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初代編集長 平野克巳の「猫の耳に大仏」湘南鎌倉便り


モデルカーズの生みの親、平野克巳氏による目からウロコの模型小噺。さぁどんな話が飛び出しますか。乞うご期待。

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2007年07月

2007年07月31日

モデルカーズ的こころ(03)

 「未だプラモデルなんかやってるの?」 高校生にもなればご近所のおばさんや、うっかりすれば友人などにさえあきれ顔でそう言われた。そんな概念が巷では当たり前のようにあった時代だった。プラモデルは子供のもの、模型は玩具、だから大人になれば当然卒業するもの、世間の大勢はそうした固定概念によって支配されていた。だが大人になってもミニチュアモデルやプラモデルを趣味として愛し続けている潜在人口はことの外多かった。ヨーロッパなどではむしろホビーとして大人が支えている世界であった。そうした日本の現状を何とかしたい。大人になれなかった「子供っぽい人たち」とラベルを貼られてしまった模型愛好家の社会的地位を正当なところまで引き上げたい。その為にはこの新たな本の使命として啓蒙活動に重点を置くべきだった。それには思想的裏付けや歴史認識も重要な要素であるように思われた。この本を通じて全国の模型愛好家が「模型に対して一家言持てるようになる」ことが大命題と考えた。ボクたちはその為の手助けをするのだ。それは確かに若さ故の気負った願望であったかもしれぬ。だが、そうした素地も要素も世の中に存在してはおらぬ限り、ボクたちがそれを実現しやり遂げなくてはならないのだと固く信じた。その時点でこの本はある意味では理念と哲学の追求であり一種の宗教であった。責任の重さを改めて認識した。それが一言一句に至るまで熟慮に熟慮を重ねる執筆と編集への姿勢となったことは事実である。
 大人の趣味である以上、実車と模型の相関関係を抜きにしては何事も語れない。模型の本であっても実車寄りであるべきと考えた。実車を通じた模型の魅力、それをしてボクたちは「実車主義的模型趣味」という言葉にして掲げた。実車を通じて模型を愛おしむ、模型を介して実車を知る、模型が模型たるには実車に対する深い造詣と憧憬が不可欠な要素だった。だからボクたちは模型の本であっても模型よりも実車に傾倒した編集方針で臨んだ。実車の世界を知らずして模型は語れない。ボクたちはスクランブル・カーマガジンと全く同じコンセプトをもって、30~50歳代に向けて情報発信すべきだと考えた。今にして振り返れば何と若かったことか。既成の出版物に挑戦するなどという大それた気持ちは微塵もなかったけれど、自分が読者だったら「こんな本が読みたい」とした理想に燃えていた。企業というものが営利目的を第一義に考えるのが社会通念上の常識であるならば、ボクの自己完結的な論旨など企画会議の席では一笑に付されるのがオチだろう。だが、あの当時の企画室ネコという組織にはそれを許し、むしろ助長する空気さえあった。実際、あの時代は完全なトップダウンの組織形態であったが、S社長はボクに全てを任せ一切口を挟むようなことがなかった。それがボクにこの人を裏切るようなことは決してすまいと思わせた。人情論が全てに勝る、演歌風に言うなら男気の世界であった。ビジネスライクにものを考える現代ならお笑いぐさである。プロの風上にも置けぬアマの甘々ちゃんである。だがボクは本気でそう信じたし、実のところ今でもその思いは変わらない。プレッシャーは一切感じなかった。ただ信頼を裏切ることなく責任を全うする、その思いだけがあの時のボクを突き動かしていた。(続く)

投稿者 平野克巳 : 2007年07月31日 17:54 | トラックバック

2007年07月24日

モデルカーズ的こころ(02)

