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2007年09月25日
モデルカーズ的こころ(10)
モデルカーズは無事に社会へと送り出された。時に1984年/昭和59年暮れ、ボクが31歳の時であった。それまでの大学生とモデル二足の草鞋両立時代に始まり、売れない役者の不遇かつ苦闘の時代を経て、ようやく「何か確かなものを掴むことの出来た」充実感は、ボクに改めて人生へのリセットボタンを押させた。泣き笑いの20代に別れを告げて、これからは迷うことなくこの道を行こう、と決心した。それまでもモデルアート、航空情報などの専門誌媒体で文章を書いて来たが、これを生涯の生業としよう、ボクには決して文才なぞ無いから文芸作品などとても書けそうにもないが、好きなクルマやプラモデルの世界でなら何とかやって行けるかもしれない、そう思った。それ以来、ボクはずっと雑文書きで生計を立てている。
暫くすると思いもよらなかったことが起きた。モデルカーズが意外と好評で売れたので続編を作れ、というのだ。嬉しいような困ったような、実のところボクは大いに困惑した。確かに若気の至りから、作った本の内容には絶対の自信を持っていた。だが、続編を作るなどは考えもしなかった。何しろプラモデル人生25周年の集大成、全てを賭して吐き出したのだ。言ってみれば手持ちのネタを総動員し全力投球したのである。主翼の20mm機関砲は全弾撃ち尽した。しかし燃料は未だ充分ある。ならば敵陣深くまで、飛べる所まで飛んでやろう、そう思うことによって改めて気力を揮い起こした。
当時はコンピューターなど存在しておらず、原稿もレイアウトも台割りも全て用紙に手書きの時代であった。写真(データではなくポジ、ネガのフィルムである)ひとつにしても人の手から手へと手渡ししなければならぬ時代であった。現在のように入稿から校正まで全て自宅で用を成してしまうような訳にはいかなかった。そんな訳でボクも日々通勤し編集部で働かねばならなかったのだが、当時のボクにはアシがなかった。それまで貧乏のどん底に喘いでいたので、とてもクルマなぞ持つ余裕も才覚もなかったのである。既に記憶が朧げなのだが、確かヤマハXV750Sで通ったような記憶がある。当時の編集部は未だ用賀にあったので、横浜新道、第三京浜と比較的交通の便は良かった。それでも疲れ果てて深夜にバイクに乗るのは若かったから出来たことである。今ならとても出来ない。その後、暫くして親戚の叔父から大古車のホンダライフ360を譲り受け、それがボクにとってのファミリーカーとなり通勤のアシとなった。程度は抜群に良かったがなにしろ360ccシングルキャブの、しかもオートマ仕様だった。高速の合流地点では常に命がけであった。今は五反田にあるミニカーショップ コジマが未だ八丁堀にあった頃、首都高宝町の進入路で進退極まって動けなかったことを懐かしく(今だからそう言えるが、当時は恐ろしさに冷や汗が出た…)思い出す。休みの日には家族4人乗って「わーい」などと坂道を昇っていると、その脇を歩いている人に追い抜かれた…。それでも家族総出で白いボディの2ドアデラックスを丹念に磨いた。あの頃は、少なくともボクの生活の中では、未だ自動車がステータスであり財産であった時代である。
(続く)
投稿者 平野克巳 : 2007年09月25日 23:28 | トラックバック
2007年09月18日
モデルカーズ的こころ(09)
「日本プラモ今昔物語」はのちに高い支持をいただく人気連載シリーズとなったが、創刊号の時点では国産プラモデルの総括をテーマとした単発企画であった。当時、未だ独身であったボクは実家の元はボクの部屋であったひと部屋にプラモデルを詰め込んだままにしていた。その頃は未だ元気であった父はその倉庫と化した部屋の惨状を見ては「こんなもん、早く捨ててしまえ」とことあるごとに憤慨した。そのプラキットたちがモデルカーズという本によってボクの仕事の材料であり糧となってからもその姿勢は変わらず、いつまでオモチャなんかに熱を入れこんでいるのだ、この半端モンが…とでも腹の中では思っているらしいふしがあった。父の世代にとって男の趣味とは酒であり盆栽でありゴルフであるらしかったが、少年期に培われた趣味を成長したのちも深めるという思想そのものが無かったように思われる。それは大人と子供を垣根で囲って区別する古い社会通念だったかもしれない。だからプラモデルは言うに及ばず、社会人になってからもモーターサイクルに乗ったり、家庭を持ってもGTだのSRだのといったスポーティクーペを欲しがる者たちは、どこかで真っ当な社会人からは逸脱した「ダメ男」の烙印を押されるような風潮が強かった。
