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初代編集長 平野克巳の「猫の耳に大仏」湘南鎌倉便り


モデルカーズの生みの親、平野克巳氏による目からウロコの模型小噺。さぁどんな話が飛び出しますか。乞うご期待。

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2008年02月

2008年02月27日

モデルカーズ的こころ(26)

うちのにゃんこたち、ちかごろめっきりギガンティックカワユス(>w<)

おまいらも猫リポートの詳細報告きぼんぬ

それよかPYSじゃねーの

じゃあの。

( 註:PYS プラモやらずに死ねるか )


ワシも人気ブログ風を装ってみますた…。

で、唐突ではありますがこの場を借りて告知をさせていただきます。

【モデルカーズ製作スタッフ募集のお知らせ】

モデルカーズ誌上の「鉄の馬歴史館」および「古典キット倶楽部」で自動車、モーターサイクルのプラモデルキットを製作していただけるモデラーを募集致します。年令、性別、職業、経験の如何は問いませんが、いくら借りたいとはいえ猫な方のご応募は出来ません。また目があがって30センチ四方以下のものには焦点が合わない、プラモデルを作ると北国へ旅に出たくなってしまう、その際肴は炙ったイカでいい、腰痛が酷くてドラムスしか叩けない、奥さんが恐くてプラモデルという言葉を口に出せない、プラモデルを本能的に嫌悪している、プラモデルとはどんなモノなのか知らない、などの症状が慢性的にある方のご応募はご遠慮下さい。仕事内容はこちらの提供するキットを指定によって完成させていただきます。基本的にはキットストレート組みですが、場合によっては修正、改修をお願いする事もあります。モーターサイクルキットではワイアスポークホイールを編める方歓迎です。ある程度の実車知識を有し、自身でリサーチや考証の可能な方を希望します。掲載記事の性格上、ヒストリックモデルが大半を占めますので、旧車ファンであることも必須条件となります。完成モデルの肖像権、所有権は弊社に帰属しますが、所属クラブ展示会などへの貸し出しはご希望があれば随時行います。製作期間は通常1ヶ月半から2ヶ月程度です。決して優遇された条件ではありませんが、共にモデルカーズを盛り立てて下さろうとする熱意のある方のご応募をお待ちしております。応募に際しましては、実際に製作された未発表完成モデル乃至はその写真、画像データなどのご提出をお願い致します。なお、ギャランティなどの諸条件、その他詳細につきましてはモデルカーズ編集部まで直接お問い合わせ下さい。

投稿者 平野克巳 : 2008年02月27日 17:34 | トラックバック

2008年02月21日

デルカーズ的こころ(25)

