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2007年10月31日
モデルカーズ的こころ(15)
前回に続きシャパラル2Dの1/24ウレタンキットの誌上限定販売についての思い出を綴ってみよう。たまさか'87年のラグナセカでシャパラル2Dが走り、それを眼前にしたボクは久し振りシャパラル熱に冒されていたのであるが、そんな個人的ブームがシャパラル2D特集を企画させる一助となったのは事実であった。そして岸田慎一氏にお願いして1/24フルスクラッチモデルを製作して貰った訳だが、折角だからとレプリカの限定販売も併せて企画した。これは業務の一環ではあったが営利目的ではなく、あくまでもMC読者への純粋な還元を目的としたものであった。今にして思えば会社も良く許可したものである。世知辛い現代では「ファン還元サービス」などとても出来ない。
完成品、キット共に誌上で予約を募り、生産完了し次第発送する段取りとなっていた。その生産量も幾つであったかさえもう忘れてしまったが、驚くほどに予約が殺到した。そしてガレージメーカーとしての実績も経験もないボクとしては、全てを岸田氏に委託しお願いした。季節は何時だったろう。納品された膨大なパーツをボクは独りで仕分けし、袋詰めし、箱に納める作業を行なっていた。多分、明け方に近い真夜中であったと思う。編集部には誰も居らず、ボク独りが黙々と作業を続けた。パーツは案外と数が多い。レジンやホワイトメタルやエッチングなど多種多様なものでキットは構成されるのだ。先ずは同じパーツ毎に仕分けし、同じ袋に入れるものを順番に並べた。それを横一列に並べ、キャスターの付いた事務椅子に座ったボクが、横に移動しながらパーツひとつずつを取っては袋に入れる行程を繰り返した。いわば「ひとりベルトコンベア」である。現代のタミヤなどではこうしたパッケージング作業はロボットによるオートメーションを実現しているが、かつては三角巾と事務服のおねーさんや奥さんたちが長い作業台に並び行なう手仕事であった。それはともかく、モデルカーズ模型公司の真夜中の操業は続いた。
そこにひょっこりやって来た幾人かの男たち。それは編集以外のデザインや営業や広告の見慣れた顔の者たちであった。恐らく深夜のデ○ーズで夜食でもかき込んで来たのであろう。現在では同じ社内とはいえフロアも違えば顔も名前も知らない、などという悲しい日常が普通にあるようだが、当時は何れも気心の知れた者ばかりであった。ボクの内職のような光景を面白そうに「それ売ると平野さんは幾ら儲かるの?」と聞く者があったので、一銭も手元には入らない旨を伝えると、急に彼らの顔から笑みが消えた。そして自主的に作業に加わってくれたのであった。「みんなベルトコンベア」である。あの頃は未だそうした朴訥とした仲間意識が強かった時代であった。ひとりが困っていれば誰かが助ける、同じ舟(たとえ泥舟であっても…)に乗った仲間どおし、いわば運命共同体のようなものであった。ドライでクールな現代でも厳しい現場仕事ではそうした気運は廃れてはいないだろうが、それでもなお同僚を気遣う精神的余裕などそうは持てない社会になってしまったかもしれない。残業手当てもなく、徹夜徹夜の連続であったあの頃を思う時、ああした仲間たちが居なかったらボクはきっとモデルカーズを生み出し続けることなど出来なかったに違いない。昨今では馴れ合いなどと形容されて避ける者も多いが、ボクは戦友という存在ほどありがたいものはないと今も信じている。(続く)
投稿者 平野克巳 : 2007年10月31日 01:20 | トラックバック
2007年10月25日
モデルカーズ的こころ(14)
ボクは孤高の戦士が好きだ。そして望みなき戦いの末、非業の末路を辿るような儚さが好きだ。だから映画としては大したものではなかったが“ラストサムライ”の自滅的終焉には共感してしまう。それゆえ損な役回りばかり選んでしまうが、それがボクの美学であるので致し方ない。なので(なので、の意味は分かる人だけ分かって下さい)シャパラルが少年の時分から好きだった。'60年代のカーマガジン(ベースボールマガジン社刊)でボクが最も愛し憧れたのはシャパラルであった。当時はチャパラルと呼ばれていたが、後年逢ったジム・ホール自身は“シャパラール”と発音していた。