 モデルカーズという書名も未だ決まってはいなかった。ただプラモデルを主体とした自動車の模型の本を創りたいという原案の段階であった。発案者は当時、企画室ネコに在籍していたMクンだった。フラップ式サングラスの付いた眼鏡と髭がトレードマークの、見てくれはボリショイサーカスの熊ちゃんのような男である。この男とボクとはウマが合った。と言うより編集者としても大人としてもデキた男で、決して我を通そうとはせず、しかし主張は安易には譲らず、人を立てる事を知っていて、自らは黒子に徹する「編集者の鑑」のような男であり、彼の人柄に随分と助けられたというのが実際のところだった。自動車模型の本は彼と二人でコンセプトを煮詰めていった。切っ掛けは「渡りに船」とはいえ、ボクはボクで気合い充分、彼に助けられながら次々と具体案を提示していった。業界誌のモデルアートや航空情報でライターをしていた経緯もあり、自らの「プラモデル歴25年の集大成」を注ぎ込もうと意気込んでいた。
 ボクたちの当時のスタンスは業界誌どころか、既存の出版社からも乖離した位置に居た。既成の書籍や雑誌では出来ない事への挑戦、それはとりもなおさず読み手が本当に求めている内容の本を創るという事だった。理想と希望と野望に燃えていた。業界誌ではないので「メーカーのご機嫌を損ねる」事を心配する必要もなく、クライアントの都合で編集方針を偏向する謂れもなかった。純粋にマニア目線の編集方針を貫きたかった。それはある意味、高貴なアマチュアリズムに過ぎなかったが、出版界とも業界ともしがらみのなかった当時のボクたちにはそれが可能だった。
 先ずはお定まりのキット解説や製作記事を廃した。重箱の底を突つくようなインプレッションや工作ガイドは、読み手側に判断してもらい任せるべきと考えた。年少者向けのハウツー本は要らない。そうした基本を既に会得している大人のマニア、モデラーを対象にした内容にすべきと判断した。大人なら「ここをああしろ、こうしろ」ではなく、自分なりの感性と技術で向き合いたい筈である。模型という分野の精神年齢をもっと引き上げたい、それがこの本に科すべき命題であった。「大人が作る、大人による、大人の為の」アダルトな模型雑誌、ボクたちはそれを基本コンセプトとして掲げた。
 次に模型雑誌の主流を占める「新製品ばかりを取り扱う」編集方針も採用しない事とした。自動車の世界は実車も模型も最新モデルばかりが話題にされ続けていた。セリカが登場すれば実車も模型も誌面はセリカ一色に染まったが、果たして日本中のファンがそれを望んでいるのか。そうした疑問はボクの中にかねてより強くあった。未だ世間にはヴィンテージとかヒストリックなどの言葉は一般化してはいなかったが、クルマそのものを趣味として捕らえるならば、新型モデルばかりが興味の対象でもあるまい。古い時代にさかのぼる面白さだってきっとあるし、それを求めている潜在的マニア層も多いに違いない。それはMクンとて同じであった。話し合いの中に二人は意志の疎通を深めていき、次第に新たな本の骨子は確固たるものになっていった。こうしてMクンとボクとは車の両輪のように良きパートナーとなりティームとなった。新たな本の誕生は間近に迫っていた。(続く)

投稿者 平野克巳 : 2007年07月24日 19:24 | トラックバック

2007年07月17日

モデルカーズ的こころ(01)