 戦前戦中は思想教育の一貫として模型が学校の授業に採り入れられていた。それは主に模型飛行機、ライトフライヤーであった。その名残りもあって戦後も我が国では模型というと飛行機、それもライトフライヤーを指すことが多かった。ボクは昭和28年生まれであるが、やはり小学校の図工ではキビ細工をやった記憶があって、確か飛行機を作ったと思う。ボクらの世代は工作といえばボール紙やキビ、石膏や粘土などを使ったものを意味していたと思う。学校の授業にあったかどうかは失念してしまったが、ライトフライヤーも随分沢山作っては遭難させた(ちゃんと作るのは難しく、大抵は在らぬ方角に飛んで行ってしまい回収不能となった)
 模型と名のつくものは色々あったが、やはりソリッドモデルと鉄道模型が当時の模型の花形であった。鉄道模型はOゲージやHOゲージが主流で、車体をボール紙で作っていた時代だ。模型と名のつくぐらいであるから、現在のように塗装済み完成品を買って遊ぶのではなく、動力部の部品を自分で組み立て、車体は自作する、工作が主体のホビーであった。ソリッドモデルとはあくまでも総称なのだが、一般的にはライトフライヤーのような実際に空を飛ばすものではなく、木製のスケールモデルを指した。要するに姿形をいかに実物に似せて作るかが要点で、実物の機能は求められてはいない。このソリッドモデルも主に飛行機のジャンルを表す名称となっていたが、プラモデルはこのソリッドモデルに替わる新たなアイテムとして登場した訳だ。
 ソリッドモデルを完成させる行程には熟練の技と知識が求められた。図面をひき、木材を図面に照らし合わせて削り出し、組み立て塗装する。当然キャノピーなどは木材では作れないので、塩ビ板などのプレス技術も必要であった。ひとくちに削ると言ってもプロペラブレードなどは「捻れ」も再現しなくてはならない。ソリッドモデルとはある種「堀越二郎」的な航空機の知識と「左甚五郎」的な匠の技がなければならなかった。ある意味での特殊技能である。
 しかしプラモデルの出現はそうした「模型の特殊性」を払拭した。ソリッドモデルと同等の、あるいはそれ以上の水準を、誰にも容易く可能とさせたのだ。まさに戦後インスタント文化の申し子と言えよう。しかし、いつからか「簡単であるべきプラモデル」が特殊技能による芸術品と考えられるような風潮へと転化してしまった。それをボクは日本独自の文化、大和民族ならではの生真面目さ故と考えている。まあ、それはそれで構わない。そうした志向が自らの首を絞める結果にならねば良いがと願うのみである。ただプラモデル世代の問題点はソリッド世代と違っていちから作り出すことが出来ない点にある。つまりスクラッチが不得手であるということだ。よく作品でプラキットの原形を留めぬまでの極端な改造や修正を施した例を目にすることがある。そこまでやるならなにもプラモデルをベースにする必要はあるまい、ハナからスクラッチしたほうが容易いし気分も良いのではないか…そう思う。だが、そこにプラモデル世代のアキレス腱がある。修正加工は出来ても生み出すことに長けていない。そこに日本文化との類似性を思わぬでもない。(続く)

投稿者 平野克巳 : 2008年02月21日 12:48 | トラックバック

2008年02月13日

モデルカーズ的こころ(24)

 ジョン・サーティースのインタビューほど印象に残っているものはない。既に忘れてしまったがかなり長い時間をインタビューに費やしてくれた。年令は重ねても温厚でジェントルな英国紳士然とした物腰、風貌は何ひとつ変わっていなかった。などと申すとあたかもボクが若き日のジョンを知っているようだが、ボクの知っているジョン・サーティースはあくまでも雑誌の写真や文章からの勝手なイメージでしかない。だが現役時代から随分と時が流れてもジョン・サーティースはやはり“ビッグジョン”と呼ばれた「あの」人柄そのものであった。ボクの質問はおそらく面倒なものばかりであったと思う。何しろ196×年の○×グランプリの時のあれは本当のところどうだったのか?などといったピンポイント的なものばかりであったからだ。何しろ30年もの間、聞きたい事は積もりに積もっていた。そんなボクに嫌な顔ひとつせずに丁寧に丹念に事細かに、とてもフレンドリーな雰囲気で答えてくれた。しかも、ひとつの質問に対して「それについては1年前のこの話からしないと分かってもらえないと思うから、そこから話したいのだけれど良いだろうか」と提案してくれるような塩梅で、当然、インタビュー時間が幾らあっても足りない状況になってしまった。結果として予定していた時間が終了しても、話の顛末はついておらず、さりとて彼はその後のスケジュールが決まっているので延長するという訳にもいかなかった。しかし「君の質問にちゃんと答えられないのは残念だ」とどこまでもボクの身になって考えてくれ、「明日の午前中ならホテルに居るから答えられるよ」と申し出てさえくれた。ボクが翌朝早くから彼の宿泊しているホテルに出向いたのは言うまでもない。ジョン・サーテイースとはそういう人であった。だからこそホンダのF-1第一期参戦時代、自らホンダに乗りたいと申し出、ローラの設備、マシーンを提供するなどホンダの活動の為には骨身を惜しまず協力し、それでいて自分のチームであるなどと主張するような出しゃばった態度など見せない真摯さで、控えめであくまでの自らの分をわきまえた、どこまでも紳士であり続けたのだろう。英国紳士とはこういうものだ。人格者とはこういう人を指して言うものだ。ボクは世界最高峰のドライバーに会えた喜びよりも、ひとりの崇高な人格の持ち主に出会えた事が嬉しくてならなかった。多分、彼からしてみれば、ボクなど'60年代のレーシングシーンを何も知りもしない若造にしか映っていなかった筈だ。それでもボクには最大限の敬意を払ってくれた。人間は本当に素晴らしい、本当に素敵だ、と感じさせてくれた出会いであった。
 ボクは自動車が好きで、模型が好きでこの本に携わるようになったが、その過程で様々な人々と出会ううち人が本当に好きになった。そんな訳でボクは今でも性善説に基づいて生きている。それはある意味で無防備であり、余りにも不用意であると他人は言うかもしれない。あるいはそうなのかもしれない。だがそれで傷付いても構わないとボクは思っている。ただ経験で学んだ事がひとつだけある。模型を好きな人に悪い人は居ない。その思いが今もボクにとってはモデルカーズへの、プラモデルへの原動力になっている。(続く)

