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2007年06月

2007年06月19日

スクランブル・カー・マガジン 60号

blog1s.jpgこのスクランでは、アストンマーチンDB4GTザガートが特集されている。当時は薄くてすぐ読めてしまうカーマガジンだったが、この特集は何度読み返しても飽きないほどすばらしかった。なぜなら私はこのクルマが大好きだから。こんな美しいクルマがあるのか、と最初に他の雑誌で見て思った。こんなに美しく、繊細なボディをまといながら純レーシングマシンなのか、と。同時代の他のレーシングマシンやロードスポーツも十分に美しかったが、DB4GTザガートだけは別格に思えた。そしてこれは私が心から欲しいと願った最初のクルマだ。「いつか手に入れるオレのクルマリスト」の筆頭に今もある。

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本誌では、イギリスにある2台と、フランスにあるホワイトの1台(第1回日本グランプリで走ったモデルそのもの)を取材するとともに、当時この日本ですでに男の夢を実現していた中内康児氏所有の濃紺のDB4GTザガート(レジスターナンバー・22XKK)も紹介している。この22XKKは日本に来た当初、あの小林彰太郎氏が共同で所有されていたモデルで、カーグラフィック80年2月号で小林氏自身がレポートしている。中内氏は後にF1ブラバムチームのオーナーになられるほどの日本人離れした方だが、そのずっと以前から筋金入りのエンスージャストでもあったのだ。その後このDB4GTザガートの姿がまったく日本のメディアに登場していないことから考えると、おそらく再び海外へと売却されていったのだろう。最近の海外オークションに出品されるDB4GTザガートの落札価格は、たいてい十の桁に近い数億円まで上昇しているようだ。遠いなあ。もう手が届かないのか。あきらめるか。クルマは他に星の数ほどある。だがそんなとき、このスクラン60号をひっぱり出してきて読む。この濃紺のアストンをひとしきり運転する、頭の中で。そうすると、あきらめずがんばろうと思えるのだ。

2007年06月20日

究極のワンオフ・スペシャル - カーグラフィック1988年12月号より 

blog4.jpgイギリスにすごい親父がいた。ここで紹介されているクルマと、それを作った親父は本当にすごい。北アイルランドで計測器工場を経営する叩き上げの精密機械エンジニア、デビッド・ウッズは、元バイクのレーサーだった友人とともに理想のクルマを設計する。1950年代の半ばだ。デビッドはクルマのほぼすべてを設計した。エンジン、フレーム、サスペンション、ブレーキ、そしてボディまで。エンジンはドライサンプの1413cc空冷直列6気筒で前輪を駆動し、最高出力は136馬力。車両に載せる前に20,000キロ相当をテストベンチ上で回したと書かれているから、耐久性も問題ない。それよりも驚くべきはその馬力だ。リッター当たり97馬力。時代は1960年代初頭である。50年代グランプリマシンでもそこまでは到達していない。しかもこれは耐久性を考慮して、おとなしめのカムを組んでいながらの数値なのだ。ピストンこそマーレの鍛造を用いたが(最初は自製したが、思ったほど軽量化できず断念したとのこと)、三分割のクランクシャフト、コンロッドはデビッドが削り出し、他の部品も彼の工場内でほとんど作り上げられている。
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シャシはチューブラーフレームで、ボディはラバーブッシュを介してその上に載っている。サスペンションは4輪ダブル・ウィッシュボーン、ブレーキは4輪ともディスクで、キャリパーもディスクもデビッドが自分で作った。ちなみに、当時4輪ディスクブレーキを備えるロードカーは存在していない。ボディデザインおよび製作に関しては、当初イタリアの名だたるカロッツェリア数社に打診した。だが、いずれもまともに取り合ってくれないか、あるいは高額な代金を要求された。結局デビッドは古い知り合いだった無名の板金職人ビリーに製作を依頼することになる。ビリーはデビッドが描いたスケッチだけを頼りに、図面もなしにボディを作り上げた。構想から完成まで13年の歳月を要したこのクルマは、デビッドと友人のイニシャルをとってDAWB6と名づけられた。テストドライバーをつとめた友人いわく、エンジンサウンドは素晴らしく、信じられないほどスムーズで振動はほとんどない。ロードホールディングも素晴らしく、オンザレールでコーナーを抜ける、とのことだった。理想を追求し続け、既成の部品をほとんど使用しなかったこともあり、完成したのは1960年台の後半にさしかかっていたが、このクルマの基本設計は1950年代である。このあと登場してくる量産車でようやく実用化されたメカニズムやアイデアの数々が、このDAWB6ですでに形になっているのだ。それを考えると、デビッドがエンジニアとして、そしてクラフトマンとしていかに突出した才能を持っていたかがわかる。いや、才能というなら、自らが目指した理想のために一切の妥協を排し、それを貫き通す執念の持ち主であったことも常人のレベルをはるかに超えていたといえるだろう。

2007年06月22日

ゲーリー・アラン・光永の伝説 - ティーポ1992年9月号より

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このティーポでは珍しく(というかティーポ創刊以来、今のところ唯一かも)アメリカン・マッスルカーが特集されている。そしてこの特集の締めくくりとして、福野礼一郎氏がひとつのアメリカンV8エンジンにまつわる話を書いてくれていた。1980年代初期、デトマソ・パンテーラで市販車最高速度記録に挑戦した男の話だった。これが、福野氏がゲーリー・アラン・光永について語った最初ではないかと思う。2ページに満たないものだったが、パンテーラに搭載されたシボレーV8エンジンがチューニングされていく過程を理論的に、そしてそのチューニングにすべてを注ぎ込み、あっけなく散っていったゲーリーの姿をドラマティックに記したこの記事は、私の胸を熱くしてくれた。おかげでこれ以降パンテーラが好きになり、そしてゲーリーの残像をも追いかけるようになってしまった。この話についてはもっと語りたいが、それはまた別の機会で。