そうした世相が残されていた当時、プラモデルを作らずに溜め込んでいるような行為は、大人になれない未成熟さの為せる業と思われても致し方なかったのかもしれない。そもそもプラモデルとは作って壊して捨てるものと誰もが考えていた時代であったから、同好の士の中でもキットフォームのままで溜め込んでいる(当時はコレクションとは呼ばなかった)ようなマニアは極端に少なかった。当然、記憶にはあっても現物は無いのが普通であったので、例えパッケージのみを羅列して掲載する誌面内容であっても、受け取り側にとっては懐かしかったり新鮮だったりしたのかもしれない。ともかく反響の大きかった記事だった。個々にそれぞれの思い出が甦って懐かしかった、という感想をのちに随分といただいた。
誌面に登場したキットの大半はボクの所蔵品であったが、当時でも既に貴重な存在となっていた極初期キットに関してはコレクターT氏の協力によるものであった。T氏は元プラモデル設計者で代表作にはグンゼ1/20トヨタ2000GTなどが挙げられる実力者だが、早い時期からモデルカーズには有形無形の多大な協力をいただいた。当時、彼の自宅は東京の外れに在って、Mクンと良くお邪魔した。キットはカメラによる複写で、当時は未だモノクロ撮影であった。今ならパソコンのスキャナーで簡単に取り込めてしまい修正加工なども容易いのだが、パソコンが存在していなかった当時、良好なコンディションのキットを探すのが必須でありながら最も困難なことでもあった。オークションなどの通信ネットワークも存在していなかった故、ただひたすら人伝手に情報をたぐるような手間のかかる時代であったのだ。情報が限られていた時代なればこそ、他力本願では何もやれないと痛感していた。そこに自らがコレクターとならざるを得ない実情が存在していた。この記事を切っ掛けにしてボクは過去のキットも可能な限り蒐集していく決意を固めた。そして、それはやがて1万数千にも及ぶ膨大なキット数へと脹らんで行くのだった。(続く)
投稿者 平野克巳 : 2007年09月18日 16:08 | トラックバック
2007年09月11日
モデルカーズ的こころ(08)
ジム・クラークと共にボクにとっての青春譜のひとつであったのは日本人初の国際級レーシングドライバー、生沢 徹であった。モータースポーツ後進国であった当時の日本にあって、世界の檜舞台でレーシングドライバーとして活躍することは夢のまた夢であった。そんな時代の中で孤軍奮闘しF1への永い道程を這い昇り続ける生沢 徹の姿には感銘を受けた。しかも企業や財力といった後ろ楯もなく、ただ独り挑戦を続けるその後ろ姿にはもはや悲壮感さえ漂っていた。たったひとりで海外へ旅行することさえ大冒険のように思われていた時代であった。己のみを頼りとし「一匹狼」と呼ばれた生きざまは、平凡な人生から逃れて何か自分らしい生涯を送りたい、と夢見る当時の青年たちにとって憧れであり理想であった。当時の若者たちは皆アイデンティティー探しの旅にさすらっていたのだ。生沢 徹はまさに格好の理想像であった。
そして'64年からは日本製F1たるホンダがロータスやフェラーリ、BRMなどと世界の檜舞台で覇を競っており、日本のモータースポーツファンにとっては日本製マシーンで日本人ドライバーが世界のGPで活躍することを夢見ていた時期でもあった。当然、ホンダF1のシートに最も近く、いつかは実現するに違いないと生沢 徹には誰もが期待した。しかし、結果的には志し半ばにして「刀折れ矢尽きる」ように生沢 徹の世界への挑戦は終わる。それは残酷さ、儚さを避けて通ることは出来ない人生の挫折という教訓でもあった。だからこそ一層ボクたちは共感したのだ。生きることはかくも厳しい、ひとりのスーパーヒーローが身をもって教えてくれた現実を、ボクは記事にしたためアピールしたかったのかもしれない。そして生沢 徹が栄光の頂点への道筋で苦悶し嗚咽し苦闘したマシーンはその象徴のように思われた。ボクはそんなマシーンを万感の思いをこめて作った。選んだのは旧エレール、当時はユニオンの1/24ブラバムF3、そしてニットーの1/24ホンダS800の2台。仕様は'67年ブランズハッチF3レースに出場した際のブラバムBT21コスワース、そして'67年ニュルブルクリンク500kmで総合11位、クラス優勝を飾ったRSC仕様のホンダS800を選択した。どちらも生沢カラーであるホワイトに日の丸のジャパン“ナショナルカラー”である。どちらもコンペナンバーはインレタ、日の丸はペイント仕上げで、生沢のパーソナルマークである丹頂鶴のエンブレムは、ブラバムのデカールから流用したように記憶している。ブラバムはチューブラーフレームのシャシーとボディカウリングが脱着出来るようにしたが、このキットはストレート組みするだけでも中々に難物であった。ホンダS800はキットがS800Mなのでボディを多少修正した程度だが、実は製作時間短縮を目的に、撮影アングルでブラインドになる部分は完全には仕上げていない…。その分、生沢 徹の1/24フィギュアを作って撮影アクセサリーとした。フィギュアはタミヤ1/24キャンパスフレンズセットを骨組みにエポキシパテで自作したものだ。
