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2008年05月30日
モデルカーズ的こころ(33)
法事に行った。母方の祖母の十七回忌の法要である。十七回忌であるからこれで終わりにすると言う。これで増々親戚とは疎遠になってゆくのだなと思った。母の弟、ボクにとっては叔父にあたるコーちゃんも歳を取った。腰が痛くて歩けぬと言う。実際、その弟のカッちゃんは糖尿から来る腰痛で法要を欠席した。かつて親戚が集まれば20数人は居た血縁者もこの日は僅かに4人となった。寂しい法要である。法要のあと、船橋駅近くで鰻を食べた。江戸時代より商う由緒ある老舗である。こうした店もすっかり減って、今ではどこでも見られる全国チェーンのフランチャイズ店ばかりが居並んでしまった。高架になって京成線の大踏み切りも姿を消してしまったし、アサリだの落花生だのの露店商も居なくなってしまった。あのスピードを出すとガタゴトと横揺れした京成電車も、今では妙にこじゃれたステンレス車輌だ。“♪ルンルン京成”の車内BGMも聞かれなくなって久しい。故郷を持たないボクにとっては田舎に帰るような気分にさせてくれる数少ない機会であったのだが、それももはや遠い日の郷愁でしかなくなってしまった。
祖父母の暮らした家も取り壊されて空き地となり、今ではコーちゃんが耕す家庭菜園となった。ほんの猫の額ほどの土地でしかなく、こんなにも狭い場所で祖父母は数十年を暮らしたのかと思うと寂寥感がいや増す。時代は誰に遠慮もせずに、生真面目に律儀に時を刻んでゆき、現在を過去へ、過去を忘却へと連れ去ってゆく。いつかボクの暮らしもそのようにして消えてゆくのだろう。先ず猫たちが、そしてボクと妻が永遠に旅立ってゆく。そのあとボクの家はどうなっていくのか。多分取り壊されて跡地は見知らぬ人に売られるのだろう。そして子供たちは自分の生活へと散り散りになることだろう。そうしてボクの生きた痕跡はこの世から消えていくのだ。人生とは、生きるとはそういうものだと思っている。ただ、もしかすると幾人かの人々の本棚にだけはボクの書いた拙著が残されるのかもしれない。恐らくそれがボクの生きた証しである。そしてそれこそがボクの最も望むことである。だから赤貧に喘ぎながら今日も文字を紡ぎ続ける。それが人生だ。ドラマチックなことは何もない。ただ淡々と生き、そして死ぬ。そうしたものだと思っている。
今でもモデルカーズのバックナンバーを大切に所蔵して下さっている方々が居る。ありがたいことである。だが所詮は雑誌である。その名のニュアンスからも感じられることだが、雑誌とは所詮読み捨てにされる存在である。それには余りに惜しいのが過去に連載し、現在も連綿と続いている「古典キット倶楽部」である。もはや手に入らぬキットを惜し気もなく製作しご紹介したこのシリーズは、そのまま葬り去られるには余りに惜しい。そこでかねてより編集部には改めて一冊の本として上梓出来ぬものかとお願いし続けている。今井科学1/16ポルシェ906、コグレ1/16フォードGT40、コグレ1/12ロータス33、コグレ1/20ロータス、エリート/エラン、コグレ1/22ホンダS500…コグレばかりだな…。ともかく'60年代の傑作キットたちが綺羅星のごとく居並ぶ本は、永久保存版として多くの書架を飾ることとなる貴重な一冊となろう。ボクのプラモ人生においてももの書き人生においても何とか実現したい本の筆頭のひとつである。(続く)
投稿者 平野克巳 : 2008年05月30日 02:39
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