2005年6月29日

季節が来ると、想い出すこと


とある高速道路のサービス・エリア、23時。
俺はヴェンディング・マシンでカップ入りのコーヒーを
濃いめにして買うと、街灯の灯りの輪から少し外れた
隅っこにあるベンチへ腰掛けた。少し、疲れてた。
コーヒーをひとくちすすり、煙草に火を点ける。
どっちも美味いなぁ……と思った。その瞬間──、

「……ってっ!」

小さなモノが、ペシッと額の生え際にぶつかってきた。
無意識に当たった辺りの髪に手をやると、
薔薇の棘みたいなモノの感触がする。
もしかして、と思った。それが何であるか見当がついた。
思い出した中のどれかだろう、と思った。
コクワガタのメスだった。──やっぱりな。

小学生時代の無邪気だった俺は、
カブトムシやクワガタを捕まえるのが大好きだった。
早朝には山に分け入り、晩には街灯の下をパトロールして、
捕獲してきては専用の“ハウス”に入れて飼育してたのだ。
その結果として夏休みに課せられた自由課題は、
ほぼ毎年決まって昆虫採集だったように記憶してる。
あの頃、俺は日夜研究にいそしむ昆虫博士だったのだ。

瞬時に記憶が蘇ったのは、そのせいだ。
触感が、なんともいえずに懐かしかった。
俺は手のひらに置いたコクワガタのメスをシゲシゲと眺め、
幼かった頃の自分にしばし思いを馳せた。
だが、思い出さなくてもいいことまで思い出してしまった。

俺は今も独り身ではあるが、そういうのとは違って
もっとストレートに独身だった頃のこと。
友達が主催した飲み会でひとりの女性と同席した。

とある有名企業の秘書課で仕事をしていた彼女は、
俺より2つ年下の清楚な感じの美人だった。
ひと月前の飲み会でもさらっと一緒に呑んだことがあって、
そのときの会話の柔らかく知的な感じに少し惹かれていた。
もっと親しくなりたいなぁと思っていた。
もしかしたらその時点で、少し惚れてたのかも知れない。
だからアミダくじで彼女の前の席に座ることができた俺は、
「ああ、なんていう幸運」と内心喜んだのだった。

俺は元々それほど話題が豊富な方じゃないから、
そうした席ではいつもと違って無口になる。
今でもそうだが、酒はひとりかふたりで
しみじみと呑むのが好きだから、
そういう場で何を話せばいいのかが判らないのだ。

だが、彼女はことあるごとに俺に話しかけてくれて、
気配りをしてくれる。笑顔がとっても可愛らしかった。
やばいなぁ。こりゃやばい。うん。やばい。
いよいよ本気で好きになっちゃうかも、と思った。

ひとりの友達がガキの頃の話をしてウケを取り、
その場全体が子供時代の想い出自慢大会のような方向へ
一気に流れたようだったが、俺は彼女にばかり気をとられ、
「ああ、そんなにグビッと呑んだら酔っちゃうぞ」とか
「酒の飲み方、少しは教えてやらないとな」だとか、
既に妄想の世界に飛び込みつつあった。酒ってのは恐い。
だから、「おまえってどうだったんよ?」と
いきなり話を振ってきた友達の声に、
俺は、場慣れしてないこともあり、ついうっかり、
「俺は“昆虫マニア”だった」と告白してしまったのだ。
酒ってのはほんとのほんとに恐い。

迂闊だったとすぐに気づいたが、遅かった。
俺はケチョンケチョンのコテンパンにやっつけられて、
グウの音も出ない状態に置き去りにされた。
これも今でも変わらないが、俺の友達連中は
仲間内の誰かをケチョンケチョンにして
綺麗さっぱり葬り去ることに関しては天才的なのである。
昆虫マニアだったことを告白するなんて、
「餌食にしてください」と三つ指ついて頼むようなものだ。
当然俺はその場にいる総ての男女の笑い者にされ、
たちまち「暗い」「ださい」のレッテルをパーンと貼られ、
さらに黙り込む以外にできることがなくなったわけだ。

だが、それを救ってくれたのは彼女だった。
ロレツはかなりあやしくなってきていたが、
「私、田舎で育ったから、おにいちゃんにくっついて
よく虫を捕りにいきましたよ」
とかばってくれたのだ。周囲は唖然、である。

──なんて勇気のある行為! なんて優しい性格!
俺は惚れた。惚れたぞ。誰がなんつっても惚れたからな。
それに、もしかして彼女も、俺に気があったりする……?
酔った勢いもあって、俺はほとんど勝ったつもりでいた。
帰り道、彼女を送りがてら、正直に口説こう……と思った。
これからの俺は、違う。かなり幸せになれそうな気がする。

だが、世の中というのはそれほど甘くはできていなかった。
彼女は「虫取り、楽しいもんね」と可愛くいい放った後に、
キャハハと鈴の音のような涼やかな笑い声をあげながら、
俺を見つめてこんなふうに続けたのだ。

「カブトムシに紐をつけてグルグル回すの楽しいよね」
……まぁ、それは俺も一度二度はやったことがある。
可哀想に思えて、すぐにやらなくなったけど。うん。
「カブトムシに防腐剤だけ注射して逃がしたこともあるよ。
どこで死んでも、一生腐らないんだよ。きゃはははは」
……死んだ後に“一生”って言葉は
あんまり適切とはいえないような気もしないではないけど。
それにしても、それはやったらダメだろう。
でも、まぁ子供だったしな。知らないってのは恐いよな。
「アブラゼミってほんとに油だから、よく燃えるんだよね。
棒に刺して火をつけると、ボーッて燃え上がるの。あはは」
……ってことは、アブラ性の俺もよく燃えるってわけか。
いや、そういうことじゃなくて。違うってば。
うーむ……酔ってウケを狙ってるだけだよ、きっと。うん。
「カナブンってね、扇風機の中に入れても死ななーい。
カラコロって音がするけど身体が丈夫で足がモゲるだけ。
それをポンって投げるとブーンって飛ぶんだけど、
着地ってできたのかしら。あははははは」
……あんたは西太后か!

──完敗だった。
俺は酔いが極まって正体不覚になった彼女に、
見事に撃沈されて泥のようになった。
自分自身がしょぼしょぼと萎んでいくのを実感した。
そこに至るまでにブワッと膨れあがった明るい近未来が、
ガラガラと音を立てて崩れていく気がした。
本当にガラガラって音がする、ということを知った。

夏が来れば思い出す♪ という美しい歌があるが、
俺は毎年、必ず何かのタイミングでこれを思い出し、
自分の負け続けの人生を、なぜだか、
ほんの少しだけ愛しいように感じるのである。


プロフィール