のちに取材で生沢氏ご本人にもお目にかかったが、「年月とは惨いものだ」と密かに思ったのを覚えている。ご本人が見ておられたら大変ご無礼なことであるが、あの女性のようなハンサムボーイの面影は既に無かった。かく言うボクも歳を取った。今は昔、全ては忘却の彼方の遠い思い出である。(続く)
投稿者 平野克巳 : 2007年09月11日 19:17 | トラックバック
2007年09月04日
モデルカーズ的こころ(07)
モデルカーズ創刊号(それは後になってそう呼ばれたのであって、当時、ボクはスポット、単発、これっきりと思って編集執筆していた。ホンダCB750K0みたいなものである…)には全力投入した。ボクの模型歴25年の集大成のつもりであった。今にして見れば「何だ、こんなモンか」とも感じるが、当時のボクとしては全精力を傾けた。それだけにここぞとばかりに「ボク個人の思い入れ」もふんだんに記事にした。それが「僕の永遠の憧れ ジム・クラーク」であり「日の丸がまぶしかった 僕たちのヒーロー、テツ・イクザワ」であった。
ジム・クラークはボクが少年だった時代からの憧れであった。既に'68年のF2レースで事故死していたが、そうした人物やマシーンを対象にメモリアル的記事にしたためるのは余り一般的ではなかったかもしれない。読者層に支持されるか否かが甚だ疑問な記事内容であったが、ボクにとってはそんなことはどうでも良かった。表現者としてのボクにとって触れずにおけない、書かずにいられない、何かに突き上げられるような気持ちがボクを独走させたのだ。採り上げたのは英ウイリスファインキャスト製の1/25ロータス25。ボクにとっては初めてのホワイトメタルキットだったように記憶する。かねて原宿のキディランドだったか、どこかの店頭で見てその存在は知っていたものの、プラモデルばかりを作って来たボクにとって、既に古く出来も余りよろしくなく、しかも馴染みのない金属モデルなどは敢えて作ってみたいとも思わなかったのだが、メイクアップのショールームで改めて出逢い、どうしても手掛けてみたい衝動に駆られたのだった。それにロータス25など当時は全くモデル化されていなかったことも惹かれた要因として大きかっただろう。案の定、凄まじいキットで閉口したが、人間情熱さえあれば何とかなるものである。未だパソコンなど存在していなかった時代なので、コンペティションナンバーなどは東急ハンズ(今は無き藤沢第1号店だった)でインレタを必死に探した。メタルプライマーやサフェーサーも初めて使用したように記憶する。しかし、1.5リッター時代のF1はフルカバードでエンジンが露出していなかったし、ボディシェルも単純な葉巻型なので、現代のF1 のような煩雑さは一切無く助けられた。それだけに出来上がったその姿は美しかった。現代のF1のようにハイテクの塊の「訳の分からない機械」ではなく、未だ人間が御さねばならない自動車だった時代のマシーンである。コンペティションナンバー4、'62年オランダGP優勝車、ボクも模型を作ることが楽しくて仕方がなかった時代であった。
全ては男が命がけでロマンを追った時代へのオマージュだった。スピードとスリル、そしてその先にある栄光、それらが生と死の背中合わせだった時代へのレクイエムだった。そこには模型の本を創ろうとする意識など無かった。ボクというひとりの模型好きを通じて何かが伝われば良いとしか考えなかった。それは余りにも独善的だったが、それでも共感してくれる同好の士はきっと居るに違いないと信じて疑わなかった。女という生き物が即物家で現実論者なら、男という生き物は夢想家で理想論者だ、とボクは思う。だからレースなんぞにうつつを抜かす。模型なんぞに夢中になる。要するにガキなのである。そんな男たちの水先案内人になりたい、その時のボクは心からそう願っていた。何とも厚かましい限りだが若気の至りなのであろう。今になってみれば気恥ずかしくもあり、また誇らしくもある。(続く)
投稿者 平野克巳 : 2007年09月04日 17:20 | トラックバック
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