとする地味なセダンばかりであったのでそれもまた致し方なかったが、もっさりして分厚いボディ、しかも良く見ないと何のモデル化なのか判らない不自然なプロポーション、車室内にデンと置かれたモーターや電池、玩具の域を脱していないゴムタイヤ、などなど、とにかく自動車のプラモデルは玩具のレベルでしか評価しようもなかったのだ。ところがこの三共のクラウンはそうした玩具の域を脱して、あたかもジョーハンやAMTなど外国製キットを彷佛とさせる内容を持っていた。ひと目でクラウンと判るボディ、シャープな切れ味の凹モールド、国際スケールである1/25の採用、開閉するボンネットとトランク、ボンネット内に再現されたエンジン、完全に再現された前後ベンチシート、そのどれもがそれまでの国産キットにはなかった“外国産キットのテイスト”であった。無論、今にしてみれば「大袈裟を通り越してたわ言」みたいなものである。恐らく若いプラモファンなら「これがか…?」と落胆するであろう。だが当時の感覚ではまさにそれほどに新鮮な感動に充ちていたのである。当時は誰もが「何でえ、クラウンかあ」などとは決して思わなかった。
確かに時代の移り変わりは残酷である。これほどに感動を誘ったクラウンも、その後、同社から発売されたセドリック、デボネア、プレジデントと比較してしまえば、余りに稚拙で見るに耐えない代物でしかない。ボディはフォルムもディテールも「今いち」以下だろう。前後リッドの開閉はヒンジもなく金属クリップで挟み込むだけだ。再現されたエンジンは左右2分割でマブチ13モーターを内蔵するようになっているが、単にでこぼこのある箱にしか見えない。上に着くエアクリーナケースがクリアレッドなのも不思議だ。まあ、その時点ではあれほどに感動を誘ったキットだが、時を経てしまえば「すっとこどっこい」なものでしかない…往々にして時代とは、人生とはそんなものなのだろう…。それでもプラモデルに寄せる郷愁とは「実体とは別な」ものである。このキットに幻想を抱いてはいなかったが、ボクにとっては永年に亘って再会したいプラモデルの最たるもののひとつであった。だが内容が内容なので同社のセドリックなどと同レベルの代価を支払う気持ちにはどうしてもなれなかったのもまた事実だった。だがこのボックスアートに久し振りに再会した刹那、懐かしさが溢れた。堂々たる富士山を背景に楽しげにドライブする人々、これはあの頃のボクたちだ。いや、そうありたいと夢見たボクたちの幻影だ。垢抜けた近代的な生活を夢見たあの頃。そしてトヨペット・クラウンはそんな夢の暮らしの象徴だった。現代のクルマは人とモノは運んでくれるが夢を運んではくれない。
(続く)
投稿者 平野克巳 : 2007年06月05日 22:52 | トラックバック
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