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2006年12月
2006年12月31日
今年最後のお仕事は・・・
2006年もいよいよ大晦日を迎えた。
今年はモータースポーツ・シーンで、ミハエル・シューマッハの引退を始め、かなり驚くような話題がたくさんあった。
一方僕個人の仕事の面では、これまでやっていた仕事に加え、いくつか新しい仕事もさせていただくことができて、楽しかった。
ただ年末に父が亡くなり、ティーポ2月号の依頼されていた原稿が書けなかったり、J SPORTSの番組で僕が担当する予定だった、スーパーGTの総集編や、マカオGPの実況ができなかった、というか無理を言って他の方に代わっていただいたことは、申し訳ないと思うと同時に残念だった。
今年最後の仕事は、以前もご紹介した、CS放送局のJ SPORTSのホームページ「MOTOR」の中の、「HERO OF THE CENTURY」 。
スズケイさんこと鈴木恵一さんレースヒストリーを振り返る連載で、今回は30歳代を振り返る「職人への道編」だ。
スーパーGTの解説者としてお馴染みのスズケイさんの、現役時代の活躍をお楽しみいただきたい。
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スズケイさんがツチケイさんを厳しく指導した(!?)時代の話も登場する。
さて、今年も1年、雑誌の仕事、アナウンスの仕事、そしてこのブログにお付き合いいただき、ありがとうございました。
来年もどうぞ、よろしくお願いします。
投稿者 中島秀之 : 17:03 | コメント (0) | トラックバック
2006年12月28日
気になるところを集中修理
先日僕の不注意で、足にしているエグザンティアの左フロントフェンダーを電柱にこすってしまった。
フェンダーがちょっと凹んだので、板金修理したいところなのだが、年末のため難しいので、それは来年にするとして、まず壊れたサイドウインカーを修理しておこうと考えた。
一方、最近アイドリングが不安定で、かなりの頻度でアイドリング不能になってしまうことが気になっていた。
これは3年ほど前に同じ症状が出たことがあり、その時はアイドリングモーターを交換して治ったので、他の気になる箇所と一緒に修理してもらうことにした。
で、先週の土曜日に、埼玉は深谷にあるシトロエン乗りの聖地、キャロルに行ってきた。
まずはエンジンオイルとオートマチック・フルードをオメガに交換してもらった。
ATフルード交換は、最近シフトショックが大きくなっていたために行ったのだが、調べてみたら5万キロ近く行われていなかったようで、少々遅すぎたくらいだ。
一方、ここのところ、乗り心地がやや悪くなり、車高が長時間駐車していると、僅かに下がることも気になっていた。
2年前に4輪のスフィアは交換しているのだが、エグザンティアにはあと2つ、メインスフィアと車高維持用のスフィアがあり、それらは4年ほど前から交換していなかったようなので、換えてもらった。
更に、アイドリングの不調は、やはりアイドリングモーターを中古品に交換した上で、水温センサーも交換してもらって修理した。
最後に左サイドウインカーを中古品を使って直してもらい、ついでにタイヤをスタッドレスに交換してもらった。
これらの結果、帰路の関越道では、乗り心地は良くなってるわ、変速ショックは少なくなってるわ、アイドリングは安定しているわで、実に快調に走ってくれた。
というわけで、エグザンは絶好調になったので、あとは年明けに板金をしてもらうだけということになった。
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緑色の玉がフロントにあるメインスフィア。
こちらは後ろにある車高変化制限用スフィア。
アイドリングモーターは前回同様中古品に交換した。
投稿者 中島秀之 : 01:26 | コメント (0) | トラックバック
2006年12月24日
父に感謝
2週間以上、ブログをお休みしてしまい、申し訳ない。
僕にとっては人生で最も辛い出来事が起きていたためで、ご勘弁いただきたい。
実は、父が12月13日に、79歳8ヶ月で亡くなったのである。
僕の父、中島昭夫は、1927(昭和2)年4月に東京・本所で生まれた。
府立化学工業学校(現・都立化学工業高校)在学中、海軍に飛行予科練習生(予科練)として入隊。
