恥を告白するようでナニだが、俺は注射が嫌いだ。
みんな平気な顔をして受けてるけれど、俺にはできない。
多少なりとも武道の心得はあるから、
その後どうなるかは別として、刃物をつきつけられても
それほど恐いと感じたことはなかったが、注射はダメだ。
だって剣道にも居合いにも、注射器はでてこない。
5年ほど前だったか、長年のメンテナンス不足が原因で
奥歯が欠けてしまったことがあった。
当時住んでいたところの近くの歯医者さんにいくと、
安く見積もってもこの道数十年といった感じ、
年の頃なら55歳から無限大の間と思しきじいさんが
「おお。こりゃあ削って差し歯ですな。はっは」と
明るく言い放つので、しぶしぶそれを受けることにした。
だが考えてみれば、奥歯を削るには麻酔が必要である。
中学生の頃に前歯を折ったときの記憶が蘇った。
差し歯の土台を整えるために前歯の根元を削る施術で、
確か太い注射針をいきなり歯茎にブスッ! と刺された。
そのときの痛みの壮絶さといえば
正面から口元にまっすぐパンチが入るときのそれを
軽く上回るほどのものだった。
なにせ歯茎である。体験したことのない人は、
試しにツメで歯茎を突いてみるといい。痛いから。
しかも幼い頃から大嫌いだった注射器が、
ジワジワと近づいてくるのを拡大画面で見てるのだ。
人生最大の恐怖だったといっていい。
そこで俺は、このとき、ついついこういってしまった。
「あのぉ……麻酔なしでお願いできませんか?」
「おお。麻酔なし? ほお。どうしてまた?」
「嫌いなんです、麻酔」
「なるほど。痛いですよ麻酔しないと。はっは」
「いや、麻酔されることに比べたら……」
「ほお。そんなに嫌いですか。はっは」
というわけで、俺は施術台に寝かされて横の取っ手を握り、
麻酔なしで奥歯とその内側を削ってもらった。
途中、クチから鼻孔にかけてが血の匂いで満たされてきて、
「ふぅんがああああああぁ!」だとか
「おごぁあああああああぁ!」だとか叫んだ記憶はあるが、
その実は途中からのことを何も覚えてなかったりする。
気づいたらじいさんがニコニコと満面の笑みで、
「いやあ、あなたすごい。麻酔なしで。ずっと目をあけて。
気絶しなかったなんて。たいしたものです。はっは」。
……たぶん気絶してました。すんません。
硬直し切って取っ手を握ったまま貼りついている手を
引きはがしてもらった後の、この会話は忘れられない。
「しかし、なんでまたそんなに麻酔が嫌いなんですか?」
「いや、麻酔がっていうより、注射が嫌いなんです。
歯茎の注射、25年くらい前に体験して……激痛が……」
「おお。痛いですからな。歯茎の注射は。はっは。
でも、もう何年も前から先に麻酔薬を脱脂綿にしめらせて、
歯茎に当てて麻痺させてから注射するようになってるので、
昔と比べたら全然痛くなくなってるんですよ。はっは」
……先にいってください。お願いだから。
ともあれ、それほどまでに俺は、注射が嫌いなのだ。
幼い頃から徹底的にダメだったらしいから、
おそらく何か嫌な幼児体験でもあったのかも知れない。
なにしろ今でこそ、ごく限られたシチュエーションでは
白衣を見て喜んだりすることはあるにせよ、
子供時代には白衣姿の人を見ただけで泣いたらしいから、
白衣=注射=痛い=恐い、という図式が
頭の中にガッチリとできあがっていたに違いない。
だから俺は、年に1回の定期健康診断の日が来るのが、
憂鬱で憂鬱でたまらないのだ。
採血のために血管に1本、バリウム飲むために筋肉に1本。
合計2本もの注射針が俺の身体に入ってくるのである。
考えただけでもゾッとする。
だが、嫌でも来るべきものは来てしまうのだ。
俺は毎年のように病院内で結果的に小さく騒ぎを起こし、
それほど広くはない検診センターの中にいる御同輩達の
嘲笑と侮蔑の渦の中で肩をすくめることになる。
看護士さん達には年に1〜2回しか会わないというのに
名前を覚えられたりしているし、
目が合った瞬間に下を向いて吹き出す人すらいる。
だが、今回の俺は違う。このところ自分の弱さに呆れ果て、
考えるところがあって、ちょうど数日前に決心してたのだ。
「これからの俺はもっと強い男になろう」と──。
自分を試す、いいチャンスである。
注射がなんだ。たかが針じゃねーか、そんなもん。
顔色ひとつ変えずに耐えてみせるよ。
注射くらい、なんてことない。なんてことないよ。うん。
注射されるときの俺は非常にセンシティヴだ。
この身体に埋め込まれてる総ての神経という神経が
そこ1点にギュッと集中してるわけで、
目を閉じていても針が自分の肌に向かってくるのが判る。
かすかな空気の動きで、判っちゃうのである。
針が刺さる直前の微小な風まで察知できるくらいなのだ。
普段は、それが判っちゃうともうダメで、
空いてる右手は何かすがることのできるものを求め、
黙ってるつもりなのに「うああああ」と声が出てしまう。
だが、今回の俺は違う。もう、ぜんぜん違うのだ。
違う自分になった証拠を残しておこう。
そう考えて、看護士さんに写真を撮ってもらうことにした。
そのときの光景が、この写真だ。
自分ではかなりいいところまで来てると思ってはいるが、
もうちょっとだけ修行をしたほうがいいようにも思う。
どこかにマグダラのマリア様のように、
美しくも一途で慈悲深い女医さんでもいないものだろうか。
必死で口説いて、マンツーマンで指導してもらうのに。
そんなことを考えている俺は、
やっぱり……バカなんだろうなぁ底なしに……。
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