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2007年07月

2007年07月01日

パンサー・フェラーリ -ル・ボラン1978年10月号

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以前お客さんから、パンサー・フェラーリというクルマの資料がないか、と聞かれたことがある。確かその方はクルマ屋さんで、在庫としてそのパンサー・フェラーリというクルマを持っているのだ、と語っていた。フェラーリのぶ厚い洋書からカーグラフィックのバックナンバーまで探したが、結局なにも発見できなかった。フェラーリの許可を得てパンサー社が数台だけ作ったうちの貴重な1台である、ともその方は語っていた。しかし、フェラーリの全モデルを網羅した資料の中でもそれが触れられていなかったことをみると、少なくともフェラーリとしては自社の名前をあまり名乗って欲しくはないモデルだったようだ。それからしばらくたった最近、30年ほど前のルボラン誌でそのクルマを発見した。フェラーリ330GTCをベースにパンサーが4台だけ作った、と記事にある。インプレッションを読むと、相当乗り手にきびしいマシンらしく、クラッチは異常なほど重く・・・高速で乗るにはかなりの体力が・・・といったコメントが並んでいる。そして記事の最後には、次のオーナーを探しているとある。あのクルマ屋さんが持っていたのは、おそらくこのマシンそのものだろう。しばらくそのクルマ屋さんのお店に鎮座していたパンサー・フェラーリは、いつの間にかいなくなっていた。まだ達者に走っているのだろうか。

2007年07月04日

「世界の日本車」と「駆けろ2馬力 風より疾く」 - 月刊ナビ 1989年12月号

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この頃(1989~1990年)、国産メーカーはその後の各社を代表するようなモデルを次々に生み出し、外車にしてもありとあらゆるスーパーマシンが続々と日本に上陸していた。そんな時代のクルマ雑誌はどれも話題と刺激にあふれ、毎号発売されるのが楽しみであった。中でも当時の月刊誌「ナビ」の面白さは際立っていたと思う。独特の切り口と斬新な企画にあふれ、おまけに新車で出てくるクルマが前述通り気合の入ったモデルばかりだ。めちゃくちゃ面白かった。その極めつけが、この1989年12月号である。巻頭特集で日本車を海外の著名ジャーナリストたちに評価させている。日産はデビューしたばかりのスカイラインR32GT-Rをニュルブルクリンクに持ち込み、絶賛に近い評価を受けている。フランクフルトショーでは、ヨーロッパデビュー前の初代ユーノス・ロードスターが拍手をもって迎えられていることが伝えられている。BMW735、メルセデス420SELとの比較テストに臨んだレクサスLS400(初代セルシオ)は、ドイツのジャーナリストからは、よくはできているがヨーロッパの高級車を凌ぐほどではない、と判定された。当時このナビを読んだ僕は、別に国産車のファンでも何でもなかったが、GT-Rやユーノスが海外で認められた記事を読むとうれしく思ったし、セルシオがまだベンツやBMWに及ばないと見られたことに少し腹立たしさを感じた。クルマ好きという立場から日本人としてのアイデンティティを意識させられたのは、これが最初だったかもしれない。そして、この号のナビにはもうひとつ素敵な企画があった。
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アニメーター宮崎駿が愛車シトロエン2CVとの20年以上にわたる日々を、笑いと涙にあふれた書き下ろしマンガ「駆けろ2馬力 風より疾く」にしてくれている。7ページしかないが、これはクルマのマンガ史において最高傑作だと個人的には思っている。「世界の日本車」にしても「駆けろ2馬力」にしてもその内容は両極端ではあるが、読み終えた僕は、クルマ好きでいて本当によかったな、と心から思ったのである。

