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2005年11月

2005年11月25日

★フェラーリ イン ザ バブル 第18回 和菓子、洋菓子、スーパーカー

050726 001小.jpg(前回からつづく)岐阜県大垣市で洋菓子店「チェリー」とともに、スーパーカー販売店「オートガレージモトヤマ」を営む本山氏の場合は、かなり事情が異なる。
「私はもともとケーキ職人なんです。実家が和菓子屋をやってまして、これからは和菓子より洋菓子だと思ってそっちの修業をして、親の土地建物に店を開きました。家賃もなんもかかりませんから、自然、お金が貯まって、好きだったクルマを買い始めたんです。
 トヨタ2000GT、ハコスカ、ケンメリのGT-R、Z432など、最初は国産車が好きで、買い集めました。特に2000GTは6台も持ってました。私、2000GTは今まで全部で30台近く買ってますね。100台は乗ってます(笑)。
 それが、ポルシェの73カレラRSに乗って世界が変わって、外車を買うようになりました。
 コレクションがだんだん多くなって、16~7台になったでしょうか。5~600万で買った2000GTは2000万円になりまして、フェラーリの365BBやディーノ206GTなども持っていました。いろんなツーリングに顔を出して、知り合いも多くなった。それで、クルマ屋ができるんじゃないかと思ったんです。平成元年の後半でした」
 平成元年、つまり89年、本山氏は、ケーキ屋の横でスーパーカーを売るという、一風変わったスーパーカーショップ『オートガレージモトヤマ』を開店する。(以下次回)

投稿者 MJブロンディ : 2005年11月25日 22:18

2005年11月18日

★フェラーリ イン ザ バブル 第17回 転売

(前回からつづく)
「でも、仕入れるクルマが全部損失を出していたら、やっていけないでしょう?」
「大きな損失は最初だけで、その後は、バートナーから送られてきたクルマをすぐに同じ値段で業販したりして、なんとかしのいでいました」
「つまり、例えば2000万円で入れたものを2000万円で転売していたということですか」
「そうです。ですから当時は、うちが仕入れたクルマがずいぶん業界に流れていましたよ(笑)」
 そのパートナーとは今でも契約が続いていて、現在売っている新車のF430も、彼から仕入れているということだ。
「バブル期は、今思えば夢を見ていたようでした。バブル崩壊で、我に返ったんです。原点に戻ってやらなきゃいけない、今は耐える時期だと思いましたね。幸いうちは、もともと部品の輸入やメンテが中心でしたし、自社ビルでしたから、なんとかやっていけました。賃貸だったら、難しかったかもしれません」
 92年12月、切替氏が最後のF40を4000万円で手放し、1億6000万円の損失を確定させた頃には、フェラーリ価格の暴落もある程度落ち着いていた。まだ下がり続けてはいたが、それほど急激なものではなくなっていた。 (以下次回)

投稿者 MJブロンディ : 2005年11月18日 16:22

2005年11月11日

★フェラーリ イン ザ バブル 第16回 総本山

050715 004小.jpg(前回からつづく)フェラーリの輸入台数は、90年の447台(正規150・並行297)に対して、91年は596台(正規276・並行320)。正規ものの正価は、91年中はバブル崩壊後でもまだ相場より低かったから増加していても納得できるが、並行ものもわずかに増えている。暴走列車は、止めようにもすぐには止められなかったのだ。
 ちなみにディノでは、バブル期、年間150台ほどフェラーリを売っていて、そのうち「半分くらいが新車だった」という。つまり、70台前後。中古も含めれば、わずか1店で正規代理店のコーンズに迫る台数であり、しかも全車種即納可能だったから、日本におけるフェラーリの総本山は、コーンズではなくディノ、という風潮すら生まれた。
 しかし、上り坂が急ならば、下り坂もまた急だった。
「切替さんは、バブルが崩壊してフェラーリの値段がどんどん下がり始めた時、どんなふうに思われましたか」
「割合冷静でした。というのは、土地はもう下がり始めていましたから。これは仕方ないな、と思いました」
(以下次回)

投稿者 MJブロンディ : 2005年11月11日 17:48

2005年11月 4日

★フェラーリ イン ザ バブル 第15回 損失

(前回からつづく)
「92年12月ですね‥‥。4000万。4000万ですよ」
 F40の値段は、2年弱で5分の1になったのだ。
 ちなみに、92年12月30日(大納会)の日経平均株価は1万6924円。3年前のピーク時の半分弱程度である。
 ディノの切替氏も、かなりの痛手をこうむった。
「私は、ヨーロッパのパートナーと契約があって、バブルが崩壊したからと言って、輸入をやめることができなかったんです」
 切替氏のパートナーは、ヨーロッパ中のフェラーリディーラーから新車を買い集め、ディノに送っていたのだという。つまり一種のブローカー業だろう。
「バブル当時は、彼がぼんぼんとフェラーリを日本に送って来ましたよ」
「そりゃまあ、入ればすぐに売れてしまうわけですから、ぼんぼんで良かったわけですね。しかし、バブルが崩壊したのにぼんぼん送られてしまったら、困ったでしょう」
 氏は、ほんの一呼吸置いて応えた。
「当時うちは、フェラーリの全モデルの新車を置くことにしていましたからね‥‥。フェラーリ全モデルを即納できるようにしていたんです。当時ですから、テスタ、412、348、モンディアルあたりですか。うちのショールームは全部で20台くらい置けますから、それが全部損失を出しました。F40に関しては、結局収支はマイナスでした」 (以下次回)

投稿者 MJブロンディ : 2005年11月 4日 22:32

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