当時のボクの愛車は和製ハーレー風味(その認識は間違っているのだけれど…)のヤマハXV750スペシャル。貧乏でクルマは持っていなかった。'82年撮影。


 ボクはかつて役者だった。程度や多少はともかくとして舞台も映画もテレビも経験していたので役者の卵なのではなく役者だった。因みにボクの最初の著作本「クルマ プラモデル学入門(交通タイムス社'84年刊)」でも著者プロフィールは俳優と紹介されている。今では伝説と化してしまった新宿蠍座で商業演劇の主役をはったこともあるし、大物映画監督の文芸作品(キャッチコピーは女性も観られるファッショナブルポルノだったけど…)の準主役で出演したこともある。映画やテレビの端役なら星の数ほどは大袈裟だが多くの作品に出演した。だがそれで飯が喰えていた訳ではないから、やはり役者と名乗るのはおこがましいのだろう。タレント年鑑に載っていた事もあるが、売れずにやがて所属事務所を転々とした。所属していただけなら渡辺プロダクションに居たこともある。やがて松竹大船撮影所がウチでやらないかと誘ってくれて有名な大部屋俳優に紹介された時「嗚呼、ここまで落ちぶれたのだな」と実感し落胆した。流石に潮時ではないかと自問した。
 ちょうどその頃、ボクは結婚した。生活の為にトラックの運転手をして生計をどうにか支えていた。ボクが乗務していたのは三菱キャンターの2.75トン、ワイド&ロー、長尺ボディだった。仕事は宅配食材を本社工場から地域営業所まで運搬することで、本社加工工場はパートのおばちゃんばかり、地域営業所は若い女性ドライバーさんばかりで、純粋に生物学的見地から判断するならば日々「夢のような女の園」であった…。次第に本社の信頼を得たボクは上司から加工場責任者として就職するよう強く勧められていた。折りしも役者への夢が挫折しかかっていた時分であり、人生の岐路に立ちボクは惑っていた。
 そんなある日、自宅玄関の下駄箱の上で黒電話がけたたましく鳴った。受話器の向こうの声は企画室ネコのS社長であった。久し振りだった。ボクはそれ以前、クリエイティブブティック・ネコにスタッフとして参加し、幾つかの書籍に関わったのち、スクランブルカーマガジンの創刊に参画した経緯があった。だが次第に表面化していった編集長との確執に嫌気のさしたボクは、デスクに退職届を置き、再び人生の迷い旅へと船を漕ぎ出していたのである。
 S社長の用件は「模型の本を企画している。任せたいのだがやらないか」という単刀直入なものだった。ボクにしてみれば天の声にも等しかった。渡りに船とはこのことだ。地方の小さな食材宅配会社の工場長、その後も良くて所長、本部長である。そんな人生を過ごしたくはなかった。さりとて夢の残滓を追い続け、老獪な大部屋俳優におさまるつもりもなかった。しかも模型、プラモデルとなればボクにとっては最も得意とする大好きなフィールドである。好きな物書きと模型が両立できる千載一遇のチャンスのように思われた。迷うことなく即答した、やりますと。それがボクとモデルカーズとの最初の出逢いだった。だが、この時点では未だモデルカーズという本はコンセプトさえ企画立案されていないアイディアだけの段階に過ぎなかった。それが具体的に始動するのはボクが改めて用賀のマンションに出向いてからのことであった。1984年/昭和59年、ボクが未だ30歳の時のことである。(続く)

投稿者 平野克巳 : 2007年07月17日 17:51 | トラックバック

2007年07月10日

昭和プラモデル物語(50)




