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2007年07月17日
モデルカーズ的こころ(01)
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当時のボクの愛車は和製ハーレー風味(その認識は間違っているのだけれど…)のヤマハXV750スペシャル。貧乏でクルマは持っていなかった。'82年撮影。
ボクはかつて役者だった。程度や多少はともかくとして舞台も映画もテレビも経験していたので役者の卵なのではなく役者だった。因みにボクの最初の著作本「クルマ プラモデル学入門(交通タイムス社'84年刊)」でも著者プロフィールは俳優と紹介されている。今では伝説と化してしまった新宿蠍座で商業演劇の主役をはったこともあるし、大物映画監督の文芸作品(キャッチコピーは女性も観られるファッショナブルポルノだったけど…)の準主役で出演したこともある。映画やテレビの端役なら星の数ほどは大袈裟だが多くの作品に出演した。だがそれで飯が喰えていた訳ではないから、やはり役者と名乗るのはおこがましいのだろう。タレント年鑑に載っていた事もあるが、売れずにやがて所属事務所を転々とした。所属していただけなら渡辺プロダクションに居たこともある。やがて松竹大船撮影所がウチでやらないかと誘ってくれて有名な大部屋俳優に紹介された時「嗚呼、ここまで落ちぶれたのだな」と実感し落胆した。流石に潮時ではないかと自問した。
ちょうどその頃、ボクは結婚した。生活の為にトラックの運転手をして生計をどうにか支えていた。ボクが乗務していたのは三菱キャンターの2.75トン、ワイド&ロー、長尺ボディだった。仕事は宅配食材を本社工場から地域営業所まで運搬することで、本社加工工場はパートのおばちゃんばかり、地域営業所は若い女性ドライバーさんばかりで、純粋に生物学的見地から判断するならば日々「夢のような女の園」であった…。次第に本社の信頼を得たボクは上司から加工場責任者として就職するよう強く勧められていた。折りしも役者への夢が挫折しかかっていた時分であり、人生の岐路に立ちボクは惑っていた。
そんなある日、自宅玄関の下駄箱の上で黒電話がけたたましく鳴った。受話器の向こうの声は企画室ネコのS社長であった。久し振りだった。ボクはそれ以前、クリエイティブブティック・ネコにスタッフとして参加し、幾つかの書籍に関わったのち、スクランブルカーマガジンの創刊に参画した経緯があった。だが次第に表面化していった編集長との確執に嫌気のさしたボクは、デスクに退職届を置き、再び人生の迷い旅へと船を漕ぎ出していたのである。
S社長の用件は「模型の本を企画している。任せたいのだがやらないか」という単刀直入なものだった。ボクにしてみれば天の声にも等しかった。渡りに船とはこのことだ。地方の小さな食材宅配会社の工場長、その後も良くて所長、本部長である。そんな人生を過ごしたくはなかった。さりとて夢の残滓を追い続け、老獪な大部屋俳優におさまるつもりもなかった。しかも模型、プラモデルとなればボクにとっては最も得意とする大好きなフィールドである。好きな物書きと模型が両立できる千載一遇のチャンスのように思われた。迷うことなく即答した、やりますと。それがボクとモデルカーズとの最初の出逢いだった。だが、この時点では未だモデルカーズという本はコンセプトさえ企画立案されていないアイディアだけの段階に過ぎなかった。それが具体的に始動するのはボクが改めて用賀のマンションに出向いてからのことであった。1984年/昭和59年、ボクが未だ30歳の時のことである。(続く)
投稿者 平野克巳 : 2007年07月17日 17:51
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