
月刊誌「ティーポ」の増刊として、ヨーロッパ車のチューニング&ドレスアップ例を紹介していたのが「スポルティング・ティーポ」だった。その中に、毎回「名勝負列伝」と題した連載記事があった。カーレース史上で、記憶に残る名バトルがくりひろげられたり、マイナーイベントながら特筆すべき何かがおこったレースを振り返るものである。このVol.3では、1985年にスパ・フランコルシャンサーキットで開催された世界耐久選手権第7戦・スパ1000kmレースの模様が記されている。グループCカーが全盛期を迎え、このレースにもワークスのポルシェ・ランチア・ジャガーを始めとして、30台以上がエントリーしていた。優勝候補は2台のワークスのポルシェ962Cだったが、ブルンやクレマーといったプライベート・ポルシェ956勢も十分優勝を狙える位置にいた。27才のドイツ人、シュテファン・ベロフはそのブルン・ポルシェチームから参戦していた。ベロフは前年の84年にティレル・チームからF1デビューをしており、その年のモナコGPでは豪雨の中3位に入っている。その時2位だったのがトールマンの新人アイルトン・セナだったこともあり、ベロフの3位はあまり目立たなかった。だが、ベロフのペースは優勝したプロストはおろか、プロストを追い上げていたセナよりも圧倒的に速かったのである。シューマッハが出現する以前のドイツにおいて、彼は、大げさに言えば国民の期待を一身に浴びる最高の逸材だったのだ。


ブルンチームはワークスを従えて首位を快走する。中盤のピットインでジャッキー・イクスの駆るワークスに抜かれたブルンチームは、代わったベロフが猛追を開始し、ついにイクスに追いついた。そしてスパ名物の高速コーナー、オールージュにさしかかる2台。ベロフはここで信じられない行動に出る。イクスに併走したまま、オールージュに飛び込んだのだ。一気に下って左、右へと続くコーナーを抜け、今度は上り坂をアクセルを踏み込んだまま駆け抜けるオールージュは、難易度、危険度において世界有数の高速コーナーである。そこをCカーが併走したまま抜けることなど、不可能なのだ。だが、そのときのベロフには見えていたのだと思う。世界最高のオーバーテイクを成功させる自分の姿が。そう思わないと、その無謀な賭けに対して説明が付けられない。だが、クリッピング・ポイントにつこうとするイクスのポルシェがベロフと接触した瞬間、その賭けは失敗に終わる。減速することなくコンクリートバリアに直角にぶつかったベロフのポルシェには、もはや生存空間は残されていなかった。こうしてシュテファン・ベロフは27年の短い生涯を終えた。あれからもう22年がたってしまった。



