「あら、トモちゃん。ひさしぶりねぇ」
夕暮れ時の都立大駅前で、俺はギョッとした。
御存知ないだろうが、俺は“トモちゃん”である。
名前が“智之”だから、立派な“トモちゃん”なのである。
だが、都立大駅前にある東急ストアの辺りで、
俺のことを「トモちゃん」と呼ぶ人物に心当たりなどない。
しかも辺りをはばからないような大きな声で、
いかにもオバサンらしい口調で声をかけてくるような、
そうした知人がこの辺りに生息しているという記憶もない。
俺は怯んでいることを悟られないように、さりげなく、
しかし素早く自分の右側に目をやった。
実家の近所に住む長谷さんのオバサンに声が似ていたのだ。
クソガキだった時代から面倒をみてもらってた人だから、
俺のボロいところを彼女はたくさん知っている。
ゴヨーショーのミギリにはヌードだって見られている。
そのうえ長谷さんのオバサンは、声が大きいのだ。
ここは仕事場に一番近い駅。誰もがここを利用する。
俺は瞬間的に「ヤバイ!」と悟ったのだった。
だが、長谷さんのオバサンの姿は見当たらなかった。
大きなハスキー・ヴォイスが聞こえた右隣にいたのは、
ネコ・パブリッシングの笹本社長や
うちのボスである山崎くらいの年代にはグッと刺さる、
八千草薫さん風の美しいおばさまだった。
服の着こなしもほんのりと上品で、姿勢もいい。
俺よりおそらく20歳近くは「おねえさん」だが、
もし20年前に誘われてたら危なかったと感じられるほどだ。
あのダミ声はこの人ではない、と思った。
俺はまだまだ、人を見る目を養わなければならないようだ。
「あら。あんた、おかあさんから聞いたわよぉ。
結婚したんですってぇ? 水くさいわねぇ。
ちゃんと教えてくれなきゃお祝いもできないじゃないのぉ」
女子高生のそれとは異なる語尾の伸ばし方をした
いかにもオバサンらしい口調のその堂々たる声は、
八千草薫さんレプリカのおばさまが発していたのである。
おばさまの前では、ややふくよかな面立ちの
いかにもフレッシュな若奥様らしき20代半ばの女性が、
照れくさそうにニコニコとしていた。
彼女がもうひとりの“トモちゃん”だったのだ。
助かった……と安堵しつつその場を立ち去ろうとしたが、
信号は俺に「すすめ」とはいってくれなかった。
旧知の間柄らしいふたりの女性の会話に興味などないが、
すぐ隣で繰り広げられている会話である。
おばさまの声は嫌でも耳に入ってくる。
「あら! あらやだ! 水くさいわねぇ。もう何ヶ月?
こんなにオナカが大きくなっちゃって。
もしかして、ちょっと早いんじゃないのぉ? 何ヶ月?」
こたえる若奥様の声は、ポソポソとして聞き取りにくい。
「あら。ダメよぉ。わかっちゃうんだからぁ。
ごまかしてもダメ。あたしだって産んだことあるんだし。
ちっとも恥ずかしいことじゃないでしょ?」
若奥様の声は、やっぱりポソポソとして聞こえない。
「あら。なぁーにいってんのぉ。わかっちゃうんだからぁ。
オナカ見たら誰だって判るわよぉ。何ヶ月なの?」
しつこいオバサンである。
本物の八千草薫さんなら、こんな問い方はしないだろう。
そう思いながら何となくそちらに目をやると、
若奥様は照れくささを通り越して明らかに怯んでいる。
それでもオバサンの速射砲は止むことがなかった。
「あら。素直じゃないわねぇ。水くさいわぁ。
教えてくれたっていいじゃないのぉ。何ヶ月?」
若奥様が何かをポソポソと返している。
「えっ? なぁに? 聞こえないわよぉ」
オバサンはニコニコとしながらも勝ち誇ったような声で、
次には若奥様のかぼそい声を蹴散らす勢いで問い返す。
「えっ? なぁに? ハッキリいいなさいよぉ」
頑張れ。負けるな。頑張るんだ若奥様。
「ですから……」
若奥様の声が少しだけ大きくなった。……いいぞ!
だが、オバサンの追求の手は緩まることがない。
「あら、だからなぁに? 早くいいなさいよぉ水くさい」
若奥様は深く息を吸うと、ついに大声でこう切り返した。
「太っただけですってば!」
東急ストア前の信号は、いきなり凍りついた。
ふと周囲をうかがうと、誰もがそれとなく、
オバサンと若奥様の方を向いてクチを開けている。
「あら! まあぁぁぃやだわぁぉぉほほほほ。
そうならそうと早くいってくれなきゃあ。おほほほほ。
悪気があったわけじゃないの。ほんとよぉ。
あらやだもぉまったくぅ。恥かいちゃったじゃないのぉ」
若奥様は伏し目がちにオバサンに会釈をすると、
クルリと背中を向けてスタスタといってしまった。
周囲にいる俺達にできたのは、
少し哀れんだような目で彼女を見送ることだけだった。
だが、オバサンという生き物は逞しい。
なぜかクルリと振り返ると、こういい放ったのだ。
「あんなオナカしてたら誰だってそう思うわよねぇ?」
……なぜ俺なんだ? なぜ俺に同意を求める?
た……頼むからあっちを向いてくれ。頼む。
周囲の視線が今度は自分に集まるのを肌で感じ、
俺はなぜか自分のオナカを手で隠しながら
冷や汗をする以外に為す術がなかったのだった。
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