2007年06月24日

シェルビー・コブラの真実 - エーカーズ 1996年5月号

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コブラが誕生してから、もはや40年が過ぎようとしている。とても古い。でも、なぜこんなにカッコ良いのだろうか。いや、古いとか新しいとかいう感覚は、コブラを前にするとどうでもよくなってしまう。これ以上何も手を加えるな、といったところか。コブラを特集したクルマ雑誌は数多いが、さすがアメリカ車の専門誌エーカーズだけあって、429/289エンジンを始めとして、スペックの解説が充実している。

2007年06月26日

シュテファン・ベロフ、スパに散る - スポルティング・ティーポ Vol.3

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月刊誌「ティーポ」の増刊として、ヨーロッパ車のチューニング&ドレスアップ例を紹介していたのが「スポルティング・ティーポ」だった。その中に、毎回「名勝負列伝」と題した連載記事があった。カーレース史上で、記憶に残る名バトルがくりひろげられたり、マイナーイベントながら特筆すべき何かがおこったレースを振り返るものである。このVol.3では、1985年にスパ・フランコルシャンサーキットで開催された世界耐久選手権第7戦・スパ1000kmレースの模様が記されている。グループCカーが全盛期を迎え、このレースにもワークスのポルシェ・ランチア・ジャガーを始めとして、30台以上がエントリーしていた。優勝候補は2台のワークスのポルシェ962Cだったが、ブルンやクレマーといったプライベート・ポルシェ956勢も十分優勝を狙える位置にいた。27才のドイツ人、シュテファン・ベロフはそのブルン・ポルシェチームから参戦していた。ベロフは前年の84年にティレル・チームからF1デビューをしており、その年のモナコGPでは豪雨の中3位に入っている。その時2位だったのがトールマンの新人アイルトン・セナだったこともあり、ベロフの3位はあまり目立たなかった。だが、ベロフのペースは優勝したプロストはおろか、プロストを追い上げていたセナよりも圧倒的に速かったのである。シューマッハが出現する以前のドイツにおいて、彼は、大げさに言えば国民の期待を一身に浴びる最高の逸材だったのだ。
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ブルンチームはワークスを従えて首位を快走する。中盤のピットインでジャッキー・イクスの駆るワークスに抜かれたブルンチームは、代わったベロフが猛追を開始し、ついにイクスに追いついた。そしてスパ名物の高速コーナー、オールージュにさしかかる2台。ベロフはここで信じられない行動に出る。イクスに併走したまま、オールージュに飛び込んだのだ。一気に下って左、右へと続くコーナーを抜け、今度は上り坂をアクセルを踏み込んだまま駆け抜けるオールージュは、難易度、危険度において世界有数の高速コーナーである。そこをCカーが併走したまま抜けることなど、不可能なのだ。だが、そのときのベロフには見えていたのだと思う。世界最高のオーバーテイクを成功させる自分の姿が。そう思わないと、その無謀な賭けに対して説明が付けられない。だが、クリッピング・ポイントにつこうとするイクスのポルシェがベロフと接触した瞬間、その賭けは失敗に終わる。減速することなくコンクリートバリアに直角にぶつかったベロフのポルシェには、もはや生存空間は残されていなかった。こうしてシュテファン・ベロフは27年の短い生涯を終えた。あれからもう22年がたってしまった。

2007年06月28日

映画スタアと愛車 - スクリーン 1961年6月号

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俳優や有名タレントで、クルマ好きが多いというのは今に始まったことではない。今から40年以上前の映画月刊誌「スクリーン」では、「スタアと自動車」という特集がしっかりと組まれている。ちなみに表記は、スタア、であって、スター、ではない。カーではなく、すべてカア、だ。昔はそれが普通だったのだろう。カアク・ダグラスはビッグヒーレー、ユル・ブリンナーはメルセデス300SLロードスター、エルビス・プレスリーはドイツ土産にBMW507を買ったんだと。本当か?
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見えにくいけど、1番左の写真でゴーカートに乗っているのはブリジッド・バルドーである。ツナギ服とヘルメットで武装しているが、顔はハリウッド女優そのものだ。合成には見えないが、本物か?どうも疑り深くなってしまうが、これには理由がある。単なる映画のワンシーンから拝借した写真がまぎれているのは許せるとしても、いただけないのは肝心のクルマの名前が不正確な点。メルセデス190SLはすべて300SLになっているし、ランチアはランチェア?、ジェームズ・ディーンが乗っているのはポルシェ・スパイダア・・・。ジェームズ・ディーンの2台の愛車、356スピードスターと550スパイダーを混同させている記事はいまだに絶えないが、その始まりはここかもしれない。でも、仕方ないか。1961年といえばまだカーグラは創刊されていない。スクリーン編集部でも、少ない資料を頼りに何とか記事にしたのであろう。この企画は好評だったとみえ、この後のスクリーンやライバル誌「映画の友」でも同様の企画をたびたび組んでいる。確かに今でもスタアがどんなクルマに乗ってるのか、知りたいもんなあ。

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