シャパラルは他に先駆けてレーシングマシーンにFRP製のバスタブ型モノコックシャーシを、オートマチックトランスミッションを、可変式エアロフォイル(ウイング)を、エアロダイナミクスボディを、補助動力でファンを回すことによってダウンフォースを発生させるグランドエフェクトボディを実戦投入したことで知られる。それは当時、奇抜なアイデアとして半ば嘲笑されイロ物キワ物の扱いをされたが、シャパラルが時代をいち早くリードしていたことはのちのレーシングシーンが物語っている。シャパラルのオーナーでありデザイナーでありドライバーでもあったジム・ホールは、テキサスの石油成金にしてカルテック出身の秀才で、180cmを超える長身と端正な顔立ちも合わせ持つ。まさしく天が二物を与えた典型例で、ボクたち凡人にとっては羨ましくも妬ましい恵まれた生きざまの男であった。可変式のウイング(当時シャパラルではフリッパーと呼んだ)をはためかせ疾走する姿から「白い怪鳥」と呼ばれた2シリーズは文句なくカッコ良かった。ただ、当時の日本国内では未だヨーロッパ権威主義が色濃く、アメリカのモータースポーツを軽視する傾向が強かった。それゆえカンナムシリーズ用マシーンであった2/2A/2C/2E/2G/2H/2Jは余り高い評価を得られず、ヨーロッパの世界耐久選手権に遠征した2Dだけが「真っ当なレーシングカー」として取り扱われていた。
モデルカーズでシャパラルの特集を組んだ際にもそうした過去の経緯を踏まえれば、必然的に2シリーズの中では2Dにのみウエイトを置かねばならなかった。しかし1965年に大フィーバー(死語である)したスロットレーシングカーブームの際のモデルを除けば、その後のプラモデルでもダイキャストミニカーでもシャパラルは皆無に等しかった。良くもこれだけ徹底して異端視されたものだ。たまさか当時、勢いをつけつつあった英国マーシュモデルが1/43シャパラル2Dを新たに発売し、それに合わせるようにしてシャパラルの特集を組んだ。当然のこととして1/24モデルも必要とされたので、当時、モデルカーズが誇る製作スタッフのひとりであり、国内におけるスクラッチビルダーの第一人者であった岸田慎一氏に特集用の1/24フルスクラッチモデルを頼んだ。現在では考えられぬ贅沢な企画である。そして、それだけでは勿体ないので、そのモデルをモデルカーズ読者にも還元すべく、レジンレプリカを誌上で限定販売した。岸田氏自身のフィニッシュになる完成モデルとキットフォームのふたとおりの形態であったが、予想以上の反響を呼んで即日完売となった。その後はモデラーズからも発売されたのはご承知のとおりで、20年の歳月を経て「いっときのシャパラルブーム」は熱い盛り上がりを見せたのだった。(続く)
投稿者 平野克巳 : 2007年10月25日 22:50 | トラックバック
2007年10月17日
モデルカーズ的こころ(13)
モデルカーズ通巻4号には今ひとつ忘れられない記事がある。「マルサンの残像」と題した特集がそれだ。プラモデルメーカーであるマルサンが消滅して当時既に20年、人々の記憶の中でも遠い追憶の彼方のブランドとなっていた頃だ。マルサンは国産プラモデルの始祖として歴史に名を残しているが、実は当時取材を開始して初めてマルサンが企業として存続していることを知った。デザインこそ多少異なっていたが、工場の壁に掲げられたマルサンの丸いブランドマークに郷愁を掻き立てられたのは言うまでもない。
ボクがマルサンの石田 實社長宅を初めて訪ねたのは水温む春の頃だった。当時、石田氏は上野不忍池のほど近く、台東区池之端にお住いであった。不忍池界隈には桜吹雪が舞っていたのを良く記憶している。既に石田社長は体調を崩されており、ボクが伺った時は既に手術の為のベッド待ちをされているとのことであった。ボクの取材意図を理解して下さり、そんな体調をおして取材に応じて下さったのだった。自らをテキ屋と呼び、マルサン商店の前身時代の話を伺えたのは貴重な体験であった。その後、程なくして石田社長は物故されたが、あの嗄れ声のべらんめえ口調は忘れられない。
その後、マルサンのプラモデル部門を実質的に率いられていた元ミノル合成専務、五島 彪氏を船橋のご自宅へと訪ねた。五島氏はとても実直な方でボクはとても良くしていただいた。都合、何度もお話を伺いにご自宅を訪ね、何か分からないことができると五島氏に尋ねることが習慣のようになっていた。その五島氏も既に逝去されて久しい。