投稿者 平野克巳 : 2008年02月13日 23:28 | トラックバック

2008年02月06日

デルカーズ的こころ(23)

 最近になってこそ国内の自動車メーカーも自社の歴史を大切にするようになり、それに伴って過去のモデルなどの蒐集保存にも力を注ぐようになった。とりわけトヨタやホンダなどはヨーロッパのメーカーのように自社のミュージアムなどの建設にも尽力し、新車のように素晴らしいコンディションの歴代車種を一般にも公開している。しかし、たかだか20数年前にはそのような状況はなく、かつて活躍したレーシングカーなどは倉庫の片隅などで埃にまみれて埋もれていたのが実情だった。例えばニッサンR380系プロトタイプなどもそんな状況の中で取材した。'66年に活躍したR380-2は当時、形骸化した記念碑のようなものに過ぎず、全く実動するようなコンディションにはなかった。黒の革巻きステアリングホイールが軽飛行機の操縦桿のような形状に切り飛ばされており(現在ではF-1なども円形ホイールではなくなったが…)、劣化した革の表面が薄紫色に褪色していたのを印象的に記憶している。そんな時代に、ひとつだけ小さな誤算とも言えたのが、'58年オーストラリア・モービルガストライアル(豪州ラリー)でAクラス優勝、同クラス4位入賞を果したダットサン210型“富士号、桜号”であった。日産追浜工場の倉庫から敷地内へと縦列隊形を組んで自走して登場したその姿は、程よく整備され磨き込まれていていかにも大切にされている、という風情に溢れていた。倉庫の片隅から明るい陽光の下へと2台仲良く並んでトコトコ進むさまは、何とも愛らしく微笑ましかった。小豆色の富士号とクリーム色の桜号の車体には、その名のとおり富士山と桜の枝振りが描かれており、昨今の戦闘力第一主義の権化のごときラリーマシーンにはない、遊び心と精神的余裕のようなものが感じられた。しかし、この小さな積み木のような姿のセダンでオーストラリアの原野を疾走する気分は如何ばかりであったろう。おそらくは悲壮なまでに相当な覚悟が要ったのではなかったろうか。きっと大和魂とか侍魂とかいった今では死滅したような精神論を糧に走り抜いたのに違いあるまい。そして、それには余りにも脆弱そうな愛らしい佇まいであった。
 同じ追浜工場内にはモンテカルロラリーを走ったダットサン240Zも保管されていた。保管されていた、というよりは、ラリーから帰ってそのまま放置されていたという風情であった。ボディは滅茶苦茶に破損したままであったし、車体全体に積もった埃は長い年月をも感じさせた。スパルタンなコクピットも往時のままらしく、操作類のグリップやスイッチなどは幾つもが紛失していた。実戦時の姿をそのまま伝承している、と見るべきなのか、役目の済んだものはいまさら価値もない、と放り出されている、と見るべきなのかは判断がつき難いが、一抹の寂しさを覚えた事だけは記憶している。のちにラウノ・アルトーネンがインタビューでコクピットに座り、シフトレバーとサイドブレーキを片手で同時に掴み「マイ・テクニック」とウインクしてみせたのも懐かしい思い出だ。そして、そのテクニックの内容は?との問いに、それは秘密だ、と悪戯っぽく笑った少年のような笑顔も忘れられない。全ては今は昔、遠いモータースポーツシーンへの郷愁となってしまった。(続く)

投稿者 平野克巳 : 2008年02月06日 18:42 | トラックバック

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