土浦航空隊での訓練の後、厚木の第302航空隊に1945(昭和20)年3月に配属になったのだが、運良く飛行機に乗らないまま終戦を迎えた。
戦後は親族を頼り、京都でネクタイ・メーカーへ勤務。
1952(昭和27)年に母と結婚し、4人の子供をもうけた。
1959(昭和34年)に東京に戻り、1969(昭和44)年に独立。
つい最近まで自宅でネクタイ関連の仕事を続けていた。
昨年「原発不明癌」と診断され、今年8月に肺に癌が転移していることがわかったのだが、治療の方法がないとのことで、11月に入院し、それから1ヶ月余で亡くなってしまった。
父は仕事の面では厳しかったようだが、家では子供好きの優しい人だった。
商売柄お洒落で、江戸っ子らしい世話好きな人でもあった。
僕にとって一番大きかったのは、決してマニアではなかったのだが、父がクルマ好きで、運転も好きだったということだ。
僕が生まれた時は、ナッシュ・ランブラーという、かなり珍しいアメリカ製セダンが家にあり、これに乗せられていた。
ただ、東京の狭い道で走ることや、部品の入手が難しくなったこともあり、僕が物心つく頃には、スバル360カスタム(ワゴン)へと替わっていた。
更に僕や姉たちが大きくなるにつれ、スバル1000、いすゞフローリアン、マツダ・初代ルーチェ、日産セドリック230 4HTへと代替わりしていった。
これらのクルマに乗せてもらうのが、僕は本当に大好きだった。
2歳の頃からずっと変わることなく、クルマに興味を示し続ける我が子のために、父はミニカーを買い与えてくれたり、東京モーターショーに連れて行ってくれたりした。
1966(昭和41)年のモーターショーで買ってもらった自動車ガイドブックは、表紙がボロボロになるまで見て、殆どのクルマの車名はもちろん、出力や最高速度、価格などを暗記してしまった。
今僕がこうした仕事をしているのは、間違いなくこの経験があったからだと思う。
そう言えば、僕が高校の時、「3ない運動」と呼ばれたバイクに乗せないキャンペーンがあったのだが、父は父兄会議の席で担任に、「若いうちから運転をきちんと覚えさせないから、下手な奴が増えて、事故が起きるんだ。怪我をして痛い目に遭うのも自分の責任なんだから、バイクに乗せる乗せないを学校に指図される覚えはない」と言ったのだそうだ。
お陰で僕は高校1年からミッション付の原付(ミニトレ)に乗っていたし、それ以前から助手席でずっと父の運転を見ていたので、流れに乗って走ることや、危険の避け方、狭い所で譲り合う時のやり方や挨拶の仕方など、クルマの運転のコツのようなものは四輪免許を取る前から大体わかっていて、実際四輪の運転にはすぐ馴れることができた。
これも父のお陰と思っているし、父の助手席で学んだことは、今でも役立っている。
2004(平成16)年にくも膜下出血を患うまで父はフォード・レーザーを運転しており、その後遺症のために運転できなくなったことを、残念がってもいた。
どんなに具合が悪くても、クルマに乗せてあげると機嫌が良くなり、最後に入院するためにエグザンティアに乗せた時も、身体が痛くて動けないはずなのに、楽しそうに話しをしていた。
遺言らしい遺言を何ひとつ遺さなかった父だが、生前なぜか、「俺が死んだら、お宮付きの霊柩車はやめてくれ。アメ車のいいヤツの寝台型のがいいな」と、それだけは何度か言っていた。
海軍のエラい人は、国産車には乗らずアメリカ車に乗っていたと聞くから、その影響もあるのだろうが、いかにもハイカラなものが好きな父らしい遺言だったと思う。
実際、葬儀の行われたセレモニーホールから近くの斎場までは、キャディラックの寝台型霊柩車に乗せてあげることができた。
位牌を持って霊柩車の助手席に座り、後ろの父の棺に向かって、「キャディラックは乗り心地がいいね」と心の中で話しかけたのだが、父は満足してくれただろうか?
僕が今こうして、自分の好きなことをやって生きていられるのも、父のお陰と本当に感謝している。
ただその一方で、父には何も親孝行らしいことをしてあげられず、本当に申し訳なく思っているし、後悔してもいる。
今になってみれば、もっともっと父とたくさん話しをしておけば良かったと思う。
そしてもっともっと、父をいろんなクルマに乗せてあげれば良かったと思っている。
どうかあの世とやらで、大好きなクルマの運転を心ゆくまでして欲しい。
そして、かつて青春を捧げた飛行機の操縦も久しぶりに楽しんで欲しいと、親不孝者の息子は願っている。
投稿者 中島秀之 : 22:20 | コメント (3) | トラックバック
2006年12月08日
子紫電って楽しそう!
