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2007年08月28日
モデルカーズ的こころ(06)
モデルカーズ創刊時のブレインであったMクンはその後、ネコ・パブリッシングを去った。雑誌編集の理念や方針には一家言持つ男であったので、常々上層部とぶつかったのが直接の原因であったと思う。彼とはその後も関係が続き、彼の移籍した先のレーシングオンでも随分と仕事をさせて貰った。またボクの鎌倉の庵を時々ぶらりと訪れては互いの近況なぞを愚痴も交えて語り合ったものだ。そのMクンが昨年急逝した事はこのブログでも書いた。永年の友人であり、また気心の知れた戦友でもあった彼を失った喪失感は大きい。彼が亡くなったのは54歳の若さだったが、ボクもこの7月で同じ歳となった。思い出せば懐かしい事ばかりだ。ボリショイサーカスの熊ちゃんのような見てくれのMクンは会社に住んでいた。前の晩の深夜まで仕事をし翌朝の早朝に出社しても、彼は既に編集部に居た。既に居るのではなく、ずっと居るのである。机の引き出しに隠したグロンサン内服液を飲み、椅子に座ったまま海老ぞって眠り、ただひたすら机に向かい続けていたMクンの姿をボクは忘れない。仕事に、人生に誠実な男であった。
Mクンは横浜元町のサンセット、U氏に“ティントイ”についての記述を依頼してはどうかと提案した。当時は未だプラモデルよりはブリキ玩具がコレクターズアイテムの最右翼であった時代だ。サンセット店頭でも三和模型ミリオンシリーズの剣が500円で売られていたような時代であった。結果、その道のオーソリティーであったU氏の記事は素晴らしいものとなった。それが「思い出のティントーイ・カーズ」であった。限られた一部のコレクターは存在していたものの、当時は既に過去のものとなっていたブリキの自動車を改めて総括するその内容は、その後のレトロブームとブリキ玩具再燃の導火線ともなった。また、やはりMクンの発案で、名古屋在住のコレクターH氏にも「平松コレクション」(タイトルが実名入りなのでH氏と記述する意味が余りない…)と題して誌面にご登場願った。H氏は著名なフェラーリファナティックとして世界でもその名を知られているが、同時に膨大なフェラーリのモデルカーのコレクターとしても著名である。まさに世界中から新旧のティントイ、ダイキャスト・ミニカー、プラモデル、ホワイトメタル/レジンモデルなど、ありとあらゆるジャンル、マテリアルのモデルカーを蒐集されていたが、創刊号では氏ご自身の愛車であるフェラーリ365GTB4デイトナをそのまま1/10で再現した特注モデルに焦点を当てた。これは氏がイタリアのモデルカー・コーチビルダー、M.コンティに直々に製作を依頼したワンオフ・モデルで、世界でただ1台の愛車のミニチュアであった。現在に至ってもこれほど贅を凝らした男のホビーは滅多に見られるものではないが、当時はまさに「雲の上の趣味世界」であった。実際、Mクンとボクは名古屋のH氏のご自宅まで取材に伺ったが、壮大な構えの大邸宅に度胆を抜かれたものであった。その後、H氏のコレクション(実車、モデルカー両方とも)が我々庶民には想像を絶するレベルにまで到達するのは、古くからのモデルカーズ読者の方々なら良くご存知であろうが、あの時のボクには1/10フェラーリ・デイトナだけでも畏れ多い事であった。これを切っ掛けとしてH氏には随分とモデルカーズでお世話になるのだが、それはまた別の機会にご紹介する事としよう。(続く)
投稿者 平野克巳 : 2007年08月28日 12:54
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