 趣味の世界の醍醐味というか極意というか、奥義のようなものを表すときに、よく釣りの世界では「鮒に始まり鮒に極める」などと言われる。そうした意味においてプラモデルにおける鮒とはゼロ戦ではないかと考えてみたりする。零戦でもなく零式艦上戦闘機でもゼロファイターでもなく、やはりゼロ戦という呼び名がボクらにとっては慣れ親しんだものだろう。昭和30年代より始まった日本のプラモデルの歴史の中で、ゼロ戦ほど多くのキットが登場した例をボクは知らない。何故それほどにまでゼロ戦だったのかを改めて今の人たちに理解してもらうのは案外と難しいことなのかもしれないが、プラモデルが誕生した昭和30年代といえば、大平洋戦争が終戦を迎えて未だたかだか10数年しか経ておらず、人心にもその残滓が鮮明に残されていた時代だったことも深く影響を及ぼしていただろう。そして戦後生まれの少年たちに悲惨な実体験ではなく、過去の歴史認識といったスタンスで戦争を伝えようとする文化が隆盛したことも大きな要因であったろう。それは活字文化の中で戦記ブームというある種のムーブメントを生み出し、ゼロ戦はその世界の中でトップスターとなっていく。それは日本が勝ち戦を続けていた頃の主力戦闘機がゼロ戦であったことによるものだが、日本の軍用機の全生産機数の2/3ほどがゼロ戦であったという事実からしても当然の帰結であったのかもしれない。
 多分、当時のプラモデル少年の殆どがゼロ戦を作ったことだろう。三共のピーナツ1/150、マルサン1/150、三和1/120などがその入り口だったかもしれない。その後、100円キットがプラモデルの標準的存在になると日模1/70やLS1/75がボクらのゼロ戦となった。かつて100円のプラモデルというのは国産プラモデルを代表する価格帯であり、最も買い易く親しみのある「プラモデルのカタチ」であったのだ。だが、そうした100円プラモデルの世界にも黒船はやって来る。アメリカ・レベルの1/72シリーズである。レベルといえばイギリス・エアフィックスと共に、かつてプラモデル先進国を代表するビッグブランドであり、プラモデル少年たちには遠い憧れの存在でもあった。そのレベルの1/72シリーズが郡是産業と提携することによって、国産プラモデルと同じ扱いとなり、何と価格も100円で流通するようになった。それまでは輸入品として240円で売られていたキットであるから、まるでダンピングかとも思わせるような驚愕の価格破壊であった。こうしてボクたちはレベル1/72ゼロ戦と出逢うこととなった。今にして振り返れば考証的にもかなり怪しい、いかにも外国人的目線と感覚の元に作られたゼロ戦である。だが何といっても「あのレベル」の製品である。当時のプラモデル少年にとっては神にも等しい説得力があった。この時代のレベルキットは何といってもパッケージのボックスアートが素晴らしかったが、100円キットとなった1/72シリーズもその例に漏れることはなかった。箱は本国版のままでサイド部分だけが日本語になっていたからだ。それだけに形式名称がA6M56だったり、カウリングが黒くなく妙にカーキ色っぽい塗装など一見して不自然な零戦ではあったが、それでも初めてまともなゼロ戦が作れる喜びははかり知れなかったのだ。
 だが時代の変遷につれ外国メーカーへの信頼は次第に薄れていった。誰もが期待に胸脹らませたレベル1/32零戦52型辺りからその傾向が強まったように記憶する。そして時代が昭和から平成へと変わり、ゼロ戦という呼び名は死語となり、プラモデルのゼロ戦においての昭和は終わった。現在では新たにタミヤやハセガワから、ボクたちの時代からは想像もつかなかったほどに優れた内容の零戦キットが誕生しているし、アメリカでの零戦の実機考証研究も進み、むしろ日本人より詳しい専門家も存在するほどだ。ロシアでは軍需産業の技術を活かし「リバースエンジニアリング」と称した全くの新造零戦さえ製造されている。かつてボクたちの時代には「敗戦国の象徴」であったゼロ戦が、今や「航空史の傑作」零戦として人類の財産として認知されるに至っている。敗戦から60余年、零戦に対する感情も大きく様変わりした。ずっとプラモデルと関わり続けて来たボクたちも、鳥のヒナが巣立つようにして「ゼロ戦、大和」から別の世界へと旅立って行った。だが昭和のゼロ戦が終わったと感じた今、改めて零戦ではないゼロ戦の時代を懐かしむ気持ちが甦る。21型が凛々しい灰色ではなく、実は薄緑色だったものが褪色した結果だと知れば、より一層明灰白色の21型が懐かしい。そうした論理を突き詰めればカーキ色の52型だってプラモデルとしては時代の色かもしれない。新事実、新解釈の零戦は素晴らしいが、今一度レベル1/72ゼロ戦も悪くないんじゃないか、これからの零戦と向き合う為にも、気持ちと時代の整理をつける為にも…何だか今にしてそんな気持ちが溢れて止まらない。

投稿者 平野克巳 : 2007年07月10日 18:51 | トラックバック

2007年07月03日

昭和プラモデル物語(49)