今月号のティーポはご覧いただけただろうか?
以前このブログでもちょっとだけご紹介したが、僕は担当したのは、巻頭特集「コイツはやっぱりナミじゃない!!」の中の「憧れのあのマシンが、”ちっちゃくなっちゃった!”」の記事。
K4GPに出場するために作られた、4/5サイズのシャパラル2HやフォードGT40、そして由良拓也さんの「子紫電」をご紹介している。
このうち「子紫電」は、自動車雑誌で詳しく紹介されるのは殆ど初めて。
だから結構反響が大きいらしく、今朝由良さんからその旨電話をいただいたほど。
ところで、取材時に由良さんは「もうすぐナンバーを取得する予定です。どうしても欲しいという方には、ボディの型はありますから、同じクルマを作って販売することは可能です。でもコストを考えるとかなり高価になっちゃいますね」と言われていた。
もちろんこうしたクルマが、例えば新車のコペンくらいの価格で購入できたりすれば、凄く嬉しいのだが、完全な手作りで作られるために、そうはいかないようだ。
それでも、この子紫電がゼッケンをつけて5台くらいがレースに出場したら、まるで60年代中盤のル・マンで活躍したアルピーヌのようで楽しいだろうなぁ。
あ、「価格はいくらでも絶対欲しい!」という方は、是非ムーンクラフトさんに問い合わせてみてくださいネ。
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投稿者 中島秀之 : 22:10 | コメント (3) | トラックバック
2006年12月06日
ポルシェ・モータースポーツ・ナイト開催!
4日月曜日の夜、六本木ヒルズ内のホテルで、ポルシェ・モータースポーツ・ナイトというイベントが行われた。
ポルシェ・カレラ・カップ・ジャパンの上位選手の表彰を行うことをメインとしたものなのだが、今年からスーパー耐久やJLMC、スーパーGTやル・マン24時間で活躍したポルシェの関係者も一緒に表彰するようになったとのことで、賑やかなパーティとなった。
僕は今期、PCCJとJLMCのテレビ中継で実況を担当したため、主催者からの依頼で、司会のお手伝い兼インタビュアーとしてこのイベントに参加してきた。
各カテゴリーの特徴の説明をしたり、チーム・タイサンの千葉代表にお話をうかがったり、PCCJやJLMC、スーパー耐久の各カテゴリーの上位ドライバーにインタビューをしたりといった役回りだったのだ。
さすがにポルシェのユーザーさんたちのパーティだけあって、司会をDJの方二人で行ったり(男性の方はその昔Pit-FMにレポーターとして出演していただいたことのある方だった)、まるでマンハッタン・トランスファーのようなジャズ・ボーカル・グループのライブがあったりと、豪華でお洒落な雰囲気に満ちていた。
その中で、気になる発表がポルシェ・ジャパンからあったのでお知らせしておこう。
それは来年のF1日本グランプリのサポートレースとして、ポルシェ・カレラ・カップを行う予定であるということ。
確かにヨーロッパのGPでは同レースが行われる場合が多いと聞くが、もし実現すれば日本では初めてとなる。
もっとも富士スピードウェイ、つまりトヨタとの合意はこれからのような口ぶりだったので、実際に行われるかどうかはまだ微妙だ。
それでも、既に決まっているヴィッツ・レースだけでは寂しいので、是非カレラ・カップ開催も実現してもらいたいものである。
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会場はゴージャスな雰囲気だった。
投稿者 中島秀之 : 00:48 | コメント (0) | トラックバック
2006年12月05日
幻のマシンが走行!