金型の現場のお話は現秋東精工社長、柴田幹雄氏から色々と伺えた。かつて秋田から裸一貫で上京しマルサンで住み込みで働いた経験を持つ柴田氏には、マルサンの旧マルサン共同作業所、旧マルサン精機、旧ミノル合成など旧関連施設跡をわざわざクルマで回って下さったり本当に良くしていただいた。F-111の金型を製作中のある日、マルサン倒産の知らせを聞いた思い出などは、伺うボクにも胸に迫るものがあった。
台東区寿(旧浅草寿町)のマルサン商店本社社屋跡は、ほぼマルサン時代の面影をそのまま残しており、当時はマツケイという玩具問屋になっていた。許可をいただいて社屋内に入ったが、年季の入った太い梁に支えられた木造の薄暗い土間に立つと、マルサン時代の光景が眼前に浮かぶようであった。そして茨城県小貝川のたもとに建つ旧マルサン茨城工場の外壁に微かに残る「赤丸に黒字でSAN」のブランドロゴマークを発見した時には、万感迫るものを感じカメラのファインダが滲んで見えた。これらの事柄は何れも記事にしたためたが、それには後日談がある。それは幾年も後、小松崎 茂画伯の元に取材に伺った際のことだ。ボクの仕事を理解していただくことを目的に、名刺代わりにモデルカーズ4を持参したのだが、その翌朝、先生ご自身がボクに電話を寄越された。開口一番「あんた凄い人だねえ。マルサンの記事、一気に読みました。小貝川のたもとでマルサンのマークを見つけたくだりなんて、涙出ちゃったよ」と、一気に20分ほどもまくし立てられた。ボクにとっては最高のお誉めの言葉であった。あの小松崎先生がボクの仕事にそんな評価をして下さった。それは今もボクの人生における最高の勲章となっている。(続く)
投稿者 平野克巳 : 2007年10月17日 16:37 | トラックバック
2007年10月09日
モデルカーズ的こころ(12)
モデルカーズ通巻4号はボクにとって最も思い出深い1冊だ。自画自賛するつもりはないが編集方針も体制もようやく本格的な体裁を成すに至り、どこに出しても恥ずかしくない内容を持っていたと思う。モデルカーズグラフィティでは本田技研の協力により現存するホンダRA272改F-1の実車取材を敢行した。当時は未だ未整備状態の不動車であったが、本田技研のご厚意によってカウリングも全てバラしてディテールまで撮影することが許された。ただ予定していた取材日が生憎の雨模様となり、鈴鹿サーキットコース上での撮影が叶わなかったのが心残りではあった。それでも日がな暗い鈴鹿の倉庫に篭っての撮影は楽しかった。あの少年の日に心ときめかしたホンダF-1の現物が、今はボクの眼前にある。リッチー・ギンサーが、ロニー・バックナムが世界のサーキットを駆けたマシーンそのものに、今ボクは触れている。劈くような、しかしえも言われぬほどに官能的なホンダ・ミュージックこそ奏でてはくれぬが、'65メキシコGP優勝時にお色直しされたその姿は見飽きることがなかった。当然のことながら鈴鹿の倉庫にはギンサーの車番11号車とバックナムの車番12号車のRA272改の2台以外にも、RA273、RA300、RA301、RA302と歴代のホンダF-1がズラリと並んで保管されていた(当時RA271はここにはなかった) その光景はホンダフリークスならずとも壮観の一語に尽きた。巷間伝わるとおりRA273のモノコックはまるでシャチのように太く逞しいのが印象的だったが、それに負けず劣らずRA272改のモノコックボディも幅広く大きかった。あの小柄なリッチー・ギンサーにとってこの仕事場は窮屈には程遠いものであったろう。実際ボクもコクピットに座らせて貰ったが、ロータス24や25などと比較すると実に広い空間が確保されていた。V12横置きエンジンの恩恵(?)である。
ホンダRA272改については現在は決定版とも思えるタミヤ1/12ダイキャスト完成モデル、1/20プラモデルキットがあるが、当時RA272改のスケールモデルは皆無であった。そこで冒頭特集に小森康弘氏による1/43モデル、岸田慎一氏による1/24モデルをフューチャーした。勿論どちらのモデルもワンオフであった。要するに本誌を見た読者諸兄にとっては「入手することの叶わぬモデル」ばかりを眺めさせられる結果となる訳だ。現在のモデルカーズならそのような編集内容は企画の段階で却下であろう。手に入れられぬモデルを紹介して何とする、と罵倒さえされかねない。要するに当時と現在とでは同じモデルカーズであっても編集方針が天と地ほどに異なっているのだ。