2007年07月07日

風戸 裕:セピア色の青春像 -カーマガジン 1988年2月号

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「もう忘れてしまった何かがある。忘れてしまった誰かがいる。そんなセピア色に色褪せた記憶を、突然忘却の彼方から呼びもどす不思議な一瞬を貴方は感じたことはないだろうか。」風戸裕(かざと・ひろし)というレーサーの短い生涯を追った記事は、こういう出だしで始まる。風戸というレーサーが昔日本いたということは、この記事を読んで初めて知った。風戸は25才でこの世を去っている。そのときまで風戸は、国内レースはもとよりヨーロッパF2やカンナムなどに積極的に参戦し、着実に結果を残していた。そしてF1への道筋がはっきりとみえた1974年、そのレース後にワークスシェブロンF2のナンバー2ドライバーとしてヨーロッパへ旅立つことが決まっていた富士GC第2戦で、風戸の乗ったマシンは30度バンクで多重事故にまきこまれる。瞬く間に炎に包まれたマシンから救出された風戸は、だがすでに体の一部が炭化するほど全身に火傷を負っており、まもなくこと切れた。
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あともう少しで日本人初のF1レギュラードライバーが誕生するはずだった。70年代にF1への扉が開かれたとしたら、日本のレース事情は、今とは良い意味でまったく違っていたのではないか。そう思うと、30年以上前にもなる風戸の死が、今さらながら残念でならない。「風戸裕が永遠に失うことのないF1の夢を手にしてから10年以上の歳月が過ぎ、今ようやくその夢が現実となって走り始めた。でももうそのセピア色の記憶の中に、まばゆいばかりの光を放つ星は見えない。」こう締めくくって特集は終わる。この切ない文章は、いつ読んでも少し泣きそうになってしまう。書かれたのは平野克己氏。永らくモデルカー誌の編集長を務められ、今もこのホビダス・ブログで氏の名文を拝見できる。

2007年07月10日

ホンダ3リッターF1ベールをぬぐ -カーマガジン1966年10月号

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ベースボールマガジン社から1960年代に発行されていた伝説のカーキチ雑誌「カーマガジン」である。特に、式場壮吉率いるレーシングメイトが実質的に編集するようになった1965年以降の同誌は、国内外のモータースポーツ記事を中心に、新車のインプレッション、チューニング、ドラテク、ファッションなどが誌面を飾るようになった。マシンとしてのクルマをレポートするのがカーグラフィック誌だとしたら、クルマをいかに楽しむかを追い求めたのがカーマガジン誌だったといえる(個人的な意見だが)。この1966年10月号では、次戦イタリアGP出場にむけて鈴鹿でテストされるRA273の姿がとらえられている。3リッター初年度の1966年、ホンダはマシン製作のためGPシーズン前半を欠場し、9月のイタリアGPがシーズン初参戦となる。結果からいうと、このRA272は途中2位まであがるもタイヤがもたずクラッシュ、ドライバーのリッチー・ギンサーは鎖骨を骨折してしまうのだった。面白いのは、この記事のなかで待望のニューマシン登場に喜ぶ反面、そのオーソドックスな作りに「失望させられた」とはっきり書かれていることである。ホンダならX24気筒やV32気筒エンジン(本当にそう書いてある)といった、他に誰もやらないことをしてヨーロッパ勢の鼻を明かしてくれよ、ということらしい。ホンダを一企業というより、むしろ日本代表として見ているのだが、この感覚は今もあまり変わらないかもしれない。
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後半では式場氏自らがハンドルを握って、アルファロメオ・ジュリアGTVのインプレ記事を執筆。新車価格234万円とある。当時ではトヨタ2000GTと同じくらいの価格だったことになる。チューンナップ・コーナーでは、カリカリにいじられた日野コンテッサが登場。あくまでサーキットで速く走るための実戦的チューンなのが今とは若干異なる点か。