 その昔、未だ食料事情の良くなかった時代には、鯨肉、いわゆるクジラの肉は貴重な食料源だった。恐らく団塊の世代であるならば「嗚呼、絶望的に不味かったなあ…」との感慨と共に、学校給食に供された鯨ベーコンを脱脂粉乳の次くらいに懐かしく思い出されることだろう。しかし世界的な捕鯨排斥運動の高まりによって我が国でも1988年以降は商業捕鯨より撤退、今では調査捕鯨で許された僅かな鯨肉が出回るのみで、稀少かつ貴重な食材となってしまった。ボクも安くて上手い鯨の生姜焼きは大好きだったが、やがて牛や豚より安価な食肉材の時代が終わり、鯨の看板を誇らしげに掲げた専門店などに通う鯨のちょいマニアな大人となったが、それも今は叶わぬ夢である。
 もともと我が国の捕鯨の歴史は古く、本格的商業捕鯨は明治後期より始まっている。そもそも鯨肉の食文化を持たず、灯火燃料や機械油としての役目も終わった欧米各国にとって、鯨はイルカと等しく保護すべき野生動物であって人間社会の為に役立てる資源ではないらしい。自国の捕鯨船の為に米国のペリー提督が開国を迫った歴史を思えば、西欧列強とは何と身勝手で理不尽な人種であることか、などと密かに腹を立ててはみるものの、世界の趨勢には勝てず、知能が高等なほ乳類を喰う日本人とは何たる野蛮人なのか、くらいにしか見られていないようだ。食肉用の家畜はそれに含まず、の論理も何だか釈然としなければ、被害を大きくしない為に原子爆弾を使用したのだという自己正当化理論も間尺に合…あ、言い出したら抑制がきかなくなってしまう…。
 さて、既に歴史の中に埋没してしまった商業捕鯨だが、かつて我が国はノルウェーと共に一大捕鯨国であった。捕鯨船、いわゆるキャッチャーボート数隻、そして母船、冷凍冷蔵運搬船、油槽船で船団を組み、遠く南氷洋で捕鯨が行なわれていた。この南氷洋捕鯨を戦前より行なっているのがマルハの商標でお馴染みの大洋漁業(現マルハ)である。かつては「丸にはの字」のマークは誰もが知っていた親しみのあるもので、鯨缶や魚肉ソーセージは庶民にとっては欠かせぬ食材でもあった。またプロ野球球団大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)のオーナーとしても広く知られ、フランチャイズ球場川崎では捩り鉢巻きの漁業関係者のファンが熱い声援をおくっていた。それだけにボクたちが子供の時代には「マルハ」の大洋漁業は今よりずっとメジャーでポピュラーな存在であったのだ。それだけ「マルハ」のマークは生活に密着しており、故に親しみを込めてマルハのマークの捕鯨船(キャッチャーボート)がプラモデルにもなったのであろう。ただ、確かにキャッチャーボートは現在よりは遥かに知られた艦種ではあったが、やはり戦艦や客船に較べればマイノリティーな存在であったことには違わない。それをプラモデル化したのが「とみやま(とみやま商事/現トミー)」であることに納得させられてしまう向きは、恐らくは団塊の世代層であろう。とみやまのプラモデルは他社とはジャンルを一寸ばかり異にしていたからである。
 とみやまがモデル化したのは1/150大洋漁業所属の捕鯨船(キャッチャーボート)第六文丸(だいろくふみまる)で、全長55m、総トン数400トンの当時のキャッチャーボートとしては標準的なクラスの船であろう。キャッチャーボートは大きな船でも700トン程度である。特徴的な形態をした船体は一体成型で、TKKマブチ25モーターと単2電池2本で水上走行する。船体はグレー、他にウッド、オレンジ、ホワイトの多色モールドなのが時代を物語っている。また船体に描かれた船体番号の6と、煙突に描かれた「丸にはの字」のマークが、白モールドで別パーツになっている辺りに、当時の捕鯨大国日本のプライドが垣間見える、などと書くのは余りに穿った物の見方だろうか。キット自体の出来映えはお世辞にも精密再現の、などとは言えないものの、余り良くは知られていないキャッチャーボートの特殊な構造を学ぶことができる。現代なら博物館モデルとしてしかあり得ないモデルだろうが、'60年代当時としても他には見られない珍しいプラモデルであった。なにしろ大雑把に言ってしまえば「漁船」のプラモデルである。戦艦大和でなくて捕鯨船という辺りが「とみやまがとみやまたる所以」なのである。
 時代の推移の中で名門とか老舗とか呼ばれる企業や事象が消えて行く。既にバブル崩壊で日本の金融業界は大きく様変わりしてしまったが、最近になって鐘紡という120年の歴史を誇る老舗もその名を消してしまった。マルハは健在であるけれども捕鯨という文化が消え、それに伴ってキャッチャーボートも過去の遺物へと姿を変えようとしている。第六文丸のプラモデルにはそんな時代の残り香だけが微かに漂って、侘びしくもあり哀しくもある。(続く)

投稿者 平野克巳 : 2007年07月03日 13:02 | トラックバック

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