現在ではバイヤーズガイドとしてお役立てされぬ本など「本の風上にも置けぬ」独善的な存在でしかない。対して当時の基本理念は「趣味感覚を味わい楽しみ磨く」ものであって、簡単に言ってしまえば同好の志たちの精神的支柱たらんとした編集方針であった。雑誌は時代によって変化する生き物であるから、どっちが正しくてどっちが間違っている、というような比較論は成り立たぬ。強いて言うなら読者としてどの時代に立ち会うことが幸せであるか、というくらいのものだろう。そして、それについてはボクたち当事者が云々すべきことではなく、読者の皆さんの判断に任せるものだとボクは考えている。(続く)
投稿者 平野克巳 : 2007年10月09日 17:36 | トラックバック
2007年10月03日
モデルカーズ的こころ(11)
プールから子供たちの喧噪が消え、雑木林の蝉時雨が止んで、街に静寂が訪れた。季節はもう秋を迎え入れようとしている。そんな四季折々を感じながら日々を生きていると、この一瞬一瞬がとても愛おしい。人はやはり自然と共に生きなくてはならない。四季の季節に憂い嘆き喜びながら…。それが人生というものだろう。だがかつてのボクにそんな余裕などはなかった。精神的にも物理的にもだ。期せずしてモデルカーズを継続して編集執筆することとなったボクには、ただただ寝ても覚めてもモデルカーズしかなかった。まさに全身全霊をかけてこの本にボクの人生の全てを捧げる決意であった。当初3号までは年1回、4号からは年2回の発行であった。月刊や週刊に較べれば「無限に時間があるがごとき」気楽なペースと思われるであろう。だが、実際にはそうではなかった。レイアウトまでの行程はボク独りが全てをこなさねばならず、たまに援軍を頼んだとしても、企画草案から台割作成、取材のアポイントメント、国会図書館や自動車メーカーなどでの下調べや取材、そして実際の撮影やインタビューなどの取材、イラストの作成、模型やディオラマなどの製作、原稿書き、などなど、全てはボク独りの責任にかかっていた。元来スケジュール調整の不得手だったボクにとり、要領良く全てを進行させるには余人には分からぬ苦難と苦痛を伴った。それでもボクは必死に日々働いた。その原動力はクルマとその模型が好きだったからに他ならない。
当時のボクはとても貧しかった。妻と子供二人を抱えて、古い小さな借家暮らしをしていた。ただでさえ狭い家には至る所に資料の本や模型が溢れていた。家財道具の殆どは粗大ゴミに捨てられていたものをリペアしたものだった。小さなパイプ机の上には中古のワープロと模型製作の為の塗料や工具一式、それがボクの生活の全てだったと言ってもいい。勿論、夜はその足元に布団を敷いて夫婦二人が寝る。編集業務が中盤に差し掛かる頃にはひたすら原稿書きに没頭するのだが、そのひと月ふた月の期間は睡眠時間も毎日3時間程度しか取れなかった。その僅かな睡眠も部屋に積まれた書籍や段ボール箱の山で、足を伸ばして眠ることさえ叶わなかった。それでも明け方まで原稿を書き、朝8時過ぎには既に机の前に戻っていた。机から離れるのはトイレと風呂くらいなものであった。食事でさえもワープロを睨みながら机で摂った。「お父さん、お仕事してるからね」それがその頃の妻の口癖であった。未だ幼かった子供たちは子供らしく騒ぎはしゃぐことさえ禁じられたのだ。長女が生まれて暫くの間、夜泣きする娘を抱いた妻は夜更けに町内を彷徨った。実のところ、それほどにまで家族を犠牲にしつつ、ボクはモデルカーズを創った。今だから言えるが、そうした家族の有り様はボクに生涯消えぬであろう慚愧と痛恨の念を残している。一番可愛い盛りであろう3歳から5歳の時分の子供たちの記憶がボクには何もない。全ては妻に任せきりで、ボクはモデルカーズにだけ没頭していた。それでもボクは良かった。ボクにとってモデルカーズとはそれほどに心血を注いで余りある対象だった。ボクは家族を犠牲にしてまで何を残せたのだろう。それで良かったのだと言い切れる資格がボクにはあるのだろうか。「お前はそれだけの価値ある仕事を世に残せたのか?」そう常に自問自答している。だが、その答えを出せるのはボクではない。(続く)
投稿者 平野克巳 : 2007年10月03日 01:03 | トラックバック
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