日曜日に富士スピードウェイで行われた、nismoフェスティバルに行ってきた。
1月に放送予定の、J SPORTSの番組「Rev Limit」の取材のためだったのだが、実は取材そっちのけで(!?)で、興奮してしまったクルマがある。
それは、幻のマシンと言われた日産R383だ。
1970年の日本グランプリ制覇と、Can-Amシリーズ出場のために開発されたものだが、どちらも計画が中止となり、一度もレースで使われることはなかった。
その後暫くして、その姿は公開されたが、一度も走る姿は公開されず、今回36年ぶりにレストアされて、お披露目走行が行われたのだ。
開発当時はR382用の6リッターV12エンジンにターボを付けていたが、今回はNAでの走行だった。
ドライブを担当したのは長谷見昌弘さん。
お話をうかがうと、「実はこのクルマで走るために、僕は1970年にタキ・レーシングから日産に呼び戻されたんだよ。実際当時、完成したクルマは見せてもらったんだけど、一度も走ることはなく、それっきりだった。だから今回が36年ぶりのシェイクダウンなんだ」と、嬉しそうだった。
また走行後には、「ホントにシェイクダウンだったね。フロントにサブフレームとかがないから、バタバタ動いちゃうんだ。当時とりあえず撮影用に組み上げただけだったのを、そのままレストアしたからだね。今後ちゃんと走れるように改良されるはずだから、そうなったら凄く速いと思うよ」とも言われていた。
あのまま開発が行われていれば、1970年シーズンのCan-Amで、マクラーレンやローラやシャパラルと、長谷見さんのR383はバトルをしていたかも知れない。
それを思うと、実に感慨深いお披露目走行だった。
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フロントはカウルがバタついてしまって、うまく走れなかったとのこと。
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リアにはウイングがなくスッキリした印象。当時とは異なり、NAエンジンを搭載している。
投稿者 中島秀之 : 01:32 | コメント (2) | トラックバック
2006年12月02日
20世紀のレースを振り返るサイト登場
普段、僕がよく出演している、CS放送局のJ SPORTS。
現在、レース関連の番組を、日本で最も数多く放送している放送局でもある。
そのJ SPORTSにも、当然ながらホームページがあり、自動車やオートバイの番組に関する情報は、「MOTOR」というページに掲載されている。
このページに、つい最近新しいコンテンツが登場した。
これは、20世紀のレースシーンで起きた様々なドラマを紹介するもので、かつての名ドライバーの活躍ぶりや、かつての名勝負の紹介などがメインとなる。
題して「HERO OF THE CENTURY」。
実はこのコンテンツ、僕が取材と原稿を担当している。
最初のお題は、J SPORTSのスーパーGT中継の解説でお馴染み、元レーシング/ドライバーの鈴木恵一さんのヒストリーである。
全部で4回に分けて詳しくお伝えしていくことになるが、まずはその第1回である「青春編」が現在アップされている。
興味のある方は、J SPORTS MOTOR PORTAL WEBSITE 「HERO OF THE CENTURY」 を、是非ご覧いただきたい。
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お馴染みスズケイさんのヒストリーは、かなり波瀾万丈だ。
投稿者 中島秀之 : 21:33 | コメント (1) | トラックバック
2006年12月01日
CCC全ての賞が決定!
あなたが選ぶカー・オブ・ザ・イヤーの発表と表彰が、30日に六本木ヒルズ1階の広場で行われた。
僕はこの表彰式と、その後行われた懇親パーティの司会を担当したのだが、なかなか興味深い結果となって面白かった。
各賞は、以下の通り。
大賞 三菱アイ
K4オブ・ザ・イヤー 三菱アイ
RVオブ・ザ・イヤー トヨタ・エスティマ
スポーツカー・オブ・ザ・イヤー ミツオカ・オロチ
ECOカー・オブ・ザ・イヤー メルセデス・ベンツE320CDI
インポート・カー・オブ・ザ・イヤー フェラーリ599
セダン・オブ・ザ・イヤー レクサスLS460
この中で最も意外だったのは、インポートCOTYがフェラーリ599だったことだろう。
アルファ159やシトロエンC6などを押さえての受賞は、フェラーリというブランドが、今も輸入車の中で最大の憧れの対象であり続けているのを現していると言えそうだ。
またスポーツカーCOTYがオロチだったのも予想外だった。
アストンやジャガー、ポルシェやBMWなどを大きく引き離しての受賞は、国産メーカーからスポーツカーが全くといっていいほど登場しないことへの、ユーザーの無言の抗議のようにも思える。
いずれにしても、今回決定した各賞は、ジャーナリストが選ぶCOTYより、ある意味シビアというか、世論に忠実だったような気がする。
今後もCCCが、良い形で内外の自動車産業に影響を与えていってくれればと思う。
そうそう、僕の投票した7台は、ECOカーのメルセデス以外、賞に選ばれることがなかった。
ウ〜ン、こうなると、かえって気持ちよいというか、誇らしく思えてくるから不思議だ。
これからも独自の発想と観点で、雑誌を作っていきますので、どうぞ宜しく。
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三菱アイが、大賞とK4オブ・ザ・イヤーの二冠に輝いた。
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スポーツカーCOTYはオロチが受賞。実物はなかなかよく出来ていた。
投稿者 中島秀之 : 00:58 | コメント (1) | トラックバック
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