2007年07月14日

いすゞMX、東名を走る -CAR トップ 1970年3月号

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1969年東京モーターショーで話題をさらった、いすゞMXクーペ。2シーターで117クーペ用1600ccDOHCエンジンをミッドシップに搭載するGTである。発売されれば日本初の量産ミッドシップマシンとなるはずだったが、結局お蔵入りとなった。計画白紙の事情は諸説あるようだが、真相はわからない。ただ、いすゞはMXクーペの市販化を本気で考えていたことは事実のようで、この古いカートップ誌では東名を試走する姿がおさめられている。ただ今で言うスクープとは少し違うようだ。MXの前を走るのは、ニッサンがテストしている輸出用ダットサン240Zだし、パーキングエリアではMXのインテリアまでも記者に開放している。つまりこれは純粋なスクープではなく、ニッサンといすゞがジャーナリスト向けに開いた、チラ見せ程度の小試乗会ではないかと考えるのが自然だ。この後にはカーグラフィック誌などでもテストされている。もしMXクーペが市販されていたら、その後のいすゞは違っていただろうか。今でも乗用車を手がけていただろうか。何も変わりはしなかっただろうか。
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同じ号にはトヨタとニッサンのカンナム挑戦を追う記事も載せられており、富士と鈴鹿でお互いのタイムを意識しながらテストを重ねる両陣営の模様をレポートしている。記事中、12月の鈴鹿のテストで大クラッシュをしたトヨタ7・鮒子田寛の無事が伝えられている。アクセルが突然戻らなくなるというトラブルが最終コーナーで発生した、と書かれている。そしてこの事故から8ヶ月後、同じ鈴鹿でのテストで同様のトラブルが川合稔のトヨタ7を襲う。だが今度は助からなかった。川合稔の死後、トヨタはカンナム計画を破棄し、程なくニッサンも手を引いた。いすゞMXにしろ、このカンナム計画にしろ、どちらもその後あっけなく消えていったことを知る者としては、ただ空しく感じる記事である。


2007年07月19日

イタリアの赤い虫たち -月刊 Pen 2005年10月1日号

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この手の雑誌で企画されるクルマ特集は、大抵どこかで見たことのあるような記事と海外ネタの翻訳で済まされるというパターンがほとんどだが、月刊ペンは違っていた。特集「イタリアの小さな車、小さなバイク」のために、イタリアまで取材に行っているのである。知る人ぞ知る小さなイベントに参加し、スタンゲリーニやバンディーニ、スタンガといった数少ない赤い虫たちを求めて、それぞれのオーナーの元を訪れている。別に1冊まるまるがこの特集というわけでもないのに、綿密に取材を重ねて作られたことに驚かされた。クルマの専門誌でもここまでやることはまれだと言ってもいい。
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そしてクルマやバイクの歴史やディテールよりも、それらにかかわる人々を中心に紹介しているのもよい。どんな貴重なマシンでも、それを愛し、知り尽くし、そして走らせることを心から楽しむ人がいてこそ意味があるのだよ、とあらためて教えてくれた1冊だった。

2007年07月25日

Oh ! My 街道レーサー :ホリデーオート 昭和53年12月号

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改造=暴走族だとみなされた暗黒の70年代。ホリデーオートだけは清く貧しい走り屋たちを応援し続けた。読者投稿の名物コーナー「Oh ! My 街道レーサー」では、メカチューン主体の硬派なマシンから、祭りの山車のようになってしまった珍車まで、その後80年代に本格化してゆくチューニング&ドレスアップ時代の原石のようなものを数多く発見できる。
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今回このコーナー巻頭に登場したマシンは、かなり気合が入っている。ベースは廃車のスズキ・フロンテだそうだ。プロの板金屋さんが仕事の合間にコツコツと作ったとある。リアウィングは木製で、ヘッドライトは当時全盛のスーパーカーらしくリトラクタブル。リア・エアアウトレットの形状が、唯一フロンテの面影を残すくらいで、あとはすべてオリジナルである。カッコよいかどうかはともかくとして、その存在感は次のページに出てくるフェアレディZやサバンナの比ではない。今でもこのクルマは残っているのかな。とっくに土に還ってるか。

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